「ダルビッシュ有の弟だからツラいんじゃ…」中3で初逮捕、特攻服で卒業式に出席…ダルビッシュ翔が中学時代に感じた“周囲の視線” から続く
20万人超の登録者数を誇るYouTubeチャンネル「ワルビッシュTV」の運営や、大阪府・西成での炊き出しなど、活動の幅を広げているダルビッシュ翔氏。かつて暴力事件や野球賭博での逮捕で世間を騒がせた彼は、自らの“悪名”を背負いながら、どのように自身の過去と向き合っているのだろうか。そして現在、精力的にボランティア活動などを行う理由とは――。
ここでは、ダルビッシュ翔氏が自身の人生を赤裸々に綴った初の自伝本『 悪名 』(彩図社)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/ 1回目 から続く)
高校を無期停学
中学を出て、僕も一応高校に進むことになった。お世辞にも治安が良いとは言えない、不良だらけの定時制高校だ。結論から言うと、僕はこの高校から入学わずか1週間くらいで無期停学をくらってしまうことになる。
きっかけは、はっきりとは覚えていないほど些細なことだった。
同級生が僕の挨拶を無視したとか、そんなつまらない理由だったと思う。僕はその同級生をボコボコにシバいた。周りにいた人間も巻き込んで、徹底的にやった。当然これが大問題になり、僕は無期限の停学を言い渡されることになったのだ。
学校には行かなくても、外に出てヤンチャはする。僕は夜な夜な不良仲間たちと集まって、バイクで暴走行為を繰り返していた。僕らの時代にはいわゆる「暴走族」みたいなしっかりとしたチームは無くなっていたけど、まあ似たようなものだ。今で言う「半グレ」に近い存在なのだろうか。
このころの僕は正直楽しければなんでもいいし、学校や社会なんてどうでもいいと思っていた。
ある夜、いつものように仲間と走っていたときに、大事件が起きた。
走っている僕らのなかに、見慣れない集団が割り込んできた。よく見ると、どこかの右翼団体のメンバーのようだ。
「返さんかいコラァ!」
とか、そんなことをこちらに言ってくる。
なんのことかまったく分からなかったが、当時の僕はとにかく暴れられたら理由なんてなんでもよかった。向こうが喧嘩をふっかけてきているのは明らかだ。それなら喜んで相手になってやろうということで、すぐに大乱闘が始まった。人が多過ぎて、誰が敵で誰が味方かもよく分からないような状態だった。
この時の喧嘩で僕は相手に向かってバットを振った。本当は怖くて目をつぶって振ったのだが、それが相手の頭に当たって怪我をさせた。そのことがのちに、無茶苦茶やるヤツということで伝説になった。
「伝説のヤンキー」「ヤバいやつ」…いつのまにか独り歩きする噂
噂はどんどん大きくなっていく。本当は怖くて目をつぶって殴っているのに帰ってきたら不良少年の中では英雄扱いだ。僕としては「帰ったら自分の周りの環境はどうなっているんだろう」と不安でいっぱいなのに、「伝説のヤンキーが帰ってきた」という態度でみんな接してくる。「ヤバいやつが帰ってきた」と言われれば、おれはそんなにヤバいやつじゃないのにと内心で思いながらも、大きくなってきた噂に勝たなければならない。
同級生が相手にならないんだったら年上がターゲットになる。それも相手にならなかったら、その上へ、という感じでエスカレートしていく。自分と周りの人間がつくった噂が独り歩きして、それに負けられないという感じだった。
このときの喧嘩で現場は荒れに荒れ、当然僕たちは警察に連行された。
捕まって詳しく話を聞いてみると、どうやら向こうは僕たちが単車を盗んだということで腹を立てていたらしかった。僕はまったく知らなかったのだが、仲間がどこかで右翼団体のバイクを盗んでいたのだ。「返せ」というのはそのことだった。非はこちらにあったわけだ。
とにかく怪我人もたくさん出るほど大規模な事件だったことは間違いなく、この件がきっかけで僕は人生で初めて少年院に入ることになった。
厳しい少年院で学んだこと
僕が押送されたのは、京都にある宇治少年院だった(現在は閉鎖)。関西では一番しんどいことで有名な少年院だ。
中での生活は、ほとんど軍隊と言ってもいいほど厳しいものだった。
自由に会話をすることも許されなかったし、毎日運動の時間は腕立て伏せやスクワットを何百回もやらされた。水泳の時間には「足つくな!」「甘えとんのか!」と厳しい声が飛んだ。僕の人生で一番頑張った時期で、変な言い方だがある意味僕の青春時代だ。
お世話になった先生もたくさんいる。
たとえばI先生は厳しさと優しさを兼ね備えた、本当に良い先生だった。I先生はいつも僕に試練を与えてくれた。それは「腕立て伏せ100回」とか本当に厳しいものだったけど、僕が頑張って達成すると涙を流して喜んでくれた。
少年院の中でも問題児だった僕のことをとにかく気にかけてくれて、こっそり読書室に連れていってくれて話をさせてくれたこともよく覚えている。
先生には当時4、5歳くらいのお子さんがいた。
「いつも仕事で帰りが遅いから、早く飯食わせてって息子に怒られんねん」
困ったように笑う先生の顔が印象的だった。
生活を犠牲にしてまで、どうしようもない僕たちに尽くしてくれていたということだ。とても大きな愛情を感じたし、僕もI先生のことを思うときつい少年院の生活もなんとか乗り越えようと思うことができた。
他には、K先生のこともよく覚えている。一番厳しかったが根は一番優しい人だ。役割を与え、集団をうまく回していくのが得意な先生だった。
少年院には「週番」と呼ばれる、いわゆるリーダーのような役割が存在する。通常は2週間に1回のペースで交代するのだが、僕はその週番を4カ月も連続でやらせてもらった。
今思えば、問題を起こして懲罰房に行くことも多かった僕に対して、集団を率いるための広い視野や責任感を身に付けさせようとしてくれていたのかもしれない。結果的に、僕はリーダーとしての自覚を持って行動できるようになったように思う。
少年院での生活は厳しかったが、だからこそ感謝もあった。今の日本は何事に対しても甘い社会になっているかもしれないが、最終的にそれでは生きていくことはできない。厳しさに直面することで学ぶこともあるのだ。
しかし、この少年院で僕はまたやらかしてしまう。
(ダルビッシュ 翔/Webオリジナル(外部転載))
商品説明
内容紹介(出版社より)
「ダルビッシュ有の弟だからツラいんじゃ…」中3で初逮捕、特攻服で卒業式に出席…ダルビッシュ翔が中学時代に感じた“周囲の視線” 『悪名』より #1
20万人超の登録者数を誇るYouTubeチャンネル「ワルビッシュTV」の運営や、大阪府・西成での炊き出しなど、活動の幅を広げているダルビッシュ翔氏。かつて暴力事件や野球賭博での逮捕で世間を騒がせた彼は、自らの“悪名”を背負いながら、どのように自身の過去と向き合っているのだろうか。そして現在、精力的にボランティア活動などを行う理由とは――。
ここでは、ダルビッシュ翔氏が自身の人生を赤裸々に綴った初の自伝本『悪名』(彩図社)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
中学生で人生初めての逮捕
僕が初めて逮捕されたのは、中学3年生の夏だった。喧嘩三昧の生活をしていた僕にとっては、もはや時間の問題だったように思う。
当時、僕はもう退部していたけど、サッカー部の後輩が髪を染めたことがバレて退部になるという話があった。ルールを破ったその後輩が悪いのかもしれないけど、なにも退部にまでさせる必要はないのではないか? 僕はそう思って、先生に直接抗議をしに行った。
しかし、先生の対応はかなりナメたものだった。
「髪染めたくらい許したってくれや」
そう訴える僕に対して、「ハイハイ」という感じで笑って受け流そうとしたのだ。僕は猛烈に腹が立った。
一度頭に血が上ってしまうと、歯止めが利かない。先生にハイキックを食らわせたりしてシバいてしまった。そしてさらに翌日、同級生を2階から突き落とそうとしてしまった。立て続いた2つの事件はさすがに「中学生のヤンチャ」では済まされない。
とうとう僕は逮捕された。人を逮捕することができる最少年齢である14歳のときの話だ。
そしてこの逮捕によってこれまで噂レベルだった“悪名”が世間公認のものとなった。だが、僕自身の中では後輩のためにやったことという意識もあったし、悪いことをしたという気持ちにはなれなかった。
同級生とは示談したが、先生はあえて僕と示談しなかった。僕を反省させようという思いがあったのだろう。僕は学校に戻ることはできなかった。
考えてみればそれはそうだ。先生に暴行した上、同級生を2階から突き落とそうとするようなヤツを学校に置いておくわけにはいかない。僕は福井県にある「はぐるまの家」という保護施設に入れられることになった。
はぐるまの家のHPでは施設のことをこう説明している。
福井県越前市(旧武生市)にある青少年保護委託自立支援施設です。
いくつかの経験を経て、ADHDをはじめとする障がいを持つといわれる子どもたちや、様々な境遇を生きてきた子ども達と共に家族のような生活を送りながら和太鼓演奏による慰問や公演活動によって子どもたちの情操教育に寄り添う役割を担っています。
はるぐまの家のある福井県に父親が運転する車で着いた。大きなスーパーマーケットに寄って買い物をすることになって、父親と母親は店に入っていった。車に1人で残った僕は脱走してやろうと思っていたが、そのことに気付いた2人はすぐに戻ってきた。
そして母親は「一緒に死のう」と言って泣き出した。母親は真面目に生きてきて僕をどう育てていいのかわからずに苦悩していたのだろう。僕のことをわかろうと一生懸命やってくれているのは伝わっていたが、僕からしたら「もうええって。そんなんじゃないから」という感じだった。
楽しいとは言い難い施設での生活
施設での生活は、とても楽しいとは言い難いものだった。15人くらいで共同生活をして、朝起きるとすぐに和太鼓の稽古に取り組んだ。その施設は老人ホームなどに慰問で訪れ、和太鼓を演奏して楽しんでもらうという活動を行っていたからだ。
施設には不良だけではなく、いじめられて学校に行けなくなったような子もいた。和太鼓の演奏で、タイやバングラデシュにも行った。施設の近くにあるお寺さんの住職が保護司をしていたので、2週間に1回くらいのペースで通って座禅を組んだりもした。
今思えばこれもいい経験だし、こういう施設に入れてもらえる時点で僕は恵まれている。親がいなくて入れない人もたくさんいるからだ。
また、調査官がやってきて僕にこんなことを言う。
「ダルビッシュ有の弟だからツラいんじゃないか」
「お兄さんがすごいと大変だよね」
「小さなころ、お父さんとかお母さんが英会話教室をやっていて夜あまりいないから寂しかったのかな」
僕の目には彼らが大人がほしい言葉だけを探しているように見えた。子どもには子どもなりの事情があるのだが、彼らはそういう見方はせずに、単なる子どもとして接しているように感じていた。
周囲からの冷ややかな対応
そんな生活が7カ月ほど続いた。
毎日が退屈で仕方がない。どうすればこの生活を豊かにできるかということではなく、早く出られないかなと頭を悩ませることしかできなかった。
ずっとこの施設に入っていたので、僕は中学3年生の間ほとんど学校で過ごしていない。気付いたときには卒業式の1週間前になっていた。
卒業式は中学最後のイベントだ。学校には友達もいるし、僕も彼らと話したい。思い出を作るという感じではないが、中学生活にケジメをつけたいという気持ちもあった。卒業式にはどうしても出たかったので、なんとか施設を出してもらえるように施設の先生に頼みにいった。
「もう真面目にしますから」
そう言って先生に頭を下げた。それなら卒業式だけはということで、なんとか許しをもらうことができた。それ以外は一切学校に顔を出さないという条件付きだ。僕は特攻服を着て卒業式に出た。
だが、周囲の反応は冷ややかだった。
「翔が帰ってきた」
「また地元が荒れてしまう」
同級生や保護者たちの怯えるような、迷惑そうな視線が痛かった。
僕の存在は彼らの中で、近所の悪ガキという枠を超えて、逮捕されて施設送りになった悪人のように映っていたのかもしれない。
「それならこっちだってとことんやってやる」
ガキだった僕はそんな風に考え、またそこからどんどん悪さをするようになっていく。
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