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仏教に救われた「LGBTQの僧侶」が修行で得たもの 紅白歌合戦の審査員も務めた西村宏堂さんの生き方

 

「ハイヒールを履いたお坊さん」西村宏堂さんの人生を追います(撮影:今井康一)
LGBTQ活動家、僧侶、アーティストと3つの肩書を持って活躍する西村宏堂さん。
オリジナリティあふれる美しいファッションやメイクをまとい、自らの生き方や考えを発信。豊富な人生経験と仏教の教えをあわせて編み出される、彼の言葉や活動には、多くの人が引き込まれ、アメリカTIME誌が選ぶ世界の「次世代リーダー」21人の1人にも選出。
一昨年夏に出版された著書『正々堂々 私が好きな私で生きていいんだ』は、7つの言語による翻訳版も出版されるなど世界中から注目を集めています。さらに2022年末の紅白歌合戦ではゲスト審査員も務めました。
しかし、ほんの数年前まで、人生は暗黒期だったといいます。

18歳までは、同性愛者であることをひた隠し、自分にうそをついて孤独に生きてきたのだと。その後、アメリカ留学に活路を見いだそうとしたものの、今度は人種差別の現実を目の当たりにする……など数々の挫折も経験。
それでも、一歩一歩、行動を起こすことで、人生の中で数々の花を開かせてきました。

「自分に正直に生きることこそが、人生と世界の扉を開くカギだった」と語る西村さんが、人生の暗黒期を乗り越えるまでのストーリーに追った前編に続き、後編では、西村さんのさらなる飛躍とこれからの挑戦に迫ります。

両親へのカミングアウトですべてが変わった

会社員でも自営業でも、複業を選択する人が増えている時代だが、西村さんほど色合いの異なる3つの肩書を持っている人は珍しいのではないだろうか。

「アーティスト、僧侶、LGBTQ活動家。たしかに今、私には3つの肩書がありますが、綿密に計画を立てて生きてきたわけではありません。その都度、もっと成長したいと思って歩んできた結果、開けていった道です」

20代前半、最初についた仕事は、メイクアップアーティストだった。N.Y.の名門パーソンズ美術大学在学中、憧れていたメイクアップアーティストのアシスタントを始めたのだ。

「メイクは、魔法ですよね。強く美しくなれる魔法。子供の頃から、セーラームーンやディズニープリンセスが好きだったんですけど、それは変身したり、美しくおめかしすることで人を救ったり、誰かに勇気を与える存在だったから。私も今、さらに多くの人にメッセージを伝えるため、メイクやおしゃれをコミュニケーションのツールとして楽しんでいます」

 

メイクやファッションの力を信じていると語る。美的センスにも優れ、美術を学んできた西村さんにとって、メイクアップアーティストは適職だったに違いない。

しかし、大学卒業後、本格的にメイクアップアーティストとして歩み始める前に、西村さんは2つの大きな決断をする。

1つめの決断は、両親へのカミングアウトだ。

アメリカでは、すでに自分が同性愛者であることを隠さずに生きていたが、両親にはまだ告げられずにいた。

「やはり、すごく怖かったんです。うちの両親はドイツに住んでいた経験があり、多様な文化や価値に理解のある人だけど、それでも、きっとがっかりするんじゃないかなと」

 

それでも告白を決心したのは、「大切な人たちに本当のことを言わないと変われない。人生の本番が始まらない」と感じたからだ。24歳のとき、一大決心で告白すると、想像以上にあっさりと受け入れてくれたという。

「母親は、『こうちゃんが小さい頃から私も悩んでいたけれど、ようやく謎が解けたわ』と。父親は薄々気づいていたみたいですね。『宏堂の好きなように生きなさい。宏堂の生き方は宏堂が決めることだから』と言ってくれました」。

両親が受け入れてくれたことで、モノクロの視界に一気に虹がかかり、頭の上の漬物石が空高く吹っ飛んだような、心が軽い気持ちになったそう。

両親がありのままの自分を受け入れてくれたことで、西村さんの暗黒期は完全に終わった。

「周囲に自分がどんな人間であるかを正直に話すことが絶対だとは思いません。人により事情も心の準備もあるでしょう。でも、自分にとってとても大切な人、これだと思う人には、いつか本心を打ち明けられたらいいですよね」

大嫌いだった仏教と向き合って人生が変わった

もう1つ大きな決断は、大学卒業後に僧侶の修行に参加すること。

「理由は仏教を学び、僧侶になる過程で自分がどう進化できるのかを知りたかったからです。大学でアートを学び制作するうちに、もっともっと自分のアイデンティティを突き詰めることが必要だなと実感しました。大学の課題だった作品作りでは、折り紙や華道など日本の文化を織り込んだものを作ろうとしていましたが、正直、納得のいくものはできなかった。つまり、『自分らしさ』を表現する方法に行き詰まっていたんです」

自分らしさとは何か? 多くの人が人生の折々で挑む命題に、西村さんも向きあった。そのとき、浮かんできたのが大嫌いだった仏教を学ぶことだったという。

「私は、お寺の子として生まれ、僧侶の父とお寺を支える母に育てられました。仏教が嫌いだった理由は、子供の頃から周囲の人に『将来は、お寺を継ぐんでしょ』と言われていたことへの反発心です。

父と母は一度も言わなかったけど、近所の人などは当たり前のように言う。決めつけられるのが嫌でたまらなくて。そもそも仏教についてよく知らなかったので、仏教そのものが嫌いだったわけでないけど、ずっと避けてきました。でも、自分のルーツには違いないわけだから、一度、向き合ってみるべきだなと」

大学卒業後、実家のお寺の宗派であった浄土宗の仏門に入り、僧侶の資格を取ることにした。24歳だった。

 

常識や作法より大切なのは教えの本質

僧侶になるための修行は、2年間にわたり行われる。京都の金戒光明寺と東京の増上寺で1回あたり2週間程度、5回に分けて合宿のような形で行われた。

「修行は過酷で、最初のうちは時計の秒針を眺めて、ため息をついていた」と言う。

「冬の極寒の京都では、朝から素足で雑巾掛け。一日中、正座で細やかな作法を叩き込まれ、お経を唱え続けて。少しでも間違えたら、怒鳴られてやり直し。声が枯れて、唾に血が混じっていたこともありました」

物理的なつらさ以上に悩んだのが、修行中に学んだ教えだった。

「経典の中には、『装飾品を身につけてはいけません』『歌やダンスを見るのもいけません』などという項目を見つけてしまって。メイクもするし、キラキラしたファッションも大好きな私は、お坊さんになるべきではないのかなと。

それから、浄土宗の作法には、男女の違いもあって。例えば、香炉を跨ぐ作法は、男性は左足から、女性は右足からというものでした。私のように、男女の性別には当てはまらない人を考慮してくれない教えなのであれば、私は賛同できないなと思っていました」

悩み抜いた末、西村さんは勇気を振り絞って先生に質問することに。「周囲にいるトランスジェンダーの方々には、この作法はどう伝えるべきか」と尋ねると、先生からは「作法は教えの後にできたもの。どんな人でも平等に救われるという法然上人の教えが最も大切ですから、作法は左右どちらのものでも構いません」という言葉が返ってきた。その道理の通った答えに、西村さんの葛藤はみるみる晴れた。

「『僧侶は着飾ってはいけないのか』という疑問についても、先生は『僧侶の中には教師や医者をやっている人もいる。それぞれの仕事によって違う装いをしているのが現代の僧侶の姿です。多くの人に教えを広めることができるなら、キラキラしたものを身につけても問題ないです』と言ってくださった」

“作法や身なりは、教えの本質ではない”という、西村さんにとって納得のいく答えを授かったとき、仏教への思いは大きく変わったという。

「『どんな人でも平等に救われる』という仏教の教えは、LGBTQの一人として苦しんできた私を救ってくれたし、だからこそ、『誰もが平等である』というメッセージを、今も悩んでいる人たちに届けたいと強く思いました。平等の本質を伝えていきたい」

西村さんが考える平等の本質は、シンプルだ。それは、誰に気兼ねすることなく、自分をちゃんと大事にして生きること。

「自分を優先させることを、恥ずかしいとかワガママだなんて思う必要はないです。あなたは何ができるか、どんな人であるかということは平等に扱われることと関係ない。みんながあらかじめ持っているものが平等ですから」

現在の西村さんは、そんな自らのアイデンティティ、アイデア、ファッションなどをアートとして表現している。

従来の肩書にとらわれないからこそ

自ら仏門に飛び込み、教えを受け取ったことは、彼の個性と人生をさらに開花させることになる。

僧侶として学びを深める一方、メイクアップアーティストとしてもミス・ユニバースの国内外の大会のメイクを担当するなど順風満帆な活躍をしていた最中の2019年、LGBTQの当事者として講演してほしいという話が舞い込んできたのだ

「浄土宗のLGBTQについてのシンポジウムで、当事者の体験談を話してほしいという依頼でした。当時、公の場では自分が当事者であることは語ったことがなかったし、僧侶であり、大学の教授である父の立場もあるし、どうするべきかと悩みました。

でも、せっかくのシンポジウムに当事者がいなければ、現実味が薄いし、本物ではなくなってしまう。私が語らなきゃならないと思い至って出演を決めました」

このイベントをきっかけに、西村さんの元には、LGBTQ活動家としての依頼が増えていった。メディアやイベントへの出演、講演会への登壇、インタビュー、書籍……。

これまで味わった辛酸の数々、人生の暗黒期を乗り越えた経験談はもちろん、自らの思考と仏門で学んだ知識や経験を織り交ぜて語る。痛みや挫折を乗り越えてきた彼の言葉は優しさと説得力があり、人々の心を揺さぶった。

さらに、2019年には全世界で大ヒットしていたアメリカ発リアリティ番組「QUEER EYE(クィア・アイ)」にも出演して注目を集めた。SNSでは、僧侶姿ながら、メイクやハイヒールもまとう斬新で艶やかなファッションは、彼の個性やメッセージを際立たせ、世界中にファンを生んだ。

「これまでの人生がつながった気がしました。さまざまな経験や技術はもちろん、悲しかったことや苦しかったこと、嬉しかったこともすべて。僧侶やメイクアップアーティストなど1つの職業だけだったら、私のメッセージはみんなに伝えられないのではないか?でも同性愛者であり、僧侶の資格を持っていて、メイクやおしゃれが好き。そんな私だからこそ、伝えられることがあることにも気づけました」

現在の状況を予想して、3つの肩書を得たわけではない。ただ、自分に正直に生きて、自分にしかできないことを突き詰める道中で、自分らしい大輪の花が咲いたのだ。

仕事も人生も、唯一無二の自分を大切にすること、自分にしかできないことを突き詰めて花開かせること。それは、この先も彼自身の命題であり、人々に伝えたいヒントでもある。

今年9月、西村さんは、海外での出版のプロモーションのためにヨーロッパで4カ月を過ごした。そして、今後も日本にとどまることなく、ヨーロッパも拠点にしたいという。

「日々、活動をするうちに、世界の今を学び、もっと成長したいという想いが湧きあがってきました。日本では多様性やLGBTQのことを伝える立場にありますが、私自身ももっと学んで、自分を追求し続けることが必要だと感じたんです」

今回ヨーロッパで学んだことは、会社などで多様性が重要視されるあまり、能力ではなく多様性を補うために雇用されるという新たな問題が生まれたこと。また性的マイノリティーへの理解は進んでいるが、トランスジェンダーだけは女性トイレや更衣室を利用することについてなかなか理解されていない現状を学んだ。

日本からボストン、そして、ニューヨークへ。一度日本に戻った後、今度はヨーロッパへ。今いる場所に安住せず、定期的に新天地を求めて大胆に動き続けるのは、西村さんが経験から体得した人生戦略でもある。

「人生の折々でたくさんの花を咲かせるには、種まきはもちろん、そのときの自分に合う植木鉢への植え替えも大切です。人間は経験を積むほど育つものなのに、ずっと同じ小さい鉢に自分を閉じ込めていたら、いつか根腐れを起こすと思う。その時々、自分のスケールに合わせて、思い切って広い世界に飛び込んでみたら、自分の根っこも太く長くなるし、新しい面白いチャンスに巡り合えるから」

勇気を出して動くたびに、人生には、新たな蕾が増えることを西村さんは知っている。

 

差別はきっとなくならないけれど……

「これからも、皆さんが前向きに生きられるようなメッセージを届けたい。社会の期待から自由になって、それぞれが自分の人生を生きられるようなお手伝いがしたいです」

 

『正々堂々 私が好きな私で生きていいんだ』(サンマーク出版)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします

これからの夢について尋ねると、笑顔でさらりと言い切る。しかし、「差別とは普遍的なものであり、地球が終わるまで完全にはなくならないでしょう」とも。

「無知で理不尽な判断をしてしまうことは人間らしさでもあると、これまでの経験を通じて学びました。それでも諦めずに働きかけていくこともまた、生きる喜びだと思います。

一方、個人としての幸せも大切にしたいし、大切にしてほしい。差別があろうとなかろうと、幸せの本質は“自分らしくいられて、誰かと理解しあえること”だと思うから」

ヨーロッパでは著書の各国語版のプロモーションのため、フランスとスペインにもしばらく滞在して、トークツアーを開催した。スペインでは、テレビ、ラジオをはじめ、3日間で17ものメディアに登場するなど目まぐるしい日々だ。

さらに、2022年の紅白歌合戦ではゲスト審査員を務め、彼の著書『正々堂々 私が好きな私で生きていいんだ』は重版が決まるなど、日本でもますますの注目を集めている。

“ハイヒールを履いたお坊さん”の唯一無二の快進撃は、これからが本番だ。

 

「ハイヒールを履いた僧侶」の正々堂々とした人生 西村宏堂さん「ユニークな自分として生きていく」

「ハイヒールを履いたお坊さん」西村宏堂さんの生き方とはーー(撮影:今井康一)
西村宏堂さんという人を知っていますか? 
LGBTQ活動家、僧侶、NYの名門パーソンズ美術大学出身のアーティストと、3つの肩書を持ち、アメリカTIME誌が選ぶ世界の「次世代リーダー」21人の1人にも選出。
一昨年夏に出版された著書『正々堂々 私が好きな私で生きていいんだ』は、7つの言語による翻訳版も出版されるなど、世界中から注目を集めています。さらに2022年末の紅白歌合戦ではゲスト審査員も務めることに。
“ハイヒールを履いたお坊さん“と呼ばれ、その活動や発信が多くの人に支持されている、西村宏堂さんの何度でも開花する生き方とは――。

東京の中心部、西村さんの生家であるお寺を訪ねると、印象的な装いで迎えてくれた。

古くなった僧侶の伝統的な袈裟を現代的にアップサイクル(捨てるはずだった製品を新しい価値を与え再生させること)したもの。鮮やかな色合いの袈裟にイッセイ ミヤケのモードなパンツや煌びやかなアクセサリーの組み合わせは、不思議と調和が取れて美しい。

「今日は室内なので履いていませんが、普段はここにハイヒールを合わせることも。世間の方々が見たことない姿で街を歩いて、驚かせるのは私の役割だと思っています。驚かせるだけでなく、『こんなふうに自由に発想したり、装ってもいいんだ』と誰かが新しい一歩を踏み出すきっかけになれたらいいなと。

社会の中で生きていると、知らず知らずのうちに自分を狭いおりに閉じ込めてしまいがち。多くの人は『普通の人は』『こう生きるべき』なんて価値基準にとらわれ、自分の本心や本質にふたをしてしまう。私は、そんなみなさんの心のふたを開く手伝いをしたいんです」

“自分の心にうそをつくことは罪である”

仏教の戒律から学んだこの教えを、彼は大切にしている。彼自身が過去に長い間、自分にうそをついて苦しんできた経験があるからだ。

「18歳までは同性愛者であることを誰にも打ち明けられませんでした。きっと理解してもらえないし、見下されたり、差別されることが怖かったんです」

現在、33歳。今や世界から脚光を浴びる“時の人”となった彼も、「これまでの人生の3分の2は暗黒の日々だった」という。

では、いかに人生の暗黒期から抜け出して、自分らしい自由な生き方を手に入れ、光ある場所へとたどり着いたのか。西村さんの思考と経験からは、自己実現して生きていくためのヒントが得られるはずだ。

 

誰にも心を許せなかった人生の暗黒期

暗黒期のはじまりは、子供の頃にさかのぼる。1989年、東京都のお寺に生まれた西村さんは、子供の頃から美しいものに惹かれた。外を駆け回るよりもディズニープリンセスやセーラームーンに憧れ、パンツよりもヒラヒラと裾が躍るワンピースを着るのが好きだった。おしゃれしてお姫様ごっこをするのが大好きで、街では女の子に間違われることも。

しかし次第に「男の子のくせに」「男の子だから」などという、周囲の大人の何気ない言葉が次第に気になるように。

幼稚園の頃はこうちゃんと呼ばれていたのに、小学校に入ってからは、西村くんと呼ばれ、男子として扱われるようになった。水泳の授業で海水パンツを履くことを強制されるのが嫌で恥ずかしかったり、仲の良い女の子の友達に恋愛感情のようなものを抱いていると勘違いされてしまったりと、日々、違和感は増えていった。

「学校でも年齢を重ねるほど、男として、女としてという周囲の区別は明確になっていって。その型に当てはまらない私は、『女の子っぽい』とか『男らしくない』などとバカにされたりしました。本来の私を表現しても、この社会では受け入れられないと実感して怖くなりました。男性を好きな自分は恥ずかしい存在だし、男らしくいられない自分は劣等な存在なんだなと」

高校生になると、西村さんは完全に心を封鎖。高校3年間は、「人生のどん底。心を許せる友達は一人もできなかった」と述懐する。

「進学校に入ったものの、あまり勉強もできず、人間関係にも行き詰まり。同性愛者だと気づかれるのが怖くて誰にも心を開けない。惨めな人だと思われるのも怖くて、お昼休みは用事があるふりをして教室を去り、日々、一人で校内を歩き回っていました」

孤独な日々の中、活路をインターネットに求めた。中学時代に家族旅行で行ったハワイに憧れ、英会話を熱心に学んでいた西村さんは、世界中の人が集まるゲイチャットで友達を作り英語で会話するようになったのだ。

オランダ、プエルトリコ、ポルトガル、ロシア、ウルグアイなどさまざまな国で似たような境遇をもつ人々とチャットで悩みや思いを語り合って、心の渇きを満たした。

世界に目を向ければ、心が通う人もいる。海外への憧れはいっそう強まり、高校卒業を待ってアメリカ・ボストンの短大へと留学を決めた。自由の国、アメリカに行けば何かが変わると信じていたのだ。

しかし、現実はまったく違った。

「アメリカでもなかなか友達はできず、アジア人であることを理由に人種差別的な言葉の暴力を受けたことも。ここでも自分は受け入れられないのかといじけて再び心が折れました」

 

しかし、そんな西村さんに小さな転機が訪れる。当時、2007年にミスユニバース世界大会に日本代表として参加した森理世さんがグランプリを獲得したのだ。切長の瞳に艶やかな黒髪といった、日本人として伝統的な美貌を持ちながら、誰にも引けをとらない堂々としたパフォーマンスとスピーチで世界を虜にした。彼女に、西村さんは心揺さぶられた。

「彼女は“日本人であること、自分であること”を堂々と表現して、それが評価されていました。人種のせいで認めてもらえないと思っていた私には、目から鱗でした。その後も彼女の活動を追ったり、関連書を読んだりするうちに気づき始めたんです。もしかして、自分の人生がうまくいかないのは、人種や同性愛の問題ではないのかもしれないと」

世界中に差別は存在するけれど、それが世界のすべてじゃない。美しさも個性も本来は多様なものであり、それを認めてくれる場所はきっとあるはずだ。

 

「自分は劣った人間ではなく、ユニークな存在である」

心の向きが変わった西村さんは、少しずつ行動的になっていく。まずは、ボストンの教会にあったゲイコミュニティに参加。程なくして、初めてリアルな同性愛者の友達ができた。その友人たちと世界各国を旅するようになり、旅先のスペインでは、生涯の親友にも出会えたという。

本当の自分で付き合える友達ができたことで、西村さんの内側には、これまでにない自信と安心感が芽生え、さらに積極的に動けるように。

ボストンの短大を卒業すると、N.Y.の名門パーソンズ美術大学に入学。美術を学ぶ傍ら、動き出すキッカケとなったミスユニバースのメイクを手がけたメイクアップアーティストのもとを訪ね、そのアシスタントを志願して仕事も始めた。

自力で動き出し、さまざまな出会いと経験を重ねるうちに、西村さんは確信した。

「自分は劣等な人間ではなく、ユニークな存在である」と。

「それに、敬愛する友人たちは同性愛者であることを隠さずに、堂々と生きている。自由に自分らしく生きながら、多くの仲間や愛情にも恵まれていて。その姿は、眩しいほどに輝いていました。自分もそうなれるはずだなと自然に思えるようになりました。

N.Y.では、毎年恒例の大規模なゲイパレードに参加したんですけど、ディズニーやアップルなど、世界の名だたる企業がLGBTQの権利を応援してくれていることも知りました。日本では絶対にありえないと思っていた、“ありのままの自分で生きられる世界”が現実にあったんです」

自分に正直に生き始めると、人生が変わると西村さんはいう。

日本人であることも、同性愛者であることも、男らしさの型にハマらない自分も。隠したり卑下したりするのではなく、まずは自分自身が受け入れ、個性として表現できたら、人間関係も仕事も生活もすべては上向いていくのだと。

本当の幸せは、本当の自分を知ることから始まる

「自分の人生を生きるとは自分でハンドルを握ることですよね。そのためには、世間体や常識など実態のないものに振り回されず、まず、自分の本心や個性をよくよく見つめることが必要だと思います。私のようにLGBTQの当事者ではなくとも、自分の本心を無視していたり、無意識に自分を抑えて生きている人も多いのではないでしょうか」

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たしかに、かつての西村さんの悩みは決して特別なものではない。セクシャリティにおいて多数派側にいる人も、自分にまったくうそをつかず生きていると言い切れる人は少ないのではないか。

「男だから、女だから、こうあるべき」「会社員として」「父親とは、母親とは」……。従来の価値基準に自分を閉じ込め、人生を楽しめないどころか、自らの内に眠っている可能性を潰している人もきっと少なくない。

「自分を知る、本心を理解するって、実は想像以上に時間も労力もかかりますよね。私もそうでした。

たとえば、20代の頃は、同性愛者の自分はゲイだと思っていたんです。でも、一般的なゲイという枠組みにはハマらないとも感じていて。もっと突き詰めて思考したら違った。私は『男でも女でもある』と感じているし、同時に『男でも女でもない』とも思っています。以前の私だったら、男でも女でもない自分に劣等感を持っていたのですが、今はこの自分に誇りを持てるようになりました。あらゆる固定観念を取り払い、時間をかけて、やっと自分というものを理解できるようになったんです」

ほかでもない自分が自分を深く理解すると、自分の価値も本気で信じられるようになると西村さんはいう。だから、思い切って生きられるようになるし、そこに本物の仲間や応援してくれる人も現れる。そして、本当の幸せは、本当の自分を知ることから始まるのだと。

ようやく暗黒期という長いトンネルを抜け出しつつあった西村さんには、さらに刺激的でカラフルな人生の第二章が待っていた。