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坂本龍一さん死去、71歳 21年に直腸がん公表 2023年4月2日 21時25分スポーツ報知

高橋幸宏さんの訃報の悲しさが抜けてない中での相次ぐYMO関連の訃報😢
高橋幸宏さん死去のニュースの時も「教授(坂本龍一さん)」の心配したほどだったのに…
ご冥福をお祈りします。
これは世界的なショックですよ。

 米ニューヨーク在住で世界的に活動する音楽家の坂本龍一さんが3月28日に亡くなったことが2日、分かった。71歳だった。14年に中咽頭がんを公表し、復帰後は精力的な活動を続けていたが、21年1月に直腸がんを公表していた。細野晴臣、高橋幸宏さんとの3人組テクノグループ・YMOとして名声を博し、解散後は、俳優として映画初出演した「戦場のメリークリスマス」の音楽を担当。映画「ラストエンペラー」では、日本人として初の米アカデミー作曲賞を受賞した。

世界のサカモト”が逝った―。強烈なインパクトを与えたのは、音楽を手がけた映画「戦場のメリークリスマス」(1983年、大島渚監督)だった。同作で英アカデミー賞作曲賞を受賞。俳優としてもデビッド・ボウイさん、ビートたけしと共演し、陸軍大尉ヨノイ役を好演した。

 中国・清朝最後の皇帝の生涯を描いた映画「ラストエンペラー」(87年、ベルナルド・ベルトルッチ監督)では、サウンドトラックを担当。日本人として初めて米アカデミー作曲賞を手にした。グラミー賞オリジナル映画音楽賞、ゴールデングローブ賞最優秀作曲賞など世界的な音楽賞を総なめにし、その地位を不動のものにした。

 坂本さんは幼少期からクラシックを学んできたが、東京芸術大学大学院在学中、フォーク歌手・友部正人のバンドメンバーに参加。以来、キーボード奏者として山下達郎、大瀧詠一らニューミュージックのアーティストとの共演で名をあげ、78年10月にアルバム「千のナイフ」でソロデビュー。並行して、細野の誘いでYMOの結成に参加し、同年11月、YMOもアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」でデビューした。

YMOは翌79年のワールドツアーで、シンセサイザーとコンピュータを駆使した音楽スタイルで欧米の音楽関係者やファンを驚かせた。中国風のえんじ色の特製スーツなどファッションも注目を集め、テクノポップのブームを作り、アルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」は世界的な大ヒットになった。

 2001年の米同時多発テロを身近に体験したのを契機に「非戦」を唱えるなど社会活動にも精力的に取り組んだ。環境問題や音楽著作権問題に携わり、2011年の東日本大震災以降は反原発を表明。被災三県(岩手・宮城・福島)を中心にした子どもたちの楽団「東北ユースオーケストラ」の音楽監督を務めた。

 晩年はがんとの闘いの連続だった。14年7月に中咽頭がんを公表し、自宅のあるニューヨークで1年間の治療と療養を経て、15年に復帰。がんは寛解し精力的に活動していたが、21年1月に直腸がんを公表。直筆で「残念ながら、新たに直腸がんが見つかりました」と無念のコメントを寄せた。さらに、22年6月発売の文芸誌「新潮」では、21年10月と同12月に両肺に転移したステージ4のがんの摘出手術を受けたと告白。22年12月には「これが最後になるかもしれない」というラストライブを行い、「自分としては新境地かなという気持ちもあります」と話していた。

坂本龍一さん死去、71歳 「YMO」「世界のサカモト」がん闘病力尽く ラストエンペラーで日本人初快挙

 「世界のサカモト」と評された音楽家の坂本龍一(さかもと・りゅういち)さんが3月28日、死去した。71歳。東京都出身。葬儀は近親者のみで営まれた。
 スポニチ本紙の取材では都内の病院で亡くなった。日本における坂本さんのマネジメント会社「キャブ」も「坂本龍一が去る2023年3月28日71歳にて永眠いたしましたした」と発表した。20年6月に直腸がんと診断され、両肺などにも転移しステージ4と公表していた。「キャブ」は「がんの治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動をつづけ、最期まで音楽と共にある日々でした」とした。
 1980年代に3人組バンド「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)で世界的ヒット曲を生み出した。映画音楽でも知られ、88年には米映画「ラストエンペラー」で米アカデミー作曲賞を日本人で初めて受賞した。晩年はがん闘病が続いたが、最後まで音楽作りに情熱を注いだ。
 昨年12月11日に全世界配信されたピアノのソロコンサートが、最後の公の場になった。同9月中旬に事前収録。体力面を考慮し1日数曲ずつ演奏し、数日かけてコンサートに仕立てた。今年1月に「YMO」で共に活躍した高橋幸宏さん(享年71)が死去した直後には、SNSにグレーの画像を1枚投稿。コメントはなく、それが逆に悲痛な思いをうかがわせた。
 3月初旬には、東京・明治神宮外苑の再開発見直しを求め、東京都の小池百合子知事らに手紙を送った。3月29日に配信された共同通信の書面インタビューでは「音楽制作も難しいほど気力・体力ともに減衰しています」と現状を明かしていた。坂本さんは同28日に死去しており、その翌日にインタビューが配信された形になった。
 14年に中咽頭がんと診断され、治療の末に寛解。だが、直腸がんと診断された20年6月には、治療しなければ「余命半年」と告げられた。手術では、最初にがんが発生した原発巣と肝臓2カ所、転移したリンパの腫瘍、さらに大腸を30センチも切除。両肺に転移したがんを摘出するなど、1年で6回の手術を受けた。その後は通院して投薬治療を続けてきた。
 3歳からピアノを始め、小学2年の時にバッハの音楽に傾倒した。東京芸術大作曲科を経て、78年に高橋さん、細野晴臣(75)とYMOを結成。79年に当時斬新なシンセサイザーを使った音楽が海外で受け、世界ツアーを2度成功させた。国内では竹の子族がヒット曲「ライディーン」を踊るなど、社会現象になった。
 俳優としても活躍し、83年公開の映画「戦場のメリークリスマス」では、英ロック歌手のデビッド・ボウイさん(16年死去、享年69)と共演。男性同士のキスシーンも熱演し、話題となった。
 劇中音楽を手掛け、出演もした米映画「ラストエンペラー」(87年公開)では88年の米アカデミー作曲賞を日本人で初めて受賞した。同作では米音楽界最高の栄誉とされるグラミー賞も獲得。米エンタメ界2大タイトルを初めて受賞した日本人となった。
 理知的で「教授」のニックネームでも親しまれた。興味こそ原動力で、既成の価値観にとらわれず、やりたいと思ったことに全力で取り組んできた坂本さん。最後まで文芸誌「新潮」での連載で音楽観や死生観を語るなど、敬愛するバッハのように情熱は尽きることがなかった。
 マネジメント会社「キャブ」の「ご報告」は以下の通り。
 ご報告
 わたくしども所属の音楽家/アーティスト 坂本龍一が去る2023年3月28日71歳にて永眠いたしました。謹んでご報告申し上げます。
 2020年6月に見つかった癌の治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動をつづけ、最期まで音楽と共にある日々でした。
 これまで坂本の活動を応援してくださったファンのみなさま、関係者のみなさま、そして病気治癒を目指し最善を尽くしてくださった日米の医療従事者のみなさまに、あらためて深く御礼申し上げます。
 坂本自身の強い遺志により、葬儀は近親者のみで済ませておりますことをご報告したします。また、弔問、ご香典、ご供花につきましても謹んで辞退申し上げます。
 最後に、坂本が好んだ一節をご紹介します
 Ars longa, vita brevis
 芸術は長く、人生は短し
EV.Cafe 超進化論 (スペースシャワーネットワーク)

村上龍+坂本龍一

覚悟はしていましたが、とうとうこの日がやってやってきました。言葉がありません。

この本は、1984年に、吉本隆明、河合雅雄、浅田 彰、柄谷行人、蓮實重彦、山口昌男をゲストに迎え、村上龍と坂本龍一の二人でそれぞれのゲストと三人で対談をするという、今現在から考えると夢のような破格な対談集です。

初出は、当時としては画期的な文庫サイズの雑誌インポケットだったと思います。

リアルタイムで読み、とにかく驚いたのが坂本龍一氏の広範な読書分野とその量でした。

フーコー、デリダの名前がでたときはその人は誰なんだと思いました。坂本龍一氏は、NHKFMの『サウンドストリート』のパーソナリティーもされており、そのなかで村上春樹の『羊を巡る冒険』を紹介しラストシーンに「これは、泣けました」の氏の発言に、私は翌日、書店に走りおもむろにそれを手にしてレジにむかったのが昨日のことのように思い出されます。

37年前の福岡サンパレスのソロコンサートでの『戦場のメリークリスマス』のきめ細やかで美しいアコースティックピアノの旋律に心が震え鳥肌がたちました。父親は河出書房の鬼の異名をとる文芸編集者で、あの三島由紀夫が当時の大蔵省のエリート官僚と作家の二足のわらじだったのを小説家で独り立ちさせたことはあまりにも有名です。そして1971年、前年の三島の自決の翌年、高槗和巳が亡くなり、葬儀委員長が埴谷雄高で、とりしきったのが父、坂本一亀でした。音楽葬をしたいとの高槗たか子(高槗和巳の妻)の要望に、芸大生だった息子坂本龍一氏にその音楽葬儀を相談し、坂本龍一氏が選曲したのがバッハのマタイ受難曲だったそうです。
また、柄谷行人、中上健次、中野孝次その他の文学者が出席した戦後文学をめぐる討議に、坂本龍一氏も出席し、あまりにも有名な「バカヤロー」討議の現場にもいたそうで、文学にも深くかかわりのあった坂本龍一氏のご冥福を心よりお祈りします。

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コメント: 16
  • #1

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:47)

    先日の幸宏さんの訃報からまだ癒えぬ時に教授まで…辛すぎます…
    あなたの音楽と才は我々日本人の誇りです。
    そして音楽のみならず多方面に多大な影響を与え続けた存在でした。
    10年に及ぶ闘病生活、本当にお疲れ様でした…あなたの音楽は自分もそうですが永久に多くの人の心に残り続けることと思います。本当にありがとうございました…
    心より哀悼の意を表すると共に心よりご冥福をお祈りします。

  • #2

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:48)

    怪物を楽しみにしています。もっと早くコンサートに行くべきだったと去年思いました。やりたいと思ったことはすぐにやらなければダメですね。素敵な曲はいつまでも世界中の人々の心に生き続けます。そう考えるといつまでも人と寄り添って生き続けるんですね。それでも確かにある喪失感は拭いされません。ご冥福をお祈りいたします。身体の痛みや辛さから解き放たれて楽しく音楽を奏でていますように。

  • #3

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:49)

    『戦メリ』も『ラストエンペラー』も、部分部分の映像美はともかく、人間というものが虚しく思えすぎて正直、通してもう一度観たい映画じゃないのだが、あの音楽たちは時代や状況を超えて何度でも聴きたいし、聴く都度違う感興がわいてくる。
    坂本さんは俳優として両方で戦前戦中の日本の美学に殉じる役を演じたが、どんな心境だったのだろう。
    諦めずにがんに立ち向かわれた勇気を称え労いたい。あちらで高橋幸宏さんと再会されたら、ときどきでいいから一緒に細野晴臣さんを訪ねて、いましばらくこの世界で音楽をやってくれるよう元気づけてあげてほしい。

  • #4

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:49)

    『戦メリ』も『ラストエンペラー』も、部分部分の映像美はともかく、人間というものが虚しく思えすぎて正直、通してもう一度観たい映画じゃないのだが、あの音楽たちは時代や状況を超えて何度でも聴きたいし、聴く都度違う感興がわいてくる。
    坂本さんは俳優として両方で戦前戦中の日本の美学に殉じる役を演じたが、どんな心境だったのだろう。
    諦めずにがんに立ち向かわれた勇気を称え労いたい。あちらで高橋幸宏さんと再会されたら、ときどきでいいから一緒に細野晴臣さんを訪ねて、いましばらくこの世界で音楽をやってくれるよう元気づけてあげてほしい。

  • #5

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:50)

    先日、高橋幸宏さんが亡くなったばかりで、YMO世代としては、ショックが大き過ぎます…。高橋さんも教授も病気の事はわかっていながらも心のどこかでずっと生きていてくれると思っていた…今の時代の71歳は若過ぎるし、これから先新しい音楽が聴けなくなるのかと思うと…切ないです…細野晴臣さんは、さぞかし肩を落として居ることと思いますが…ショックです。

  • #6

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:50)

    あのシンセサイザーを操るYMOの姿は当時、物凄いインパクトがあった。
    三人の個性は、それぞれ異と成るがYMOの三人で音楽を奏でる姿は一つの魂に近い物があった。
    後にも先にも、きっと無二の存在で誰もYMOを超える事は出来ないであろう。
    教授、本当にお疲れ様でした。
    安らかにお眠りして下さい。
    素晴らしい教授の楽曲は永遠に後世に引き継がれる事でしょう。
      合掌。

  • #7

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:51)

    1986年にメディアバーンライヴというコンサートで初めて生の坂本龍一さんの姿を目にし、生の演奏を耳にしました。当時高校生だった私は、これからの未来にワクワクしながら音楽ばかりではなく色々なことにおいて坂本さんから影響を受けてきたと思います。幾つになってもかっこいい存在でした。1月に放送されたライブでは「ああ僕はピアノが下手だなぁ」とため息をつくように謙虚に話される坂本さんが印象的でした。衝撃的過ぎて涙も出ません。数日経って大泣きしてしまうのかも知れません。ご冥福をお祈りします。

  • #8

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:52)

    教授。
    長い闘病生活、本当にお疲れ様でした。
    高橋さんが年明け早々にお亡くなりになって、力が抜けてしまったんでしょうか。
    「教授」のニックネーム、高橋さんが考えたんでしたね。
    気が付けば、ボウイが亡くなり、高橋さんが亡くなり、教授が今回亡くなった。
    音楽の楽しさを教えてくれた人たちが、どんどんいなくなっていく。
    残された、細野さんの悲しみは深いでしょう。
    テクノサウンドから映画音楽まで、教授の作品はどれも素晴らしかった。
    合掌。

  • #9

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:53)

    心からお悔やみ申し上げます。本当に残念です。まだまだ生きて活躍して欲しかった。世界的なコンサートのみならず、映画音楽、日本のEテレでの子ども達への音楽教育等々、幅広く魅力ある活動が思い起こされます。坂本さんが残した功績は大きく、残されて然るべきものだと思います。本当に本当に、ありがとうございました。

  • #10

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:53)

    日本の音楽史を変革し、世界に衝撃を与え時代を切り開く先進的・先鋭的な音楽を提供してきたYMO、その中心人物が旅立ってしまった。

    東京5輪のテーマ曲もテクノポリスでいいと思った、それほど革新的で前衛的、50年先をいく音楽を創った功績は偉大だ。

    電子音を多用し新しい音楽のジャンルを築いた功績は極めて大きい。一つの時代が終わったと感じる。教授の思想には共感できなかったが、同じく激動の昭和を生きた人間として教授の思いはよく分る。

    時代を先取りした坂本龍一さん、どうか安らかに眠って下さい。さみしくなります・・

  • #11

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:54)

    先日のコンサート素敵でした
    娘と見ていました
    何か音楽に対する向き合い方が
    シンプルになったような
    透明感が増したような気がしました
    「aqua」が美しくて
    心が浄化されるような気がしました
    楽譜を購入
    早速娘が弾いています
    たくさんの素敵な音楽をありがとうございます
    大切にしていきたいと思います

  • #12

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:56)

    71歳というまだまだお若い年齢でのご逝去、誠に残念です
    坂本さんは音楽活動のみならず、我が国及び世界を良くするための政治活動も精力的に行われておりました
    その根底にあったのは名曲メリー・クリスマス Mr.ローレンスに代表される反戦と世界平和への強い願いだと思います
    昨今、我が国でも安保3文書の改定や軍備増強など、坂本さんが望む未来とは逆に進みつつあります
    我々平和を望む日本国民は坂本さんの音楽を聞いて、一人ひとりが世界平和のために何ができるのかを今一度見つめ直して行く必要があるのだと思います

  • #13

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:57)

    彼が音に向き合う空間を丸ごと切り取ったようなアルバム「12」を聴いたとき、これは彼を偲ぶ作品になりそうだなと複雑な心境で聴いていました…

    近いうちにまた聴いてみようと思いますが、今日は静かに思いを馳せます…
    日本中のファンが似たような心境かと思うと妙な感じですね。

  • #14

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:57)

    昔からYMOを聴いてました。かつてはガキの使いやごっつええ感じなどでダウンタウンとも共演しておりバラエティでも人気でした。しかしここ10年近くは音楽活動だけじゃ無く闘病生活を送っていました。これでYMOで残ったのは細野晴臣さんのみとなり、年が明けて間もなくメンバー最年少の高橋幸宏さんを亡くしたばかりで、細野さんも今頃は「俺を差し終えて逝くなんて・・・」と絶句している頃でしょう。坂本龍一さんのご冥福をお祈りすると共に、高橋幸宏さんと一緒にゆっくり休んでください。合掌。

  • #15

    名無し (日曜日, 02 4月 2023 23:58)

    今年1月に高橋 幸宏さんが亡くなられて立て続けの訃報ゆえ悲しみを拭いきれません。energy flowを聴きながらコメントを書いているので余計に切ない感じがこみあげています。
    この曲は、元々心が癒されるものとして聴いていたのですが、改めて聴くと、どこか切なく物悲しいメロディーであると強く感じさせられます。
    またそれと同時に教授の感性の豊かさを感じる曲でもあります。
    私がこの曲を始め、様々な音楽と出会えてことを改めて教授に感謝しています。
    どうぞこころ安らかに。

  • #16

    名無し (月曜日, 03 4月 2023 10:06)

    『自分の思い通りに生きたがどうかが大事。長さではない』坂本龍一の言葉

    ご生前のご功績を偲び、
    心からご冥福をお祈り申し上げます。