
死傷者が多数に…なぜ成田空港の反対派は過激に進んだのか

突然決まった成田への空港建設
高度経済成長期真っ只中の日本。1964年には日本人の海外渡航の自由化が始まり、同年東京オリンピックも行われ、ジャンボ旅客機やコンコルドの離発着が行われようとしていたこともあり、羽田空港は混雑のピークを迎えていた。着陸ができないため、旋回して待つ飛行機もいたほどだという。
また大阪万博を迎える1970年には羽田空港の空港機能がパンクするという話もあったため、新国際空港の設立が急務となっていた時代だった。
1962年、国は新しい国際空港を立てる必要に迫られ、羽田空港の次の国際空港を作ることを閣議決定した。
当時の航空審議会は「羽田空港の拡大・浦安・木更津・富里(八街)・霞ヶ浦」の五案を検討したが、当時の技術力では海上にさらに羽田空港を拡大することは難しかった。
さらに浦安・木更津に関しては新しく作ったとしても羽田の運行を邪魔する事となり発着便の大幅な増加は望めず、霞ヶ浦に関しては都心から遠すぎるなどとして、1965年11月には、内閣で「富里(八街)」案で内定した。
しかし、国は県や市に対して何も説明をしないまま富里(八街)を内定したため、富里の地元の人は報道でそれを知る人も多く、激しい反対運動が起こった。
県庁でデモを起こしたり、血判状を当時の佐藤栄作首相に送るなどする行為が続いたため、県に協力を得ようとしたが、国は県にも必要な保証の話などを一切おろしていなかったことから、県からも協力は得られなかったという。
結果、富里案を白紙撤回し、別の場所を探す必要に迫られた。
そこで国は当初の新空港計画を半分の規模、2000haから1065haに、そして滑走路は5本から3本に減らし、出来る限り住んでいる人に迷惑をかけない形で別の場所を探したところ、御料牧場や県営林が4割近くを占め、都心からのアクセスも考えられる成田が見つかった。
この時は県や市にも説明をした上で、1966年7月には閣議決定をして、富里案の内定から8ヶ月という短期間で、成田に新空港を設立する事となった。
成田空港の土地は開墾地だった
成田空港ができた土地のうち多くは開拓地だった。
戦後満州などから引き上げてきた人、また沖縄に米軍基地ができたことから本州に来た人々が、国有地などの払い下げを受け、20年のローンで地代を払い、1966年に払い終わるという状況だった。
ようやく土地が自分のものとなるはずだったこの1966年と言う年は、奇しくも空港を成田に作る閣議決定がされた年だった。
そもそもこの土地は木が茂る森で、土地の払い下げを受けた人々は、日中は近隣の農家に働きに出て賃金を得て、夕方から深夜にかけて自分の土地を開墾するという非常に厳しい生活だった。
ようやく苦しい生活が終わり、得られるはずだった土地を取り上げられることになってしまう住民たちは、激しい憤りを感じた。
また、富里では住民運動により空港計画が白紙化されたこともあり、「反対運動で白紙化できるなら我々も」と住民は反対運動を起こすようになる。
一方、市は空港建設について反対決議を出したものの、国と調整をした上で決定したことや、閣議決定がすでになされているということで白紙撤回し、さらに新しく空港を作るために設立された空港公団の事務所を役場の隣に立てたことでも、住人は反感をつのらせたという。
空港建設は国からの施策だったこともあり、様々な思惑を持った政党や活動家や反権力思想を持った人々などが入るようになり、本格的な反対運動が進んでいった。
この時この地には325戸の生活があった。
計画からはすでに4年が経っていた。

初期の反対運動
突如として舞い降りた成田での空港建設に対して、自らの手で開拓してようやく自分の物となった土地を取り上げられることに対する反感と、騒音問題への懸念などから、住民たちは1966年に三里塚芝山連合空港反対同盟、いわゆる「反対同盟」を結成し反対運動を進めていく。
この頃、国は地元から合意を得るどころか事前説明すらしていない上、住民への補償などについても深く考えず、今から考えると相当に甘い認識を持っていたことから、住民の反発は致し方ないことだったのかもしれない。

初期の反対運動は日本社会党や日本共産党が支援する遵法運動で、当時の運輸省、千葉県、地方自治体への陳情・デモなどを連日おこなっていた。
その頃の運動の一つ、“一木運動”に実際に使われていた看板が上の写真だ。
この写真に写るように、土地に生えている木を様々な人が買い、看板を付けて所有を主張し、用地買収を困難にする方法で工事を遅らせる方法を取っていた。
この看板には当時日本社会党議員だった佐々木氏の名前や社会運動家の名前が書いてある。
他には、一坪共有地運動(狭い土地を多数の人が共有するものとして登記して用地買収を困難にする)やヤグラを立てたり、訴訟を起こすなどの手段を使っていた。
一方で、国は補償の考えを改め、相場以上の土地の買い取りや手厚い保証などを住民に提示したことにより、この時点で9割の地主は理解を示し、嫌々ながらの住人も含め移転賛成に回っていたという。
しかし、遵法運動では空港建設計画自体は変わらなかったことや、1968年東大闘争が起こるように、学生運動が盛んで新左翼が台頭していた時代背景もあり、反対同盟は徐々に暴力闘争へと進んでいく。

新左翼との反対運動
工事が進むに連れ反対する住民たちによる「反対同盟」はあらゆる勢力との共闘を宣言し、新左翼とも協力するようになったことから、日本社会党や日本共産党は距離を置くようになり、「反対同盟」は、より過激な方向に進むことになってしまう。
そして新左翼、過激派の学生達は「反対同盟」の住人の家に数人で一緒に住み、反対運動をしないときには農作業を手伝うこともあり歓迎された。
しかし、工事が進むにつれ反対運動はやはり暴力的なものとなった上、反対派の活動により遅々として工事が進まないことから、1971年2月には第一次行政代執行がおこなれた。
迫りくる機動隊に対し火炎瓶などで応戦し、公団と機動隊と住民と新左翼・過激派の学生とが入り混じり、負傷者逮捕者が共に数百人出る事件となった。
この際、反対派が乗っているヤグラをチェーンソーで切るシーンがよく映像で見られるが、公団関係者によると、必ず公団や機動隊側がヤグラの途中まで上りロープを結びつけ、更にそのロープをクレーン車に結びつけて一気に倒れないようにした上で、切る作業を続けていたという。
反対派と過激派に囲まれた機動隊員が火炎瓶を投げつけられたり集団で竹槍や鉄パイプで襲われ、警察官3人が死亡してしまった。
この事は大々的に報道され、住民側に傾いていた世論は一気に公団側へと傾くことになる。
事件当時警察庁長官だった後藤田正晴氏は「相手方の動員は延べ12,600人、うち暴力集団が11,500人。警察官の動員数は延べで17,500人、検挙数は472名、うち女120名。殉職者が3名、負傷者は224人だが、その内訳は、警察官が206人、うち入院している者が48名。学生は12名、うち入院5名だった。ただし、学生はこれ以上に相当の負傷者が出ていると思うが、彼らはそれが判明すると逮捕される可能性があるということで、当方では全員を詳細に知るというわけにはまいっておりません」と発表し、悲惨な事件が明らかになった。
行政代執行は辛くも成功に終わり、その後は警察も凶器準備集合罪で次々とアジトとなっていた小屋などの摘発を進めることとなる。
また、新左翼同士の争いもあり大きな集団での反対運動から散発的な反対運動へと変化していく。
空港開港前夜まで
2回の行政代執行がすぎたあとも、1972年には航空妨害を目的とした鉄塔を立てるなどの反対運動は続けられていた。
この鉄塔の存在で燃料のパイプラインの工事もままならないことから、1977年に公団側は強制撤去をすすめるが、やはり反対派と衝突し、反対派支援者1人が死亡してしまった。
これに対する報復として交番で勤務していた警察官らが火炎瓶などで襲撃され、警察官1人が死亡。
血で血を洗うような争いが続くなか、この頃には住民側の一部から「我々の望む反対運動と違う」という声も出てきていた。
争いの日々が続いたことから、政府が当初目指していた1971年の開港は不可能となっていた。
1978年には計画の半分ではあるものの、1滑走路と1ターミナルの工事の終わりが見え、3月に開港することが世界に発表されていた。しかし、反対派の襲撃が再度起こってしまう。
計画からはすでに16年が経っていた。
開港前夜の成田空港
1978年3月30日、当初の計画の半分の1滑走路と1ターミナルで成田空港は開港することになった。
そして開港は世界中にも発表されていた事もあり、大変な注目を浴びていた。
しかし反対派には今までの経緯から開港は許されるものではなく、開港予定日直前の3月26日、スタッフが開港に向け訓練をしている最中に反対派と支援する新左翼の過激派グループに襲われる。
管制塔から少し離れたところに前日から鉄塔を建てそこで機動隊と争う部隊や、火炎瓶などや竹槍などで武装して管制塔を取り囲む機動隊と争う部隊、また地下から管制塔に向かう部隊など複数に分かれて、過激な反対運動を起こす。
この事件で逮捕者は、管制塔に突入した部隊や空港周辺各所のゲリラ部隊など合わせて168人に及んだ。
この事件は開港直前の取材のために訪れていた世界のマスコミにも知られることとなり報道され、日本への信頼は失墜した。
この直後には現在の千葉県警察成田国際空港警備隊の元となる新東京国際空港警備隊が設置され、継続的に反対派に対応していくこととなる。
この時運輸大臣だった福永健司氏は開港の会見で「日本では難産の子は強いと言うが、この空港をなんとか健やかに成長させていきたい」と話した。
計画から16年、死者も多数出て、逮捕者も数百人出た上での“難産”発言だったのだろう。
開港後の成田空港
開港したあとも反対派は空港周辺でタイヤを燃やして黒煙を上げたり、アドバルーンを上げたりして妨害工作を続けたりするなど、散発的にデモをおこしては機動隊と衝突を続けていた。
一方、政府・公団側は未完成の二本の滑走路建設に向けての二期工事をすすめるために、また長く続く争いを収めるべく、反対派と水面下で話し合いを続けていた。
そして開港翌年の1979年には“一旦二期工事を凍結すること・土地の強制収容をしないこと・過去の誤りを陳謝すること”の3つの覚書を交わし、再度話し合いを進めた上で二期工事をすすめる事になっていた。
しかしその直後に新聞社がその覚書にない誤った表現などを使ってこれを報道したことで、反対同盟側は反発し「一切の話し合いは無かった」と表明、全ては立ち消えとなってしまった。
その後も第二期工事の現場にあった団結小屋撤去の攻防は長く続けられていたが、1988年、二期工事のために必要な用地の収容手続をする「千葉県収用委員会」の会長が新左翼に襲撃された。
その後委員の住所などが新左翼の機関紙などで公開したことから全員が辞任し、委員会が機能不全になったことから、行政代執行などができなくなる事態となってしまった(その後2004年まで収用委員会は再開されなかった)。
対話の道の模索
このように長く長く続く争いの日々の中、一部農民に「我々の世代で反対運動を終わらせよう」という声も出てきた。
政府・公団もこの声に呼応して1990年、運輸大臣と反対同盟の対話が行われ、そこから1991年の成田空港問題シンポジウムが行われることとなる。
ここでは国・反対同盟・公団・県が参加し、何がいけなかったのかを徹底的に話し合うなどして、その後1993年から開かれた成田空港円卓会議で今後の空港整備について話し合った。
そこで出た答えは“対立構造の解消・新しい滑走路の用地は話し合いで作る・3本目が必要だったら再度話し合う・騒音対策や落下物などへの取り組みをすること・地元への振興策を実現すること”などであった。
この「空港と地域とが共存する」という答えが出たのは、空港が計画されてからなんと32年後のことであった。
今後の成田空港は?
その後、少なくも残る反対派の襲撃などを受けながら、二期工事の完成を求める署名が26万人分集まるなどして、計画から40年経った2002年に第二滑走路の運用が開始された。
これまでの成田の闘争の歴史が唯一身近に感じられたのが、2015年3月まで残されていた検問制度だろう。
これは新左翼や反対派の過激な運動を防ぐために作られ、今は代替として監視カメラなどが使われるようになった。
2008年には迫撃砲が空港敷地内に打ち込まれるなど、まだ完全に終わった話ではないのだ。
この歴史を後世に残そうと、成田空港が2011年に作ったのが、「成田空港 空と大地の歴史館」だ。
ここでスタッフとして働く興村猛さん(72)は、新東京国際空港公団の新入社員一期生として勤務し、成田闘争の際も実際に目の当たりにしてきた。
今でも年に数回近隣の駅でデモがあり、空港反対派がいることを認めた上で言う。
「地域の人からの理解を頂いて、今やっと実際に地域と共存できるような空港になってきたのかなと思っている。
最近では元々反対派として活動していた人も含め地域の人から提案を頂いて、新しい滑走路を立てる計画まで動き出そうとしている。
当時賛成をした人、嫌々ながら賛成に動いた人、反対をし続けた人など様々な人がいるが、そのすべての人達の想いのためにも、地域の人が自慢できる空港を維持してほしい。
そのために会社には努力をしてほしい」
都心部から距離があり、陸上にあるゆえに周辺の住民の生活を考えなければいけない成田空港は大きな岐路に立たされているのかもしれない。
しかし今、当時反対派として活動していた人も含め、成田空港のために第三滑走路を作る要望が住人側から出たという。
あの闘争の歴史を乗り越えてきたからこそ、今、共存共栄を続けている成田空港。
必ずや住民との会話で将来に向けた解決策が見いだされるのだろう。
成田空港建設反対派の建物など強制的に撤去 妨害疑いで3人逮捕


土地を所有する成田空港会社は、反対同盟に対して、看板の撤去や土地の明け渡しを求めて、裁判を起こし、東京高裁が、去年9月、反対同盟の控訴を棄却し、判決の確定前に強制執行ができる「仮執行宣言」を付けていました。
この「仮執行宣言」に基づき、15日夜から裁判所による強制的な看板や建物の撤去が行われました。

16日昼過ぎの現場は、高さおよそ3メートルの金属製の板で囲われ、撤去された看板などが積み上げられていました。
成田空港会社によりますと撤去は16日の午後9時前に終わり、設置されていた農機具小屋や看板などが撤去されたということです。
警察によりますと、機動隊員の盾をたたくなどしたとして反対派の3人が公務執行妨害の疑いで逮捕されましたが、機動隊員や逮捕された3人にけがはなかったということです。
反対派の活動拠点が撤去されたのは2017年以来です。

「成田闘争」とは

政府は、昭和41年にこの土地に空港を建設することを閣議決定しましたが、そうした政府の方針に、地元農家などが反発して、いわゆる「成田闘争」が起きました。
反対運動は、全国から集まった学生なども加わって激しさを増し闘争の中で、多くの死傷者が出る事態となりました。


その後、成田空港は日本の空の玄関口として発展し、2029年3月末に3本目の新たな滑走路の完成を目指しています。
しかし現在も反対するグループは定期的に集会を開いていて、今回、建物などが強制的に撤去された土地はその活動拠点となっていました。
反対するグループは今後も活動を続ける方針で、「成田闘争」は、完全な解決には至っていません。





















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名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:37)
成田闘争のお陰で、土地の個人所有権が著しく強くなり、
外国人が購入しても撤去できなくなってしまいました。
東京の環状八号線の工事が著しく遅れてしまったのも、
成田闘争が遠因です。
要するに…日本国民のためになっていない。
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:38)
成田空港反対派がいまだにいたのかと驚いた。
三里塚とかひどいことがあったけどもう終わったのかと思っていた。
第三滑走路のための強制執行なんだろうね。
おじさんしかいないかと思ったけど結構若い奴が『革マル』のメットを被っていてこれまた驚いた。
昭和・平成・令和と3つの時代をまたいだ運動だったけどもうこれでおしまい。
ちなみに昭和では自家製ミサイルをぶっ放してましたよね。
今ではそれ作製自体が違法なのでもうできませんけどね。
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:39)
家買った時は目の前が品の良いご夫婦が経営しているクリーニング屋さんがだったけれど、25年過ぎたら引っ越しされてしまって下品な婆さん経営のカラオケスナックに。毎昼夜浮浪者みたいな爺さんが来て駐車禁止に路駐するわ立ちションするわ痰を外に吐くわ大音量でカラオケして騒音迷惑するわで悲惨です。お金くれるならばトットと引っ越したい。成田空港も大金貰って新しい住みやすい家で過ごせた方が幸せだと思うけどね。本当千葉市も住宅街に防音設備していないカラオケスナックやカラオケ屋は営業禁止にしてほしい
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:44)
以前テレビ局が突撃取材をした放送事故になっていましたね。
違法性がある行動をとっているのだから、何をするかもわからないような犯罪者集団を放置するのは、警察もやめてください。
破防法の範囲を広げ、テロリスト防止法とスパイ活動防止法を厳しい罰則の元に作成するべきでしょう。
これは東西関係なく、アメリカも中国もロシアもドイツもフランスもイギリスもおこなっている国際標準ですよ?
きちんと犯罪者は裁くことが必要であると思います。
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:45)
成田空港は、こうした反対派の牙城を迂回する必要があるため、着陸してからゲートに到着するまでの時間が世界中のどの空港よりも長い。浪費されるのは一日数万人の旅客と従業員の時間だけではない。航空燃料の浪費によるコスト高はチケット料金を押し上げ、環境にも有害である。少数の農民と過激派が日本国民の利益に反する行動を取っている。恥を知るべき。
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:47)
彼らは稚拙だとは思う。ただし西村のような男が揚げ足を取るのは滑稽だ。
彼らは少なくとも自分なりの理想を掲げ、そのためには国家との権力争いも辞さない自負がある。正しいとは全く思わないが「理想的な社会とは何か」という俎上に乗る考えを持ち、彼らなりの行動がある。
これを「何も目指していない」西村が軽口で揶揄する資格はない。西村はラクしてコスパ良く快適な思いができれば良いだけの下衆だから。
彼らは成功しなかったし、これからも成功しないだろう。それでも「何が悪かったか」を後世に残している。いわば踏み台としての遺産がある。彼らは人生を懸けて次の世代に材料を提供している。
対して西村がツイッターで他人の揚げ足取りを毎日やっているが、何を言ったところで社会に何ももたらさない。何も目指さない西村が100万人いたところで社会には何の影響もない。
成田闘争している彼らよりもずっとランクが低いのが西村だ。
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:48)
はじめのボタンのかけ間違いが後々まで災いを残す典型的な事例です。で、日本はこれが多い。
ドイツは成田を反面教師として新空港建設時の参考としました。
人は感情の生き物だと言われます。
いつまでやってるのと言われても、人というのはそんな生き物です。
それにしても成田は異形の空港、羽田も安物の橋の誘導路を渡って、遥か彼方の新設滑走路に移動してます。
海辺の軟弱地盤の辺野古も同じですが、これだと危機管理上どうなのかな?
目先の事しか考えないというか、何も考えてないというか。
海に潜って爆弾仕掛けられるよ。
羽田も早くアメリカ様に空域を返してもらってください。房総に大回りして着陸、えらく燃料を無駄遣いしてます。
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:49)
若い時に拗らせたのを軌道修正出来ず、せっかくの人生をこんなクソしょうもないことに浪費して、何も成さず社会に迷惑だけかけてどうしようもない。反体制を掲げてた活動家連中も高齢になって、今は体制が用意した社会保障の世話になりながら元気に活動続けてんだろ。意味不明だよね。
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:50)
まあ、成田闘争なんて、70代の反日爺さんのノスタルジックな思い出なんだよな。
今回撤去されたやぐらなんて「老人憩いの湯」みたいなモンなんだよ。
あそこで認知症間近の爺さんの脳みそを活性化させてくれただけでも感謝かな?
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:51)
警察官がリンチで殺されたり,収用委員会の委員(要は裁判官みたいな人)をリンチしたり(後にその時の後遺症を苦に自殺)等々,テロリスト以外の何物でもない連中がしている活動。
昭和の亡霊みたいな連中がまだやってるんだが,これを支援する団体,政党がいるってこと。
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:52)
思えば東大安田講堂のときも東大生はほとんどいなかったというし、成田も地元の人間でもない活動家ばかり。いい加減やめろよ、クソ左翼。学生運動の行きつく果てがあさま山荘とそのメンバーによるリンチ殺人。あれでいい加減やってることのアホらしさがわかったはずなのにまだやってるのかバカタレどもが。だからダメなんだ、この世代は。
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:53)
反日共系全学連の屍が、まだ活動してました(笑)ゲバルトの残党。武装革命?
日共系の残党は…?
名無し (月曜日, 27 3月 2023 09:54)
こいつらのせいで成田の国際ハブ空港としての価値が減り 日本の発展の妨げの一つになった