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『はだしのゲン』から今考える!! 皆さんも先人の苦労話を聞いてみましょう。本も読んでくださいね。 Apex product

はだしのゲンが削除されたのは、小銭稼ぎや鯉泥棒とかの些細な事象じゃないんじゃないのかな。  

話の中にも出てくる日本軍の中国での蛮行の話や戦後の朝鮮人の無法なおこないを六才の子供に理解されているけれどどうなんだろうね。日本軍の蛮行の話で思い浮かんだのは真逆な通州事件の話。 そして戦後朝鮮人の無法なおこないは止めにはいった民間の日本人が虐殺されている。今でも、TVで朝鮮人の犯罪行為は殺人や強姦などは歴史的にも些細なことと言い切る自称ジャーナリストと同じ何だよね。

それ以上に学校教育で日教祖の教師たちが事実をすり替えて教えていた内容そのもの。  

それは、お隣さんの慰安婦アニメと同じ何だよね。確かにはだしのゲンの描写の断片は見せるに正しいだろうけれどもっていく方向が志位体制の共産党とかぶるんだよね。

自分には、先代江戸家猫八師匠の兵隊として見てきた体験記の話のほうが心に来るんだよね。加齢なる親父より

「『はだしのゲン』教材から削除」で大論争 小銭稼ぎ、鯉泥棒の描写が「今の実態にそぐわない」に「当たり前じゃん」

 広島市の市立小学校で、平和教育の教材として使われている漫画『はだしのゲン』。しかし、4月から使われる教材では削除されることが、広島市の教育委員会で決まった。 『はだしのゲン』は、2012年に亡くなった漫画家・中沢啓治さんの被爆体験をもとにした作品。広島を舞台に、戦中・戦後の激動の時代を生き抜く主人公の姿を通して、被爆の悲惨さ、戦争の不条理や愚かさなどが描かれている。  教育委員会で問題とされたのは、主人公が街角で浪曲のまねごとをして小銭を稼ぐ場面と、栄養失調の母親に食べさせるために、池の鯉を盗む場面。なぜこういう状況になったのか、じっくりと理解して考えさせるためには時間が足りない――として、削除することになったという。SNSには 《『漫画』だからという理由だけで、大人の身勝手な理由で削除。広島市民として恥ずかしいし情けない》 《戦時中の話が現代の実態と合わないの当たり前じゃん。なぜ子供がそうせざるを得なかったかを事実から学ぶんやろ…》  と嘆く声があふれている。なかには 《核の廃絶を訴えて平和外交ができるのに、岸田首相の出身であり、かつ、被爆都市の広島がこのような選択をするのは愚の骨頂》 《広島サミットがあるからアメリカ様に忖度してるの?原爆落とされたことも無かったことにしたいのか》  と、広島を選挙区とする岸田文雄首相や、5月に開催されるG7広島サミットへの忖度ではないかという批判もある。  その一方で、削除に理解を示す意見も少なくない。 《この作品は作者が6歳の時の体験を元にしたノンフィクションの側面と、作者が傾倒した共産主義のプロパガンダ的な側面が有ります。政治的に偏った考えに基づいた作品を公立学校の副教材から外すのは致し方ないかなと私は思います》 《「はだしのゲンで被爆の実態に迫りにくい」は事実やろ。3巻からあと残り全部ヤクザ漫画やぞ》 《自分も少し読みましたけど、原爆の漫画と言う印象より戦後のハチャメチャな日本の描写と言う印象しか残っていません。原爆についてなら「黒い雨」を読んでもらうほうがよほど良くわかるのではと思います》  広島市教育委員会は、今回の決定について「作品自体を否定することではない」としているが、この作品に関しては、以前からさまざまな論争が起きている。  2012年には、島根県松江市で「間違った歴史認識を植えつける」として、学校の図書館に置かないよう求める陳情があった。松江市内の小中学校では閲覧制限がかけられたが、翌2013年、日本図書協会の要望もあり制限は撤廃された。  2013年には「差別的表現が多すぎる」として、大阪・泉佐野市長が学校の図書館から回収を要請。2014年には同市の校長会が「読むことさえできなくするのは子どもたちへの著しい人権侵害」として、回収撤回を要望。これを受け、図書は返却された。  多くの国で翻訳され、原爆の悲惨さを世界中で伝えてきた『はだしのゲン』。教材としての是非は別として、あの時代の「リアル」を伝える、唯一無二の存在ではないか――。

原爆をテーマに、勇気と感動を与え続けているロングセラー

「はだしのゲン」は、先生ご自身の被爆体験をもとに描かれた、中沢先生の代表作です。当初、週刊少年ジャンプ(集英社)上で連載が始まり、その後、刊行誌を変えながら連載は続きました。最初に単行本として発売したのが汐文社で、当時は、4巻までの発売でした。

中沢先生は、その後、東京へ来てからのゲンの活躍を描く予定でしたが、2009年正式に執筆を断念。最終的には10巻まで刊行されています。

最初に刊行された単行本である、オレンジの背表紙の「コミック版」と呼ばれるシリーズは、とくに公共図書館や学校図書館で広く普及し、多くの子どもたちに、核兵器の恐ろしさや平和のすばらしさを伝えました。

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    中沢啓治
    (なかざわ・けいじ)

    1939〜2012

    広島市出身。国民学校1年生だった6歳の時に被爆。父と姉、弟を失う。その後、漫画家を目指し上京。母の死へをきっかけに、原爆、反戦をテーマにした作品を書き始め、2009年の引退まで数多くの作品を残した。

    ■「はだしのゲン」との出会い

    中沢先生の代表作「はだしのゲン」は1972年に『週刊少年ジャンプ』(集英社)でなどでの連載後、汐文社で単行本化されました。
    ここでは「はだしのゲン」が汐文社で発刊されるまでのエピソードを紹介します。

     1975年1月に編集担当を拝命し、戸惑う私であったが、当時東京支社の代表を務めていた吉元尊則氏らとの企画会議でのアドバイスもあり、中沢啓治さんの「チンチン電車の歌」(赤旗日曜版連載)に目をつけた。ドキドキしながら当たって砕けろ!のつもりで、南砂町の都営住宅にお邪魔した。ここで、私と中沢さんとの奇跡の出会いがあった。中沢さんから「それも(『チンチン電車の歌』)出していいけれど、『はだしのゲン』を出して(出版)」と言われたのである。あまりのサプライズに、「原稿は、今ここにあるのでしょうか?連載元の集英社さんの意向は?」などと、震える声でお尋ねしたことを鮮明に覚えている。中沢さんには、その場で集英社の担当者に電話で確認をお願いした。

     気づいたときには、4つの大きな紙袋を抱えて東西線南砂町駅のホームに立っていた。原画1100枚ほどが入った袋の重さに気づいたのは、御茶ノ水駅から外神田にあった会社までの300mの道のりだった。当時京都本社にいる社長の反応は「そんな長いもん(長編、当時のコミックでは5巻程度)出せへんで!」だったが、全員20代の東京支社のスタッフは一致して「はだしのゲン」の出版を後押ししてくれた。1975年5月、「はだしのゲン」(全4巻)はついに単行本として世に出たのである。朝日新聞東京の社会部遊軍におられた横田喬さんにお会いし、出版の経緯や連載中の読者の反応などをお話した。朝日新聞東京本社発行の夕刊社会面に7段抜きの大きな記事が掲載された。これを機に読売や毎日など全国紙が次々と記事を掲載してくれたが、多くのパブリシティの効果を見込んで各2万部発行したものの、8月末時点で返品の山となり、半分ほどが倉庫に積み上げられた。

     そして、また奇跡が起きた。「3時のあなた」(フジTV系)だったと思うが、この番組で好意的に紹介され、くすぶっていた種火に一気に火がついたのである。その日の夕方から、取次の支店や書店から大量の注文が入り、その対応に追われて汐文社全体が大混乱、お祭りがやってきたときのように胸弾ませながら、仕事をする日々が翌年まで続いた。

    当時の担当編集者、堀尾眞誠氏(『子どもの本棚』中沢啓治追悼特集より抜粋)

    ■追悼コメント

    中沢啓治先生は2012年12月19日にこの世を去られました。
    ここでは中沢先生への追悼コメントを紹介します。

    ○汐文社社長、政門一芳
    「ご冥福を心よりお祈り申し上げます。父や母、姉、弟の命を奪った原爆を憎み、日本はもとより、世界中の人々に、漫画でその恐ろしさを訴え続けた中沢先生の遺志を継ぎ、汐文社は、核兵器の廃絶、世界平和への想いを、後世に伝え広げる使命を負っていきます。」

    ○「はだしのゲン」汐文社発刊当時の社長、吉元尊則(朝日新聞より)
    「1970年代半ば、子ども向きの漫画を描いてもらうつもりで訪ねたとき、押し入れをあけて「ぜひ読んで、単行本にしてほしい」と出してきた段ボール箱に入っていたのが「はだしのゲン」だった。被爆体験と、それでも人間は強く生きていくんだというメッセージを、漫画という彼ならではの技術で伝えた特異な人。彼が亡くなったことでまた一つ、原爆が遠のくことになる。」

    ○松井一実広島市長(読売新聞より)
    「原爆を忘れてはならないという強い信念で描かれた『はだしのゲン』は、国内外に被爆の惨状を伝え、若い世代に体験を直接語り継ぐ作品。『人類の最高の宝は平和』という思いは間違いなく次世代に受け継がれ、共有されるでしょう。」

    ○「はだしのゲン」週刊少年ジャンプ(集英社)連載時の担当編集者、山路則隆氏(毎日新聞より)
    「漫画を描くために、当時の体験を何度も頭のなかで再現するのだろう。1話を描き上げるごとに憔悴する先生の姿が残っている。少年誌に掲載されたことで、子どもたちが時代や原爆の問題を考えるきっかけになったと思う。」

    ○朝日新聞天声人語(12/26、抜粋)
    「「ゲン」は絵本も含めて1千万部を超え、18カ国語に翻訳された。生前最後の本になった『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社)でささやかな喜びを述べている。国内の図書館で、表紙が手垢でぼろぼろになってベニヤ板で留めてある「ゲン」を見たそうだ。「うれしくてね。作者冥利に尽きます」。73歳の訃報に、多くの読者が胸に刻み直すことだろう。原爆の悲惨と、それでも麦のように伸びて生きる少年の姿を。」

江戸家猫八  動物鳴きまね芸・俳優

「お笑い三人組」の八ちゃん役で俳優としても全国的な人気を誇った。「江戸八丁荒らし」と呼ばれた初代江戸家猫八の6男に生まれ、初舞台は8歳だったという。戦前は、古川ロッパ一座で俳優修行を積んだが、後に兵隊として広島に駐屯し被爆した。戦後 江戸家猫八を襲名し、父親の墓の前で練習を重ねてやっとうぐいすが鳴けるようになったという。波乱万丈の人生が語られる。

1921‐2001年、東京都出身。初代江戸屋猫八をはじめとした、動物の声帯模写を得意とする物真似師。戦後、父の弟子であった二代目から父の芸を受け継ぐように勧められ、芸を学び、寄席修行を始めた。その後50年には三代目猫八を襲名。明るい人柄と、見事な声帯模写で幅広い世代の心をつかんだ。テレビでは、演芸番組で人気を博したほか、俳優として連続テレビ小説『マー姉ちゃん』などで好演。息子は四代目江戸家猫八、孫は二代目小猫を継承。

こんな落語家(はなしか)がいた―戦中・戦後の演芸視 単行本 – 2003/7/1  小島 貞二  (著)

 著者が亡くなったのは2003年、これが遺著となった。記者となって演芸関係の文筆に携わるようになるまで、漫画家、力士としての経歴を持つ。
 力士時代には安芸ノ海の付け人として、双葉山の連勝ストップの歴史的取組を間近に見た。慰問で満州に渡った志ん生と圓生が行方不明と楽屋の噂に聞き、甘粕理事の死に立ち会った芸人の実話を聞き、先々代の小さん(人間国宝になった五代目の前)が亡くなる場面に寄席で立会い、正岡容・安藤鶴夫・玉川一郎、三者三様の先輩芸評家と交流しながら、戦後のヒロポン禍、歌笑の爆発的人気、etc.を目撃した。
 この著者ならではの興味ぶかいエピソードが綴られています。

八重子夫人と猫八さん 1946年 (昭和21年) 頃ころ
猫八さんは、この頃、髪の毛が抜ぬけ落ち、
白血球は減へり続けていました。
提供/四代目江戸家猫八氏

*広島平和記念資料館のサイトより

三代目江戸家猫八と原爆。

 

 8月6日、広島に原爆が投下されて69年になる。

 芸人の中にも、あの時、あの場所にいた人がいる。

小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』(うなぎ書房)

 小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』は以前にも、“わらわし隊”のことや、バシー海峡、昔々亭桃太郎のことなどについてこの本から紹介したことがある。

 

 昭和二十年八月六日に日本軍の一兵士として広島にいた芸人について、本書から紹介したい。

 

猫八と原爆

 

 落語家ではないが、声色の江戸家猫八(三代目・岡田六郎)も出征芸人であった。

 それもヒロシマで原爆に遭っている。

 父が初代の猫八だから根っからの芸人であるが、二代目ではなく三代目。中に一人、二代目がいるのである。あとで書く。

 昭和十六年に古川ロッパ一座に入り、役者を演っているとき、赤紙が来る。骨と皮の体だから、召集など無縁と思っているところへ来たのだから、本人もおどろいたが、ロッパもあわてた。

 当時、満二十歳になる男子は、徴兵検査の義務があった。検査は甲種、第一乙、第二乙、丙種とあり、甲種は文句なしの壮丁だった。戦争末期には丙種だった歌笑にまで赤紙が来たのだから、仲間たちは「歌笑が兵隊じゃァ、日本も勝てないよな」と、小さな声でつぶやき合った。猫八はその第二乙だった。

 新潟の部隊に入り、南方だ北方だとあちこちを引っ張り廻されるうち、ようやく兵隊らしい体格になる。そして広島県宇品で終戦を迎える。

 根が芸能人だけに、部隊では重宝がられ、演芸大会にはいつも主役をつとめ、ロッパからの手紙も励みになる。東京大空襲(二十年三月十日)のあと、許可が出て東京に帰り、浜町の自宅の焼け跡を呆然と見る。

 あのヒロシマの日(二十年八月六日)のことは、猫八が自伝の中で書いている。その一冊『兵隊ぐらしとピカドン』(ポプラ社刊)によると、

  (中略)市内にはいると死体が横たわっている。トラックに何台ものせて

  太田川の土手へはこぶ。路上には、電信柱をささえるワイヤーロープに

  つかまったままで死んでいる人、川の中から上半身を水の上にだして

  虚空をつかむようにしてこう直している死者。水死体となって、川にういて

  いる男、女、そのなかには、牛や馬もまじっていた。

   キノコ雲はまだきえない。

   広島の上空のはんぶんに大雨がふったかと思えば、その反対側が

  晴れてお日さまが見える青空。気象の変化もともなった、まるで、

  キツネの嫁入りのアレである。

 そして、広島市内を歩く。

 その朝、猫八は宇品の兵舎にいた。爆音が響き、小さな落下傘が降った瞬間、ピカーッと光ってドーン。すぐ防空壕に飛び込み、五体満足を確認する。

「街の様子を見てこい!」

 という班長命令で飛び出したのが、前記のスケッチである。

 これがのち猫八の売りものの「原爆体験記」になる。芸術祭公演にも、テレビの演芸にもなり、多くの人に感動を与えた。

 

 猫八の原爆体験のことは、他の媒体でも知ることができる。前日八月五日の夜、猫八は演芸大会で優勝していたことなどを含め「ヒロシマ新聞」に掲載されている。「ヒロシマ新聞」の該当記事

 「ヒロシマ新聞」とは何か。同サイトから引用。

 

このサイトは被爆五十年目の年に制作されたヒロシマ新聞に、二〇〇五年に新たな情報を加え再構成したものです。ヒロシマ新聞とは、原爆投下で発行できなかった一九四五年八月七日付けの新聞を、現在の視点で取材、編集したものです。一日も早い核兵器廃絶を願って…。

 同サイトには、文章・写真の無断転載禁止と書かれているので転載はしないが、ぜひご覧のほどを。八月五日の演芸大会の優勝賞品の酒を抱えた猫八の写真もある。

 演芸大会の賞品の酒に酔って点呼に遅れたことが、もしかすると原爆の被害を少しは抑えることになったのかもしれないが、放射能が残る市内を歩いたことで、猫八は原爆症になっている。

 そして、あの日、ラバウルや北千島での恐怖体験をも上回る原爆被害の地獄絵を猫八は目の当たりにしたのだ。

 三代目猫八は当代の父で、初代の六男(だから本名が六郎)。私と同世代以上の方は、「お笑い三人組」の八ちゃんを思い出すだろうし、「鬼平犯科帳」の相模の彦十役の渋い演技に思いが至る方もいるだろう。

 大正十(1921)年十月一日生まれの岡田六郎は、あの時、宇品に駐屯する暁部隊の兵長として軍務に従事していた。満23歳の時だ。なお、暁部隊には丸山真男も所属していた。

 岡田六郎は戦後、原爆症に苦しんだ。そして、原爆投下直後の広島の惨状の記憶が、猫八のトラウマになっていたようだ。

 彼が意を決して戦争のこと原爆体験のことを語り出した(正式には「従軍被曝体験記」)のは昭和五十六(1981)年のことであり、『兵隊ぐらしとピカドン』が上梓されたのは昭和五十八年になってからである。

 四年前2010年8月のNHKの戦争特集の中で放送された「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見て記事を書いたことがあるが、あの映像の中で戦争の悲惨さを語っていた森光子さん、玉川スミさん、喜味こいしさんは、みな旅立った。

 

 先代猫八、かつての岡田六郎兵長も平成十三(2001)年に八十歳の生涯を閉じた。

 広島平和記念資料館のサイトに、以前に開催された企画展の紹介ページが残っており、昭和二十一年頃の猫八が奥さんと一緒に移っている写真が掲載されている。このページには、喜味こいしさんの戦争体験も掲載されている。

広島平和記念資料館サイトの該当ページ

 

 

 明治、大正生れの方から戦争体験をお聴きする機会が次第に失われていく。

 先月下旬、広島に原爆を投下したB29爆撃機“エノラ・ゲイ”の12人の搭乗者のうち最後の生存者が亡くなったというニュースを目にした。93歳だったようだから、原爆投下時点で、猫八とほぼ同じ年齢だったことになる。

 二十代前半の若者が、一人は空から原爆を投下する役目を持ち、もう一人は投下後の悲惨な光景を目にすることになったわけだ。

 

 広島では、核兵器のない世界を訴えても戦争について語らない首相が式典に並んでいた。

 本当に核兵器のない世界を望むなら、その材料となるプルトニウムを算出する原発の存在も否定すべきだろうと思うが、日本の首相にはそのような想像力はないようだ。彼の信条は一つ。アメリカが喜ぶことをすること。広島と長崎に原爆を投下したアメリカにヨイショする幇間なのである。原爆を含む戦争の被害者の方々は、今の日本の首相をどう見ているだろうか。

 “わらわし隊”の人気者であったミス・ワナカは、敗戦の翌年に心臓発作で三十六歳の若さで亡くなった。ヒロポンで命を縮めたと言われる。私は、戦時中の大陸慰問の際にワカナの漫才で大笑いしていた数多くの兵士が、戦争の犠牲者になったことと、ワカナの戦後の早逝を、分けて考えることができない。

 戦争で亡くなった方も、肉体は生き残ったものの心の病に悩んだ人も、同じ戦争の犠牲者だと思う。

 イラク戦争に関連して中東に配備されていた自衛官の自殺者が非常に多いという統計がある。湾岸戦争、イラク戦争から帰還した米兵に自殺者が多いのは周知の事実である。私は、それらの人も広義の戦争犠牲者だと思っている。

 猫八は、貴重な映像を遺してくれた。昭和六十三年、六十七歳の時に収録されたものだ。

 広島平和資料館サイトの「平和データベース」の「被爆者証言ビデオ」で“岡田六郎”と検索してもらえれば、猫八の証言ビデオを見ることができる。

広島平和記念資料館・平和データベース

 三代目の江戸家猫八は、芸人として通常の高座やテレビで戦争の影を一切見せることはなかった。しかし、原爆症での苦しみは後々の人生まで残ったらしい。映像にあるように、ほんのちょっとの運命のすれ違いで、あの時に広島にはいなかったかもしれない。それでも、幸運にも芸人として生き残る道を歩むことができたことに感謝の思いがあったからこそ、敗戦後三十年以上も過ぎてから、戦争体験を伝えようとしたのだと思う。被爆者手帳を受けとったのは、昭和五十九年のことだった。

 戦争への記憶が薄れることを利用するかのように、日本が戦争のできる国になる準備を進める為政者がいる今だからこそ、反戦、非戦の声を絶やしてはならないだろう。猫八が伝えようとした記録も、貴重なものだと思う。

戦時演芸慰問団 「わらわし隊」の記録―芸人たちが見た日中戦争 (中公文庫) 文庫 – 2010/7/23     早坂 隆  (著)

著者の早坂隆氏自身が「プロローグ」の冒頭で記している、「これから記そうとしているのは、日中戦争にまつわる、ちょっと変わった類の物語だ。
『ちょっと変わっている』といっても、それは虚構や作り話ではない。あくまでも、本当にあった事実だけを扱ったノンフィクションである」という言葉どおり、
本書は当時のお笑い芸人が中心になって結成された、戦時慰問団「わらわし隊」の記録であるため、戦前・戦中の本でありながら、大いに楽しく
読める本でした。それでいて、当時の重要な事件・事柄にもしっかりと触れている大変重厚な本です。

まさに、「戦争の主役は、政治家や高級軍人ではなく、一般の庶民である。彼らの等身大の表情を淡々と描くことが、戦争の臭いや感触を理解するための
最良の方法であると思っている。これから紡ぎたいのは、人間味のある戦争の話だ。日中戦争における一種の異観と言ってもいい。戦中の日本人を
『天皇に洗脳されていた』『好戦的な軍国主義者』としか捉えきれていないような人にも、じっくり読んでいただけたら嬉しい。約70年も昔の日本人も、
平成を生きる私たちと大して変わらない社会集団だったという一側面を、感覚の受け皿として共有したい」とあるように、本書は生々しい話ばかりです。

「わらわし隊」の活躍については、本書の「柱」とも言うべき内容なので、何を紹介しても興味深い話ばかりなのですが、個人的に注目したいのが、
先述したように当時の事件や事柄にもしっかりとページを割いていたこと。とくに「南京なんたら」と呼ばれるものについては、当時の南京での
公演記録などがちゃんと残っていたので、「わらわし隊」の活躍を追いながら、当時の南京の真の「景色」がありありと浮かび上がる素晴らしい内容でした。

たとえば、国際安全区幹事でYMCA書記長のジョージ・フィッチが言う、「一日に1000件も強姦が続発」、「昼も夜も日本軍の暴行が続いた」などの証言。
早坂氏によれば、

「改めてわらわし隊の南京公演に関する複数の資料を点検していこう。わらわし隊の公演に主として使われたのは国民大会堂であり、収容人員は
中国側の資料によれば『2500人』である。この大会堂が連日、満員となっていた。この当時、南京にいた日本兵の数は約4000人。南京陥落戦の後、
つまり昭和12年の年末から昭和13年正月にかけて、既に多くの部隊が南京から他の戦場へと転進していた。その後も南京に留まっていたのは、
奈良の38連隊、津の33連隊が中心で、各連隊それぞれ約2000人、合わせて約4000人という人員である」

「南京で警備にあたっていた約4000人のうち、わらわし隊の舞台に約2500人が集まっていたことになる。実に駐留部隊の約62・5パーセントの
兵力が一ヵ所に集まり、しかも演芸を観て腹をよじって笑っていた。それが昭和13年1月23日~27日にあった南京の本当の光景だ。
これが『何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした』最中の景色と言えるだろうか」と
検証を進めてゆきます。

また、早坂氏は南京攻略戦の前後に起こったと言われる「ダイギャクサツ」についても、多くの犠牲者が出たことは、いくつもの文献を調べて
「明らかである」と断りを入れたうえで、

「ただ、それにしても、それらが『虐殺』と言われる行為に相当するものなのかどうかについては、極めて冷静な議論が必要である。一般的に
『虐殺』とは『一般市民、子女といった非戦闘員、武器や戦闘服を捨て戦闘の意志を放棄した人々を殺害する行為』と定義される。通常の戦闘行為の
結果によって発生した戦闘員の犠牲者については、通常『虐殺』とは言わない」

「さらに、南京での『捕虜の虐殺』が問題視されることも多いが、軍服を脱ぎ捨てた所謂『便衣兵』の処刑については、便衣兵自体が国際法違反であり、
ハーグ陸戦法規(1907年)の保護を受ける資格がないという議論も無視することができない」

「道徳的には『<戦死体>も<虐殺死体>も、同じ死体だ』ということになろう。それは道徳や倫理の世界でならそれで正解だ。私も感情的には
そう思う部分もある。しかし、南京陥落を巡る歴史認識が、既に政治的、外交的意味合いを有している現在、この問題はあくまで『当時の戦時国際法に
違反するか否か』という文脈でとらえていく必要がある。通常、二国間の軍隊による戦闘は、それがいくら大規模な犠牲者を出したとしても、
それだけでは戦時国際法の違反にはならない。戦争そのものを犯罪とする法規もない」と、詳細に解説します。

本書で早坂氏が使用している資料は、検閲される必要もない「わらわし隊」の記録が中心なので(中には中国側の資料もある)、芸人の彼ら彼女たちが
実際に見た南京の「景色」、戦争の「景色」というものは、早坂氏が「プロローグ」で語っていた暗黒史観に囚われているヒトたちの主観的な「景色」とは
真逆の、すがすがしさすら感じる生の「景色」でした(囚われているというか耽溺しているんでしょうね)。

さらに、巻末の麻木久仁子の解説も ъ(゚Д゚)グッジョブ!! 本書に収められている、早坂氏が中国で体験した「お約束」とも言うべきエピソードを
引き合いに出して、

「この時、日本人の一青年として早坂さんはどうしたか。親の世代でさえ戦後生まれ、団塊ジュニアの早坂さんが、歴史とどう向き合うべきかという
問いと真摯に向き合う姿に好感が持てる。歴史を現代の価値観で判断したり断罪すべきではないという信念がよく分かるエピソードだ」と、
惜しみない賞賛を送っています。

さすがはこの人、かつてはTBSラジオ「バトルトークレディオ・アクセス」の金曜日担当として、相方の日刊ゲンダイ元・編集長の二木啓孝を、
毎週あやしていただけはあります。この解説のお言葉、後継番組をやっているチキチキバンバンに是非とも聞かせてやりたいものです。

本書は、本当に一風変わった前線と銃後のノンフィクションです。この手の本、それなりに読んできましたが、「お笑い芸人」の視点から見た
「戦争」という、大変面白いテーマなので、知らなかったエピソードが山のようにありました。近代以降の我が国の歴史(文化史とともに)を深く、
そして面白く知ることができるので、死んでもオススメの一冊。

新しい戦前・新しい中世・新しい江戸 時代のポイントを鋭くついたタモリ発言 歴史は繰り返すのか

タモリの発言「新しい戦前」が話題に

1月13日(日本時間1月14日)に日米首脳が会談。日米同盟を一層強化していく方針で一致した(写真:ロイター/アフロ)

「新しい中世」という言葉

「新しい江戸」かもしれない

駿府城公園内の本丸跡にある徳川家康の銅像。家康の幕府樹立に始まる江戸時代は約260年続いた(写真:アフロ)

歴史には相似の状況が現れる

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コメント: 16
  • #1

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 10:51)

    「はだしのゲン」は作者の実体験が元になっています。
    なぜゲンが当時、そのような方法で生きなければならなかったのか、そこにも戦争の残酷さがあります。
    子供が十分に守られず、子供を守ってくれる大人もおらず、毎日を生きるだけで精一杯だった時代。
    子供をそのような状況にしないために、教育があります。
    教育の本質を見誤っているように思います。

  • #2

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 10:52)

    今アラフォーですが、はだしのゲンをしっかり読むようになったのは大人になってからで、小学生の頃は原爆の話として映画で見たくらいでした。
    今回物乞いや、盗みを働くという時代背景に焦点が当たっていますが、当時はそういう時代だったからだと、子供の頃は正直そこについてそこまで深く考えてはいませんでした。
    それはおそらく戦争を体験した世代がまだ現役であった事と、生身の体験を聞く事で、その時代背景を知る事がまだ可能だったからという事が大きいと思います。
    今もネットで検索して当時の情報なども得る事は可能ではあるけれど、やはり戦争を知らない世代が戦争を伝える事の限界が来てしまったのかと思うと同時に、今回の事は、日本人として未来永劫忘れてはいけない歴史の一つである事を改めて認識させられます。

  • #3

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 10:53)

    30年前は当たり前ようにどこの小学校の図書館に置いてありました。
    私も手にし読んだのですが、絵も内容も目を背けたくなる程で、ショックを受けたのを覚えてます。
    しかし、戦争当時のあまりに過酷で悲しい現実を知ることが出来、今の平和の有り難さが良く分かり、我々の先祖がこのように生き延びて命を繋いでくれたと感じることができました。
    低学年の頃は、良く理解できない場面もありましたが、中学生になり再度読み直し、作者が伝えたかったことも理解できるようになりました。
    夏には毎年必ずテレビで放映されていた戦争に感するドラマや実体験話しもなくなり、今の若者はどんな風に戦争を捉えるのだろう、と不安になります。残酷だから、フラッシュバックを起こす人がいるから、などとの理由で戦争の本当に事実から目を背けてはいけないと思います。どうか事実は事実として伝え、戦争と平和について真摯に一人一人が考えていくべきだと思います。

  • #4

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 10:55)

    削除への同調意見も肯定出来るところもあります。ただ「はだしのゲン」が何を語っているのか、そのあたりの認識不足もあるように思います。いま、戦争や核兵器使用に関してそれを行使すればどんな結果が待ち受けているのか、日本の戦争に関するスタンスや、日本の矛盾とその矛盾を受け入れざるを得ない歴史的背景など、子どもたちに適切な教育がなされているのか、そのあたりの議論をこの案件から展開出来るように思います。

    「はだしのゲン」が削除されたことと、政府の防衛方針が従来の専守防衛堅持からの大転換されたことが、偶然にも軌を一にしてしているのが不気味な感じがします(タモリさんの「新しい戦前」という言葉がいまの日本を凄く的確に表現している)。

  • #5

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 10:57)

    広島県人です。
    今はどうか知りませんが、昔は小中学校の図書室にはだしのゲンが大体置かれてあり、一年に一回だったか体育館で学年全員が集まり実写版はだしのゲンの映画を鑑賞してました。
    平和教育用の副読本はありましたが、私の頃ははだしのゲンからの引用はありませんでした。

    私としては、外すのも一つの考えと思います。
    他の記事での街角での取材で「他に思い当たる教材が無い」というのがありましたが、例えばホロコーストをアンネの日記やシンドラーのリストだけで語る様な感じで違和感がありました。

    作家遠藤周作氏は幾つか友人伝的な作品があり、どれも軽妙で面白いのですが、原民喜氏に関しては何か墓前に語り掛ける感じで、その異様さが記憶に残り詩や小説夏の花を読み、深い衝撃を受けたのでした。

    平和教育をやめるわけでもないし知名度の高いはだしのゲンだけに頼るより、他の作品に触れる機会も与えては?と思いました。

  • #6

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 10:59)

    実際に体験したからこその漫画なのに。
    だからリアルなのに。
    実体験をされた方の話を聞くことも大切だけど、やはりこうして漫画等でも知ることはとても大切だと思う。
    私は小学生の頃はだしのゲンも黒い雨も読んだ。太平洋戦争に関する書籍も漫画もたくさん読んだ。広島に修学旅行に行く前は学校で戦争についてたくさん学んだし発表会もした。グロいと言われるくらいの映像も絵本も先生は見せてくれた。
    だからこそ原爆資料館は怖かったし戦争は絶対にしてほしくない。
    きれいに整えた戦争の爪痕なんて訳が分からない。きれいな戦争なんてこの世にあり得ないんだから。昔から語り継がれているものを残さないなんてアホちゃうかと思う。

  • #7

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 10:59)

    広島生まれの広島育ちです。小学生の時から平和教育がありました。体育館でスライドを見せられたのを覚えています。批判を覚悟で言えば、私は嫌だった。怖かった。辛かった。先生に目をそらすなと言われて、泣きそうになりながら見た記憶があります。確かに大切な教育だと思う。でも、子供によっては、結構なトラウマになりますね。

  • #8

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 11:01)

    ニュースとして情報を得られるのはありがたいのですが、
    タイトルに対して、本文での言及が不足しており、釈然としません。
    タイトルにある 
    > 鯉泥棒の描写が「今の実態にそぐわない」に「当たり前じゃん」
    は、記事中ではコメントで扱われており、
    これに対する、本中の情報は
    > 栄養失調の母親に食べさせるために、池の鯉を盗む場面。なぜこういう状況になったのか、じっくりと理解して考えさせるためには時間が足りない--
    です。
    読み取れることは、考えさせるための時間がたりない。ということだけで、タイトルのような主張と一致しません。
    もしかすると、「--」で省略されているのかもしれませんが、推測の域を出ず、記事の内容が正しいのかさえ、疑問に思います(読み手としては、自分で調べて裏付けを取る必要があるとは思いますが。)。

  • #9

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 11:03)

    広島県における平和教育というテーマだと原爆と切り離すことができないテーマだと理解する。だが『はだしのゲン』だけが原爆文学ではないし、今回の措置も代替の原爆作品に教材を差し替えるという話でおかしいというほどはないだろう。どちらかというと広島の教育会に提案したいのは原爆という70年以上前の遠い過去のみ言及するのではなく、ウクライナやシリア、アフガニスタンなどで起こっている現在進行系の戦争被害、人権侵害についての教材化に取り組むべきだと思う。いま自分たちと同じ年代の子どもたちが受けている著しい人権侵害について関心を持てば教育の成果もあがるのではないだろうか。

  • #10

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 11:04)

    現状にそぐわないのは当たり前のこと。
    原爆投下されてからの日本の戦後の生活のハチャメチャぶりが漫画になっていて原爆にフォーカスされてない。
    原爆投下され戦後の苦しい生活までのフォーカスが戦争は醜く人を不幸にすると言うメッセージになるのでは。
    ニュースで教師が扱う教材として鯉を盗んだり浪曲を流し日銭を稼いだりする理由を現代の子供に説明し納得してもらう程教師が時間がない子供が自分も盗みをして良いと思うと言ってましたが歴史を紐解けば
    戦国時代は全く現代の子供の生活に合わないのでは?
    だけど学んでいます。
    戦国時代の勉強で武士が人を刀で殺す場面もありますがそれを見て現代の子供が刃物で人を殺しに行くと考えてるなら戦国時代から子供に学ばせない方がよい。
    何か中止する意図は別では?
    核を保有し原爆は安全などの認識を教育で子供に植え付けるためとかね。

  • #11

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 11:05)

    確かにはだしのゲンは天皇批判とかアメリカ憎し描写もあるけど,それ以上に戦中戦後の日本を見せてくれた漫画だと思う。戦中の今となっては異様に見える教育や国民性。戦後のヒロポンや,戦災孤児が鉄砲玉にされていたことなど学校じゃやらないもんな。原爆の観点で見れば,投下時の描写は1巻後半から2巻前半だけだけど,物語が進んでも放射能の影響で主要な登場人物が次々と死んでいくのも,放射能の怖さが充分伝わる稀有な漫画でもあります。はだしのゲン読んでなければ放射能の怖さは伝わりにくいと思う。

  • #12

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 11:07)

    何をしてでも生きるぞ、という事を描いているからダメなんだろうか。
    親兄弟の為に何かしたいというのはおかしなことかな?
    盗み・殺人・暴力がダメなのは当時の人だって分かってたと思うけど、戦後の混乱期でそんな正論ぶつけられても綺麗ごとにしかならないだろうね。
    はだしのゲンを読んで暴力や犯罪を肯定するようになるというなら世の中終わってる。

    祖母がまだ幼かった私の母の食べ残したおにぎりを駅に居た親子の子供の方に手渡した瞬間、親が子供からお握りを取り上げて食べたそうな。
    戦中戦後を知っているばあちゃん達が何かにつけ「腹減ってないか?」と聞きまくり、食え食えとたらふく料理を作ってくれた意味が分かる気がする。

  • #13

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 11:09)

    今の実態にはそぐわない?
    目を覆うほどの惨状、危機的状況下に
    置いての人間の浅ましさ、これらを
    ありのままに伝えずしていったい何が
    教訓になるのでしょうか?年齢的に
    戦争世代ではありませんが阪神大震災
    東日本大震災を経験しています、瓦礫に
    埋もれ火災に巻き込まれ逃げられず焼け
    死ぬ肉親を目の当たりにした人、津波に
    襲われ町中、海岸に累々と倒れた人々を
    目の当たりにしています。戦争、災害を
    綺麗事や感動話しで後世に伝えるつもり
    なんですか?戦争、震災を経験した人の
    中には頑なにその惨状を話したく無いって
    方々も沢山いらっしゃいます、そんな中
    傷をえぐる思いで漫画や映像や語りに
    よって悲惨さを伝えているのに今の実態
    にそぐわないと排除することは何の教訓
    にもならないのでは無いのですか?

  • #14

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 16:08)

    偶然徹子の部屋見ててタモさんが出てたからちょっと見てたけどもう76歳なんだな…って一瞬ションボリしそうになったけど顔見たら全然若いんだよな、実年齢より10歳、下手したら20歳若く見えてもおかしくないぐらい
    そう考えたらタモさんはもう76歳なんだけどまだ76歳なんだよな…ってよくわからない感情が出来上がった
    いつまでも元気でタモリ倶楽部でその場のノリで医者になったり八百屋になったりラーメン屋のオヤジになったりして欲しい、なりきりシリーズめちゃくちゃ好きだわ

  • #15

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 16:10)

    昔は風刺ネタをやっていたが、個人として政治経済に物申すことは全くといっていいほどない。タモリステーションではほとんど座っているだけで、最後に一言だけ答えたのが話題になっていた。(こうした態度を「天皇みたい」と皮肉る一部政治厨もいたが)

    「毎日多くの人が死んでいる、というか殺されているわけですね。一日も早く戦争が終わることを祈るだけですね」
    この言葉こそが大多数の思いを反映しているといえる。細かい事はともかく、戦争で人が殺されることがあってはならないというのは誰しもが思っているはず

    「殺すな」の一言でいいんだ。その一言をスパッと言えることが知性なんだなと思わされた

  • #16

    名無し (日曜日, 19 2月 2023 16:15)

    先進国が自国の利益を優先するなら
    経済の結びつきが強くなった昨今先進国同士の戦争なんか起きない
    が冷戦後の世界安保の前提やった
    ロシアのウクライナ侵攻はその前提を覆してしまった