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『飲酒運転受刑者の手記をご覧ください』 Apex product

飲酒運転で失うものは計り知れない

飲酒運転をして捕まった人は、
「今まで飲酒運転をしても事故を起こさなかったから、今日も大丈夫。」
「少ししか飲んでいないから運転して帰ろう。」
「飲酒しても、いつもどおり運転できる。」
「深夜なら人も歩いていないから安心。」
「酒が多少残っている程度では事故を起こさず運転できる。」
などと弁明していますが、交通事故を起こして人を死傷させてしまった加害者のその後を知っていますか?
後悔、苦悩、煩悶・・・
飲酒運転受刑者の手記をご覧ください。

軽い気持ちでハンドルを握った結果...
まだ、飲酒運転をしますか?
〈酒酔い運転〉(※1)  罰則:5年以下の懲役または100万円以下の罰金
 基礎点数:35点→免許取消し 欠格期間3年(※2,3)
〈酒気帯び運転〉
●呼気中アルコール濃度0.15mg/l以上0.25mg/l未満  基礎点数:13点
 免許停止 期間90日間(※2) ●呼気中アルコール濃度0.25mg/l以上
        基礎点数:25点
 免許取消し 欠格期間2年(※2,3)
※1「酒酔い」とはアルコールの影響により車両 等の正常な運転ができない状態をいいます。
※2前歴及びその他の累積点数がない場合とな ります。
※3「欠格期間」とは運転免許が取り消された場 合、運転免許を取得することができない期間をいいます。

『 私の罪 』   会社員 ( 20代)

私の犯した罪は飲酒運転、速度超過、救護義務違反、いわゆるひき逃げです。そして、人の命を奪ってしまう殺人行為もしました。
 事件当日の翌日は会社が休み、前日は給料日で色々とまと
まったお金が振り込まれたということもあり、私はその週の
始めから相当浮かれていて、事件当日は仲間からの飲酒の誘
いに二つ返事で向かうことにしました。
 私は過去にも度々飲酒運転をして帰宅していたので、この日
も「飲み終わったら車を運転して仲間2人を家まで送ろう。」
と思い、車で向かいました。仲間とはしご酒をした後、「乗ってい
く?」と2人に悪魔の囁きをしました。今思えば、2人の人生
をも破壊させる言葉でした。
 しかし、当時はそんなことに気付かず、仲間は私が運転す
る車に乗り込み、私は大きな音量で洋楽を流しながら、車を
発進させました。そして青信号の横断歩道を通った瞬間、フ
ロントガラスが「バン!」という大きな音とともに粉々になり、
私 の 意 識 は プ ツ ッ と 途 切 れ ま し た 。や が て 、同 乗 し て い た 仲 間
に 「 止 ま れ ! 」「 止 ま れ ! 」 と 連 呼 さ れ 、 少 し ず つ 我 に 返 り 、
約400m進んだところで停車しました。
 仲間は事故現場に戻り、警察に通報してくれました。しか
し、私はパニックになり、何もできず、ガードレールの脇に座り込
みました。どのくらい経ったか分かりませんが、やがて複数のパ
ト カ ー が 私 を 包 囲 し て い ま し た 。「 事 故 を 起 こ し た の は 君 だ
ね?」と警察官に聞かれ「はい。」と答え、続いて、アルコール検
査、歩行検査、薬物検査を受けました。その後、警察署に連行
され、手錠をはめられた時、「ああ、本当に事件を起こしたのだ
な」と思いました。
 人の命を奪ってしまった事実から、2週間程ご飯が喉を通ら
ず、心身ともに廃人と化していました。その後、両親に面会で
「御遺族様に謝るために今を生きろ。」と言われてから、ご飯が
少しずつ食べられるようになりました。
 この件で私の仕事は丸投げの状態になり、私のお客様にも
迷惑を掛けてしまい、得意先も十数件飛んでしまったそうで
す。会社には父が謝りに行ってくれました。また、実家にはマス
コミが駆け付け、鳴り止まないインターホンと電話に両親も疲
れ切ってしまったそうです。
 私の事件のせいで兄の婚約は取り消しになり、家族にも多
大な迷惑と悲しみを与えてしまいました。
 裁判では、御遺族様は私が命を奪ってしまった被害者様の
遺影を抱いており、「主文被告人○○を懲役3年6月とする ...」と裁判長が判決を下した瞬間、御遺族様全員が涙してお
ら れ 、私 は た だ 頭 を 下 げ る こ と し か で き ま せ ん で し た 。私 は 即日控訴権を放棄し、今は受刑生活を送っています。
 本来であれば、直接頭を下げ、墓前に跪きたいのですが、御 遺族様の意向により、個人情報は一切教えないとのことですの で、出所した暁には、事件現場で手を合わせ、献花やお供 え
物 を す る な ど 、私 の 償 い に 対 す る 姿 勢 を 御 遺 族 様 に 認 め て
頂 け た ら と 思 い ま す 。今 後 は 、被 害 者 支 援 セ ン タ ー へ の 募 金 や 交通ボランティア活動に参加したいと考えています。  私の様な愚かな人間を一人でも減らすことができれば悲し む人も少なくなると思います。加害者だからできる事を全力 で取り組み、事件を忘れずに生きていきます。

『 許されることのない過ち 』 内装工 ( 40代)

覚めたのは強い衝撃を感じたからですが、この時は何が
起きたのか全く分かりませんでした。そして、その場を
確認しようともせず、そのまま家まで運転して帰りまし
た。この時、私は人を跳ね飛ばしてしまっていたのです。
完全なひき逃げ事件です。
 その日の夕方に警察の方が家に来て、私はそのまま連
行されました。車の中で話を聞かされ頭が真っ白になり
ました。自分が人を殺してしまった。事故ではなく、事
件を起こしてしまったのだと。私は父親を若いときに亡
くしており、兄弟もいません。母親と2人で暮らしてい
ましたが、母は目が悪く1人で出歩くことなど出来ませ
んでした。そんな母を1人残して留置場での生活となり
ました。親戚が母を連れて面会に来てくれましたが、本
当に会わせる顔がありませんでした。とりあえず家のこ
とは親戚と近所の人が手伝ってくれたため、生活は何と
かなっていました。
 その後、私は保釈され、判決の日まで母と暮らしました。 判決は懲役3年でした。3年もの間、母を1人にしなけ ればなりません。しかし、全く想像していない事が起こ りました。親戚からの手紙で母が病気で亡くなったこと
を知らされたのです。
 手紙には、「お母さんはずっとお前の帰りを待っていた よ。寂しそうにしていた姿は忘れられません。」とも書い てありました。読んでいて涙が止まりませんでした。母 親の最後に自分が居られなかったことが情けなくて仕方 がありませんでした。突然親しい人が居なくなることが どういう事なのか。母が自らの身をもって教えてくれま した。被害者御遺族の方々は今の自分と同じ思いをされ ている。そして、それをしたのは私なのだと母は教えて
くれたのだろうと思っています。  今は被害者御遺族の方々に対し、手紙を直接送ること は叶えられません。当然だと思います。しかし、何年掛かっ てでも償う事を止めてはいけないと思っています。刑務 所を出てからが本当の償いだからです。今後も私は一生 をかけて償い続けるつもりです。
 私がお酒を飲み始めた頃は、自分が飲酒運転をするな
ど全く思っていませんでした。しかし、仕事帰りのある時、
ちょっと飲んで帰ろうということになりました。
 その時は車で来ていたのでどうしようか悩みましたが、
「ちょっとだけなら平気だろう。」、「運転代行でも呼べば
いい。」と思い、お酒を飲みに行ってしまいました。お酒
の量が本当に少しだけだったこともあって、その日はそ
のまま車を運転して帰りました。このとき感じた「なんだ、
運転できるな。」という感覚こそが大きな過ちへとつな
がってしまったのです。
 この日をきっかけに「少しだけなら。」という甘い考え
が優先されるようになりました。 代前半から飲酒運転
を始めるようになりましたが、この後すぐに飲酒運転に
よる罰則が強化され、このタイミングで飲酒運転を全く
しなくなりました。本当にリスクしかないなと思ったか
らです。
 しかし、 代を迎える頃から、再び飲酒運転をするよ
うになってしまいます。この頃には 代の頃と比べてお
酒も強くなっており、何よりも車で好きな時間に移動し
て、好きな時間に帰ることができ、眠くなれば車の中で
寝るという自由度が高く、楽なところが魅力でした。こ
うなってしまってはもう止められるはずがありません。
 そして、起こしてはいけない事件を起こしてしまいま
した。
 その日は夜8時頃から朝方までお酒を飲み、その時は
車で寝て帰るか、運転代行を呼ぶつもりでした。しかし、
いざ帰ろうとなった時に全く眠気を感じることもなく、
気持ち悪いこともなかったため、家までは車で 分程度
の距離ということもあり、そのまま運転を始めてしまい
ました。途中までは全く問題なく運転をしていましたが、
半分を過ぎた辺りから居眠りをして

『 軽い気持ちの代償 』          会社員 ( 30代)

私の人生は山も谷もなく、幸せを一つ一つ積み重ねていく、そ
んな日々だったと思います。当時の私は会社員として支店を任
され、紆余曲折はありましたが、社会や地域に貢献していまし
た。恋愛の末の結婚、子供も2人授かり、念願のマイホームも
手に入れました。そんな日々の中、仕事の後のお酒も幸せを感
じさせてくれる時間でした。ましてや気の知れた友人達とな
ら尚更でした。駆け付けのテキーラから始め、その日の気分で
お酒を楽しんでいました。お酒を飲み終わるのが夜遅くなる
事もしばしばあり、運転代行やタクシーを呼ぶもなかなか掴
まらず、翌日の仕事を考え、自分で運転して帰ることが何度
もありました。一度、二度でもやって良いことではありませんが、
慣れというのは怖いもので「飲酒運転でも、いつも通り運転出
来る。」「深夜なら人も歩いていないから安心。」とさえ思ってい
ました。
 その日もいつもと同じ様に飲みに行こうとしていたところ、
妻から電話がありました。「今日は早く帰れる?子供達も待っ
ているよ!」と伝えられると、電話の後ろからは「パパ〜。」と子
供達の声も聞こえました。その声を聞きつつも友人と約束を
していたため、「少し飲んで帰るよ。」と話し、電話を切りまし
た。その後、駆け付けのテキーラから気が付けば午前1時を過
ぎ、いつものように自宅へと車を走らせました。
 「裏通りで帰れば検問もやっていないし大丈夫。」と考え、一方
通行の道を走りました。心地良くなりボーっと走っていると、
突然「人だ!」と思うと同時に被害者の方と接触してしまいま
した。ブレーキを踏み、速度を落としながらサイドミラーで確
認すると、自転車が倒れていました。私は全てを失うのが恐ろ
し く な り 、車 を 停 め る こ と も せ ず 、ゆ っ く り 車 を 走 ら せ ま し
た。その間、恐怖心と理性の問答が繰り返され、およそ300m
離れたところでようやく停車させ、歩いて現場に戻りました。
「怪我で済んで欲しい。」「人でなければ。」そう願っていました
が、現実は男性が身動き一つしない状態で倒れていました。誰が
呼んでくださったのか、間もなく警察と救急車が来て、目の前
で慌ただしく動いていました。私は何も出来ないまま、ただ茫
然と立ちつくしていました。警察官にそのまま連行されました
が、この現実を受け止めることができず、頭の中で何度もこの
事件を繰り返し思い返していました。取り調べが始まり被害
者の方が亡くなったと聞き、私は人を殺してしまったと涙なが
らに思いました。
 後日、保釈が認められ、自宅に帰りましたが、そこは家族の
いない私独りだけの空間でした。机の上には離婚届だけが置か
れていました。職場にも電話しましたが、対応もよそよそし
く、そのまま退職し、私の犯した罪の大きさを実感しました。
 この時までの後悔、戒めの気持ちを謝罪文として手紙にし、
被害者御遺族の方に送らせて頂きましたが返信は来る訳も ありません。裁判が始まり、初めて被害者御遺族の方と対面 させて頂きました。頭を下げ謝罪しましたが、被害者御遺族 の方には私の事など映っておらず、愛する家族を奪われ、生気
を失っているように見えました。
 判決は懲役3年の実刑でした。事件当日、家族の声に従って
いれば、被害者の方の尊い命も被害者御遺族の方の哀しみも 私の家族も仕事も何もかも失うことはなかったと今さらなが ら後悔し続けています。数えきれないくらいに長く感じる年 数が経ちましたが、事件当日から家族に会うことも、声さえ
聞くこともできなくなりました。
 世間では飲酒運転の撲滅に努めているのは知っていましたが 「私は大丈夫。」そんな軽い気持ちでいました。一生償えない罪 を背負い、被害者の方の人生を無残に終わらせ、被害者御遺
族 の 方 に は 今 ま で の 暮 ら し を 一 生 戻 せ な い 程 の 悲 し み を 与 え て
しまいました。それが軽い気持ちの結果です。

『飲酒運転が及ぼした影響』 トラック運転手( 50代)

 私は大型トラックを運転し、1人の女性を死亡させ、飲酒
運転と前方左右不注視で逮捕されました。
 前日は午後6時ころからビールを3本飲み、さらに酎ハイを
1本飲んで、午後8時前に寝ました。翌日の午前1時30分
に 起 き て 、朝 食 と 昼 の 弁 当 を 作 り 、家 を 出 て ト ラ ッ ク が あ る
車庫に行き、仕事を開始し、いつもどおりの道を走っている途
中の交差点で人をはねたのです。
 横断歩道に人がいないのを確認してから右折した時に、何
か白い物がふわっと右の前方に見えました。
私は、何があったのか分からないままブレーキを踏んで止 ま
り、すぐにトラックから降りて確認すると、後方のタイヤの間
に人が倒れていました。
  私は何 度 も「 大 丈 夫ですか。」と声 を掛 け ましたが、返 答
が な く 、救 急 車 を 呼 び ま し た 。5 分 後 に 救 急 車 が 来 た の で 、
状況を話しました。
 その後、警察署に連行されて取り調べを受け、留置されま
した。その後、2か月ほど自宅にいましたが、裁判が始まり、
懲役2年6月の判決を受けました。
 前日のお酒が残ったまま大型トラックを運転したため、会
社に監査が入り、社長にも御迷惑を掛けました。私は会社か
ら解雇され、家族との会話もなくなりました。
 また、免許は取り消され、大型トラックの運転手だった私は
仕 事 が 出 来 な く な り 、自 分 が し た 事 の 重 大 さ や お 酒 が 及 ぼ
した影響は計り知れないことを初めて感じました。
 市原刑務所でのアルコールの改善指導を受け、飲酒の経緯
や動機を聞かれ、毎日飲んでいたことや、寝つけに飲んでいた
ことを話しました。また、「被害者の視点を取り入れた教育」
という改善指導を受け、自分の考えの甘さや、被害者御遺族
の方の気持ちの一端に触れることが出来ました。
  ま た 、被 害 者 御 遺 族 の 方 の 気 持 ち に な っ て 事 件 を 考 え る
と、これは事故ではなく犯罪なのです。人殺しなのだと思いま
した。
 市原刑務所で学んだ事や周りの受刑者一人一人の考えを参
考にして、今回の事件を風化させない為にも真人間になって
社会復帰し、二度と同じ過ちを犯さないようにします。
 加害者の私はまた家族に会えますが、被害者御遺族の方
は被害者の方に会えません。そう思うと、被害者御遺族の皆
さまには本当に申し訳なく、許してもらえないのは当然だと
思います。
 私は家族とこれからの償いの在り方を考え、被害者御遺族
の方に償いを行っていきます。
 私が犯した罪は一生消えることはないのです。  私が飲酒をしてトラックを運転したことで被害者・被害者 御遺族の方、自分の家族、多くの人の生活や人生を変えてし まった事は許されることではありません。被害者やその被害 者御遺族の方々、本当に申し訳ございませんでした。
 私は二度とお酒を飲みません。  事故の前に戻れるものなら、もう一度始めからやり直したいです。

『繰り返した飲酒運転』  福祉職員 (30 代)

私は現在、刑務所で自分の犯した罪を反省し、更生の日々
を送っています。
 以前から深夜までお酒を飲み、二日酔いの状態のまま出勤
したり、ビール1、2本を飲み、数時間休んだ後、酔いを醒まし
たからなどと自分に都合よく考え、飲酒運転をすることがあ
りました。
 初めの頃は、お酒が残った状態で運転をすることは危険であ
ると分かっていたし、罪悪感もありました。しかし、飲酒運転の
回数を重ねていくうちにお酒が多少残っている程度では事故
を起こさずに運転できると過信するようになり、次第に飲酒
運転に対する危機感や罪悪感を失っていきました。
 このように身勝手な行動をしていたある年の夏、夕食時に
妻と口論になり、お酒に酔っていた私は腹が立つからと近くの
コンビニまでお酒を買い足しに行きました。このまま妻と顔を
合わせても口論が長引くだけと考え、車の中で少し休もうと
車内で横になりましたが、気が付いた時は交差点の信号待ち
で居眠りをしていたようで、周りに救急車とパトカーが集まっ
ており、逮捕されました。
 この事件では執行猶予となり、その後はアルコール依存の治
療を受けながらしばらく生活を続けていました。しかし、止め
ていたお酒に再び手を出してしまったことをきっかけに家族と
口論になり、前回の事件で運転免許取消し処分を受け、無免
許であったにも関わらず、怒りに任せて家族が所有していた車
を勝手に運転し始めてしまいました。
 そして、コンビニに立ち寄り、新たにお酒を買い足し、気持ち
を落ち着かせるためなどと自分勝手な理由でお酒を飲み続
けていました。
 このような状態で車を運転すれば、当然冷静な判断が出来
なくなり、周りの状況を見誤ってしまいます。しかし、当時の
私は飲酒運転を繰り返しても交通事故を起こすまでの大事
にはならないだろうと軽く考えていました。
 買い足したお酒を飲み、やがて酔いが回りました。このまま
運転を続けたらまずいと思い、駐車場に車を止めようと右折
したところ、ハンドル操作を誤り、対向車線を走行中のトラック
に衝突してしまいました。トラックは私の車がぶつかった衝撃で
縁石を越えた挙げ句、その先にあった信号柱を倒し、ようやく
止まりました。しかし、私の車がトラックに正面から衝突した
ことで、被害者様は、潰れたトラックのフロント部と座席に挟ま
れ、苦しんでいました。
 そのような中、私は状況を理解できるような意識でなく、
救助することも通報することも出来ませんでした。近くで現
場を見ていた方々が通報してくださり、被害者様の救助に至
りました。
 被害者様との示談は済ませて頂きましたが、直接謝罪する
ことは出来ず、謝罪文を送らせて頂いても「もうこれ以上何も して欲しくない。関わらないでくれ。」と書かれました。  それほど私は勝手で、人として本当に愚かなことをして他 人を巻き込んでしまったと、今は心から反省しています。  この事件で実刑判決を言い渡された私は、勤務していた会 社は解雇され、受け持っていた仕事を終えることが出来ず、会 社に大きな損害を与えてしまいました。また、家族には自分の
起こした事件のことで心労を掛け、世間の厳しい言葉を耳に することも多々あると思います。  このように被害者様や社会の皆様、自分の家族に迷惑を掛 け、刑務所に入るまで飲酒運転を止めなかったこと、そもそも 法を犯しても平気でいた自分は本当に愚かだったと今は反省
の日々を過ごしています。

『償い』は、1982年発売のアルバム『夢の轍(わだち)』に収録された1曲でファンの間では人気のある感動の1曲でしたが、この曲を一躍有名にしたのは、2002年(なんと20年後)のある裁判判決の場面でした。

 

2001年4月、東急三軒茶屋駅で、銀行員の男性が殴られ死亡した事件で、傷害致死罪に問われた18歳の少年の判決公判が行われ、山室 恵裁判長は求刑通り、懲役3年以上5年以下の不定期刑とする実刑判決を言い渡しました。

判決後、閉廷する直前に、反省の色が見られない少年2人に対し、裁判長は「唐突だが君たちはさだまさしの『償い』という歌を聴いたことがあるだろうか」と切り出しました。「この歌の、せめて歌詞だけでも読めば、なぜ君らの反省の弁が人の心を打たないかわかるだろう」と少年の心に訴えたのでした。

当時、ワイドショーは連日こぞってこの歌を流したのでした。

「償い」歌詞

歌:さだまさし

作詞:さだまさし

作曲:さだまさし

月末になるとゆうちゃんは薄い給料袋の封も切らずに
必ず横町の角にある郵便局へとび込んでゆくのだった
仲間はそんな彼をみてみんな貯金が趣味のしみったれた奴だと
飲んだ勢いで嘲笑ってもゆうちゃんはニコニコ笑うばかり

僕だけが知っているのだ彼はここへ来る前にたった一度だけ
たった一度だけ哀しい誤ちを犯してしまったのだ
配達帰りの雨の夜横断歩道の人影に
ブレーキが間にあわなかった彼はその日とても疲れてた

人殺しあんたを許さないと彼をののしった
被害者の奥さんの涙の足元で
彼はひたすら大声で泣き乍ら
ただ頭を床にこすりつけるだけだった

それから彼は人が変わった何もかも
忘れて働いて働いて
償いきれるはずもないがせめてもと
毎月あの人に仕送りをしている

今日ゆうちゃんが僕の部屋へ泣き乍ら走り込んで来た
しゃくりあげ乍ら彼は一通の手紙を抱きしめていた
それは事件から数えてようやく七年目に初めて
あの奥さんから初めて彼宛に届いた便り

「ありがとうあなたの優しい気持ちはとてもよくわかりました
だからどうぞ送金はやめて下さいあなたの文字を見る度に
主人を思い出して辛いのですあなたの気持ちはわかるけど
それよりどうかもうあなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」

手紙の中身はどうでもよかったそれよりも
償いきれるはずもないあの人から
返事が来たのがありがたくてありがたくて
ありがたくて ありがたくて ありがたくて

神様って思わず僕は叫んでいた
彼は許されたと思っていいのですか
来月も郵便局へ通うはずの
やさしい人を許してくれてありがとう

人間って哀しいねだってみんなやさしい
それが傷つけあってかばいあって
何だかもらい泣きの涙がとまらなくて
とまらなくて とまらなくて とまらなくて

最後の証人    柚月裕子著    宝島社文庫    2011年6月発行
物語の前半部分で高瀬夫妻のひとり息子、卓が交通事故で命を落とした時の両親の心情には涙が出ました。
ましてや、子供とはいえ信号無視と酔っ払い運転の目撃証言があったのに、加害者が不起訴になるなんて❗納得できない父親の光治が、警察署で騒ぐ場面ではいたたまれなくなりました。
お話は法廷劇でしたが、殺人に至るトリックは想定していました。でも、タイトルの最後の証人とは誰のことなんだろうとずっと考えていました。
だから、確かにミステリーでもあるけれど、このお話は人としての生き方に心打たれるんですね。
最終弁論で証人が引用する佐方弁護士の言葉「誰でも過ちは犯す。しかし、一度ならば過ちだが、二度は違う。……二度目に過ちを犯したら、それがその人間の生き方になる」と。この言葉が重いですね。
でも、この証人は最後の証人ではありませんでした。このお話の最後の証人とは……。その人がこのお話の主人公でした。
実によくできたお話でした。是非購読してみて下さい♪