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【飲んだら歌いたくなるマニアック曲】Apex product

夜へ急ぐ人は、カバー出来ない名曲です。私はハマってます。是非皆様も聞いて下さい。ちあきなおみと言う素晴らしい歌手がいた事。旦那さんの死で引退した事。素敵なシンガーがもったいないです。平成3年から生歌を聴けないのが残念でなりません。

志村さんのこの歌の着眼点は天才だと思いました。素晴らしいんですが笑ってしまいます。最後にお願いします。俺が死ぬまでに一度コンサートでカンバックしていただければ嬉しいのですが・・・叶わぬ願いでした。

伝説となった紅白歌合戦の「夜へ急ぐ人」~ちあきなおみとジャニス・ジョプリンの狂気

「ちあきさん、その頃ステージでジャニスの曲も歌ってたのよ。
だから、曲は意外とあっさり作れたの。
ジャニスに曲書いてるような気分だったからね」
(『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』より)


面識もなければ縁もなかったちあきなおみから、友川カズキが突然に楽曲を依頼されたのは1977年のことだ。

ジャジーなポップスを歌うシンガーとして1969年にデビューしたちあきなおみは、「四つのお願い」がヒットした翌年には、NHK紅白歌合戦への出場を果たしている。
1972年には「喝采」がレコード大賞に輝き、「劇場」「夜間飛行」といったヒット曲が続いて紅白の常連になった。

1975年に27歳になったちあきなおみは意を決して、13歳の時から15年間も所属した三芳プロを離れた。
それを境にして音楽活動における表現の幅を広げていった。
その年は船村徹とのコンビで演歌に挑戦した「さだめ川」がヒットし、11月にはアルバム『戦後の光と影~ちあきなおみ 瓦礫の中から』を発表した。

これは戦後という時代の光と影を持つ名曲たち、「星の流れに」や「カスバの女」を日本のスタンダード・ソングとしてカヴァーするという、新しい試みの出発点にもなった。

ヒット曲を追求するレコード会社が展開していた演歌路線を拒否し、ニューミュージックの新たな旗手として注目を集めていた中島みゆきに楽曲を依頼し、シングル盤の「ルージュ」を出したのは1977年4月である。
テレビの深夜番組『11PM』を観ていて、友川カズキに出会ったのはそんな時期だった。

番組内で歌った「生きてるって言ってみろ」の歌詞とパフォーマンスに、ちあきなおみは魂を激しく揺さぶられたという。
翌日には連絡をとって、その日のうちに事務所へ友川を招いて、プロデューサーだった郷鍈治とともに楽曲を依頼したのだ。

ビッショリ汚れた手拭いを
腰にゆわえてトボトボと
死人でもあるまいに
自分の家の前で立ち止まり
覚悟を決めてドアを押す
地獄でもあるまいに
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ

1971年の中津川フォーク・ジャンボリーに飛び入りで出演した友川は、「上京の状況」と「生きていると言ってみろ」の2枚のシングル盤を出した後、1975年にようやくファースト・アルバム『やっと一枚目』をリリースした秋田出身のシンガーだった。

まだ他人に楽曲を提供したことがなかった友川は、どんな曲を書けばいいのかと手がかりを求めて、新宿「ルイード」で行われたちあきなおみのライブに足を運んだ。
そこでジャニス・ジョプリンの曲を聴き、圧倒されて泣いてしまったという。

 

「もう鳥肌がたつほど感動しました。私も高校時代からジャニスが大好きでしたから、ちあきさんのジャニスを唄うのを見た時、『あー、タダの狂気じゃないな』って感じました」


ジャニス・ジョプリンとちあきなおみに共通するもの、それは人の心の奥にある狂気だった。
そして「生きてるって言ってみろ」もまた、自身の中にある狂気と怒りから生まれた作品である。

それが評価されて楽曲を頼まれた自分に求められているのは、ジャニスの曲を歌っているときに見せた狂気を引き出すことだ、友川はそう感じ取った。

こうして生まれた「夜へ急ぐ人」は、1977年の9月1日にシングルで発売された。

その狂気を多くの人が目の当たりにしたのは、その年の第28回紅白歌合戦でのことだ。
演歌の「酒場川」をしっとりと歌っていた前年とは打って変わり、8年連続での出場となったこの日は黒尽くめの衣装で髪を振り乱し、「おいでおいで」とカメラに向けて挑発的に手招きをするのだった。

あたしの心の深い闇の中から
おいで おいで
おいでをする人 あんた誰


ちあきなおみの狂気をはらんだ絶唱は、お祭りムードで和やかだった会場の空気を一変させた。
その模様は日本中の茶の間にも届けられた。

歌が終わるや否や、白組司会のNHKアナウンサー山川静夫の口から「なんとも気持ちの悪い歌ですねえ」という、台本にない本音のコメントがこぼれた。
その軽口によって会場に笑いが起こり、それまでの空気を取り戻した会場では、何ごともなかったようにいつも紅白が進んでいった。

ちあきなおみがその夜の熱唱ではからずも明らかにしたのは、「普通の歌手とは違う」ということだった。

翌年にプロデューサーでもあった俳優の郷鍈治と結婚すると、ちあきなおみは芸能活動を休業する。
当然だが紅白の舞台からも去り、それから10年間出場することはなかった。

復帰を果たしたのは1981年、シャンソンやジャズ、ポルトガルのファド、日本のスタンダード、そして自分のオリジナル曲と、心からうたいたい歌をストイックに追求していく、唯一無二のシンガーとなって戻ってきたのである。


参考文献:
『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』友川カズキ著(白水社)
『ちあきなおみ 喝采、蘇る。』石田伸也著(徳間書店)
『団塊パンチ (3) 』(飛鳥新社)
『紅白歌合戦と日本人』太田省一著(筑摩書房)

友川カズキ「夜へ急ぐ人」

ちあきなおみ 【 赤い花 】

昨日(きのう)の夢(ゆめ)を追(お)いかけて、

今夜(こんや)もひとりざわめきに遊(あそ)ぶ
昔(むかし)の自分(じぶん)がなつかしくなり、酒(さけ)をあおる

騒(さわ)いで飲(の)んでいるうちに、こんなにはやく時(とき)は過(す)ぎるのか
琥珀(こはく)のグラス(ぐらす)に浮(う)かんで消(き)える

虹色(にじいろ)の夢(ゆめ),紅(あか)い花(はな)
想(おも)いを込(こ)めて、ささげた恋唄(こいうた)

あの日(ひ)あの頃(ころ)は、今(いま)どこに
いつか消(き)えた夢(ゆめ)ひとつ

 

悩(なや)んだあとの苦笑(にがわら)い
くやんでみても時(とき)は戻(もど)らない

疲(つか)れた自分(じぶん)が愛(いと)しくなって

酒(さけ)にうたう。

いつしか外(そと)は雨(あめ)の音(おと)
乾(かわ)いた胸(むね)が思(おも)い出(で)に濡(ぬ)れて

灯(あか)りがチラチラ(ちらちら)歪(ゆが)んでうつる

あの日(ひ)のように

紅(あか)い花(はな)

踏(ふ)みにじられて流(なが)れた恋唄(こいうた)
あの日(ひ)の あの頃(ころ)は

今(いま)どこに

いつか消(き)えた影(かげ)ひとつ
紅(あか)い花(はな)

暗闇(くらやみ)の中(なか)むなしい恋唄(こいうた)

の日(ひ)あの頃(ころ)は今(いま)どこに

今日(きょう)も消(き)える夢(ゆめ)ひとつ

今日(きょう)も消(き)える夢(ゆめ)ひとつ 

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コメント: 1
  • #1

    さとる (月曜日, 14 11月 2022 10:41)

    やはり、素晴らしい