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ジャズ喫茶【ペニーレイン】に、行こう!! Apex product

君の歌が、恋が、青春がここにある。PENNY LANE

昔の話ばかりですが、今の世代の方々にも共感して頂ければ幸いです。誰もが一度は、経験がある、貧乏だったけど毎日 がむしゃらに、

精一杯、夢を現実にしようと努力していた。とっても素晴らしい時代。

あの頃。1970年代 青春の、1ページ。聞いて下さい。

 学生の時、何とか金を貯めて、当時、吉田拓郎に憧れていたので、

ギターを購入しました。勿論 上野でバッタ物を購入。

GIBSON J-45 ・MARTIN D-28が、欲しかったのですが、

夢のまた夢。生活は毎日バイトのその日暮らし。

それでも、何とか阿佐ヶ谷の家賃25000円のアパート(四畳半)で、

自立出来ていました。しかし、毎日 腹を減らしていました。

隣の貧乏学生の実家から、月に一回 仕送が届きます。

その中身は・酒・つまみ・ラーメン・魚肉ソーセージ・

高級蟹缶・レーズンバター、月に一度の大宴会。奴の実家は、

新潟の酒屋さん。ラッキーな友達が、できました。

夜勤のバイトで思ったより金が入ったので、お礼も兼ねて

、ペニーレインに行くことにしました。二人の共通点は、

当然フォークソング。週末には、公園(小金井公園)で

大声出して歌ってました。全て吉田拓郎のコピーです。

でもあの時代、あたり前の様でした。恥ずかしいより、

楽しみでした。ジャズBARに行くだけなのに、

2着しかない洋服にアイロンかけて、精一杯おめかしして、

いそいそと、二人で行きました。入口まで来て、

3回ぐらい入るのをためらい財布を何度もチェクして、

勇気を振り絞り入店。「おー!」声にならない声が。

「ここが、ペニーレインか!」静かな雰囲気。その日は、

ライブはやっていませんでした。ともかくカウンターまで

たどり着かないと、ボックス席は、嫌だから。

二人は何をどう頼んだのか忘れましたけど、

バーボンをロックで二杯飲んで帰って来ました。

何故ならバーボンは僕達の口に合わなかったからです。

飲むのも生まれて始めて。独特の味わいだったのを覚えています。

お店でのエピソードは、何も有りませんが、それから二人は

お陰様で就職出来ました。二人共、同じ流通会社(一部上場会社)に

勤め部署は、違いましたが、新宿のビル街で働いて、

毎日仕事に追われるビジネスマンになりました。

 でも、その後(10年先)六本木でスタジオを借りて、インデーズの

音楽配信業務を、悪い業界人(現在指名手配)に騙されて起業して、

大借金を抱えてしまうとは、全く想像も、つきませんでした。

 サラリーマンになった僕達は、お金に余裕ができ何度か、

またお店に行きましたが、あの時のドキドキした気持ちは、

薄れていきました。いつしか、二人もそれぞれ付き合う相手が

違いすれ違いばかり。喧嘩したわけではないのですが、

連絡も、年に何回も無い状態が続きました。寂しいですね。

彼は、今、実家に帰って家業を継いで頑張ってます。

勿論、今でも節目には、電話してます。

「スキーで行くから宿屋代わりに泊まらせろ!たまにはこっちに出てこいよ。また笑って歌って語ろうよ!」と、馬鹿ばなしで盛り上がります。でもすぐ寂しくなって、ひとりでお店に行きます。

「やっぱり、青春(あの時)の甘酸っぱい気持ちが、この店にあるなぁ~」と、レコードを聞きながら、ライブを見ながら、独り言を言って、今では、すっかり味もわかり、酔うまで美味しくバーボンをダブルで飲んでます。ふと気がつくと、何だか目頭があつくなるオヤジです。

色々ありました。人生は面白い。若者よ楽しんで下さいと言いたいです。

最後に、閉店・開店を繰り返し、本当に、僕たちの青春を

ありがとう。「ペニーレインさん。 永遠に!!」これからも、いまでも青春!!

 - Apex product  加齢なる親父より

ペニーレインでバーボン 吉田拓郎

アルバム「今はまだ人生を語らず」の1曲め「ペニーレインでバーボン」に「つんぼ桟敷」という差別用語とも受け取れる言葉が含まれていることから。

ペニーレーン(penny lane) 喫茶店・BAR

電話 03-3406-5552

東京都渋谷区神宮前 6-2-7 1・2階

◆ペニーレイン 1973年(昭48)にフォーライフミュージックの後藤由多加社長(当時はユイ音楽工房社長)が飲食店事業の一環として立ち上げた。ビートルズの曲名を店名にし、店内ではビートルズの曲が流れていた。音楽やファッション関係者など多くの人に愛されたが、客層などの変化に伴い90年に閉店。しかし、復活を望む声から06年5月に再オープンし、今もにぎわいを見せている。

吉田拓郎と長渕剛の絆!!

シンガーソングライターの長渕剛が、バラエティ番組に出演して彼のデビュー時の伝説的エピソード、“帰れコール”について語った。大先輩の吉田拓郎の思いやりからステージに立ったことで起きたハプニングだが、長渕はそんな経験を積んで今の自分があると感謝していた。
 
1979年の7月に愛知県で開催された「吉田拓郎 アイランドコンサート in 篠島」でのことだ。特別出演として1人でステージに立ちギター1本で歌う長渕剛に、一部の観客から“帰れコール”が起きた。長渕はその観客に対して「帰れって言うんだったら、お前らが帰れよ!」と言い返したのである。

それから33年が過ぎた2013年3月18日。テレビ番組『しゃべくり007』に出演した長渕が、その全貌を語ったのだ。彼は1977年に『雨の嵐山』でシングルデビューするがまったく売れず、翌年にポプコンで入賞した『巡恋歌』で東芝EMIから再デビューする。その翌年に初のオリジナルアルバム『風は南から』をリリースして数か月後の出来事だった。

長渕は「23歳の時でまだ無名だったのでコンサート活動はほとんどできず、ライブハウスで10人集まればいいほうだった」とその頃を振り返る。『巡恋歌』がヒットしたものの、まだ知名度は高くなかったのだ。

フォーク界の大先輩である吉田拓郎がそんな彼に声をかけてきた。「長渕、お前のことを一切紹介しないから、どこまでできるかやってみるか?」と拓郎のコンサートでステージに立つチャンスをくれたのだ。長渕も「わかりました」とそれを受けたのである。

「あの頃は、声が高くてきれいだったんだよ」と長渕が話すように、初期のスタイルは高音もクリアな声で美しいメロディを歌い上げるのが特徴だった。紹介もされずステージに1人で立った彼が「あなたの名前を呼ぶ~」と楽曲『いつものより道もどり道』を歌い出すと、拓郎のスタイルとのギャップからか観客からブーイングが起きたのだ。

「帰れー!」と1人が叫ぶと、「帰れー!!」と数人に広がっていった。すると長渕は「俺に帰れって言うの?」、「俺は今日は帰らん!」と観客たちに言い返した。「とにかく俺は時間をもらったんだ」、「帰れって言うんだったら、お前らが帰れよ!」とすごんだセリフが、今も語り草となっているのだ。さらに「俺は今日は帰らんぞ、みんな応援してくれ、頼む!」、「俺のファンだって来てんだバカヤロー!」と他の観客に呼びかけて演奏を続けたのである。

最後は『巡恋歌』をギターをかき鳴らして熱唱すると、「弦が切れて4弦と6弦しか残ってなかった。琵琶法師みたいにベンベン弾いて歌ったんだ」と語っている。後にアルバム『HEAVY GAUGE』や収録曲『僕のギターにはいつもHeavy Gauge』を出したように、彼がギターへのこだわりを見せるのはこんな経験が影響しているのではないか。

“帰れコール”から始まったこの日のステージだが、最終的には拍手喝采を浴びる。拓郎はそんな彼に「お前、今日は本当に美しかったぞ」と声をかけてくれたのだ。スタジオで長渕はそんな先輩の言葉を思い出しながら、「あのステージが無かったら、今の僕は無かったかも知れない。それほど大きな意味があった」と大先輩に感謝するのだった。

このコンサートの次の年に、2枚目のアルバム『逆流』の収録曲『順子』をファンの要望でシングルカットした。それがオリコンチャート1位の大ヒットとなり、長渕剛としても大ブレイクするのだ。実はこの『順子』が話題となったきっかけのひとつは、フォーク界の先輩・南こうせつのラジオ番組に出演して弾き語りしたことによる。今では大御所ミュージシャンに仲間入りした長渕剛も、そんな先輩たちのおかげで成長してきたのである。

すべての歌に懺悔しな!!に関わる論争

本作c/wに収録された「すべての歌に懺悔しな!!」の歌詞をめぐり、当時マスコミを巻き込んだ大きな論争となった。もともとこの曲はアルバム『孤独の太陽』に収録され、本作でシングルカットされたものである。キリン『JIVE』のCMソングとしてOAされていたが、ロックミュージシャンや特定の人物を指すような歌詞に、週刊誌などが反応を見せたことがはじまりである。マスコミではこの歌詞で指す人物を、長渕剛矢沢永吉の2人であると決め付け、特集や報道を繰り広げた。『孤独の太陽』発売にあわせ、桑田が事務所を通して「この歌詞は自分も含んだロックシンガー、ミュージシャンを揶揄したものである」というコメントを発表し、矢沢・長渕の両者に向けて事務所が謝罪文を送付するなどの騒ぎになった。

揶揄されたとされる一人のうち矢沢は「お互いクリエイター。全然気にしてないよ。それより桑田君の方は大丈夫か?」と桑田を気遣う態度をみせた。しかしもう一人の長渕が、いくつかのインタビューにて桑田を名指しで攻撃した。講談社の雑誌『Views』の中では「自身との間で過去にあった因縁」などを語って様々な反論を展開し、誌上で語った「俺は桑田佳祐を許さない」というコメントは大きな波紋を呼んだ。状況は桑田vs長渕という図式に変化し、様々な音楽評論家や邦楽の批評家を巻き込む大論争にまで発展した。最終的に1995年1月24日、長渕が大麻取締法違反で逮捕されて、事態が一気に沈静化するまで続いた。

長渕が音楽雑誌『Views』の中で語った「自身との間で過去にあった因縁」とは、以下の一件である。

たまたま居酒屋であった彼らは意気投合し、桑田が主宰のライブに長渕を招待した。そして、1983年ナゴヤ球場で行われたサザンオールスターズのライブで、ゲストとして参加するはずだった長渕が最初に出て歌うことに、説明不足だったのか「俺がサザンの前座なんて聞いていない!」と長渕がキレた。桑田がライブ終盤に再び長渕をステージに上げ、ビールを頭に浴びせた。

報道に関しては、長渕が『とんぼ』『しゃぼん玉』『オルゴール』などのドラマや映画によるバイオレンスなイメージが定着していたことや女性スキャンダル、スタッフへの暴行について何度か報道されたこと、対する桑田がスキャンダルやゴシップ記事に無縁だったということもあって、大論争に至るまでの経過で非常に重要な事柄である割には、それほど取り上げられなかった。なお、桑田にとっては、ライブで液体をかけたりかぶったりするということは特別なことではなく、桑田なりの好意に対して、長渕がその意味を取り違えてしまった可能性もあると考えられている。なお、テレビドラマ『とんぼ』では劇中で流れるサザンの曲「みんなのうた」に対し、「そんなクソみたいな歌消せ、コノヤロー!!」というシーンがあった。

一連の騒動が落ち着いた後、騒動の元となった本曲自体は販売差し止めなどにすることなく、現在までも通常通りCDとして製品化されてはいるものの、1994年のツアーを最後にコンサートで演奏をすることは一切なく、ラジオ番組でオンエアされることもなく、話題に挙げることもなくなっている。 ちなみに、この曲の歌詞には

  1. 「ゆうべもゆうべ脳ミソ垂らして 女に媚を売る」(国生さゆりとの不倫報道を連想させる)
  2. 「大学出たって馬鹿だから 常識なんかは通じねェ」(これに関しては長渕、矢沢、そして桑田本人にも相当しないが、長渕と桑田は大学に在籍歴がある)
  3. 「スーパースターになれたのは、世渡り上手と金まかせ」(長渕のシングル曲「SUPER STAR」を連想させる)
  4. クスリにゃ目がない バカヤロ様」(長渕が大麻で逮捕される前に発売されており、予見したと言える)
  5. 「どこかでパクった小言を連呼する」(当時長渕の作品が相田みつをの詩を引用していると話題になっており、盗作発覚当時は補作詞表記に変えられたが、現在は”作詞:長渕剛”と全て自作表記に戻されている)
  6. 「テレビにゃ出ないと言ったのに ドラマの主役にゃ燃えている」(「順子/涙のセレナーデ」をリリースした頃に当初テレビ出演はしないと発言していた)
  7. 曲の最後に桑田が「いらっしゃい」と呟く(この曲をリリースする2年前に長渕が東京ドームのライブにおいて開口一番呟いた言葉と全くもって同一)

同業者によるコメント

この件に関して、桑田と長渕の両者に面識のある泉谷しげるは、1994年11月28日の『日刊スポーツ』における自身のコラムで、「『すべての歌に懺悔しな!!』は、どの角度からどう分析したって明らかに長渕を指してるぜ。最後に長渕がコンサートで使うキーワード「いらっしゃい」で締めてんだから当然だろ。(中略)桑田、何で『長渕を歌ったんじゃない』なんて言い訳したんだ。初めから『テメーのことを歌ったんだ。おまえが嫌いだ。謝んねえぞ』といってやりゃよかったんだよ。そうすりゃ謝り方に因縁つけられることもねえんだからさ。大好きだったボブ・ディランにバカにされたジョン・レノンが、怒りのあまりディランを本名で攻撃する曲を作って発売したことがあるが、長渕は多分桑田が好きだったから頭にきたんだろうな。長渕は『ダチになりたい』と思って近づいたが、桑田にしたら『暗くてうっとうしくて面倒くさそうなやつだ』程度の印象だったんだろう。(軋轢の発端となった1983年のナゴヤ球場でのジョイントコンサートについて)10年以上も前の話なんか持ち出してるが、桑田は覚えてねえよ。当時の長渕なんて売れてねえんだから前座は当然だし、ビールかけだって興奮した桑田にはよくある話なんだけどな。(中略)長渕、テメーのファンを味方につけて『桑田の馬鹿野郎』とガンガンやれ。歌のおとしまえは歌で返すのがルールだ。『サーフィンも出来ないのに湘南野郎を気取っている』なんてイヤミな曲を作ってみろい」「それにしても、永ちゃん(矢沢永吉)は大人だねぇ」と語っている。

両者に大きな影響を与えた吉田拓郎は「ボクは桑田クンのファンとしていえば、桑田クンは何も説明しなくてもいい、謝る必要なんてない」などと桑田の肩を持つ発言を行い、長渕をトーンダウンさせた。また、和田アキ子も「歌でやられたら、歌で返すのが筋」と指摘していた。松本人志は長渕剛のファンではないと前置きしながらも、当時の『週刊朝日』の連載の中で「仕事に対して真剣に取り組んでいる人間は、自分を傷つけられた時に、真剣に怒る事が出来るものだ」と長渕の言動に一定の理解を示すコメントを述べている。

なお、長渕が逮捕後復帰第1作として1996年にリリースしたアルバム『家族』に、桑田に対して反撃していることを匂わせる歌詞の楽曲があるが、ほとんど話題にならなかった。

吉田拓郎の生い立ち

1946年4月5日に、鹿児島県大口市で生まれる。A型 牡羊座。両親は朝鮮羅南からの引き揚げ者で、出生地など、生い立ちの詳細は不明である。父親は吉田家の養子で鹿児島県庁に勤務し、鹿児島の郷土史研究を仕事としていた。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄と別居となり、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居した。幼少期から喘息持ちで体が弱かったため家にいる事が多く、母に本を買い与えられていたが、音楽に興味を持ったためウクレレを買ってもらい音楽を始めた。立教大学ジャズ研でピアニストを目指した兄が、休暇中に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった。 1962年に、皆実高校に入学し、級友と「トーン・ダイヤモンズというインストゥルメンタルバンドを結成、ウクレレのパートを担当した。1963年の高校2年の時、自宅に下宿していた広大生にクラシック・ギターを教えてもらい曲作りを始める。初めて作ったオリジナル曲は高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃん」である。その後ビートルズの影響を強く受けてバンドはビートルズのコピー専門となる。バンド名を1964年に「プレイボーイズ」に変更した。 1965年に広島商科大学に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たに「ザ・バチュラーズ」を結成し、ドラムスを担当した。同年秋に初コンサートを開催し、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループ・サウンズブームも未到来の時代であり、相手にされなかった。ちなみに、この時チャーリー石黒が応対し、デビュー前の森進一がお茶を出した。

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コメント: 2
  • #1

    ヒロ (木曜日, 29 9月 2022 14:40)

    昔から好きだったよな。
    下手なギター弾いて歌ってたよな。
    まさお は、演歌だった
    男の背中 笑える�

  • #2

    さとる (月曜日, 14 11月 2022 11:33)

    好きですね。また飲みましょう