
永遠の“ヤングマン”が天国へと旅立った。
48歳、56歳の時に脳梗塞を2度発症。右半身のまひや言語障害などの後遺症が残ったが、壮絶なリハビリで回復。4月にコンサート出演するなど、最後までステージにこだわった。
甘いマスクに長髪をなびかせ、エネルギッシュに熱唱するスタイルで女性ファンをとりこにした。1974年には「傷だらけのローラ」で日本レコード大賞歌唱賞を受賞。「薔薇の鎖」では敬愛する英歌手ロッド・スチュワートばりにスタンドマイクを振り回すアクションで人気を集めた。
79年の「YOUNGMAN」は約140万枚の大ヒットを記録した。自身も考案に携わった「YMCA」の4文字を両手で表現する振り付けも大流行。80年のセンバツ高校野球大会の入場行進曲、近年はCMソングに起用され、世代を超えて愛された。
音楽を愛し続けた63年間だった。ジャズ好きの父親の影響を受け、小学3年生で地元のジャズスクールに通いドラムを始めた。中学1年生の時は3歳上の兄らとバンドを結成し、ビートルズなどの楽曲を披露。楽器を購入するために新聞配達のアルバイトもこなし、岩国の米軍キャンプでも演奏した。
広島・山陽高時代にジャズ喫茶で歌っていた時にスカウトされ、「ワイルドな17歳」をキャッチフレーズにデビュー。郷、野口と“新御三家”としてスターへの階段を駆け上った。私生活では46歳まで独身を貫いたが、2001年に妻・美紀さんと結婚。2男1女と子宝に恵まれた。
幸せまっただ中の03年、突如病魔に襲われた。ディナーショーで訪れた韓国・済州島で脳梗塞を発症。11年に再発し、右足を引きずるなど後遺症が残ったが、家族に支えられながらリハビリに励んだ。1日3~4箱吸っていたタバコも断った。60歳を迎えた15年4月にライブを開催し、「ヒデキ、還暦!」とさらなる活躍を誓っていた。
西城さんは09年にスポーツ報知のインタビューで、死ぬ間際まで役者人生を全うした緒形拳さん(08年死去)を理想に挙げた。「緒形さんのように自分の体が滅びていくまで仕事ができるか。僕は弱い人間だから自信がないけど。これからさらに鎧(よろい)がもう一つできて強くなれるかな」。その言葉通り、最後まで歌手人生を全うした。


冒頭で桑田は「西城秀樹さんが5月16日、ご逝去なさいました」と伝えた。「大変残念なんでございまして。とても実直な方でね。誰に対してもニュートラルで、フランクで、ぶっちゃけることはぶっちゃけて。同い年なんだけど、すてきな兄貴みたいな感じな方でした」と話した。
さらに95年、サザンオールスターズのライブの冒頭、西城さんがサプライズ出演したエピソードを披露。「オファーしたんですけど、ライブの規模やテイストとか何も話すことなく、快諾していただいて。本番の時に会場で1時間くらい楽屋でお話ししたんですけど、本当にいい方でね。気配りされて、うち解けるように話してくださったのを覚えております。秀樹さんが本当に好きだな、大好きだなって思いました」と話した。
その上で「ご闘病なさっていて、またいつかご一緒できたらなと思っていたのですが、本当に残念」と悼んだ。「日本の音楽界を大きく作り変えた方。歴史に名を刻む方だと思っております」と言葉に力を込め、「ありがとうございました、西城秀樹さん。またいつかお会いできるのを楽しみにしております。ご冥福をお祈りいたします」と伝えた。

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さとる (木曜日, 17 5月 2018 12:42)
ヒデキ 還暦のギャグは、笑えましたね。
元気になっていると思ってましたが、残念です。
悔しいです。お悔やみ申し上げます。
ヒロ (木曜日, 17 5月 2018 12:59)
また1人、俺らの時代の大スターが逝きました。悲しいです。お悔やみ申し上げます。皆んなカラダ大切に、暮らそうね、
まさお (木曜日, 17 5月 2018 21:56)
飲みに行くしかないっしょ
歌うしかないよ、ね。悲しいから、
ご冥福をお祈りします、
名無し (土曜日, 19 5月 2018 17:32)
ハウスバーモントカレーだよー。
ヒデキ 感激〜
名無し (土曜日, 19 5月 2018 17:33)
初めて並んで映画観たのが、愛と誠でした。良かったなぁ〜
ご冥福をお祈りします