1946年4月5日 (71歳)吉田拓郎様 お誕生日おめでとうございます。柳

吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本シンガーソングライター作詞家作曲家編曲家音楽プロデューサーフォーライフレコードの第2代社長である。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう。楽曲提供者としては入江剣の名も用いている。

人物

夫人は四角佳子→浅田美代子→森下愛子。血液A型。身長176.5cm。
竹田企画所属。レコードレーベルはエレックレコード→CBSソニー→フォーライフ・レコード→インペリアルレコード→avex trax。

日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり、1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である。また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした。日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している。2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される。

来歴

生い立ち

1946年4月5日に、鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現:伊佐市)で生まれる。その後、鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現:鹿児島市)に転居し、小学二年生まで在住。以降、広島県広島市南区西霞町育ち。拓郎という名前には「故郷を拓け」という意味が込められている。両親は朝鮮羅南からの引き揚げ者。父は吉田家に養子に入った人で、鹿児島県の郷土史家である吉田正廣。両親の出身地は知らない、母方の祖母が広島の出身と話している。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄と別居となり、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居した。幼少期から喘息持ちで体が弱かったため家にいる事が多く、本を与えられていたが、音楽に興味を持ったためウクレレを買ってもらい音楽を始めた。1962年に、皆実高校に入学し、インストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当した。

1965年に広島商科大学に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにバンドを結成し、ドラムスを担当した。同年秋に初コンサートを開催し、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループ・サウンズブームも未到来の時代であり、相手にされなかった。

アマチュア期

1966年にコロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場し、中国大会2位、全国3位となる。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが、広島の音楽仲間からは批判も出て居心地も悪く、単身上京した。1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏した。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のない演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、国放送でDJを担当したりした。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌い、終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジを浴びせられた。 1969年には、カワイ楽器広島店に就職内定したが、上智大学全共闘のメンバーが自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した。 1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売した。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、吉田の抗議で音源を録り直した。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ダウンタウンズ」を解散して上京した。

Wikipediaより転載

1960年後半から1970年前半、学生運動がさかんに行われてました。
その頃のプロテストソングと呼ばれるメッセージ性の高い曲が多く発表されてます。
吉田拓郎さんが当時意識してた歌手は、岡林信康さんと加藤和彦さんだそうです。
岡林信康さんはフォークソングの神様と呼ばれ、当時の若者に熱烈な支持を受けます。そんな中で発表されたのが吉田拓郎のイメージの詩です。

吉田拓郎 人生を語らず (歌詞)

朝日が 昇るから

起きるんじゃなくて

目覚める時だから 旅をする

教えられるものに 別れを告げて

届かないものを 身近に感じて

越えて行け そこを
吉田拓郎 人生を語らず Lyrics

越えて行け それを

今はまだ 人生を 人生を語らず



嵐の中に 人の姿を見たら

消えいるような 叫びをきこう

わかり合うよりは たしかめ合う事だ

季節のめぐる中で 今日をたしかめる

越えて行け そこを

越えて行け それを

今はまだ 人生を 人生を語らず



あの人のための 自分などと言わず

あの人のために 去り行く事だ

空を飛ぶ事よりは 地をはうために

口を閉ざすんだ 臆病者として

越えて行け そこを

越えて行け それを

今はまだ 人生を 人生を語らず



おそすぎる事はない 早すぎる冬よりも

始発電車は行け 風を切ってすすめ

目の前のコップの水を ひと息にのみほせば

傷もいえるし それからでもおそくない

越えて行け そこを

越えて行け それを

今はまだ 人生を 人生を語らず



今はまだまだ 人生を語らず

目の前にも まだ道はなし

越えるものは すべて手さぐりの中で

見知らぬ旅人に 夢よ多かれ

越えて行け そこを

越えて行け それを

今はまだ 人生を 人生を語らず



越えて行け そこを

越えて行け それを

今はまだ 人生を 人生を語らず

ガキの頃から拓郎さんは神様的存在!ある時は悲しみまたある時は勇気づけられ、青春を拓郎さんと共に歩んできた。拓郎さんは、あと50年後に残っている数少ないミュージシャンだと思う。多分、百年後残っているミュージシャン は、中島みゆきさんと、拓郎さんの二人だと思います。本当にお誕生日おめでとうございます。生まれてきていただいてありがとうございます。これからもお元気で。良い一年になりますようにお祈りいたします。

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