震災日記【生きてやろうじゃないの】武澤順子, 武澤忠

東日本大震災から6年
ぐらりと揺れたあの日から、早くも遅くも6年の歳月は矢のように流れました
突然奪われた生命の無念さは計り知れず
生活の基盤を失った被災者の一人一人にも哀しみがあり、苦労があったはず
一口に語り尽くせる月日ではないでしょう

私が住む相馬市は平野部が多く、比較的早く復興が進んでいますが、もちろん沿岸部では壊滅状態の地域もあります。

訪れた松川浦漁港ではたくさんの船舶が寄せ合ってつながれたまま、まるでゴーストハーバーで人気がなく、おこぼれの魚にあずかることもなければカモメさえ飛ばず、遠くのコンクリートの防壁に数羽が羽を休めるためにとどまっているだけでした

夏が来ればごった返していた原釜の海水浴場も、寄せる波、返す波打つ浜辺はわずかしかなく、砂地に拾う貝殻も二つ三つ

群青の海のうねりは黙して語らず
苦をしのぶよすがもなし

次に訪れた新地町では、被災した時、飴のようにねじれていた線路が復旧され、常磐線の線路を守るために海辺に張り巡らされた土の壁の味気なさ

松林越しの太平洋の眺めの面影は全くなし 見事なまでの変わりようにがっかりでした

西日の落ちかけた鹿狼山だけが、大地を抱いた勇姿そのままでした

先日84歳になった私
亡くなった夫と同じ年まで生かされて来たことを鹿狼山に報告したかったのです

見上げれば行方定めぬ雲の群れ
強風に流され消えてゆきました

おーい鹿狼山
お父さんと同じ年まで生かされてきたんだよ
思い切り叫んだ声が届いたでしょうか
「ありがとう、いつも見守ってくれていて」の声が...

「俺が死んでもお前は長生きしろよ」
何気なく聞き流していた言葉でした
百まで固いと思われていた夫が平成22年12月、急逝致しました 84歳でした
追いかけるように襲ってきた震災は23年の3月
夫の死を嘆く暇もなく被災の後始末に夢中で過ごした月日でした

幸い、被災した同じ敷地に家を復旧することができました
夫の愛した故郷を守って6年
私も84歳となりました

見合い結婚で、大して仲の良い夫婦とは言えないながら
半世紀以上も共に生きれば愛憎も枯れ
いつの間にか互いに頼り合っての晩年でした。

田舎に落ち着いてからは晴耕雨読野菜づくりに魚釣り
旅行には嫌がる私を無理に連れ出し
お使い大使のお父さん 家に帰って来て私の姿が見えると「オーイオーイ」と呼び続け
しぶしぶ姿を見せるとほっと笑顔を見せるのです

お酒に飲まれるのが嫌なのと、大声で呼び立てられるのに辟易し、冷たくあしらっていた私
幼児のように安らぎが欲しかったのでしょう

修羅の日々もあればエトセトラ
今では良い想い出しか浮かばないのです
被災してからの6年間も毎晩星を見上げて
一日の無事を感謝して祈る時、星になったお父さんはきらりと光って答えてくれています

大好きな故郷が惨事に遭った様を見ることなく逝ってしまった夫には
かえって良き大往生だったのかもしれないと今では思っています

大正生まれの亭主関白を貫き通し
昭和一桁のイエスマンの女房を従えて
ガタピシと音立てながらも案外「割れ鍋に綴じ蓋」だったかもなんて自画自賛している私です

夜空にまたたく星に祈る時
寿命が尽きた時は必ずお父さんのそばに行くからね
と語りかけています

もし再びの人生があるとすれば
やっぱり同じ道を歩みたい
好きな仕事にも巡り逢えて 私にも生きがいがあったし
2人の子供も順調に成長し 家庭をもって孫達も健全に育っている
今の悩みは誰でも通る老いの道 足も腰もよぼよぼとおぼつかず
痛いかゆいは生きてる証と友にも声かけあって
残りの人生を過ごしたいと思っています

できることなら健常寿命でお父さんよりもう少し生きて
この家のお留守番ができたら良いなと
お父さん、こんな私を守ってくれますかと問いかけながら...

もう6年が経ちました。

まだまだ復興支援は必要です。
残されたひと達の心のケアーが必要なんですね。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り致します。
思えば、気仙沼の水産業者様には、大変お世話になりました。25歳の若造を信頼して頂いて大きな仕事を任せてもらい、今でも感謝しております。何よりの自分の自信になりました。あれから営業一筋でやって来ました。挫折だらけの毎日でしたが、やっとこの歳になって、少しだけ明かりが見えてきました。それも東北出張の時につちかった粘り強さだと思います。本当にありがとうございました。
特に小野萬の専務。亡くなられた、囲炉裏のマスター。よくお二人は、私を叱ってくれました。勉強になりました。心に響きました。本当に本当にありがとうございました。頂いた優しさは、後輩に返します。そしてそれが輪になって繋がって行く事を願います。Apex product 代表 柳

 

【星になったママ】

「一番きれいな星が、ママだよ」

パパに教えられ、澄んだ夜空を見上げる。

岩手県陸前高田市の保育園児、及川律ちゃん(4)は、
東日本大震災で母久美子さん(32)を亡くした。

「ぼくも流されて、ママに会いたいなあ。波になりたい」

小さな手で描いた母の似顔絵。

いっしょに暮らし始めたおばあちゃんは、
孫の無邪気な言葉を絵の裏に書き留めた。

市立図書館の職員だった久美子さん。

あの日、大きな揺れの後で隣接する市立体育館に
同僚らと避難し、そこで津波にのまれた。

仕事着のエプロン姿のままだった。

律ちゃんと弟の詠(えい)ちゃん(2)は
保育園で昼寝をしていた。

旋律の「律」と歌の「詠」。

ピアノ好きだった久美子さんが名前をつけた。

兄弟は保育士に導かれ、
靴を履かず上着も着ないで大津波から逃げた。

「靴下だったから途中で足が痛くなって、
 先生にだっこしてもらったの」と律ちゃん。

市職員の父克政さん(33)も無事だった。

兄弟はいま、近くの母方の祖父母宅に避難している。

久美子さんを思うと、祖母まみ子さん(62)は思わず涙ぐむ。

律ちゃんも泣き顔になるが、すぐ笑顔を見せる。

詠ちゃんは「バアバを守ってあげる」と
得意のウルトラマンのポーズを取る。

津波が起きて7日後のことだった。

こたつにいた律ちゃんがボールペンで絵を描いた。

にっこり笑う母の顔。

「ぼくも流されてママに会いたいなあ」

津波の恐ろしさをまだ理解できず、
母に会いたい思いを口にする律ちゃん。

切ない気持ちで、
まみ子さんは絵の裏にその言葉を書き込んだ。

兄弟の写真や成長の記録を
きちょうめんに整理していた久美子さん。

「すべて流されたので、私が代わりにやってあげないと……。
 いつかこの時のことを孫たちに伝えるためにも、
 大事にとっておきます」

2人の孫の「作品」を水色の箱にしまっている。

「ママがいるか、確かめるんだ」

律ちゃんは、
パパやおばあちゃんと別棟にあるお風呂に行く時、
夜空を見上げる。

「真ん中の一番きれいな星がママ。
 抱っこされて、夜空のキラキラお星になって、
 一緒に街を見たいな」

ママに会えたら、律ちゃんは伝えたいことがある。

「パパは無事だったよ。ママ、おうちにずっといてちょうだい」

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2011年(平成23年)3月11日(金)に発生した
「東北地方太平洋沖地震」とそれに伴って発生した津波

地震の規模はマグニチュード9.0で、
日本周辺における観測史上最大の地震であった。
波高10m以上にも上る巨大津波が発生し、
東北地方と関東地方の太平洋沿岸部が壊滅的な被害を受けた。
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時とともに、記憶は薄れていく。

島国日本には沿岸部で生活する人の割合が非常に高い。
また、いつどこでこのような地震が発生するか、
それは、明日、あなたの住んでいるところかもしれない。

地震を止めることはできないが、
それに備えておき、被害を最小限にすることはできる。
そして、その備えのおかげで、
愛する人を守ることができるかもしれない。

この子たちと同じ悲しい想いしなければならない子を
増やさないために、今一度、備えの確認をお願いします。

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コメント: 4
  • #1

    ヒロ (金曜日, 10 3月 2017 15:35)

    早いね!6年かー。あの時を今でも思い出すと胸が痛いよ。東北の方々には、柳同様本当にお世話になりました。ありがとうございました。そしてお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り致します。私も出来る限りの支援を続けたいとまた強く心に思いました。

  • #2

    浪江 (金曜日, 10 3月 2017 17:00)

    普段は明るくふるまっていても、未だ毎日辛いです。悲しいです。やっと来月、仮設住宅を出ます。

  • #3

    通りすがりの名無し (金曜日, 10 3月 2017 17:08)

    私も南三陸町で暮らしてました。家族は、バラバラになりましたが、商店街の皆様のお陰で生きて来ました。つながる、忘れない。ありがとう。

  • #4

    忘れない (水曜日, 15 3月 2017 09:04)

    忘れられないよ。やっぱり