平成28年8月6日広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式参列等

 平成28年8月6日、安倍総理は広島市中区の平和記念公園で開催された広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に参列しました。

 71回目の「原爆の日」に行われたこの式典には、被爆者や遺族ら約5万人が参列するとともに、国連等国際機関、外国91カ国と欧州連合(EU)の代表らも出席し、犠牲者の冥福と世界の平和を祈念しました。

 広島市の松井一實市長と遺族代表が、今年1年間に新たに死亡が確認された原爆死没者名簿を慰霊碑に奉納し、遺族、被爆者の代表や安倍総理らが献花した後、原爆が投下された午前8時15分、「平和の鐘」が鳴らされ、参列者全員が1分間の黙とうを捧げました。

 続いて、松井市長の「平和宣言」、子ども代表2人による「平和への誓い」が述べられた後、安倍総理が哀悼の意を表し、挨拶を述べました。

 式典後、市内のホテルに場所を移し、「被爆者代表から要望を聞く会」に出席、7団体の代表者らから要望を受けた後、記者会見を行いました。

<広島原爆の日>孫に初めて語る あの日の記憶77歳男性 毎日新聞 8月6日(土)0時11分配信

◇「次世代に語り継いでほしい」との気持ちが強まり

 広島市南区の中原健治さん(77)は7月下旬、妻にすら話すことのなかった広島での被爆体験を初めて高校2年の孫、有貴(ゆうき)さん(16)に伝えた。世の中から原爆の記憶が急速に薄れる中、「次世代に語り継いでほしい」との気持ちが強まったためだ。思いを継いだ有貴さんは6日に平和記念公園で開かれる平和記念式典に初めて出席、献花する。今月末には核実験場があったカザフスタンを訪れ、核の怖さを伝えるつもりだ。【山田尚弘】

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 晴れ渡った7月下旬の昼すぎ、中原さんは有貴さんを外に連れ出し、爆心地から約4キロ離れた路地を歩きながら「あの日」を思い出した。

 「じいは何をしとったん」

 「誰かおらんかのうって、歩きよったんよ」

 中原さんは当時6歳で、幼稚園は休園中。遊び相手を探し、自宅前の路地を歩いていたところ、「ピカッ」と閃光(せんこう)を感じた。空が急に暗くなり、「ドン」という音と同時に背中に強い力を感じた。近くの民家に逃げ込み、住人のおじいさんに引っ張りこまれるようにして床に伏せた。路上では砂煙が横切り、民家の窓ガラスやひさしが吹き飛ばされた。

 黒くすすけ、焼けただれた腕を下げた男女が路上を逃げ惑う。夜になると、あちこちから「痛い、痛いー」と叫び声が聞こえ、布団の中で震えが止まらなくなった。

 中原さんは思い出すのもつらく被爆体験を誰にも話さないままだったが、「世代が変わり、原爆の記憶が薄れていくのではないか」と心配が募るようになった。今年、有貴さんが地元自治会の推薦で市民代表として献花することが決まったのを機に語る決心をした。

 一方、有貴さんも「じいちゃんから話を詳しく聞きたい」との思いを抱いた。今月末、市民団体のツアーに参加し、旧ソ連最大のセミパラチンスク核実験場跡に近いカザフスタン・セメイ市に1週間近くホームステイすることになったためだ。核実験場の閉鎖記念式典に出席し、現地の10代の若者らとも交流する予定で、「原爆について語ってほしい」と依頼されている。

 祖父の話を聞き、有貴さんは「自宅前で実際に起きたことだと思うと、すごく怖かった。幼い頃の記憶なのに、ずっと心の中に残るほど原爆は恐ろしいものなのだと知った。カザフスタンの若者にも核は人間を苦しめ続けると伝えたい」と話す。

 中原さんも「原爆についてさらに知識を増やさないと、本当のむごさは語れないと思うようになった」と話し、生涯で初めて被爆者団体に出向いて原爆被害について勉強を重ねようと決めた。

 被爆71年。2人は原爆の実相を伝えるため、新たな出発点に立つ。

最終更新:8月7日(日)9時10分

毎日新聞

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コメント: 2
  • #1

    綾野と信子 (木曜日, 15 9月 2016 17:46)

    青い空・動かない・ 真昼 ・16歳の幼い命。ピカドン。ビキニ。ピース。忘れないで、歩いて行きたい日本人。何をしても生きる。戦争をうらまず誰とも争わず。

  • #2

    ナチス水晶の夜 (木曜日, 22 9月 2016 18:57)

    ヒトラーが、始めた戦争で5500万人の尊い命が亡くなった。許されない独裁者だ。しかし、そいつもまた人間で決してモンスターでは無かった。人の心には、残虐性が潜んでいる。自己コントロール出来なくなれば人間失格。常に己に厳しく生きたいものだ。