酒井商店【3.11 東日本大震災】四年をむかえて。酒井新

こんばんは。

 

いつもご覧頂き、有難うございます。

酒井商店の酒井です。

 

毎回、大したブログではありませんが、

読んで頂き、また、顔もお会いした事のない方々から色々なお言葉を頂き、本当にありがとうございます。

 

本当でしたら、毎日更新しなくてはいけないのですが、

気が向かないとなかなか文章を打つ気にならずに、そうしている間に1日、2日、1週間、とたってしまっています。

 

今日は、あの東日本大震災から丸4年経ちました。

 

2、3日前から特集番組が放送されています。

 

また、明日になれば違う番組が放送される事でしょう・・・・・

 

何か報道の矛盾を感じる瞬間でもあります。

 

今回、ブログに3人の方から書き込みを頂きました。

 

東北復興支援ご苦労様です。居酒屋の親父です。あの日の辛さを風化させない為に。お願いします。

 

トラック野郎さま。ありがとう。まだ見つかって無い先生や子供達に成り代りお礼致します。四年経ちましたがまだまだ問題は山ほどあります。御支援宜しくお願い致します。

 

もう一度、家族に。もう一度だけ、会いたい。

 

と3名の方から頂きました。

 

前にも話をしましたが、

皆さんが思う程、すごくも立派な人間でもありません。

幼児期に観たトラック野郎の劇用車「福の神」のごみ収集車を見て、憧れを抱き、

小学校の頃はずっ~とごみ収集車に夢中でした。

それがきっかけとなり、10代半ばのアルバイトは産廃業者で働きました。

 

危険、汚い、キツイと呼ばれる業界で、周りの同級生やその家族、近所の人など一部の人に偏見みたいな変な目で見られていた気もします。

 

少し道を外しかけた時もありました。

自分は何も気にしてなかった・・・・・って言えば嘘かもしれませんが、

汗水たらして働けば、金になる。

ごみ屋は一生なくならない。

天職だと。

 

その時、実感しました。

 

いつか、小ばかにしているあいつらを見返してやる。

人に笑われる社会の底辺みたいな仕事で、俺は必ず天下を取る。

みたいな事を抱き、独立しました。

 

その当時、稼ぐどころか燃料代もままならない自分はとある産廃屋の社長と出会い、回収した屑鉄をくれると言うのです。

ちょうど夕方、屑鉄を取りに行くと、

出入りしていた産廃屋の社長は、毎日夕方になると、ビシッとした格好にスーツを纏い、ピカピカのベンツを颯爽と走らせ、

毎回の様にとっかえひっかえ綺麗な女性を乗せてはゲートから入って来ては、泥まみれになって積込している自分に缶コーヒーをくれます。

 

とある日、電線の山がありました。

それも持って行っていいとの事でした。

 

翌日、屑屋さんに持ち込み、換金し、あまりにも金額が張ったので、

半分を茶封筒に入れて渡した時の事です。

 

「あ、酒井ちゃん、銭はいらねぇよ。」

「お前が足しになれば、いいだろうよ。」

「俺も昔、お前くらいの時、みんなに助けて貰ったんだよ。」

「だから、今度は俺がお前にする番だ、お前が儲けたら今度は下っ端にしてやれ。」

と茶封筒をおり、俺の胸ポケットに返して来ました。

 

少し戸惑っていると・・・・・

そこの社長は

こういいました。

「日本人の持つ、結の心だ」

関東大震災も戦後も阪神大震災も何もかも日本人は助け合いで生きて来た。

お前もそういう大人になれ。

と話して、ベンツで颯爽と夜の街に消えていきました。

その頃からですね・・・・・・

 

「世の為、人の為、みんなの為・・・・・」

やれば、必ず誰かが見てて、評価してくれる

と思いながらやって来ましたね・・・・・・

 

やっと、何とか会社が形になるつつある時に

東日本大震災が起こりました。

 

同じ日本に生まれて、日本で育ち、日本に暮らしている。

その中で困っている人がいれば、手を差し出す。

100%は出来ないかも知れません。

 

被災地全てに物資を配りにはいけません。

欲しいものすべてを配り、思いを聞きとり、実現出来る訳でもありません。

 

前にも言いました。

本当に東北の被災地の被災した人の気持ちにはなれません。

でも、同じ人間として何かしたい、出来る事を出来るだけ・・・・・

 

俺らみたいに東北に荷物を運ぶ人、ボランティアで写真を洗い、まとめる人

被災地で高齢者のお世話をする人、イベントを企画する人、4年たった今の景色を目にする為、出かける人。

 

きっと、今日から何か出来る事はあるはずです・・・・・・

 

俺は関係ねぇや・・・・・

私は知らない・・・・・

 

で済ませないで下さい。

 

原発もまだまだ終息していません。

福島の大熊町、双葉町の一部はあの日のまま、

時計が止まったままになっています。

自分の故郷に許可なく入る事すら出来ません。

先祖が築いた土地や家、楽しい時間を過ごした家財道具や乗り物がいまもなおそのままになっています。

持ち出す事すら出来ません。

 

原発のせいです。

福島で会った人が「原発さえなければ、くそったれ・・・・・」

と涙を流して、唇をかみしめていました。

 

東電が原発で発電した電気を首都圏で使っているこの現実。

その犠牲になっている人の事も少し考えませんか?

 

これから、5年、10年と毎年3月11日を迎えます。

 

その時、あの時と一瞬でも思い出して頂けませんか?

 

今日は長文ですみませんでした。

 

コメント頂いた方には、本当にお礼を申しあげます。

 

自分も大切な人が多くいます。

その人が突然仏になってしまったら・・・・・・

会いたいですよね。

会いたいよな・・・・・

思い、察します。

 

世間が忘れても、俺達はわすれません。

風化もさせないから、居酒屋頑張って下さい。

 

被災地の方の方がつらい思いをしているのに、みんなに代わってお礼頂き、ありがとうございます。

出来る事は大したことはありません。

でも、俺達の記憶や見たもの、聞いたものは残して行こうと思います。

 

これからが本当の復興の小さな一歩です。

行方不明の方々、早く暖かい家族もとへ帰れる日を・・・・・

仮設がなくなり、早く暖かく、快適な暮らしに戻れる日を・・・・・

 

福島の大熊、双葉に1日も早く明りが灯る日を・・・・・

 

全ての人々が笑顔で笑える日を・・・・・

 

祈ります。

 

 

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コメント: 3
  • #1

    名無し (木曜日, 12 3月 2015 22:22)

    コメントさせて下さい。読んでいて泣けました。顔も知らない人達が、支援の絆で繋がっている。私も、この4年間1日も忘れた事はありません。思い出す事が苦しいです。泣いて、泣いて、泣いて、泣いて。海が憎いです。母と妹を返して下さい。遺体もまだ見つかっていません。私だけ生き残ってしまいました。どうか一生のお願いです。生きる希望を教えて下さい。気持の復興はまだです。何も変わってません。苦しいままの春が来ます。

  • #2

    がんばらなくていいよ。 (金曜日, 13 3月 2015 08:39)

    私も、母の携帯に4年間毎日毎日、かけてしまいます。鳴るはずのないのに。あきらめきれない思い。わかります。後追い自殺した人達の気持ちわかります。でも幸せになって下さい。亡くなられた家族の分まで。貴方は生かされたのだから。頑張らなくていいから。泣いてもいいから。生きて幸せになって下さい。お願いします。

  • #3

    ご支援ありがとう御座います。 (土曜日, 14 3月 2015 12:25)

    東日本大震災にて。

    私は岩手の宮古市に住んでいて地震がなければ
    高校1年生でした。


    今回の地震で両親と兄そして彼氏を亡くしました。

    2番目の兄はまだ行方不明です。

    私は津波が来たときは高台にいました。

    目の前で思い出の場所がどんどん崩れて行きました。

    その時の映像がすさまじい音が目、耳にこびりついて
    離れません。

    1週間近くは眠れずに1人で起きてました。

    怖くて怖くて……
    避難所の犠牲者の名簿に両親と知り合いの名前が
    刻まれていて今でも受け入れられてません。

    兄は近くの避難所にいる友達のお母さんが犠牲者
    の名簿から見つけてくれました。

    彼氏は8歳年上ですごく優しくて何度も結婚しよ
    うってゆってくれていたとてもいい人でした。

    3月28日に初めて会った彼氏のお母さんが
    私に亡くなったと教えてくれました。

    彼氏の遺体が見つかってから
    ずっと私を探しつずけてくれいたそうです

    彼氏の遺体は決して綺麗なものではありません
    でした。

    至る所に血痕がありました。

    そんな私に彼氏のケータイをくれました

    「ごめんね。俺はもうダメかもしれない。

    もし俺がこの世から消えても彩芽は一人で
    歩けるよ。

    俺は彩芽に逢えて幸せだった。

    ずっと愛してるけど他の奴と結婚して俺の分も
    幸せになってください」

    こんなメールが保存されていました。

    今でも涙が止まりません

    せめて、2番目の兄が何処かで生きていてくれれば…

    普段、恥ずかしくて言えなかったけど
    この家族に生まれてきてよかった。

    お父さんへ
    こないだケンカしたっきりもう謝れなくなっちゃったね
    ごめんね。

    お母さんへ
    受験のことでたくさんケンカしちゃったけどせめて
    入学式で新しい制服姿を見てほしかったな
    お母さんの料理がまた食べたいな。

    お兄ちゃんへ
    お兄ちゃんとの恋バナ楽しかったな。
    もっと言いたいことたくさんあったのに…
    勉強もたくさん教えてくれてありがと
    自慢のおにいちゃんだよ

    短い間いっぱいケンカして泣いて笑って辛いことも
    楽しいことも全て分け合って生きていれたことに
    今さらだけどキセキを感じました。

    これから何度も泣くことがあるかもしれない
    何度も挫けることがあるかもしれない

    精神状態も不安定でお医者さんから睡眠薬を貰って
    ようやく眠れるようになりました。

    ご飯はたくさんもらえるけど体が受け付けてくれず
    に吐いてしまいます。

    それだけど私は家族の分、彼氏の分、友達の分、
    精一杯生きます。

    だから、1歩踏み出す力をください

    PS:

    先週、想い出を探しに家があった場所に行って
    みたら2番目の兄がいました

    無駄だと思いながらもきてみたそうです

    兄も彼女や大事な友達をたくさん失いました。

    今は辛い想しかないけど地震以来初めて笑顔に
    なれました

    これからは私の亡くなった幼なじみのご両親と
    一緒に暮らします。

    生きたくても絶命した方のためにせめてこれを
    みてくださった方だけでも命を無駄にしないで
    ほしいです。