NHK連続テレビ小説「マッサン」  竹鶴政孝・鳥井信治郎の感動ドラマ   ニッカウヰスキー/サントリー

NHK新朝ドラ『マッサン』のモデル 竹鶴政孝とリタ夫妻の「ちょっといい話」

麦の唄 c/w 泣いてもいいんだよ / 中島みゆき (Short ver.) [公式]

9月29日に始まるNHK朝の連続ドラマ『マッサン』は、「日本のウイスキーの父」と呼ばれた竹鶴政孝と妻リタがモデル。玉山鉄二と朝ドラ初の米国人ヒロイン、シャーロット・ケイト・フォックスが夫妻を演じます。脚本は『フラガール』『パッチギ!』の羽原大介。山あり谷ありの夫婦劇が情感豊かに描かれそうですが、実際の竹鶴政孝・リタ夫妻の歴史もかなりドラマチックです。

運命の出会い ~いつか日本のツヅミと私のピアノで合奏しましょう~

 明治27年、広島県竹原町の造り酒屋に生まれた竹鶴政孝は、大阪高等工業(現大阪大学工学部)醸造科に学び、洋酒づくりに人一倍の興味を持ちました。大正7年、卒業を待たずに当代一の洋酒会社、摂津酒造に入社。阿部喜兵衛社長の好意でスコットランドに留学し、グラスゴー大学や各地の蒸留所でウイスキーづくりを学びます。

 政孝が「忘れがたい運命」と呼ぶ出会いは、留学2年目の6月に訪れます。同学の女子学生の弟に柔術を教えようと出かけた家の長姉が、「リタ」の愛称で呼ばれるジェシー・ロベルタ・カウン。午後のお茶の席、問われるまま望郷の思いを打ち明ける「真面目で、少し不器用な異国の留学生」の孤独に、大戦で許婚者を失ったリタは自らの哀しみを重ねます。別れ際の約束は「いつか日本のツヅミと私のピアノで合奏しましょう」

 ひと月後、2人が合奏したのはスコットランド民謡の「Auld Lang Syne」、日本では「蛍の光」として親しまれる曲でした。リタの奏でるピアノに末妹ルーシーのソプラノが重なり、鼓を打つ政孝が「蛍の光、窓の雪」と日本語で唱和します。

 後日、研修でフランスを旅した政孝は、リタへのお土産に香水を贈ります。お返しはスコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩集。ページを繰れば、あの日ともに唄った「Auld Lang Syne」が収められていました。

 友よ、杯を上げよう。懐かしいあの頃のために。

猛反対を乗り越え ~指抜きが入っていた女性と、銀貨の入っていた男性は将来結婚する~

 その年、竹鶴はカウン家の家族とともにクリスマスの夜を過ごします。パーティのお楽しみは、プディングケーキの中に6ペンス銀貨と裁縫の指抜きを隠して将来を占う、スコットランドの家庭に伝わるゲーム。切り分けると、指抜きが入っていたのはリタのケーキ、そして銀貨は政孝に。占いの謂(いわ)れは「指抜きが入っていた女性と、銀貨の入っていた男性は将来結婚する」というもの。2人の心は、また少し近づきました。

「あなたが望むなら、私は日本に帰ることを断念してもよい。この国で仕事を探します」
「私たちは日本に向かうべきです。日本で本当のウイスキーをつくるマサタカさんの夢を、私もお手伝いしたい」
翌年、政孝のプロポーズに、リタは静かに、しかし力強く答えました。

 2人の結婚は、双方の家族の猛反対に遭います。戸主の承諾が必要な教会での挙式を断念し、政孝とリタはグラスゴーの登記所で結婚登録書に署名。家族で唯一の味方だった末妹のルーシーとリタの幼なじみ、そして登記官だけが立ち会う簡素な結婚式でした。

政孝雌伏の時代 ~やっと日曜日が安息日になりました~

 大正10年11月、政孝が3年ぶりに帰った故国は、大戦景気に沸いた留学前とは様変わりしていました。摂津酒造のウイスキー醸造計画も頓挫し、政孝は退社を決意。桃山中学に教師の職を得、リタも子どもたちに英語やピアノを教えて家計を支えました。政孝の雌伏の時代、リタは「やっと日曜日が安息日になりました」と周囲を笑わせたといいます。

 その後、政孝は旧知の鳥井信治郎に請われ、寿屋(現サントリー)に入社。京都・山崎に新工場を立ち上げ、試行錯誤の末、昭和4年に国産初の本格ウイスキーを完成させました。そして5年後、寿屋から独立した政孝は、「ウイスキーづくりの理想的環境」と着目していた北海道余市に、大日本果汁株式会社(現ニッカウヰスキー)を設立します。

故郷スコットランドを想わせる余市 ~鳴り響く「リタの鐘」~

 余市への移住を人一倍喜んだのはリタでした。三方に延びるなだらかな丘陵、朝夕の山裾にかかる靄。サケが帰る川やニシンの寄せる海……故郷のスコットランドとよく似た風景が、目の前に広がっていました。

 が、政孝の事業は苦戦続き。ウイスキーの熟成を待つ間の「つなぎ」として発売したリンゴジュースがふるわず、赤字会社の評判が蔓延しました。おりしもニシン漁が不振をきわめ、余市の町も活気を失いつつあった頃。リタは時刻を告げる鐘を鳴らそうと思い立ちます。朝8時と昼の12時、そして終業時間の午後5時。カウベルが鳴る毎日3回の時報は、後に町の人々から「リタの鐘」と呼ばれるようになりました。

 悲願のニッカウヰスキー第1号を発売した翌年、太平洋戦争が勃発。日本国籍を取得していたリタも、町を歩けば罵声を浴び、ラジオのアンテナを暗号発信機と疑われて訊問を受けます。小樽や札幌の教会を訪ねる際にも尾行がつき、函館では連絡船への乗船を阻まれました。

 軍事色一色の時代。「私の髪の毛や瞳が黒ければ」と弱音を吐きそうになっても、リタは日本人として生きようと努めます。着物を着て帯を結び、煮物もつくれば沢庵や梅干しも漬ける。イカの塩辛は、政孝が食べやすいよう、繊維に直角に切りそろえました。

 当時の男性の例に漏れず、かなりの亭主関白でもあった政孝を、リタは守り立て、尽くしました。が、帰宅時に夕食の膳が整っていないと機嫌が悪くなるくせに、ときに時間にルーズな夫を「夕食は家で食べるのか食べないのか、はっきり告げるのが男の礼儀ではありませんか」と諌めることも忘れませんでした。

 そんなリタの誕生日に、政孝は必ずメッセージを添えて本を贈りました。いまも旧竹鶴邸の書棚には、表紙裏に愛情いっぱいの言葉が記された多くの本が並んでいます。

 戦後、養子の威(たけし)夫妻の子供のために、リタはひと針ひと針ベビー服を縫い、ときには吊りズボン姿で煙突掃除に勤しみました。昼は作りたての弁当を綿入れに包み、自転車で工場に届ける。そんな毎日の息抜きは、午後3時のお茶。気分のよい日はバスケットを提げて、ピクニックに出かけました。余市の町を見下ろす美園の丘で、温かな紅茶を味わう午後。30年近く訪れていない故郷を、静かに思うひと時だったのでしょうか。

美園の丘に眠る政孝とリタ ~IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETSURU~

 いま2人は、美園の丘で静かに眠っています。「IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETSURU」に始まる墓碑銘は、2人の名前と生没年月日を政孝が刻ませたもの。昭和54年に政孝が没し、その日付が加わりました。政孝とリタが一緒に歩いたという、余市駅から蒸留所、リタの名前を冠した幼稚園を経て町役場に至る1.3kmの遊歩道は、昭和63年に「リタロード」と命名されました。ベニハナトチノキ、サルビア、マーガレット。リタの故郷スコットランドが1年で最も美しい6月に、この道もまた多くの花で彩られます。

(文責・武蔵インターナショナル)

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コメント: 1
  • #1

    ウイスキーボンボン (木曜日, 18 12月 2014 19:10)

    酒は、ウイスキーだね。焼酎なんか飲めないよ。正直うまいな。