【懐かしい昭和・芸能他】Apex product

4月6日はテレビアニメ『#UFO戦士ダイアポロン』放送開始48周年!
スポンサーは森永乳業、ブルマァク、アサヒ靴、昭和ノートなど。アポロン星人の末裔タケシと仲間たちが、悪のダザーン星人軍団に挑みます!
4月6日は『#電人ザボーガー』放送開始50周年!
「ダイモニウム」を狙う犯罪組織Σ団に、父・大門博士の生命を奪われた大門豊。形見のマシーン・ザボーガーは、バイク形態からロボット形態に変形し電人ザボーガーに! 豊は悪之宮博士率いるΣ団の殲滅を決意する。
4月5日は特撮テレビドラマ『#秘密戦隊ゴレンジャー』放送開始49周年!  今日まで連綿と続く戦隊シリーズの祖。圧倒的存在感のリーダー・赤、頼りになるクールガイ・青、怪力無双のムードメイカー・黄、爆発する健康美の才女・桃。若さで突き進む美青年・緑。歴史は彼らから始まりました♪
4月5日は特撮テレビドラマ『#仮面ライダーストロンガー』放送開始49周年です!
#荒木茂(#荒木しげる)#岡田京子
4月5日は特撮テレビドラマ『#仮面の忍者赤影』放送開始57周年!
原典は横山光輝先生の漫画。邪教「金目教」で人々を洗脳、武田信玄を騙し 権力を握ろうとする甲賀幻妖斉の野望を打ち砕くため、正義の忍者 赤影(赤垣源之助)・青影・白影は、幻妖斉の刺客たちと戦います!
4月4日は特撮テレビドラマ『#白獅子仮面』放送開始50周年!
本作は日本テレビ系で全13話に亘り放送。主演は #三ツ木清隆 氏。ジャケットのイラストは #古城武司 氏。主題歌「白獅子仮面のうた」は故 水木一郎氏のお気に入り。
4月2日は『#超人バロム1』放送開始52周年!
主人公は 知力の白鳥健太郎と勇気の木戸猛。「二人が不仲のシチュエーションでは変身不能」という設定の妙。グロテスクの極致 ドルゲ魔人デザインは悪夢を誘うほどに秀逸でした。(;゚д゚)
4月4日はテレビアニメ『#ゴワッパー5ゴーダム』放送開始48周年!
熱血漢の津波豪がサブリーダーで、冷静で紅一点の岬洋子がリーダーという、捻ったキャラ設定がユニークでした。
4月4日は映画監督 #長谷部安春 さんのご生誕日です。テレビ実写版『#ワイルド7』について生前 監督にお訊きしたところ「(第1・2話を)10日位で撮らなければならないのに、天気は悪いし凝り過ぎちゃって2カ月近くもかかってしまった」との由。ご存命なら今年92歳でした。合掌。
4月4日はアニメ『#勇者ライディーン』放送開始49周年。
テレビマガジン誌上では放送前に「ヒーロー命名懸賞」が実施され「エメランダー」などの候補を抑え「ライディーン」に決定!  美形悪役キャラ(プリンス・シャーキン)が主人公 ひびき洸の人気を凌駕する現象が起きました。
露口茂さん
(1932年4月8日-)
俳優。
東京府東京市生まれ(愛媛県育ち)。

太平洋戦争の影響で両親の故郷である愛媛県松山市に疎開し、同所で育ちました。
愛媛県立松山東高等学校卒業。
一学年下には俳優・映画監督の伊丹十三や作家の大江健三郎。
愛媛大学文理学部人文学科甲(文学課程英語・英文学専攻)に通いながら、
NHK松山放送劇団の劇団員として主にラジオドラマ(オーディオドラマ)等で活動。

先輩に誘われて愛媛大学を2年で中退し、
1955年に劇団俳優座演劇研究所付属俳優養成所に第7期生として入所、
井川比佐志、田中邦衛、藤岡重慶、山本學らと同期。

1958年俳優座養成所を卒業、「劇団新人会」に入団。

1959年、
古川卓巳監督の日活映画『逃亡者』で映画デビュー。

舞台を中心に活動する一方、
山田洋次監督の『霧の旗』、
今村昌平監督作品、
日活映画等やテレビドラマで、
悪役、犯人役、好青年まで幅広く演じる、
個性派の性格俳優として売れっ子に。

1972年7月から1986年4月迄の13年9ヶ月間、
691話にわたって、
刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で露口の代表作ともなった山村精一警部補(落としの山さん)を演じ、
以降暫く『太陽にほえろ!』のスケジュールのため約10年間映画から遠ざかり、
テレビのみの活躍に。

1980年:今村昌平監督『ええじゃないか』で約10年ぶりとなる映画出演。

1981年:TBSドラマ『父母の誤算』では自身初の連続ドラマでの主役。

1986年4月:放映開始から約14年間ずっと山さん役で出演した『太陽にほえろ!』を、
同年4月11日放送の第691話(スペシャル放送)「さらば! 山村刑事」の回を持って殉職という形で遂に降板。

『太陽にほえろ!』以降はかなりの2時間ドラマの主演やスペシャルドラマなどに出演。

1994年:『土曜ワイド劇場』「森村誠一の終着駅シリーズ」第4作となる「碧の十字架」に主演、
現在迄に俳優として、最後の主演作で出演作。
1995年:スタジオジブリの映画『耳をすませば』公開。
バロンの声の吹き替えを務め、
これが俳優/声優として、現在まで最後の仕事。
1990年代中期以降は終着駅シリーズを降板したり、
2001年の今村昌平監督の映画『赤い橋の下のぬるい水』で北村和夫の演じた役などのオファーを受けるも断る等表舞台からは遠ざかります。

現在は俳優業から引退状態。
野村芳太郎さん
(1919年4月23日-2005年4月8日)
映画監督。
父は野村芳亭。

父・芳亭は日本の映画監督の草分け的存在で、
松竹蒲田撮影所の所長も務めた人物。
その関係で、京都と東京を行き来して育ちました。
京都市生まれで、
生後まもなく東京市浅草区に移住。
蒲田小学校から暁星小学校、暁星中学を経て慶應義塾大学文学部芸術学科卒業。
大学卒業後の1941年、松竹大船撮影所に入社。
1946年に復員。
黒澤明作品の『醜聞』『白痴』では助監督を務め、
「日本一の助監督」と評価されました。
1952年の『鳩』で監督デビュー。
初期は会社の意向に従って喜劇から時代劇迄あらゆるジャンルの作品を手掛ける職人監督に徹していました。
野村の名を広めたのは1958年の『張込み』(主演は大木実)。
以降ショッキングな描写を伴う社会派的色彩の強いサスペンスを数多く撮るようになり、
名作を世に送り出しました。
1974年に監督した松本清張原作の『砂の器』ではモスクワ国際映画祭の審査員特別賞を受賞。
1978年、
松本と共に「霧プロダクション(霧プロ)」を設立。
松本清張作品の映画化を多く手掛けるも、
1983年の『迷走地図』で確執が生じ、
1984年に解散。
製作者としても『八甲田山』等を手掛けました。
1985年、紫綬褒章受章。
1995年、勲四等旭日小綬章受章。
2005年4月8日午前0時15分、
肺炎の為東京都内の病院で死去。
享年85。
藤山一郎さん
(1911年4月8日-1993年8月21日)
歌手、声楽家、作曲家、編曲家、指揮者。
位階は従四位。
本名ではクラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍。

東京府東京市日本橋区蛎殻町(現東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。
東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)を首席で卒業。
東京音楽学校で培った正統な声楽技術、歌唱法、音楽理論と、
ハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。
1930年代から1940年代にかけて
『酒は涙か溜息か』、『丘を越えて』・『東京ラプソディ』、『青い山脈』、『長崎の鐘』等、
数多くのヒット曲を世に送りました。
理論や楽典に忠実に歌った事から正格歌手と呼ばれ、
その格調高い歌声は「楷書の歌」と評されました。
1992年(平成4年)、
スポーツ選手以外では初めて国民栄誉賞を生前に受賞。
芦屋雁之助さん
(1931年5月29日-2004年4月7日)
俳優、歌手。
愛称は、雁ちゃん。
京都府京都市出身。
京都市立朱雀中学校卒業。

実家の家業は京都で友禅染の染物屋。
芸事、道楽事が好きであった父は戦後、
「若松家」の亭号を名乗り、
芸人として活動し始めるばかりか、
一座を組んで巡業の日々に。
父について芸をこなしながら、
一時、漫才師・五條家弁慶の弟子となり、
前座として中国の服を着て手品をしたり師匠と漫才や芝居の舞台に立ちました。
その後、
18歳の時に弟・秀郎と当時人気の漫才師、芦の家雁玉・林田十郎に弟子入りし、
「雁之助(清)・小雁(秀郎)」の名をもらうも、
弟子入りしてまもなく亭号「芦の家」を勝手に「芦屋」に変えたため破門(後に活躍が認められ破門を解かれます)。
その後京都の京都新京極の富貴、大阪の戎橋松竹中心に活躍、
「若手漫才の有望株」といわれ将来を嘱望されるも、
3、4年間コンビで活動したところで、
演劇評論家の武智鉄二の勧めで突然漫才をやめ、
1954年、
開場した「OSミュージックホール」に入り、
座付作者の花登筐のコントを演じるように。
以来、兄弟で喜劇役者に転身。
1959年、
花登が東宝から独立して結成した『劇団・笑いの王国』に大村崑らと参加。
劇団の主軸を支えました。
同年3月にスタートした毎日放送の公開コメディー番組『番頭はんと丁稚どん』で、
薬屋の番頭を演じ、
「強面で下の者には厳しい半面、裏に回ると『女性(今で言うところの「大阪のおばちゃん」、ただし当時はこの言い方はありませんでした)口調』を使い、
女性的な仕草を見せるキャラクター」で人気を集めます。
主なギャグに
「いやいやっ、もの凄いこと言わはる」、
「いやっ!えらいとこ見つかってしもうた」、
「わてが雁之助だんねん」等。
1960年3月1日、
大村、小雁とともに、
当時としては極めて珍しい3組合同による『テレビ結婚式』を挙げました。
最初の結婚相手は元・OSミュージックのダンサー・夏丘梨枝でしたが、その後離別。
1964年、
花登は劇団解散を決め、兄弟らは花登の下を離れます。
同年、小雁らとともに劇団「喜劇座」を旗揚げ。
座付き作家であった藤本義一から、
風貌が画家の山下清に似ている事を指摘され、
それをヒントに藤本が舞台劇『裸の大将放浪記』を書き上げ、初演。
評判に。
1969年、劇団解散。
その後は活動拠点を東京に移し、喜劇だけでなく、本格的な演技派俳優として、活動の幅を広げます。
1976年、
人気時代劇「必殺シリーズ」の『必殺からくり人』で山田五十鈴と共演。
1977年には同じく関西喜劇出身で、
必殺シリーズレギュラーだった藤田まことが旗揚げした「新演技座」に発起人として名を連ね、
一時在籍。
1979年、
森光子と共演した舞台『おもろい女』で芸術祭大賞を受賞、
代表作の1つとなり舞台での活動も精力的に行いました。
その一方で関西での喜劇舞台も継続、兄弟共演やミヤコ蝶々、かしまし娘らと共演。
1980年『裸の大将放浪記』(関西テレビ・フジテレビ系『花王名人劇場』→『花王ファミリースペシャル』)で、
かつて評判だった山下清役をテレビで再び演じる事となり、これ以降の当たり役に。
1984年2月1日に発売した、
演歌歌手としてのシングル『娘よ』が150万枚を超える(オリコンでは約80万枚)大ヒットとなり、
同年末の『第35回NHK紅白歌合戦』に初出場。
大阪制作・全国ネットのドラマにも多く出演。
この年『佐渡島他吉の生涯』と『裸の大将放浪記』で第10回菊田一夫演劇賞を受賞。
1994年頃から持病の糖尿病が悪化、
静養しながらテレビや舞台出演を継続。
2004年4月7日午後2時、
鬱血性心不全の為京都市上京区の京都第二赤十字病院で死去。
72歳没。
ペギー葉山さん
(1933年11月9日-2017年4月12日)
女性歌手、タレント。
社団法人日本歌手協会7代目会長(後に名誉会長)。

東京都新宿区出身。
青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)卒業。

学校卒業後の翌1952年11月にキングレコードから「ドミノ/火の接吻」を発売し、
レコードデビュー。
1954年には「第5回NHK紅白歌合戦」に紅白歌合戦初出場。
1955年2月には初渡米。
各地で歌い、盛況を博します。
1958年、
ミュージカル『あなたの為に歌うジョニー』で芸術祭個人奨励賞受賞。
翌1959年には「南国土佐を後にして」の空前の大ヒットで、
ジャズ/ポピュラー界だけではなく歌謡界においても、その地位を不動のものに。
1960年、
オーストラリア/ゼネラルテレビの招きで、
テレビ番組『今宵のメルボルン』に1か月間レギュラー出演。
同年の8月には
ロサンゼルスの日米修好百年祭に日本人代表として招かれ、
この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。
帰国後、
自身の作詞で同ミュージカルの劇中歌「ドレミの歌」をペギー自身の訳詞で紹介。
ペギーの訳詞・歌唱による「ドレミの歌」はNHK「みんなのうた」でも使用され、
音楽の教科書にも掲載される等、国民に広く知られています。
しかし、
生来病弱であったことに加え、
その人気による過密スケジュールから、
1963年の春に気胸を患い半年間の療養を余儀なくされましたが、
病気療養中に「ラ・ノビア」「爪」もヒットした事も幸いし、
ブランクをものともせず無事復帰。
又、
復帰翌年の1964年には「学生時代」がロングセラーとなり、
人気の健在ぶりを示しました。
1965年に俳優の根上淳と結婚、
1968年には長男を出産。
甥はROUTE 66とTHE CHAPPYSでボーカルを務めた森雅裕。
根上とは、芸能界きってのおしどり夫婦で知られ、
1998年に根上が糖尿病の合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなる迄歌手業の傍ら在宅介護を続けました。
1966年の「第17回NHK紅白歌合戦」では、紅組司会。

タレントとしての活動も多くこなし、
知られているものでは
NHK紅白歌合戦の紅組司会(1966年の「第17回NHK紅白歌合戦」)や
「歌はともだち」(NHK)の司会に、
「ひらけ!ポンキッキ」(フジテレビ)のしつけコーナー、
「ウルトラマンタロウ」のウルトラの母の人間体である緑のおばさんとしても知られます。
1974年には司馬遼太郎に続き、
2人目となる高知県名誉県人の称号を贈られました。
又、ペギーが歌手生活60周年を迎えた2012年には
高知市のはりまや橋公園に「南国土佐を後にして」の歌碑が設置され、除幕式に出席。
よさこい祭りの全国コンクール(毎年8月12日)においては、
葉山の名前を冠したペギー葉山賞が優秀チームに贈賞されています。

1991年、
『It's Been A Long Long Time』(キングレコード)の録音でハンク・ジョーンズ、ケン・ペプロウスキーと共演。

1995年に紫綬褒章、
2004年には旭日小綬章をそれぞれ受章。

2007年6月からは、青木光一の後を継ぎ、
社団法人日本歌手協会7代目初の女性会長に就任し、2010年6月末日迄務めました。
一般社団法人移行後は理事職。
2014年6月には、
田端義夫・青木光一に次ぎ3人目となる名誉会長に就任。

2010年に発売した「夜明けのメロディー」(ラジオ深夜便のうた)は、
『ラジオ深夜便』で初オンエアされて以来リスナーを中心に高く評価され、
1971年発売の「雲よ風よ空よ」以来約40年ぶりのオリコンチャートインを果たす快挙を成し遂げ、
登場回数も30回にせまりロングランも記録。
その他、
NHK「みんなのうた」等でも歌声を聴かせています。
歌手としての活動の他、
日本歌手協会役員としての業務、
亡夫の介護体験をもとにした講演など多方面で活動。
デビューから60年を迎えてもなお、第一線で活躍し続けました。
2017年4月12日、
肺炎により東京都内の病院で死去。
83歳没。
大平透さん
(1929年9月24日-2016年4月12日)
声優、俳優、アナウンサー。
身長180cm。
日本俳優連合副理事長。

東京府荏原郡蒲田町(後の東京市蒲田区、現・東京都大田区)出身。
父が、タイヤ修理工場、雑貨商を営む事になった関係から生後8か月でインドネシアに移住し、
5歳まで姉と共にジャワ島のバンドンで過ごします。
帰国後は蒲田区で過ごしましたが、
住んでいた家屋が防火帯工事に伴う立ち退き対象にされた為、
これを契機に疎開を兼ねて父親の故郷である観音寺市に移住。
東京府立第二十二中學校(後の東京都立城南高等学校、現:東京都立六本木高等学校)に進学。
終戦直後の中学4年生の時に東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)洋画科を受験するも落ち、
終戦後は東京に一家で戻り、同高校を経て、
露天商、闇屋の手先のようなバイトをしながら、
明治大学政治経済学部に進学。
肺結核に罹患した為、3年間休学。
1952年に「ルーテル・アワー(日本ルーテル・アワー)」専属アナウンサーでデビュー。
大学は夜学に転籍して、
仕事と並行しながら1954年に卒業。
その後、フリーアナウンサーを経て、
ニッポン放送開局と同時にフリーのアナウンサー・制作プロデューサー・ディレクターとして、
週2本のドキュメンタリーを制作。

1955年、
ラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)開局と同時にTBS放送劇団へ入団、
フライシャー・スタジオ制作短編アニメシリーズ『スーパーマン』を再編集した『まんが・スーパーマン』で日本のテレビ史上初の日本語吹き替えを行い、
翌年には実写版テレビシリーズ『スーパーマン』で主演のジョージ・リーヴスの吹き替えを担当。
好評を博すも、
リーヴスがスーパーマン以降のキャリアが伸び悩み自殺に至った事から、
1960年に小林清志に引き継がせて降板。

1958年、TBS劇団解散に伴いフリーとなり、
1963年に大平プロダクションを設立。

1982年からは大平透声優ゼミナールを開校し、後進の指導にあたっていました。
この間には、
『スーパーマン』等のシリアス路線から
『恐妻天国』のフレッド・フリントストーン役や
『ハクション大魔王』のハクション大魔王役等の主役に抜擢され、
コメディ路線の新境地を開拓。

1989年には
『笑ゥせぇるすまん』の主役・喪黒福造役やディズニーキャラクターのピート役に抜擢され演じており、
最晩年に病気療養で降板するまで専属で担当。

2000年8月26日、妻と死別。

2005年頃には体力の衰えを感じ引退を考えるも、仕事をしていたスタッフの後押しを受けて病気療養するまで現役で活動し続けました。

2007年3月3日、
第1回声優アワード功労賞を受賞。

2013年には、
第7回声優アワードで森功至、小原乃梨子、岡本茉利と共に「シナジー賞(タツノコプロ50周年)」を受賞。
3月23日、24日に開催された「東京国際アニメフェア2013」では第9回功労賞を受賞。

2015年頃から体調を崩しがちになり、
同年12月からは病院でリハビリに入った為、
持ち役には代役が立てられ、
同年12月14日、ディズニー主催の謝恩会に出席。
これが公の前に現した最後の姿となりました。
2016年4月12日、肺炎で死去。
86歳没。
学生時代、中野の銭湯に通いました。夜9時ころがピークで洗い場には行列ができていたことを思い出しました。
シンガーソングライターの高原兄さん😁

アラジンの元ボーカルで、完全無欠のロックンローラーが大ヒットしました。

解散後はラジオのパーソナリティなどを勤めたりしました。

1959年4月10日生まれ😁

お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
加山雄三さん
(1937年4月11日-)
歌手・俳優。
身長175cm。
神奈川県横浜市生まれ、茅ヶ崎市出身。
ニックネームは若大将。
作曲家として弾厚作のペンネームを用い、
公益財団法人日本セーリング連盟応援団長、
文化功労者。

茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校、
茅ヶ崎市立第一中学校、慶應義塾高、
慶應義塾大学法学部政治学科卒業。

職業はタレント業の他、
音楽家としてはギタリスト、ピアニスト、ウクレレ演奏者として、この他画家としても活動。
勲等は旭日小綬章。

父は俳優の上原謙(池端清亮)、
母は女優の小桜葉子(池端具子)。
妹は池端亮子。
母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視。
妻は元女優の松本めぐみ。
長男は、池端信宏(映像作家)。
次男は、加山徹(俳優)。
長女は、梓真悠子(タレント・料理研究家)。
次女は、池端えみ(女優)。
野村芳太郎監督作品…

寅さん以前の…
渥美清が…観れる😀
個人的に…
喜劇映画の歴史に残る
傑作だと思います😀🇯🇵
元歌手の桜田淳子さん😁

スター誕生出身です。

天使も夢みるでデビューされました🎵

その後もわたしの青い鳥などのヒット曲をリリースされています🎵

森昌子さん、山口百恵さんと花の中三トリオと呼ばれました。

1958年4月14日生まれ💨

お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
三波春夫さん
(1923年7月19日-2001年4月14日)
新潟県三島郡塚山村(現・長岡市)出身の浪曲師、演歌歌手。
紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。
自身の長編歌謡浪曲等の作詞・構成時のペンネームとして、
「北村桃児」を用いました。
俳号は「北桃子」。

戦後昭和の歌謡界黄金期を代表する歌手の一人。
元浪曲師・南篠文若としての経歴を活かし、
浪曲を題材に自ら創作した歌謡浪曲を得意としました。
特に「元禄名槍譜 俵星玄蕃」に代表される長編歌謡浪曲は、
三波ならではの至芸とも評されます。
いつも絶やさぬ朗らかな笑顔と浪曲で鍛えた美声で知られ、
歌謡曲の衣装に初めて和服を使用した男性歌手。
自らの芸と観客に対する真摯な姿勢は、
あまりに有名な「お客様は神様です」のフレーズを生む基盤ともなりました。
デビューの翌年、
1958年のデビューで同じ浪曲師出身の村田英雄とは長年ライバル同士とも位置付けられ、
両者の間には様々なエピソードが生まれました。
1994年に前立腺がんの診断・病名告知を受け、
死去迄の7年間、
家族や近しい関係者以外にはその事実を隠し通し、
闘病を続けながら最晩年迄精力的に音楽活動を継続。
タレント・俳優・歌手の三波豊和は長男。
死後に解散した所属事務所「株式会社三波プロダクション」の継承会社、「株式会社三波クリエイツ」代表取締役・八島美夕紀は長女。
神田隆さん
(1918年4月14日-1986年7月13日)
俳優・声優。
東京府東京市赤坂区(現・東京都港区赤坂)出身。

東京帝国大学文学部仏文科を卒業。
1942年に日本出版文化協会に入り、
映画評論家に豪快なマスクと雄弁を注目されて、
1943年(昭和18年)、松竹大船撮影所に入社。
映画『暖き風』でデビューし、
戦後は『象を喰った連中』の細菌研究所員役で好評を得ました。
新藤兼人脚本の『安城家の舞踏会』等で主要な役を演じますが、代表作には恵まれず。 
1950年(昭和25年)に連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの波が映画界にも及ぶと、
神田も追放者としてリストアップされ、
結果的に同年で松竹を退社。
1951年、キヌタプロの創立に参加。
その後は独立プロの映画に出演し、
東京俳優協会を経て、1955年に東映へ移籍。
『警視庁物語』シリーズをはじめ、
多くの作品で渋みのあるベテラン刑事や会社の部長などを演じました。
1970年代に入るとテレビドラマの時代劇や刑事ドラマで悪役や黒幕・犯人役の仕事が増え、
次第にそのイメージが定着。
一方で、
『マイティジャック』『怪奇大作戦』『ミラーマン』『仮面ライダーシリーズ』『ロボット8ちゃん』等の特撮にもゲストや準レギュラーとして出演。
『ウルトラマンレオ』では3回のみの登場ではありますが、
誠実で見識も高い、
防衛隊MACの最高責任者の高倉司令官を演じています。
政治家の佐藤栄作に顔立ちがよく似ている事から、
映画『金環蝕』、『不毛地帯』では、
佐藤がモデルとなっている政府高官を演じています。
1985年ごろから狭心症を患いその影響でエスカレーターで発作を起こすように。
そして1986年7月13日午前7時5分、
『必殺仕事人V・激闘編』最終回の撮影後、
東京へ帰宅途中に京都駅のエスカレーターで転倒し、
京都市内の病院に搬送されましたが、
そのまま帰らぬ人に。
68歳没。
#4月16日

#チャップリンデー
喜劇俳優・チャールズ・チャップリンの誕生日。

『#犬の生活』(いぬのせいかつ、A Dog's Life)は、1918年公開のサイレント映画。ファースト・ナショナル(英語版)による製作で、主演・脚本・製作および監督はチャールズ・チャップリン。チャップリンの映画出演64作目にあたる。

犬の重要性を理解していたチャップリンは、1916年12月の時点で「喜劇センスの優れた犬を求む」と題された記事の中で喜劇向けの犬を探すことに苦労していることを語っている。チャップリンによれば雑種犬が大本命であり、ダックスフントやパーヴァイアンスが連れてきたポメラニアン、ポメラニアンと入れ替えで持ち込まれたプードル、さらにやってきたボストン・テリアやブルドッグといった一流の品種はまったく気に入らなかった。ついにはロサンゼルスの野犬場から21匹も持ち出すこととなったが、近隣住民から苦情が出てその数を半減せざるを得なかった。試行錯誤の末に起用されたのは、「マット」と命名された雑種の小型犬であった。

Wikipediaより
子供の頃に連れてってもらった場所。
[谷津遊園]。
以前に投稿した[船橋ヘルスセンター]と同じく千葉にあった娯楽施設でした。
始まりは1925年(大正14年)に[京成遊園地]として開園しました。
1982年(昭和57年)に閉園するまで57年も続いた場所でした。
千葉に住んでる自分としては子供の頃に[船橋ヘルスセンター]と一緒で連れてってもらって楽しんでました。
今は[谷津バラ園]になってしまいました。
やはり昭和を感じさせる遊園地でした。
ちなみに第30作の[男はつらいよ花も嵐も寅次郎]では谷津遊園でロケをしてるので懐かしく見れました。
桑田二郎さん
(1935年4月17日-2020年7月2日)
漫画家。
大阪府吹田市出身で、
晩年は茨城県鉾田市(旧鹿島郡大洋村)に居住。
絵のシャープな美しさで知られます。
代表作は『まぼろし探偵』『月光仮面』『8マン』等。

子供の頃は
『のらくろ』(田河水泡)や『タンクタンクロー』(阪本牙城)、『長靴の三銃士』(井元水明)等、
「少年倶楽部」や「幼年倶楽部」の漫画を愛読。
1948年、
13歳の時に『奇怪星團』(青雅社)で貸本漫画デビュー(最年少記録)。
病気で職を失った父の代わりに家計を助けるも苦しい生活状況で高校進学がかなわず、
中学3年生で単身横浜に越し、雑誌の漫画を手がけるように。
1957年に『まぼろし探偵』(「少年画報」連載)、
1958年、
『月光仮面』(「少年倶楽部」連載)がヒット、売れっ子漫画家に。
1963年より「週刊少年マガジン」(講談社)で平井和正原作の『8マン』の連載が開始され、
テレビアニメ化もされるなど大きくヒット。
しかし1965年に自殺用に所持していた拳銃による銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反で逮捕されたため連載は打ち切り。
1年後には川内康範原作の『黄色い手袋X』(「月刊ぼくら」講談社)のコミカライズで復帰、
その後も『ウルトラセブン』(「少年マガジン」)や『豹マン』のコミカライズ、平井和正原作の『デスハンター』などの作品を発表。
1977年、
42歳の厄年を境に少年漫画界から身を引き、
精神世界の漫画化を始めました。
般若心経に興味を持っていた事を知った出版コンサルタントのアドバイスで、
これをテーマにした本を出したところ、ヒット。
2020年7月2日、老衰のため死去。
85歳没。
武内つなよしさん
(1922年2月26日-1987年4月17日)
漫画家、小説家。
神奈川県横浜市出身。
代表作に『赤胴鈴之助』、『少年ジェット』。

太平洋美術学校で絵を学び、
終戦後は紙芝居作家として活動した後、
1952年『燃えない紙』(「探偵王」8月号)で漫画家デビュー。
1954年、
『イガグリくん』等の作品で知られた福井英一が「少年画報」に『赤胴鈴之助』の連載を開始、
第一回が掲載された直後に急死した為、
これを描き継ぎ、大ヒット作品に育て上げました。
1957年にはラジオドラマ化を皮切りに、
映画化、そしてテレビドラマ化と立て続けに他メディアに進出。
更に1972年にはアニメ化。
又、
1959年から「ぼくら」に連載された『少年ジェット』はテレビドラマ化され大人気となり、
連載も3年間継続。
1970年、
日本文華社「特集漫画トピックス」では、
青年になった鈴之助が性に目覚めて悶々とする続編『青年赤胴鈴之助』が描かれています。
又1972年、『鈴之助』がアニメ化され武内自身の手でリメイクの上、
小学館の学年別学習雑誌に1年間連載された際も、
アニメ版と全く異なる展開と迫力ある絵が人気に。
晩年には『小説 赤胴鈴之助』等の小説にも挑戦。
又、古典落語の漫画化や『まんがでわかる新道交法』などのハウツーもの等、
最後迄創作意欲に衰えを見せず。
1987年4月17日、肺癌のため死去。
65歳没。
横山光輝さん
(1934年6月18日-2004年4月15日)
漫画家。
兵庫県神戸市須磨区出身。
代表作に
『鉄人28号』『伊賀の影丸』『仮面の忍者 赤影』『魔法使いサリー』『コメットさん』『バビル2世』『三国志』等々多数。
長年にわたり幅広いジャンルで活躍し、 手塚治虫、石ノ森章太郎などと並び称された漫画界の巨匠の一人。