二つの祖国 将来案じ 山口淑子さん死去

 祖国の日本と、生まれ育った中国。日中のはざまで翻弄(ほんろう)されながら、激動の時代を駆け抜けた山口淑子(よしこ)さんが、九十四年の生涯を閉じた。女優「李香蘭(りこうらん)」として、数奇な運命をたどった過酷な体験から、心の中にはいつも戦争への憎しみがあった。

 首に巻いたカラフルなスカーフが印象に残る。年を重ねるにつれ、「大和なでしこ」として身だしなみに気を使っていた。

 旧満州(中国東北部)で中国語を教えていた父に連れられ、三歳から北京語を学ぶ。「子どものころから日中のレールの枕木の一本になり、親善に役立ちたいと思っていました」。一九九二年九月に本紙が取材した際、日中両国への思いがひしひしと伝わってきた。

 「中国は私のふるさと」と断言する山口さん。北京の女学校時代、抗日集会で「日本軍が迫ってきたらどうするか」と決意表明を迫られた時、「北京の城壁の上に立つ」と答えた。日中双方を愛するので、どちらの側にも立てない。むしろ両軍の弾に当たって死んだほうがいいと思い詰めた末に発した言葉だった。

 日本の土を初めて踏んだのは三九年、十八歳になっていた。客船で山口県下関市に到着し、入管でパスポートを見た職員から「支那語(中国語)をしゃべって恥ずかしくないのか」と怒鳴られ、大きなショックを受ける。「なぜ差別をするのだろう。日本人は度量が狭いのかも」。山口さんにとって、生涯忘れることのできない事件だった。

 完璧な北京語と美貌は李香蘭という銀幕の大スターを誕生させ、最後は漢奸(かんかん)(売国奴)のレッテルを貼られる。日本語が上手な中国人女優。一般庶民は山口さんの映画を鑑賞し、「蘇州夜曲」「夜来香(イエライシャン)」の名曲を聴いても中国人としか思えなかった。

 敗戦。李香蘭、川島芳子(男装の麗人)、東京ローズは旧日本軍に協力した「三大文化漢奸」とされたが、山口さんは間一髪で一命を取り留めた。戦後も女優、司会者、参院議員として華やかな舞台に立ち続けた。

 戦後六十年の二〇〇五年の夏。首相の靖国神社参拝をめぐる議論について本紙が取材した際、山口さんは「自国の加害行為に目をつぶり、独り善がりの美しい歴史につくり変えてはいけない」と穏やかに訴えた。

 靖国神社はホームページで、一八九四(明治二十七)年の日清戦争から日中戦争、太平洋戦争までの戦争を「皮膚の色とは関係ない自由で平等な社会を実現するため、避けられなかった戦い」などと説明していた。

 これに対し、山口さんは「『アジアを解放するための戦争だった』というのは後から付けた理屈だった。日本には当時、アジア蔑視の考え方があったのに、『アジア解放』と言っても理解されない」と話していた。

 中国との感情的な衝突が続く中、最期まで「二つの祖国」の将来を案じていた。

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コメント: 1
  • #1

    日中平和を願う。 (月曜日, 15 9月 2014 13:35)

    大変な御苦労されて来た方なので、どうぞごゆっくり安らかにお眠り下さい。御冥福を御祈り申し上げます。