Apex product 【 青空と向日葵の会 】 サークル活動!!
【 落 語・漫才 】 お笑い!! 大好き!!






1960年代に第一次お演芸ブームがあった。テレビのコンテンツとして、各局は寄席に目をつけた。寄席では漫才や漫談、音曲は落語の前座だったが、テレビ的であり、コント55号やトリオ・ザ・パンチ、ドンキーカルテットなどの寄席とは違うテレビ的スターを産み出すことになる。一方、芸としての落語はテレビ的ではなかったのだが、小円遊、歌丸、圓楽、円鏡、歌奴などの二つ目は水を得た魚のようにテレビの中で飛び跳ねた。牧伸二司会の『大正テレビ寄席』米丸司会の『日曜演芸会』東京ぼん太司会の『お茶の間寄席』が演芸ブームをけん引した。牧伸二や東京ぼん太はこの司会でスターになった。『お茶の間寄席』は15分番組にもかかわらず、圓生、志ん生、文楽などを登場させ、芸を冒とくしていた。10分で、彼らの落語を電波に乗せようとしたのだ。彼らは、二度と番組に出ることはなかったが真打の中で、後の人間国宝、小さんだけは、若手と一緒に、テレビの意向を取り入れていたことを覚えている。テレビを寄席の情宣素材として意識していたのだろう。
ツービート(TWO
BEAT)は、ビートたけし(本名:北野武)とビートきよし(本名:兼子二郎)の2人による漫才コンビ。1972年結成。きよしはたけしを「相棒(あーいぼう)」と呼び、たけしはきよしを「ビートきよしさん」もしくは「兼子さん」と呼んでいる。



コンビ結成
元々、浅草の通称「公園六区」にあったストリップ劇場で、北野武(ビートたけし)は浅草フランス座(現在は演芸場の浅草東洋館)で深見千三郎門下のコメディアンとしてコントの下積み修行を、兼子二郎(ビートきよし)は浅草ロック座で劇場進行の修行をしていた。たけしは当初、同じフランス座の同僚、春木こと愛称ハーキーとコンビを組んでコントを演じたこともあったが、相方の男性が神経性の病気から入院したため、自然消滅(後のビートたけしの楽曲『浅草キッド』はこのハーキーとの時代を歌ったもの。「夢は捨てたと言わないで」のくだりはハーキーが病室で「もう夢は捨てた」と発言した事に依る)きよしもレオナルド熊の弟子と漫才コンビを組んで名古屋の大須演芸場に出演することになっていたが、レオナルド熊がその弟子を破門したため、代わりの相方を探していた。
兼子は、以前ストリップの幕間のコントで共演したことがあった北野に新パートナーの提案を持ちかける。ここで、後のツービートの前身となるコンビが結成されることとなる。北野の師、深見千三郎は弟子の漫才への転向を認めず、北野を即刻破門。これにて漫才コンビ結成への障壁が消滅。当初は、きよしがネタを作りボケ、たけしが突っ込むスタイルだったが、コンビは全く評価されない状況が続いた。当時、楽屋内でも師匠と弟子の師弟関係にあたる縦のラインが強い漫才業界の集団で、舞台コント(軽芝居)からの転向組という立場は彼らを浮き上がらせていた。
きよしの「やはり有名な師匠の所に居ないとだめだよ」との発案で松鶴家千代若・千代菊門下に入門し、松鶴家二郎・次郎を名乗って活動を行った。また、きよしがコロムビア・ライトの付き人経験があったことから、空たかし・きよしとして舞台に上がったこともあったが、状況は相変わらずだった(ライトが相方であるコロムビア・トップと絶縁状態にあったため、青空一門ではなく個人の預かりとして芸名が青のない「空」になっている)。芸人社会の顔で人望のあった深見千三郎が一言、「たけしを頼む」と周囲に声をかけたなら事情も変わったとする見方もあるが、深見はたけしを可愛く思いながら、最後まで弟子の漫才転向を醒めた視線で捉えていた。
この八方塞がりの状況で、たけしがきよしに代わって主導権を握る事となり、コンビ名をツービートと改名。余りの受けなさに舞台で性器を露出したり、客を毒舌でいじるなどの追いつめられて行った行動が徐々にスタイルになり、ツービートの原型となったが、決定的だったのは、大阪の新進漫才師・B&Bの島田洋七との出会いである。後に紳助・竜介も習う、シンプルで間を減らしたテンポの速い“16ビートの漫才”“客を完全に飲み込み唖然とさせる漫才”を見て衝撃を受ける。ツービートもこれを取り入れ、たけしがひたすら猛烈な勢いでしゃべり倒し、アトランダムにきよしが突っ込む高速漫才へ変貌する。「山形いじめ」のネタは、B&Bの「広島岡山漫才」を真似たもので、こうして開き直ったたけしは、それまでの下ネタは勿論、差別用語から、放送禁止用語まで、およそ今までの漫才ではタブー視されていたものを敢えて取り入れ評判を呼び、まず同業のプロ仲間から評価を上げていった。
テレビ進出
1970年代後半から状況は様々に変化を見せ、立川談志や漫画家の高信太郎らがツービートを評価し出し、所属事務所も太田プロダクションへ移籍し、1975年に東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『ライバル大爆笑!』でテレビ初出演。
大阪で興ったB&Bに加え、テレビ『ヤングおー!おー!』に出演していた若手達のコンビ、そしてツービートなど、以前とはスタイルの違う新世代の漫才師を一つのムーブメントとして過去の“漫才”から一線を画する意味で“マンザイ”、“MANZAI”としてフジテレビで『THE MANZAI』(全11回で終了)として番組に構成。
これらのメンバーを中心に、1979年頃より1981年頃にかけて漫才ブームと呼ばれる社会現象になった『THE MANZAI』の出演者は、服装もツナギ(紳助・竜介)やコンビロゴの入ったスウェットシャツ(B&B)、DCブランド(ツービート)、アイビールック(ザ・ぼんち)とバラエティに富み、アイドル性を加味している。ただし、ツービートの2人は他の若手が20代だったのに対して既に30代に突入しており、外見的にも業界用語でいう「汚れ」であって、アイドル人気ということでは一歩遅れを取っていた。さらに、ツービートはテンポが速いのみならず、“毒舌”と評される“ジジイ・ババア・ブス”をはじめとした単語を多用し、それまでは穏和で、ある意味媚びたスタンス漫才師が一般的であった背景からコンサバ層(婦人、壮年、高年齢層)には受け容れられず、“THE MANZAI”出演当時も事実、人気は5番目あたり(本人談)に位置し、当時はほぼ完全に若手サラリーマンや大学生と言った新しい刺激やスタイルに直感的に敏感な世代のみに支持されていた。後にテレビ番組『ダウンタウンDX』でゲスト出演の紳助が「実際はB&Bと紳助・竜介、ツービートだけが新しいもので他は既存のものであった」と語っている。
『THE MANZAI』は当時関西ばかりにタレントが揃い、東京勢が稀少であった にもかかわらず、きよしが漫才をやめたがっていたという事情もあり、自らの意思で第5回をもって出演を最後にしている。ツービートの漫才が浸透し要望が高まっていた頃には既に『THE MANZAI』から姿を消していたのである。漫才の舞台から姿を消すのと同時期にたけしはソロ活動を開始。1981年1月1日からのニッポン放送『ビートたけしのオールナイトニッポン』では深夜放送のヘヴィユーザーである受験生に絶大な支持を受け、勤労層の若者は録音で愉しみ、テープを回し何度もその早口を聞き取る事を喜びとした。
漫才ブームが始まった頃のギャランティは月額30万円程度だったが、ブームが到来すると半年で月1600万円になっていたという。
個々での活動
1981年に『THE MANZAI』のスタッフがそっくり移行し、フジテレビでスタートしたバラエティ番組『オレたちひょうきん族』に出演。タケチャンマンを中心として人気を得た。最大の“おばけ番組”としてライバル『8時だョ!全員集合』(元からこの番組に視聴率で勝つのが命題であった)を遂に視聴率で凌いだ辺りで一つの区切りとなり、たけしは独自に当時徐々に膝下に集まってきたたけし軍団を率いたバラエティ番組にチャレンジする。土居まさる司会の『TVジョッキー』をパワーアップさせた『スーパージョッキー』や、TBS系の『お笑いサドンデス』、『笑ってポン』、テレビ東京『気分はパラダイス』等に構成と主演に精力的に取り組む。同年にはテレビ朝日系『クイズ!!マガジン』をツービート司会でスタートし、TBS系では他に毎日放送製作の『世界まるごとHOWマッチ』にもレギュラー出演している。
1985年に日本テレビ『天才・たけしの元気が出るTV!!』、『OH!たけし』、テレビ朝日『ビートたけしのスポーツ大将』、TBS『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』を新たに自己の企画、構成、出演の番組をスタートさせ、『オレたちひょうきん族』も合わせて民放4局8時ゴールデンタイムの視聴率トップを達成する偉業を成し遂げるなかで、きよしとの出演は『スーパージョッキー』と『OH!たけし』(ゲスト出演)に残る事になる。
1981年のたけしのピンとしての活動の活発化により、ツービートとしての漫才活動はほとんどなくなっていたが、1985年頃、きよしが太田プロとの契約解消 し、たけしは太田プロのままで以後は2人の所属事務所が分かれることになった。しかし2人に仲違いがあったわけではなく、漫才を行なわなくなって以降、売れっ子になったたけしは、きよしを自分の番組のゲストに度々呼んで共演した。たけしは「我慢強いきよしが相方だったおかげで、気の短い自分でも芸能界に残れた」ときよしへの感謝を口にしている。1986年、たけしのフライデー襲撃事件の際には、きよしが週刊誌上で「おれといっしょにやり直そう」とたけしに呼びかけたこともあった。
現 在
1990年代から2000年代に入ってからは、たけしの番組『北野ファンクラブ』内で一時ツービートを復活させたり、『北野タレント名鑑』の最終回、『たけしの誰でもピカソ』の特番などで共演するなど、数年に一度の割合でコンビでテレビに出演している。2008年以降、約半年に一回のペースで放送される『ビートたけしの絶対見ちゃいけないTV』でも毎回共演している。北野武監督作品『菊次郎の夏』『TAKESHIS'』にはきよしが出演しており、前者では作中でたけしときよしの絶妙の掛け合いを観ることができ、後者の舞台挨拶ではツービートとして掛け合いを披露した。
ツービートとしての活動はあまり行われていないが、イレギュラーながら現在でもたけし軍団の若手のライブなど乱入のような形で出演、ツービート名義で前説や漫才を行っており、趣味程度の活動は継続しており正式な解散はしていない。2008年には、たけしがサザンオールスターズの無期限活動休止発表に対して「活動休止なんてそんなことわざわざ発表しなくてもいいのに」「サザンもオレたちのマネをしなきゃ(笑)」と語るなど、ツービートが解散していないことをネタにしたりもしている。また、2009年の『漫才』(新潮社)や2010年の『1084(to-san-ya-yo) two beat MANZAI2』(ネコ・パブリッシング)など、たけしが「ツービート漫才復活!!」を宣伝文句にした著書を出版している。2010年、『とんねるずのみなさんのおかげでした』では、とんねるず対たけし・所ジョージチームのゴルフ対決罰ゲームとして、きよしが出演し、ツービートとして漫才を短い時間ではあるが披露している。
長らく休止状態だったツービートだったが、2014年4月1日、きよしがオフィス北野に転籍したことにより、29年ぶりにたけしときよしが同じ事務所に所属。これにより、ツービートとしての活動がやりやすくなり、「ツービート復活」と報じられた。尚、きよしのオフィス北野入りについてはたけしのほうから誘って実現している。コンビ復活後の初仕事は同年6月6日のラジオ『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』。その後も、たけしの番組にきよしが出演するなど、実質的にツービートの名前こそ出さないものの、再結成していると、いえる。
芸 風
コンビ名ツービートの由来を、本人が好んだジャズからである、Beet=甜菜(サトウダイコン)=天才に掛けている等深読みする向きもあるが、本人が語る所「適当」だそうである。 たけしの著書の本に「ツービートという芸名はオレが考えた。漫才師らしくなくていいと思ってね」との書き込みがある。 主なネタは、「ブスいじめ」や「田舎者いじめ」「老人いじめ」等、いわゆるいじめネタや差別ネタが多く、ブラックユーモア漫才で人気を勝ち取る。B&Bと共演の際はいわゆる「いじめ」ネタはしていなかった。1980年に出版されたツービート名義の著書『ツービートのわっ毒ガスだ』は同年の年間6位となるベストセラーになる。流行語になった「赤信号、みんなで渡れば恐くない!」など、人間の本質を抉ったブラックユーモアが漫才ブームでは受けた。一方でツービートの漫才は、その差別ネタから生放送では使えないと言われ、NHKに出演した際には大幅に喋りをカットされた。 NHK新人漫才コンクールには1976年から3回連続出場したが、優勝は逃した。昭和のいる・こいる、星セント・ルイス、東京丸・京平がその時の優勝者である。
このたけしの毒舌スタイルは、下積み時代の浅草フランス座で、礼儀を知らない客を舞台から怒鳴りいじり、田舎者をバカにする師匠・深見千三郎の「心優しい、口悪い」のスタイルや、元々東京下町では、口が悪いが腹は何もないカラッとした毒舌は日常的であったこと、たけしの母の北野さきも似た語り口だったことなど、原点が全て出たのがこのスタイルであったと言える。
コンビ結成当初はきよしがネタを考えていたが受けなかったため、やがてたけしが「1回でいいから俺にやらせて」と自分から要望しネタを考え始めてから、以後ネタを担当するようになった。 たけしが1人で攻撃的なギャグを喋りまくり、横のきよしがたまに「よしなさい」と諌めるという、漫才というよりは、むしろ漫談、スタンドアップ・コメディに近いスタイルを取った。これはB&B、紳助・竜介と共通する新世代漫才の特徴でもあった。
2人での漫才の練習はほとんどなく、仕事を離れればプライベートの付き合いもなかったが、仲が悪いというわけではなく、プライベートでは別々だったことがコンビが続いた理由だと、たけしは回想している。
Wikipedia より 転載

「友情というのは、こっちから向こうへ一方的に与えるもので、向こうから得られる何かではない!!友情とは、自分の相手に対する気持ちだ!!」友情というのは、こっちから向こうへ一方的に与えるもので、向こうから得られる何かではない。
友情とは、自分の相手に対する気持ちだ。
- 北野武
「金より芸が欲しい、権力より感性が欲しい!!」 北野武

コント55号(コントごじゅうごごう)は、萩本欽一(東京都台東区出身)と坂上二郎(鹿児島県鹿児島市出身)のお笑いコンビ。浅井企画所属(55号と坂上単体のマネージメントは浅井企画が行っていたが、萩本単体のマネージメントは浅井企画から暖簾分けをした佐藤企画が実質行っている)。
当たりギャグは「なんで(ど~して)そうなるの!」(萩本)、「飛びます!飛びます!」(坂上)。
来歴
1966年、営業先の熱海つるやホテルで「机」の一人コントを考案した萩本が、早速以前出演していた浅草松竹演芸場に売り込みをかけようと準備をしていたところ、たまたま浅草フランス座時代に幕間コントで競演した坂上から電話があり、この電話で坂上の助演が決定。10月に浅草松竹演芸場の上席前座として「机」を演じたところ、反応が今一つだったため、三日目に役を入れ替えたところ好評を博し、五日目には正式に香盤表に載る事となり、この時支配人から「コント55号」と名付けられた。2010年まで萩本は茨城ゴールデンゴールズの監督を務めており、その際の背番号「55」はコント55号が由来である。坂上もまた鹿児島ホワイトウェーブの総監督を務めていた時期があり、背番号もやはり「55」であった。
こうして2人の名は瞬く間に広がり、翌1967年2月14日には日劇の「西田佐知子ショー」にコメディーリリーフとして出演。以降、松竹演芸場の高座で新ネタを降ろし、練り上げて日劇の舞台にかけるといったパターンが続いた。テレビでは日本教育テレビ(NETテレビ 現・テレビ朝日)「大正テレビ寄席」に出演。余りに激しい動きをカメラが追いきれておらず、収録後楽屋から逃げ出そうとした2人をディレクターの山下武が止めて逆に詫びた逸話を持つが、この番組の出演で全国的に売れ出し、1968年前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送「お昼のゴールデンショー」、続いてスタートした「コント55号の世界は笑う」で人気に拍車がかかった。この時、「同じコントは(テレビでは)二度とやらない」をキャッチフレーズにし、萩本を「タレ目」、これに対して坂上を「チッコイ目」と呼んで売り出した。
やがて野球拳で良くも悪くも一世を風靡し、時代の寵児となった彼らだったが、子供に見せたくないハレンチな俗悪番組としてPTA、地婦連、そして主婦の投書などで槍玉に挙げられ、さらに1970年4月スタートのフジテレビ「コント55号のやるぞみてくれ!」は最高視聴率が11%と振るわず、同じくフジテレビ「コント・カチョ~ン」が7%、さらに日本テレビ「コント55号の日曜特別号」も7%と人気の凋落ぶりが顕著になっていった。
以降はコント55号としての活動よりも単独での活動に重点を置き、テレビ、ラジオ、映画と多方に渡り活躍。そんなある日、とあるタクシー運転手から「欽ちゃん、刑事さんをあまりいじめないでくれよ」と言われる。このとき、既に坂上は単独で俳優活動を行っており、TBS系の連続テレビドラマ「夜明けの刑事」で主人公の刑事役を演じていた。萩本は世間が坂上を萩本の相棒ではなく、一俳優として捉えていることを痛感。更に「(自分はただ仕事として相棒をいじっていただけなのに)客には本気でいじめてると思われてる。」とショックを受け、コントを演じ続けられなくなったとして、1975年以降はコンビとしての活動を大幅に自粛。当人達はコント55号をコントコンビではなく単体コメディアン同士のユニットと位置付けていた。萩本は「コント55号は始まりが無ければ終わりも無い」と語っていた。故にコンビとしての活動を控えても、解散宣言はしていなかった。
2009年、したまちコメディ映画祭in台東において、『第2回コメディ栄誉賞』を受賞。
2010年12月7日BS日テレ『徳光和夫のトクセンお宝映像!』にて、坂上が脳梗塞の影響で首から下が麻痺しており、動きのあるコントが演じられない状況であるため、萩本は「コント55号は終わった」と宣言した。これがコント55号の終了宣言と取れる最初の発言である。
2011年3月10日、坂上が脳梗塞により逝去したため、コンビ活動に事実上ピリオドを打たれることとなった。
コントについて
コントの筋は、坂上扮する善良な普通の一市民が、萩本扮する異常な人物に振り回されるのが多く、所々オーバーな動きがコントに抑揚を付けていた。特に日劇出演を契機に、動きが大きくなり特徴の一つとなった。とりわけ、萩本のツッコミは執拗で、かつ想定外のものが多かった。萩本が演じる狂気の世界が日常とのギャップもあり、坂上が狼狽もしくは苦笑する事で、十分笑いは取れていた。しかし、これに坂上が倍返しともいえるナンセンスなボケで対処し、笑いを増幅させた。(なお、本筋では坂上がツッコミで萩本がボケである。)ビートたけしは55号の笑いについて「萩本さんのセンスと坂上さんの芸に尽きる」と分析している。
コント55号のコントは、その殆どを作家の岩城未知男が原作者として手掛けていたが、実際に55号の二人が脚本通り演じる事はなく、殆ど即興劇に近い形に改変されて演じられた。このため、当時一般にコント55号のお笑いを称して「自作自演」と言われた。岩城はこのことに憤慨したのか、やがてタイトルだけの台本や、一つのイラストだけ描かれた台本をよこすようになり、それに予め萩本が修正(というよりも殆ど創作)を行うようになったと言われている。
なお萩本曰く、もともとは当人たちで脚本を考えていたが、劇場の支配人から「原作者が別にいた方が格好もつくしギャラも別に出る」とアドバイスされたことから岩城に名前だけ出すよう持ち掛けたのが最初で、テレビ出演が増えるにつれスタッフから「作家の岩城さんと打ち合わせをしたいのですが」と言われることが増えたため、岩城自身が脚本を書くようになっていったと語っている。しかしながら、萩本によれば岩城は、夏場に打ち合わせのため喫茶店に入った際に「今日は熱いねえ」と言いながらズボンのポケットにお冷やをそのまま流し込んだり、表紙に人物の皴の一本一本まで精巧なイラストを描いておきながら「イラストに力を入れ過ぎたので、肝心のシナリオまで手が回らなかった」と中身が真っ白な台本を手渡したりするなど奇人であったといい、実際にコントの台本を作っていたのは萩本だったという。
坂上は「欽ちゃんが台本通りに演じないため、どう演じて良いか分からず即興で対処した。」と回顧していたが、萩本は「二郎さんがなかなか台本通りやってくれなかった。」と証言していた。
55号の意味
コント55号の「55号」の意味は、結成の2年前に読売ジャイアンツの王貞治選手(当時)が年間55本の最多本塁打を記録し、それにあやかって「お笑い界のホームラン王を目指してほしい」という願いを込めたのと当時流行していたゴーゴーダンスの「ゴーゴー」から、そして英語の掛け声「GO!GO!」から来ているとされている。いずれも本人達が自ら名付けたコンビ名ではないため、真実は明らかにされていない。
しかし、王の年間本塁打記録を意識しているのは確かなようで、2013年9月15日に東京ヤクルトスワローズのウラディミール・バレンティンによって王の記録は更新されたが、萩本はバレンティンへの敬意を表しつつも(コント57号といった)コンビ名の改名を否定し、「王さんの記録にあやかって」55号と名乗り続ける意思を明らかにしている。
ライバル
コント55号のライバルとしてよく名前が挙げられているのにザ・ドリフターズがあり、実際'60年代末~'70年代にかけて、子供たちの間で面白いコメディアンとしての人気を二分していた。この点、萩本は「ドリフは戦友であって宿敵ではない」とこれを否定している。他方、ドリフのリーダー・いかりや長介は生前「55号を常に念頭に置いて、意識してコント作りをしていた」と証言している。ただし、「全員集合が終了に追い込まれそうになった時、『もし終わるなら、最終回にゲストに呼んでほしい。一緒に思いっきりコントをやろう』と(萩本が)言ってくれた」とも語っており、やはり両者は「戦友」であったことを窺えるエピソードである。また、萩本が司会を務めたフジテレビのクイズ番組「TVプレイバック」では、ドリフのメンバーが毎週1名ずつレギュラー扱いの回答者(「ドリフターズゲスト」と称していた)として出演していた。
坂上自身はライバルは他にはおらず、萩本が最大のライバルだと公言しており、これを受けて萩本も坂上をライバルとしている。(萩本自伝「なんでそーなるの!」より)
また、ザ・ドリフターズの志村けんは、コメディアンを目指す際、コント55号かザ・ドリフターズのどちらかに弟子入りするか迷っていたそうであるが、音楽性の面からドリフに弟子入りすることに決めた。後に、自身のラジオ番組で「ドリフに入ってよかったと思う。コント55号に弟子入りしていたらどうなっていたことか」と、コメントした。
Wikipedia より 転載

【欽ちゃんの「たった一言で」】
欽ちゃんこと、萩本欽一さんは、...
若い人が失敗した時、
かける言葉に気を付けてきたといいます。
小堺一機さんは、ものすごい上がり症で、
初めて番組に出した時、震えてめちゃくちゃに
なったそうです。
欽ちゃんは番組が終わった後、
小堺さんにこう言いました。
「俺、あがる奴って好きだよ」
正直な気持ちとしては、
「バカヤロー、なにあがってんだよ」だったけど、
自分の若い頃に似ているなと感じた。
こういう子には、「ダメじゃないか」って怒ったり、
「あんなにがたがた震えていたんじゃ放送できないよ」
ってギャグにしてはいけない。
いい言葉をかけてあげた方がいいというのです。
後に、人気タレントになった小堺さんは、こう言いました。
「昔、大将が言ってくれた『あがる奴は好きだ』
って言葉、あれで僕は救われました」
もし厳しいことを言われていたら、
自信を無くして潰れていたかもしれません。
「たった一言で」人生は変わるのです。
欽ちゃん 73歳で駒大合格!猛勉強実った「野球部に入りたい」
タレントの萩本欽一(73)が駒沢大の社会人入試制度で仏教学部に合格し、4月から大学生となることが26日、分かった。昨年の4月から受験勉強を始め“ストレート合格”。欽ちゃんはスポニチの取材に「授業も休まず行く。学校に迷惑を掛けない学生でいたいけど、今までにない生徒になりたい」と喜びを語り、同大の硬式野球部に「お笑いコーチ」として入部する野望を明かした。
【写真】駒大野球部といえば…朝の散歩で恒例の歌を披露する中畑監督
73歳にして、お笑いの世界からキャンパスに。時には一日10数時間にも及んだ猛勉強が実り、先月22日に合格通知を受け取った。「自分でもビックリするくらいうれしかった。大学生活にどっぷり漬かります」と笑った。
昨年3月、東京・明治座公演で大劇場を引退し「ひとつ辞めたら、何か足さなきゃと思ったのがきっかけ」。一番大変なことに立ち向かおうと考えた末「認知症に立ち向かおうと思った。だったら記憶をすればいいと考えて」勉強を始めた。
その後「成果が見えた方がうれしい」と受験を決意。親交のあるプロ野球・DeNAの中畑清監督(61)の母校で、約10年前にともに講演に招かれたこともある駒大を志望校に選んだ。
受験科目は英語と小論文。長く英語には縁がなく「三人称単数の勉強から始めなきゃいけなかった」と話す。当初は参考書も全く理解できず「全然ダメなまま4カ月が過ぎた」が、独自の記憶法を編み出し、急激に成績が上がった。
「Climate(気候)って単語があるじゃない。あれをローマ字読みして“クリ待て、聞こう”なんて小話を作ったの」。新たに参考書を自作し、約2500の英単語を暗記。先月11日の試験は「どっこいどっこいの手応えだったよ」と言いつつ、見事合格を果たした。4月からは仕事と並行しキャンパスライフをスタートさせる。「認知症との闘いは終わらない。一日も休まず行くよ」と真剣モードで、同8日の入学式にも出席する。学生との交流にも積極的で「飲みに行って、リクエストがあればやっちゃうよ」と、“コンパで欽ちゃん走り”宣言も。
一番やりたいことには「野球部に入りたい」と即答。「駒大の野球部は面白いぞ、ってなればね。神宮球場をお客でいっぱいにしたいね。中畑さんみたいに“明るい選手は、駒沢から”みたいなのが定着するとうれしいね」とニッコリ。古希を越えた新入生が嵐を呼びそうだ。
最終更新:2月27日(金)7時50分
【R 1 2012 徳井義実】
【天狗 ネタ ( トトーリトーメン)】

【歌ネタ王決定戦2014 タブレット純】
【あったかいんだから~ クマムシ】

【R 1 2015 じゅんいちダビッドソン優勝!! 本田の物真似 - YouTube】

毎年恒例の“ひとり芸日本一”を決める『R-1ぐらんぷり2015』決勝戦が10日、東京・台場のフジテレビで行われ、じゅんいちダビッドソンが初の王座に輝いた。過去最多となるエントリー3751人の頂点に輝いたじゅんいちは、優勝賞金の500万円を受け取り「これでミラノに行きます」と感謝を口にした。
<プライベートも絶好調>一般女性と結婚 きっかけは秋野暢子
今年で13回目となる同大会は、決勝トーナメントは12人のお笑い芸人がA、B、Cの3ブロックに分かれ、4組ごとにトップの芸人が決勝戦に進出する。Cブロック3番手に登場したじゅんいちはサッカー日本代表の本田圭佑に扮し、ショートコントを織り交ぜた物まね漫談を披露。NON
STYLE石田、前年王者のやまもとまさみ、敗者復活から勝ち上がったヒューマン中村という実力派芸人がひしめくCグループを突破し、決勝戦に進出した。
決勝戦では、Aブロックを勝ち上がったゆりやんレトリィバァ、Bブロックを勝ち上がったマツモトクラブ(敗者復活)と対決。じゅんいちは決勝戦でも本田選手がスーパーの店員に扮しクレームに対応する物まねコントで、21票中13票を獲得。審査委員長の桂文枝も「ネタがしっかりしてます」と太鼓判を押す圧勝劇となった。
そのほか、Aブロックはあばれる君、とにかく明るい安村、COWCOW善し(敗者復活)、Bブロックは厚切りジェイソン、エハラマサヒロ、アジアン馬場園が決勝トーナメントに登場した。
決勝戦の模様は、同日午後7時より関西テレビ・フジテレビ系で生放送され、お笑いコンビ・雨上がり決死隊、フジテレビ・加藤綾子アナウンサーが司会を担当。審査員を桂文枝、関根勤、天野ひろゆき(キャイ~ン)、勝俣州和、板尾創路が務めた。
優勝者には、今後、副賞として関西テレビ・フジテレビ系の冠番組が与えられる。
同大会は“ひとり芸日本一”を決める大会として、2002年にスタート。歴代優勝者は以下の通り。
第1回 だいたひかる
第2回 浅越ゴエ
第3回 ほっしゃん。(星田英利)
第4回 博多華丸
第5回 なだぎ武
第6回 なだぎ武
第7回 中山功太
第8回 あべこうじ
第9回 佐久間一行
第10回 COWCOW 多田
第11回 三浦マイルド
第12回 やまもとまさみ
【キングオブコメディ - レンタルビデオ店】
【流れ星】

ここに、行った事ありますか?
”NGK”でなく【なんば花月】

【よしもと幕張イオンモール劇場】







- “観て楽しんで、学んで楽しめる”よしもとの新コンセプト劇場
- お笑いライブ、音楽ライブやショー、番組連動ライブなど多彩なエンターテインメントの公演や「幕張カルチャースマイルクラブ」と題して、専門家、芸人、タレント、ミュージシャンによる笑って“学んで楽しめる”イベントなど、365日毎日楽しめるよしもとの新コンセプト劇場です。

- 【週末ネタライブ】
- テレビでおなじみの人気芸人が登場する漫才・コントなどのネタライブ(3回公演)
- 【ライブスペシャル
- 芸人・タレント・ミュージシャンによるスペシャルライブ
- 【幕張カルチャースマイルクラブ】
- 専門家、芸人、タレント、歌手による笑って学べるカルチャークラブ
- 【生配信LIVE「爆ハリ!」】
-
今勢いのある人気若手芸人5組がトーク企画や視聴者参加型企画など新鮮なライブ!。
ライブは吉本興業 動画配信サイト「YNN」でも生配信します。 月曜:しずる 火曜:パンサー 水曜:ジャングルポケット 木曜:ピース 金曜:ジャルジャル
- 【笑楽校】
- 「あかるく元気な子をそだてる。」をモットーに、さまざまな「その道のプロ」の先生が、優れた「教育」と一緒になってアイデアを出しあい、子どもが笑顔になって楽しんで学べる学校です。
- アクセス
-
住所:千葉県千葉市美浜区豊砂1-1
イオンモール幕張新都心グランドモール 3F


英語落語」と言えば、故桂枝雀師匠の弟子でイギリス・リバプール出身の「ダイアン吉日」さんも有名。千葉市国際フェスティバルやユネスコ関東ブロック大会での出演が、印象深く思い出される。
この神奈川大学外国語学部教授で渋谷教育学園幕張高等学校出身の英語落語家「大島希巳江」さんも、面白い国際人。アジアを中心に毎年50公演近くをこなし日本文化を世界に発信する一方、多数の著書を執筆し語学教育の分野でも活躍されている。アジアと千葉を"熱く"している一人と言って良い・・

【街の面白看板 画像!!】






ポケット裏返ってるよ いいえ最新ファッションです スピルバーグ、1989年にブーム予言?


本来は小物を入れるためのポケットが「見せる」ワンポイントアイテムに変わりつつある。内部を引き出したり、ショートパンツから裏地を見せたりと、生地そのものを目立たせるようなデザインが人気だ。スマートフォン(スマホ)の普及などで小銭入れやペンなどを携帯しなくなったこともあって、ポケットのあり方が変わってきたようだ。

■中高年はゴルフ場のネタに
「前はペンや小さなメモ帳を入れていたけど、今はスマホ1台で代用できる」。猛暑の中、買い物をする若者でにぎわう東京・原宿。仙台市の大学生沼田竜也さん(20)はこの日、洋服を買いに上京した。お目当ては、胸ポケットの中の布を引き出すと裏地が舌マークになるTシャツだ。
半年前から同じデザインのチノパンを愛用している。ポケットには何も入らないが「特別不便だとは思わない」。スマホは落としたくないからリュックに入れる。「ポケットが膨らんでいると格好悪い。最近は切符を入れるだけ」と話す。東京・墨田の会社員男性(28)も「禁煙してから胸ポケットに入れる物が無くなった」と、同様のシャツを購入していた。
このおちゃめな顔が印象的なデザインは、衣類卸会社「アップスタート」(東京・目黒)が2009年から展開しているオリジナルブランド「アップスマイル」シリーズだ。
ポケットの中を出すという発想の転換が話題になり、今年に入ってから注文が急増。シリーズ単月の売り上げは1億円で、今年の売上高は09年比4倍の見込みだ。
商品を企画した同社の高橋邦明企画生産部長は「ポケットは機能性よりもデザイン性の時代」と話す。発売当初は50~60代の男性からは「ポケットを出すなんてだらしがない」との反応だったが、最近は彼らからもポロシャツの注文が相次ぐ。「ゴルフ場でネタになる」という声が多いという。9月にニット帽や財布など小物を投入し、来年は子供服も発売する。
■バック・トゥ・ザ・フューチャーに登場
実は「見せポケ」ブームは映画で予言されていた。1989年に公開されたスティーブン・スピルバーグ製作総指揮の「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」。マイケル・J・フォックス演じる主人公のマーティが30年後の2015年にタイムマシンで旅立ったとき、相棒のブラウン博士から「この時代はポケットの内側を外に出して見せるのが流行なんだ」と教えられるシーンがある。
「見せポケ」の仕掛け人たちがこの映画を参考にしたかどうかは不明だが、ネットの口コミサイトでは「スピルバーグが未来を予言した」と話題になっている。
広がる「見せポケ」ブーム。既製品だけでなく、自分で見せ方を工夫する人も現れた。裏地を自分の好きな生地に付け替えるなど、見せるポケット「見せポケ」の作り方を紹介するインターネットサイトも登場してきた。
岐阜県美濃加茂市の会社員、西尾智美さん(24)のお気に入りのショートパンツは他とはちょっと違う。ざっくりと切りそろえたパンツの裾からは、ポケットの裏地がちらり。「何も入れずに膨らんでいない裏地を見せるのがカワイイ」とほほ笑む。
東京・目黒の会社員女性(27)は外から見える裏地の部分に自分でチェック柄や花柄の生地を縫い合わせた。縫い方はサイトを参考にしたという。
「ポケットをアレンジするだけで、ただのデニムがオリジナルになる」と満足そうだ。以前はポケットに小銭を入れていたが、最近は電子マネーを利用するため入れる物がなくなった。
ファッションジャーナリストの藤岡篤子さんによると、最近は男性も花柄など派手なポケットの裏地を好むといい「アイコンとしてのポケットを強調するデザインが増えている」。シルエットが崩れるのを防ぐために何も入れない人が多い女性の間でも「ポケット重視のデザインは広がりそう」と見る。ポケットを使った多彩なファッションを目にする機会はますます増えそうだ。









会社概要株式会社アップスタート
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株式会社アップスタート |
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1989年10月31日 |
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代表取締役社長 藤堂 哲也 |
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5000万円 |
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50名 |
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16億円(2013年3月期実績) 15億5000万円(2012年3月期実績) |
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衣料品の企画、製造、卸、販売 【オリジナルブランド】 ■UP START ■BREATH ■GLORY ■CULTURE MEDIUM ■UP!SMILE |
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本社/東京都目黒区碑文谷2-10-15 【店舗】 UPSTART原宿/UPSTART自由が丘/UPSTART町田/UPSTART八王子/UPSTART下北沢/UPSTART高円寺/BURKS.BULLフラッグストア/BURKS.BULL下北沢/CULTUREMEDIUM代官山/CULTUREMEDIUM駒沢/CULTUREMEDIUM自由が丘/fRen/ |
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http://www.up-start.co.jp |
「世界中を笑顔で満たそう」をコンセプトに、笑顔をトレードマークに展開しているアパレルブランド。ジャニーズ嵐の二宮さんがテレビで紹介して話題になったこともありました。MENS、LADIES、GOOD、流行物や定番物、その他個性的なアイテムと、幅広いジャンルの洋服を製造販売しています。その店舗も原宿のほか、自由が丘、下北沢、高円寺、代官山、恵比寿など、計11店舗と多店舗展開しているのも大きな特長です。

裏原宿
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