Apex product 【 青空と向日葵の会 】 サークル活動!!

学園祭 【ダウンタウン物語】自作自演!! 柳

皆さんで落語を聞きに寄席に行きましょう。まず本題に入る前の枕を聞いて下さい。昔の話です。私は、子供の頃から人を笑わせてばかりいた、ひょうきんな子供でした。家では悲しい話になりますが、父親がDVで、母親を殴る蹴る。いつ離婚するか毎日が修羅場でした。小さな建設会社を営んでいました。生活は何不自由無く、暮らさせてもらっては、いました。しかし、社長の親父が職場に女を作ってましたので母から浮気女の写真を見せられて「とうちゃんと、かあちゃんどっちに ついてくるかぁ」と言われて、小学生の俺は、「かあちゃんだょ」と言って二人で泣いた辛い思い出が有ります。思ってはいけない恨みの感情を父親に今でも少し抱いているのは、正直あります。父親は、釣りが好きで、釣り専用のjeepを買い毎日の様に仕事帰りに海にいきました。私も、夏は海の家に連れて行ってもらいましたが、父親は、若い時ヤンチャしたのでしょう、入墨が有りました。子供が、どんな思いするか、若気の至りでは、すみません。今の女性も軽はずみにタトゥーを入れますが、後悔して消す人がいます。残念です。尊敬出来る人では、無いとまで、当時は思ってました。早く社会に出て、安定した職に就いて母親を楽にさせたいと、思う毎日でした。そんな家庭環境ですから、笑ったりする事も無く話もなく自分の部屋でテレビを見たりしていました。小学校・中学・高校と野球部と柔道部に所属していましたので、学校の仲間が家族より絆が強かったのを覚えています。学生時代は苦しい部活動時代もありましたが楽しい事が多かったので相殺出来ました。部活の話はまた、お話致します。かなり脱線致しましたが、家で暗い分、学校では、はじける。はじける。落語を覚えてホームルームの時間に披露したり親友とコンビを組んで漫才したり、学園祭では、監督・演出・作・主演でミュージカル劇をやった事もありました。【ダウンタウン物語】と、名付けたお芝居です。その当時、流行っていたダウンタウンブギウギバンドの音楽をバックに笑い有り涙有りの喜劇でした。根底は「でん助劇場」や「てなもんや」だったと思います。なにせ子供ですから、色々パクって作ったのでしょう。実家に8mmビデオがありますが、笑えます。学力は全く無く、スポーツもそこそこでしたが、目立ちたがりの性格は止められませんでした。

学校で馬鹿やることで家庭のゴタゴタを忘れたかったからだと思います。中学三年間クラス委員でした。当時、担任(女性)の先生の強い後押しもありまして学年委員長に立候補して見事、中学三年の時に学年委員長になり、出来も悪いのに優秀な方々のサポートもあり一年間とても有意義に過ごせました。お名前を上げると支障があると困るので伏せますが、本当に先生あの時は、ありがとうございました。俺みたいな人間に優しく導いて頂き幸せな学園生活を過ごさせて頂き感謝しております。理数系が嫌いでしたが先生が数学の先生だったので数学だけはいつもクラスで1番か2番でした。淡い恋心があったのかも知れません。成人式で、お逢いした時、「芸人さんに、なると言っていたから楽しみにしてたのよ。でも真面目に東京で、勉強してるんだね。家業は継がないの? 頑張って自分を信じて、やりたい事をのびのびやって夢をつかんでね。先生応援してるからね。貴方の1番のファンだから。ねっ。辛かったら、必ず連絡するのよ。1人で何でも抱えて、先生分かってますよ。言わなくても貴方の担任なんだから。」そう言ってくれましたね。本当にありがとうございました。今があるのも先生のお陰です。その後の話は、またにして、色々お話致しましたが、いつ落語の話が出るのか?そうですよね。それでは本題に入ります。社会人になり、食品メーカーで調味料を作っていたサラリーマン時代、テレビ番組で「笑点」をみていたら、当時の林家木久蔵さんが、「木久蔵ラーメン」を作つた。横浜に店を出す。との告知を聞いて「うーん。なんだろう。」俺はピンと来ました。千葉にも出したい。千葉の富士見町(ナンパ通り)に店を出したい。24時間営業で、醤油・味噌・塩・餃子のみの店「元祖 木久蔵ラーメン」直ぐに木久蔵さんに、電話をして、2ヶ月後に会って頂けました。openの際に、店内で落語会を開いて頂き、高いギャラを払いましたね(笑)何度も打ち合わせでお会いしましたが、人の良い素晴らしい人格者でした。ビジネスの才能も有り、絵もうまく、ご自分で、画伯と言ってましたね。最終的にお店を閉店致しましたが、とても良い思い出ででした。あの時は、本当に勉強になりました。寄席にも何度も行きましたね。芸人さんと良く遊びました。これからは伝統芸(落語)をもっともっと皆様に興味を持って頂き、ひとりでも多くの人が寄席に遊びに来て頂ける様に、ご紹介して行く役目をやらせて頂きたいと思います。

 青空と向日葵の会-【命をまもり隊】-Apex product 代表 柳 -

【 落 語・漫才 】 お笑い!!

 

1960年代に第一次お演芸ブームがあった。テレビのコンテンツとして、各局は寄席に目をつけた。寄席では漫才や漫談、音曲は落語の前座だったが、テレビ的であり、コント55号やトリオ・ザ・パンチ、ドンキーカルテットなどの寄席とは違うテレビ的スターを産み出すことになる。一方、芸としての落語はテレビ的ではなかったのだが、小円遊、歌丸、圓楽、円鏡、歌奴などの二つ目は水を得た魚のようにテレビの中で飛び跳ねた。牧伸二司会の『大正テレビ寄席』米丸司会の『日曜演芸会』東京ぼん太司会の『お茶の間寄席』が演芸ブームをけん引した。牧伸二や東京ぼん太はこの司会でスターになった。『お茶の間寄席』は15分番組にもかかわらず、圓生、志ん生、文楽などを登場させ、芸を冒とくしていた。10分で、彼らの落語を電波に乗せようとしたのだ。彼らは、二度と番組に出ることはなかったが真打の中で、後の人間国宝、小さんだけは、若手と一緒に、テレビの意向を取り入れていたことを覚えている。テレビを寄席の情宣素材として意識していたのだろう。

古典・新作 落語は、日本の元気!!

【思っている世界が出現する】

人を「笑わせよう」としている人は、日々、どうすれば人が笑えるかを考えている。

だから、自分が「楽しい」「おもしろい」と感じるものに意識を向けている。

人を「幸せにしよう」としている人は、日々、どうすれば人が幸せになれるかを考えている。

だから、自分が「幸せだ」と感じるものに意識を向けている。

人を「困らせよう」としている人は、日々、どうすれば人が困るかを考えている。

だから、自分が「困る」と感じることに意識を向けている。

人を「悲しませよう」としている人は、日々、どうすれば人が悲しむのかを考えている。

だから、自分が「悲しい」と感じることに意識を向けている。

人を「痛い目にあわせよう」としている人は、日々、どうすれば人が苦悩するかを考えている。

だから、自分が「つらい」と感じることに意識を向けている。

同じ世界に住んでいても、人が見ている世界は別のものだ。

だから、ほら、

あなたの「思っている」世界が、そこに「そのまま」あるじゃないか。

【明るい貧乏!!】

うちの中学は新興住宅地で...ほとんどが持ち家、

お母さんは専業主婦みたいな、恵まれた家庭が多かった。

育ちが良いのか虐めや仲間はずれなどは皆無。

クラスに一人だけ貧乏を公言する男子がいた。

7人兄弟の長男で子沢山と低収入で給食費も遅れるような状態。

黒であるはずの制服は何故か緑色っぽく色が褪せ、
中3になると急に身長が伸びたためか上腕の3分の1くらいが出ているような状態になってしまっていた。前のボタンもきつくて

閉められなくなり、ある日、何かの拍子に休み時間に

背中の真ん中の縫い目が裂けてしまった。本人は笑いを誘うギャグを飛ばし、笑いながら家庭科の得意な女子が縫って直してあげた。

そこへ、ある男子が、「誰か兄ちゃんとか近所の人とかで

 綺麗な制服余っている人いないかー?」と声をかけた。

みんな家に帰って親や隣近所に聞いたりしていらない制服を探した。翌日2着の上着と1着のズボンが彼の机に置かれた。

『ベイマックス』鉄拳「パラパラ漫画」オリジナルPV   

2014/11/16 に公開

鉄拳さんが『ベイマックス』の世界観を独自の視点で描き下ろした、オリジナルのパラパ­ラ漫画作品を制作。AIさんの「Story」をBGMに、オリジナルのPVが完成!

【落語家の桂小金治さん死去】2014.11.3

~桂小金治さんを偲んで~
「努力の上の辛抱という棒を立て
 るんだよ。この棒に花が咲くんだ」 
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 落語家、俳優、タレントと様々な顔を持ち、ワイドショーの
 司会や映画など幅広く活躍された桂小金治さんが昨日、88歳で
 逝去されたという悲報が飛び込んできました。

 多くの人々に生きる希望と勇気を与え
 続けてきた小金治さんを偲んで、生前の心温まるインタビュー記事

 を特別配信させていただきます。 
 
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僕は大正15年、東京・杉並の
「天勇」という小さな魚屋の長男として生まれました。下に妹が3人生まれたんですが、中の二人は赤ん坊の頃に死んだので、九つ違いの妹と2人きょうだいです。10歳になった時、親父から言われました。「おまえ、年が二桁になったんだよ。いつまでも親に食わしてもらえると思ったら大間違い。自分の力で生きていかなきゃならない時が来る。その支度をいまのうちからしておくんだ」と。それからは毎日店に出て手伝いをするようになったんです。ちょっとでも怠けようものなら、こっぴどく怒鳴られる。とにかく一所懸命に働きました。かといって、ただ真面目に働いているだけでも駄目。何しろ「人に用事を言いつけられて

仕事をするやつは半人前、自分で仕事を見つけて働いてこそ一人前」

というのが親父の考えでしたから。親父は僕がどんなに頑張って
働いても、滅多におもちゃなど買ってくれたことはありません。「欲しけりゃ自分で作れ。作れないなら諦めろ」と取り合ってくれない。

しょうがないから子どもなりに蒲鉾の板を削って自動車や船を作ったりしたものです。ところで、この頃、僕にとって忘れられない出来事があります。ある日、友達の家に行ったらハーモニカがあって、吹いてみたらすごく上手に演奏できたんです。無理だと知りつつも、家に帰って

ハーモニカを買ってくれと親父にせがんでみた。すると親父は、

いい音ならこれで出せ」と神棚の榊の葉を一枚取って、それで「ふるさと」を吹いたんです。あまりの音色のよさに僕は思わず聞き惚れてしまった。もちろん、親父は吹き方など教えてはくれません。「俺にできておまえにできないわけがない」そう言われて学校の行き帰り、葉っぱをむしっては一人で草笛を練習しました。だけど、どんなに頑張って

みても一向に音は出ない。諦めて数日でやめてしまいました。
これを知った親父がある日、「おまえ悔しくないのか。俺は吹けるがおまえは吹けない。おまえは俺に負けたんだぞ」と僕を一喝しました。

続けて「一念発起は誰でもする。実行、努力までならみんなする。そこでやめたらドングリの背比べで終わりなんだ。一歩抜きん出るには

努力の上の辛抱という棒を立てるんだよ。この棒に花が咲くんだ」と。

その言葉に触発されて僕は来る日も来る日も練習を続けました。

そうやって何とかメロディーが奏でられるようになったんです。草笛が吹けるようになった日、さっそく親父の前で披露しました。得意満面の僕を見て親父は言いました。「偉そうな顔するなよ。何か一つのことができるようになった時、自分一人の手柄と思うな。世間の皆様のお力添えと感謝しなさい。錐だってそうじゃないか。片手で錐は揉めぬ」

努力することに加えて、人様への感謝の気持ちが生きていく上でどれだけ大切かということを、この時、親父に気づかせてもらったんです。
翌朝、目を覚ましたら枕元に新聞紙に包んだ細長いものがある。
開けて見たらハーモニカでした。喜び勇んで親父のところに駆けつけると、「努力の上の辛抱を立てたんだろう。花が咲くのは当たりめえだよ」。子ども心にこんなに嬉しい言葉はありません。あまりに嬉しいものだから、お袋にも話したんです。するとお袋は「ハーモニカは3日も前に買ってあったんだよ。お父ちゃんが言っていた。

あの子はきっと草笛が吹けるようになるからってね」
僕の目から大粒の涙が流れ落ちました。いまでもこの時の

心の震えるような感動は、色あせることなく心に鮮明に焼きついています。かつての日本にはこのような親子の心の触れ合いが息づいていたんです。

……………………

「努力の上に辛抱という棒を立てろ」

 桂小金治(落語家)

見世物小屋の【蛇女!!】 柳

私が、小学校の頃、お祭と言えば見世物小屋でした。特に怖かったのが、【蛇女】入りたいけど、蛇女って。無理ダァ〜。しかし、勇気を振り絞って入りました。勿論、親戚の叔父と。小学校3年だったから。小屋は、神社の境内に、仮設で作られたテントでしたから、悪ガキは、裏からコッソリしのび込むことも、できました。小屋の中に、入ると既に蛇女らしき人物がステージの真ん中に立っていました。「はい、皆さん。この線から入っちゃいけないよ。お代は見てのお帰りだ。かわいそうなのは、この子です。赤児の頃に、捨てられて、大蛇に育てられた醜い子供。はい、この通り言葉も分からず、見世物小屋の主人に拾われた。かわいそうなのは、この子です。」と、進行役のもぎりが、喋りはじめたと思ったら、何と、小さな生きた蛇を鼻から入れて口から出す。涙が、自然と出て、むせてます。今考えると、無理してるなって感じ。次に、口から出した蛇の頭を噛んで生き血をすする。それを、見て観客は、全員、悲鳴。後は何と、蛇女が、自ら全員と握手してくる。怖いよー。泣き出す子供達。どよめく客席。その時、司会者が、ビニールの蛇を売りに来る。なんでだァ〜。そして、見世物は、終了。私は小屋を出ました。まぁー、気持ち悪いが面白かった。手には、ビニールの蛇。買っちゃったよ。話は、これで終わりになりませんでした。祭りが終わり、神社の境内も、いつもの無駄な広さの空き地が、広がっていました。学校の帰りに、一人で見世物小屋の跡地に、立ち、なんとなく水飲み場を見ると、そこに何と、蛇女がいました。普通に歯みがきしてました。私が、ポカンとしていると近ずいて来て、「坊や、飴食べるか?ほれ。手だして。」「ありがとう」かなり怖かったし、話しかけられたのが、不思議で、体が動きませんでした。その話を学校の友達に話したら、みんなびっくりしてました。その日から、「蛇女と、話したヒーローになりました」まあ、今考えると、ただの女の人だったんだなぁ〜。背中の入れ墨が凄かった印象が残ってます。もらった飴は、食べられなかった。小さい頃の見世物小屋の思い出でした。(笑)

 - 青空と向日葵の会  Apex product 代表 柳 -

【見世物小屋とは?】

江戸時代に爛熟し、明治時代以後に今でいうところの見世物小屋に近づいていった。江戸時代の頃には今で言うところのサーカスや美術館、動物園、お化け屋敷、パフォーマーなどの要素も含んでいた。昭和30年頃には、神社のお祭などで縁日などと並んで見世物小屋も興業していた。珍品、奇獣、曲芸などの出しものを行う小屋と定義さられている。奇形児などを見世物にして興行収入を得てきたこともあり、社会福祉が発達していなかった頃には身体障害者の生活手段の一つであった。昭和50年以後は障害者を舞台に出演させることへの批判が強まり、見世物小屋は衰退していった。また、映画のなかでも興行者が語っていたが、テレビの繁栄も見世物小屋衰退の要因である。

最後の見世物小屋を追ったドキュメンタリー

最盛期には数百件を数えたものの、現在では一軒しかないといわれる見世物小屋一座の生活と歴史を追ったドキュメンタリー。江戸後期には全国で300軒あったとされる見世物小屋は、時代とともに数を減らし、2010年以降も営業しているのは、新宿花園神社の酉の市に出る見世物小屋で知られる「大寅興行社」のみ。旅から旅へとまわり、日常生活も一緒に過ごす大寅興行社一座の失われつつある暮らしや人情を見つめる。

【地下幻燈劇画 少女椿】  

貧しい家に生まれ、病身の母と2人暮らしの生活を送る少女みどりは、母の世話のために夜ごと花売りにでかけていた先で、山高帽を被った親切なおじさんに出会う。

「困ったときは、いつでも私を訪ねておいで…。」

家に帰ったみどりが目にしたのは、性器から入り込んだ何匹もの鼠に内臓を食い破られた母親の姿だった。孤児になったみどりは、山高帽のおじさんを訪ねる。彼女が連れて行かれたのは異形の芸人たちが働く見世物小屋・『赤猫座』であり、山高帽のおじさんはそこの主人であった。見世物小屋の下働きとして使われるはめになってしまったみどりを小屋の芸人達は事ある毎に虐め抜き、みどりもまた障害を負っている芸人達を化け物呼ばわりし、嫌悪感を露にして罵る。

狂気にまみれた異常な日々が続く中、小人症の男、手品使いと称する謎の芸人ワンダー正光が小屋の売り上げのテコ入れのために雇われてから、みどりを巡る状況も一変していく。手品と称して不思議な幻術を操る正光はみどりを気に入って何かと世話を焼き、みどりも自分に優しく接してくれる正光に好意を抱くようになる。一座の売り上げに献身することで一座での発言を強めた正光のおかげで、みどりの立場も向上していくのだった。

ほどなくして赤猫座の座長が一座の金を持ち逃げして行方をくらまし、芸人達にそれぞれの旅立ちの時が訪れた。みどりはワンダー正光と共に旅に出ることになり、辛く当たっていた芸人達もみどりと正光の門出を祝福し祝ってくれた。

ようやく訪れる幸せへの喜びに胸を躍らせていたのも束の間。バスの停留所でみどりを待たせ、お弁当を買いに行った正光は泥棒に殺されてしまった。いつまでも帰ってこない正光を探しに行くがようとして見つからず、疲れ果てて休んでいた神社の並木道で、みどりはワンダー正光を含む見世物小屋の芸人達が楽しそうに宴会を行っている光景を目撃する。芸人達の朗らかな笑い声が響く中、みどりはショックのあまり半狂乱に陥り、泣き叫びながら芸人達を追い払った途端に、その光景は消え失せてしまった。

ただ独り取り残されたみどりが号泣するところで物語りは幕を下ろす。

『少女椿』 10月13日(木)〜17日(月) 於:ザムザ阿佐谷

『少女椿』
花を召しませランララン
夢は木蓮一丁目
二丁目 向日葵 王女様
三丁目の花 女蔵花
四丁目 ぬれてる瑠璃柳
あたしのお花 迷ひ子のお花
遠くでお家が燃へる夜
盲目の黒犬くはへて走る
したたるような椿です


丸尾末広の人気漫画『少女椿』を、廻天百眼が脚色完全舞台化!
見世物小屋にさらわれた少女の残酷物語
少女はいつ何を生きたのか
少女は誰か、少女は何か、少女は君だ!
あの日あの時から、あなたは何を失い、何を得たのか
あの日あの時に望んだ世界よ!今こそ私達の前に!
廻天百眼の送る、反逆の少女椿!
「どうせ人生見世物よ!」

【スナック経営失敗の訳】

しばらくお待ち下さい。工事中です。すみません。NY


【中学時代の部活動の話】

しばらくお待ちください。工事中 NY

【今井◯◯さんの娘 、武勇伝】

しばらくお待ち下さい。工事中です。すみません。NY

【引ったくりにあった】

しばらくお待ち下さい。工事中です。すみません。NY

【医者の息子が、漫画家?】

しばらくお待ち下さい。工事中です。すみません。NY

【恐怖シリーズ第1弾 赤い手の伝説!!】

しばらくお待ち下さい。工事中です。すみません。NY

【屋台の焼きそば屋 驚きのサービス!!】

しばらくお待ち下さい。工事中です。すみません。NY

【中学校のアホコンビで障害者施設訪問】

しばらくお待ち下さい。工事中です。すみません。NY

【朝日名人会】ライヴシリーズ

現在開催中の「朝日名人会」ライヴシリーズ 100タイトル発売記念キャンペーン、いよいよ盛り上がってまいりました!
本日伺った山野楽器 銀座本店さんでは、写真の通り店頭で大きく展開していただいております。

キャンペーン実施店舗の御案内や特典、ネットでの購入など、詳細はこちらのスペシャルページをご覧ください!
http://www.110107.com/asahi_series

【寄席に行こう!!】

行きたい寄席を探そう

寄席は年中無休

寄席は、毎日やっています。「昼の部」は正午前から、「夜の部」は、だいたい午後5時前くらいから始まります。基本的に入れ替え制ではないので、一日じっくり落語に浸ることもできます。(寄席や公演によって違うので、正確なスケジュールは直接寄席に問い合わせてください。)
また、お正月は顔見世興行といって、通常より出演者が多く、一日三部構成になります。

演芸場を調べよう

落語芸術協会が出演している寄席は、新宿「末廣亭」、浅草「浅草演芸ホール」、池袋「池袋演芸場」、上野「お江戸上野広小路亭」、三越前「お江戸日本橋亭」、半蔵門「国立演芸場」、横浜「横浜にぎわい座」があります。ほかにも、地域寄席ホール落語などいろいろなところで落語は聴けます。居酒屋や蕎麦屋でやることもあるんですよ。

新宿「末広亭」

新宿「末広亭」

上席、中席、下席で番組が変わります

寄席の出演者や内容は、上席(毎月1日~10日)、中席(毎月11日~20日)、下席(毎月21日~30日)ごとに変わります。初めて寄席に行くなら、知っている落語家(噺家)が出演するときを選んで行くのがいいでしょう。寄席は小さいところが多いので、落語家が身近に感じられますよ。
また、事前に誰がどの噺をするのかも知りたいところですが、残念ながらそれは難しいです。芸人は、自分の演じるものが他の出演者とかぶってしまわないよう、当日、出番を待っている間にネタ帳を見ながら決めるのです。

親子には親子寄席もオススメ

寄席は、老若男女が集まるところ。子供連れのご家族もよく見かけます。ただし、あまり小さなお子様は他のお客様に迷惑になることもありますので、ご考慮ください。地域寄席や行政主催の公演などでは、親子で楽しめる「親子寄席」を催すこともありますので、そのような機会を利用するのもいいでしょう。

さぁ、出かけよう!

チケットの予約は必要ありません

行きたい寄席が決まったら、あとは行くだけです。寄席では席の予約・前売りなどはない場合がほとんどですので、「近くまで来たからついでに寄席でも」と、気軽に行くことができます。

服装はもちろん自由

おしゃれをしたり、着物を着ていく必要はありません。普段着で気軽にお出かけください。ただ、寄席によっては着物割引などもあるので、慣れてきたらチャレンジしてみるのも楽しそうです。

寄席に着いたら

「木戸」がすべての入口です

チケットは、寄席の木戸で買います。入場料のことを木戸銭といい、子供には子供料金が設定されています。木戸には、案内の人が立っているので、混み具合などを聞いてみましょう。

木戸
寄席でのマナーって?

寄席は、好きなときに入って好きなときに出ることができます。寄席自体の再入場はお断りしているところが多いですが、基本的に客席は出入り自由。ただし、マナーとして、高座の切れ場(演芸と演芸の間)にするとよいでしょう。
また、飲食も自由です。売店でお弁当を売っているところも多いので、それも寄席の楽しみのひとつです。ただ、こちらもあまり音のするものやアルコール飲料はお控えください。アルコールOKの寄席でも、飲みすぎて芸人に絡まないようにしましょう。
このように、寄席には窮屈なルールはなく、とても自由な空間です。他のお客様や出演者に迷惑をかける行為に気をつければ大丈夫。携帯はマナーモードにしておいてくださいね。

初めて寄席を体験したら…また何度でも行きましょう!

ぜひ、何度でも寄席に足を運んでください。座る場所によって雰囲気も変わるので、靴を脱いで桟敷席に座ってみたり、思い切って前列に座り、芸人にいじられるのも一興かも?好きな芸人めあてで通うもよし、「通」への道をめざすもよし、自由に落語の世界を楽しんでください。

 

(一社)落語協会

www.rakugo-kyokai.or.jp/

林家木久扇 喉頭がんで「廃業」も覚悟…「笑点」の絆に感謝

 落語家の林家木久扇(77)が11日に日本テレビ系で放送された「あのニュースで得する人!損する人!」にVTRで出演。7月に喉頭がんと診断された際「廃業」も覚悟したことを明かした。

 木久扇は7月21日に初期の喉頭がんを公表し、休養を発表。1カ月半の放射線治療を経て9月21日の舞台で仕事復帰。9月27日の日テレ系「笑点」(10月19日放送)の収録で番組復帰した。

 木久扇は6月半ばごろ、かすれ声になり、「皮膚がくっついちゃってる感じ」という違和感を感じ、病院に行ったところ、喉頭がんと診断された。第2ステージだった。

 治療のため、休養を決断したものの、心配だったのは仕事、弟子たちのこと。「ぼくら声出なかったら、やっぱり廃業なのかなぁ。戻れないのかなぁ。困っちゃったなぁ」と一時は廃業を覚悟したことを明かした。

 さらに「ぼくらの職業はいくら有名でも、休んじゃうと無収入になっちゃうんですよ。」と切り出し、「すごく情けないわけです。稼げない師匠がいる、という…ただのおじいさんになっちゃうのは、いやだったんです」と苦悩を告白した。

 番組開始から47年間、一度も休まずに出演してきた「笑点」に穴を空けるのも嫌だった。「テレビってテンポの早い娯楽ですから。あそこ(自分の席=座布団)に誰かが座っちゃうんじゃないか」という不安も頭をよぎったという。

 しかし、休養中の全12回の放送では、木久扇の座布団は置かれたまま。「笑点」メンバーやスタッフは“空席”で木久扇の復帰を待つ意志を示し続けた。

 木久扇は「嬉しかったですね。待っててれる…そういうものが電波の中に流れるっていうのが」と振り返った。

 10月21日の復帰収録の際には「(桂)歌丸師匠が『木久ちゃん、よかったね』ってあの細い手で握手してくれて。(三遊亭)円楽さんがやっぱり目が潤んでてね…」と涙をにじませながら“笑点ファミリー”の絆に感謝していた。

木久扇師匠 復帰おめでとうございます!!

 初期の喉頭がんの完治を発表した落語家の林家木久扇(76)が27日、東京・文京区の後楽園ホールで行われたレギュラー出演する日テレ系「笑点」(日曜・後5時半)の収録に7月5日以来、約2か月半ぶりに復帰した。他のメンバーと観覧客の歓声に迎えられた木久扇は、「のどの調子はまだ70%くらい」としながらも、“お約束”のダジャレと歌、おバカキャラ全開で回復をアピール。共演者とファンらの不安を一掃する笑顔を見せた。
約2か月半の間、座布団だけがぽつんと置かれていた木久扇の席。おなじみのテーマソングに合わせ、三遊亭好楽(68)に続いて、木久扇が姿を現すと、ひときわ大きな拍手と「待ってました!」の声。2度バンザイをして応え、久々の座布団の感触を味わいながら腰を下ろした。
この日は、10月19、26日の放送分を収録。19日は木久扇の喜寿(77歳)の誕生日という「ダブルおめでた」となったが、素直に喜びを表さないのが、笑点メンバー。隣に座る春風亭昇太(54)が「秋は隣に人がいると暖かくていいけど、夏は暑苦しくてしょうがない。来年の夏も、休んでもらいましょう」と話せば、三遊亭円楽(64)は「(メンバーに)入った順番に倒れるなら、次は私の番ですかね」。いきなりの“洗礼”を楽しんだ。
復帰後、初仕事となった21日の埼玉・行田市での「行田寄席」で、かすれ気味だった声は、かなり回復。「のどの調子は70%くらいですね。最初は番組のリズムをつかむのが難しくて。手をうまく上げられなかったりとか…。歌も歌えません」と話したが、「いやんばか~ん」の歌ネタも早速披露した。
収録後の取材会では「7月22日にステージ2の喉頭がんが見付かりました」と、がん発見時の話から始まり、放射線治療について、まくし立てるように説明。桂歌丸(78)が「木久ちゃん、しゃべり過ぎ! 病気が病気なんだから」とストップがかかるほどで、話せなかった時間の分まで、しゃべりまくった木久扇。自分の「座るべき場所」に帰ってきたことを、心から喜んでいた。
なお、同番組に先駆けて、10月11日には同局系「メレンゲの気持ち」(土曜・正午)に出演する。

落語協会が10日更新でお届けする、寄席演芸をお楽しみください。

rakugodcc - YouTube

www.youtube.com/user/rakugodcc

健康は、笑いから。病気も治るよ。寄席に行きましょう(*゚▽゚*) 代表 柳より。

【あなたは、一人じゃない。一人で悩まないで!!】命のメール受付 代表 柳より。

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