Apex product 【 青空と向日葵の会 】 サークル活動!!

【俺が泣いても何にも出ない!!】 柳

皆さん覚えていますか。渥美清さんがお亡くなりになった訃報が届いた時の残念な思い。今でも涙が出ます。突然ですが、私は、田舎の漁師町出身で、子供の頃からの楽しみといえば、お正月におしゃれして、家族で「寅さん」を見に行き大笑いして初詣する。定番でした。唯一の贅沢でした。今は、毎日が正月です。生まれた町は田舎なので一軒しか無い映画館で、当時の様々な映画を見たのを思い出します。子供の時、ガキ大将に教えてもらい、「いなご」や「どじょう」を取り「空き瓶」を回収して業者に売ってお金にして映画をみました。その当時から、資源循環型社会を目指してました。嘘です。まあ、それほど映画が好きでした。特別貧乏な家ではなかったのですが、そうしてお金を友達と稼ぐのが楽しかった気がします。商人でした。兄弟や近所の子供達とは遊ばず、隣町のガキ大将の家まで通ってました。今思えば、両親に捨てられた子供で親戚を、たらい回しにされたあげく、虐待を受けていたそうです。そんな暗い環境にも屈せず、明るくヤンチャ坊主でした。特に俺には優しい兄貴でした。直ぐに仲良くなり、いつも何をするのも一緒でした。楽しかった。自分は、兄弟三人で兄・妹がおります。でも兄貴(ガキ大将)は一人ぼっち。だから俺が仲間でした。家族より家族でした。兄弟でした。兄貴(ガキ大将)と毎日ザリガニ取りや、口で言えない悪いことばかりしていました。でもそんなやんちゃ坊主達の小さな幸せも長くは続かず、兄貴は施設に入ることになり、入居の当日に兄貴は親戚の家を出ました。俺には何となく分かってました。でも何も話してくれませんでした。ただ毎日楽しい遊びの話ばかりでした。小学5年生のガキ大将が小学2年生に自分の何を語るのでしょう。今の現実から、逃げたかったのでしょう。リセットして生きたかったのでしょう。それ以来、消息不明になつた兄貴。元気でいたら連絡下さい。どうぞ、どうぞ、幸せに暮らして下さい。さぞかしあの時は、辛かった事でしょう。幼すぎてあの頃は、何も兄貴にしてあげられなかつた。ごめんね。兄貴(ガキ大将)の口癖が「泣いてたまるかよ」でした。兄貴の苦労から考えれば、つまらない小さな事ですが、当時を思い出すと愚痴が出ます。家族だから気を許しているから出るのでしょう。何故 自分だけ、洋服はお古ばかり。長男は優遇され、妹は女の子だから、可愛がられ。何故なんだ。子供を差別する親はいません。ひがんだガキがいました。しかし、今だから言いますが、私はラーメンが好きでは有りません。当時180円で、家族で外出する際、1番安いから頼んでいただけです。確かに「大好きだ」と言ってはいましたが、嘘です。少しでも家計が楽になればと思っていただけです。兄弟は分かっていなかった。胸に詰まった物を吐き出したら、スッキリした。子供の頃から、我慢・我慢ばかりの気ばかり使う小心者。可愛くないですね。でもその子供がラーメン店を経営するとは、何か縁が有ったのでしょうか。笑える話です。そうした、我慢の反動か、親戚の農家の畑から、スイカも梨を無断で頂きました。皆さんもやりませんでしたか?時効ですか?叔父さん、すみませんでした。毎回、まとまらない内容で、すみません。男はつらいよ」の話に戻りますが、どうしても「さくら」を自分の妹と、だぶらせて見ていたのでしょう。泣けて笑えました。寅さんありがとう。寅さん映画も良いのですが、今回は、渥美清さんの「泣いてたまるか」も素晴らしいので、ご紹介致しました。是非見てくださいね。

青空と向日葵の会-【命をまもり隊】-Apex product 代表 柳 -

 

【寅さん百科・渥美清】

渥美 清の【泣いてたまるか】!!

『渥美清の泣いてたまるか』(あつみきよしのないてたまるか)は、 1966年から放映された連続テレビドラマ『泣いてたまるか』の渥美清主演バージョンの作品群を指す。 この作品は、毎回脚本家が変わり、渥美清も毎回違う役柄で出演するというコンセプトで始まった『泣いてたまるか』が正式タイトルである。DVDや渥美主演作品のみの放送がされるようになって「渥美清の」という角書きがつけられた。(青島幸男や中村嘉津雄と隔週交代で出演していた時期もある)。 その中でも、山田洋次が脚本を手がけた最終話の「男はつらい」という回を、山田本人が気に入り、渥美清の代表作である『男はつらいよ」』の連続テレビドラマ化および映画化につながっている。ちなみに、後に博の役をする前田吟もこの回に出演した。 今では有名な俳優や女優が脇役として出演したこと、有名な脚本家が多数手がけていたこと、渥美清の独特な雰囲気と演技力の相乗効果で人気だったことは元より、作品としても素晴らしい出来と評されている。渥美は、寅さん風のアウトロー的な役はもちろん、実直な教師役や平のサラリーマン役、更には偽傷痍軍人役等、多岐に渡る役柄を演じきり、役者としての懐の深さを見せた。 西田敏行はこの作品でデビューした。ちなみにこの作品から約20年後に、西田敏行バージョンの『泣いてたまるか』が放送された。

【2016年8月4日の渥美清没後20年関連番組】
NHKBSプレミアム
8月4日(木)の命日には、渥美清さん関連番組が2作品放送されます。

●ドキュメンタリードラマ『おかしな男~寅さん夜明け前・渥美清の青春~』...
寅さん役でブレイクする前の若き日の渥美清を柄本佑さん、小林信彦を川口覚さんが演じます!
時間】20:00~21:00
【放送局】NHKBSプレミアム

●映画『男はつらいよ』第1作
寅さんの記念すべき1作を皆さんお楽しみに!
【時間】21:00~22:33
【放送局】NHKBSプレミアム

皆様、お見逃しなく♪

※今日の21:00~22:00は、NHK BSプレミアム 「アナザーストーリーズ運命の分岐点 ”映画男はつらいよ”寅さん誕生知られざるドラマ」が放送されますので、そちらもお見逃しなく~。

渥美清さん、2016年8月4日で没後20年。秘蔵写真満載のムック『寅さんの向こうに』が発売!

映画「男はつらいよ」シリーズで〝フーテンの寅さん〟を演じた渥美清さんが亡くなって8月4日で20年。株式会社朝日新聞出版(本社:東京都中央区築地)は、不世出の昭和の名優の足跡を、数々の秘蔵写真とエピソードで辿る、週刊朝日MOOK『渥美清没後20年 寅さんの向こうに』(定価980円)を発売しました。

「男はつらいよ」シリーズは、1968年のテレビドラマからスタートし、翌年映画化。「男はつらいよ・寅次郎紅(くれない)の花」(96年)までの全48作は、世界に類のない長寿シリーズとしてギネスブックにも登録されています。

 本書では、シリーズの解説はもちろん、若尾文子、吉永小百合、松坂慶子、竹下景子ら歴代マドンナをはじめ、倍賞千恵子、前田吟、佐藤蛾次郎といった縁の深い俳優ら、総勢約50人もの人々が語る渥美清、山田洋次監督、浅丘ルリ子、黒柳徹子、永瀬正敏らの語り下ろし、寅さんとは一味違う演技が光る出演作の紹介、親交の厚かった写真家・ムトー清次が捉えた秘蔵グラビア、早坂暁の特別寄稿など、多方面から俳優、そして人間・渥美清の魅力を、余すところなくお届けします。

 【『渥美清没後20年 寅さんの向こうに』おもな内容】

  • 写真家ムトー清次撮影のグラビア「渥美清との旅」
  • 若尾文子、吉永小百合、松坂慶子、竹下景子…… 歴代マドンナが語る「寅さん」
  • 山田洋次監督、浅丘ルリ子、黒柳徹子、永瀬正敏らの語り下ろし
  • 親友・早坂暁特別寄稿「俳句から見える渥美清の実像」
  • 「車寅次郎」以外の演技が楽しめる作品紹介  「渥美清が見せた顔」
  • 朝日新聞記事から振り返る   「渥美清の言葉」
  • 俳号は「風天」。渥美清がアエラ句会で詠んだ全45句
  • 寅さんの〝相棒〟たち   ロケで使用したトランク、帽子など小道具撮り下ろし
  • 渥美清バイオグラフィー    ほか

 

「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。
  帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎。
  人呼んでフーテンの寅と発します」


車寅次郎の名調子とともに、日本人の心のふるさとが蘇る一冊です。


週刊朝日MOOK『渥美清没後20年 寅さんの向こうに』
定価:980円
発売:7月30日
Amazon商品ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/4022770392 

2月19日(金)に発売となる名越康文先生著「『男はつらいよ』の幸福論―寅さんが僕らに教えてくれたこと―」の見本が届きました。
カバーデザインは鈴木成一デザイン室、イラストは下杉正子さんによるものです。
編集担当さんより
「“幸福論”という堅めのタイトルながら優しいフォント使い、文字のすき間にちょっとした違和感を仕込んでいます。イラストは寅さんの優しさや頼りなさだけでなく、表情や色味から人生の苦味や毒も感じられるところがポイントです。本書はそれらを包み込んだ上でシリーズから読み取れる“幸福論”となっている、ということを表現しています!」
と、装幀に込められた想いをお伝えいただきました。
書店に並ぶとより映えると思います!

本の詳細はコチラ→https://www.tora-san.jp/news/907/

寅さんゆかりの柴又ツアー募集開始です!
ロケ地紹介の東京都アプリ「東京ロケたび」を使って、映画「男はつらいよ」シリーズで有名な葛飾柴又の町を散策。
なんと!「男はつらいよ」シリーズにレギュラー出演されていた「あの人」が皆様をお出迎えします!
ツアー実施は2016年2月28日(日)。参加費無料のイベントです。ご参加には事前申し込みが必要です。
詳しくはこちらをご覧ください。
https://www.tora-san.jp/news/909/

俳優・渥美清の軌跡-没後20年特集上映- 6/11(土)~24(金) 東劇にて上映決定!
渥美清さんといえば『男はつらいよ』の“寅さん” ― そのイメージが強烈なのは事実。
しかし“寅さん”に出会う前の渥美清さんは舞台やテレビの第一線で活躍する一方、映画俳優としてさまざまな作品に出演していました。名監督とタッグを組み、確かな演技力と磨き上げられた話術、そして圧倒的な存在感で、数多くの傑作を残しています。

今回は“寅さん”以前の1960~70年代出演作を中心に8作品を厳選ラインナップ、「俳優・渥美清の軌跡」を振り返り、没後20年を偲ぶ特集上映を東銀座・東劇にて行います。
今なお愛され続ける国民的映画俳優の魅力溢れる名演の数々を、この機会に東劇の大スクリーンで存分にお楽しみください!
http://www.cinemaclassics.jp/

【近所の女の子とママゴト遊び】 

しばらくお待ちください。工事中です。すみません。NY

【とんでも無いイジメの現実】

しばらくお待ち下さい。工事中です。すみません。NY

11/7(土)・8(日)に葛飾柴又で開催される、『寅さんサミット2015~日本の原風景を守り、後世に伝える~』の公式ホームページがオープンしました。

11/7(土)・8(日)に葛飾柴又で開催される、『寅さんサミット2015~日本の原風景を守り、後世に伝える~』の公式ホームページがオープンしました。
映画「男はつらいよ」のロケ地が、日本全国(さらに海外!)から一堂に集い、寅さんの旅した原風景を守り、後世に伝えていこうという催しです。トークセッションや上映会、地域の特産品展などなど、「男はつらいよ」に関連する企画・イベントが盛りだくさんの二日間、詳細は公式ホームページをご覧ください!
http://torasan-summit.jp/

第21作 『寅次郎わが道をゆく』でのロケ地となった、通潤橋。通潤橋を眺めてると、寅さんがふらっと歩いて来る様な気がします。

第30作 『花も嵐も寅次郎』のロケ地、湯布院町湯平温泉。

第28作 『寅次郎紙風船』のロケ地となった、福岡県甘木市秋月の秋月城址の黒門。ワタシの好きな秋月。仕事で九州来た時には必ず寄ります

お正月で賑わう葛飾柴又へ。
寅さん記念館ではアリアに聞き惚れて時を忘れてしまいました。2015年1月4日

フーテンの寅、オンデマンドにやってまいりました!

みなさん、こんにちは。IPプラットフォーム事業部の今西です。日本映画を代表する名作、『男はつらいよ』が、12/17(水)よりスカパー!オンデマンドにてご覧いただけるようになります! しかも、劇場公開された全49作品がイッキに登場。みなさんだったら、どの作品からご覧になりますか?

えっ? 作品数が多いうえに名作ぞろいで、どれを見るかをすぐ決められるわけがないだろう、って? 「それを言っちゃあ、おしまいよ」

■ スカパー!オンデマンドに、『男はつらいよ』 劇場版全49作品が登場

http://goo.gl/p0kp6Y

掲載画像 : © 松竹株式会社

長野県小諸にて「男はつらいよ」第7作フィルム上映迫る

長野県小諸市にあり、現在財政難で休館中の渥美清こもろ寅さん会館を復活させるためのアピールイヴェント「寅さん全作フィルムで観よう会」(毎月第2土曜開催)が、あちこちから注目を浴びるようになり、先月は愛知や東京からいらっしゃるお客さんも出てくるほど。
そしてその成果は、遂にお二方のスペシャルゲストがいらっしゃることに。

俳優・榊原るみさん!

娯楽映画研究家・佐藤利明さん!

お2人のトークショウが、渥美さんの愛する小諸にて、実現。

榊原さんの美しさに初めて触れたのは、僕がまだ小学生の頃、リアルタイムで観た「帰ってきたウルトラマン」
そして寅さんを観て、あの美しい女性が天使のように無垢な少女を熱演しているのを知るのだった。
山田洋次監督の自我が初めて「男はつらいよ」に投影されたとも言われる、障がい者、教育、福祉などの問題がテーマになった第7作。
その後の傑作「学校」シリーズにまで山田監督の思いは繋がっていく。
その原点が、榊原さん演ずる花子なのだ。
そして、当時は青大将のイメージが強かった田中邦衛さんの教師役が、これまた熱演の名演なのだ。
この2人のキャスティングは、すごいの一言だ。
こうして、全48作の中でも、誉れ高き1作となっている。
今でいうところの、放送禁止用語も飛び交うこの作品を、ノーカットの35㎜フィルムで観ないかい。

満員で当日札止めになったらどうしよう。
皆さん、どうぞお早目にお越し下さいね。
渥美清さんも、空の上から喜んで下さることだろう。

1971年の35㎜フィルムで当時のるみさんを、そして今なお美しきるみさんと同時にに出逢える機会は、他の何処にもない。
さあ、これで渥美清こもろ寅さん会館復活に、弾みがつくぞ!

車寅次郎の生業 第48作 男はつらいよ 寅次郎紅の花  

寅さん 口上 生業 稼業 本業 職業 本職

わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人­呼んでフーテンの寅と発します。

寅さん。ありがとう!! いつまでも忘れない。

『男はつらいよ 』第一作目で...
♪ こ〜ろ〜し〜たいほ〜ど〜♪ と寅が歌うこの曲は、北島三郎の『 喧嘩辰 』の

三番目の歌詞。(これが実にいい!)
 ♪
   殺したいほど惚れてはいたが
   指もふれずにわかれたぜ
   なにわ節だと笑っておくれ
   ケチな情けに生きるより
   俺は仁義を だいて死ぬ  ♪ 

硬派な寅はまさにこの曲がぴったり。それを、のっけの一作目から楽しませてくれる手法の演出は流石、お見事の一言。

渡世の義理人情を重んじ生きてる寅は曲がったことは
でぇ~嫌いで許さない。まさに、浅草軽演劇の培われた下地がそのまま表現されている。そして、監督はそれまで多くの監督たちが用いたように必ず要所要所に浅草時代の仲間である関敬六(ポンシュウ)を、起用し笠智衆、佐藤蛾次郎、前田吟、倍賞千恵子と脇役陣を配しているのです。例えばジョン・フォード監督がジョン・ウェインの脇に、ワード・ポンド起用したり、黒澤映画で主役の脇に志村喬、藤原釜足、千秋実など起用しその作品を左右する脇役陣で固めています。

さて、話を戻して演歌の世界をひたすら素足に雪駄を履いて雨の日も風の日も真冬の寒空の下でも的屋(テキヤ)の売(ばい・啖呵売の略)に精を出すのです。売では口から出放題馬の尻で威勢のいい売の声が響き渡る。

「角は一流デパート赤木屋、黒木屋、白木屋さんで紅白粉(べにおしろい)つけたお姉ちゃんから下さい頂戴で頂きますと五千が六千、七千が八千、一万円はする品物だが今日はそれだけ下さいとは言わない!ねぇ~!」と山形での売。

ちょいとマニアックなところで48作中たった一作だけ寅が、足袋を履いている珍しいシーンがある。
それは、第16作目の『葛飾立志編 』マドンナの樫山文枝と駅前の出合い。寅の云うところのキッチャ店なのだ。

店からとらやに電話をし終わって足元を見たらなんと足袋を履いていたのだ。撮影が寒くて大変だったのか渥美清の体調が悪かったのか、後に先にもこの一作だけだった。向うに見えるは民家の明かり一人寂しく 佇む私、あなたを偲んで ここまで来たの、愛しい 恋しい 想いを胸にあぁ 私の過去は消えていく・・・切ない想いは 張り裂けそうで私の 昭和は消えていく・・・

二度と逢えない あなたの想い
消すに消せない 二人の出逢い
想いだすたび 心がゆれる
あぁ 愛しい 恋しい 想いを胸に
帰らぬあなたを 待つ私・・・
(玉置宏風に書きました)

さぁ~!歌って戴きましょう。
と曲のイントロで紹介する寅さんの顔が思い浮かぶ。

走り抜けてく光の列が、点で繋がる想いを胸に、遠くに見えるは民家の灯り、瞳を閉じてもう一度、夜汽車が行く音(ね)に心が滲みる懐かし 愛しい 温かい、ただあなたの声聴きたくて・・・あぁ 昭和はどんどん遠くなる

こんな想いを伝えたい、ひと目あなたに逢いたくて・・・あぁ 昭和が懐かしい(今は亡き玉置宏風に書いてみました。)

第31作目 『旅と女と寅次郎 』
あんこ椿は恋の花.唄京はるみ(都はるみ)5分15秒から見せる寅の表情は人気商売の苦悩を色を読み取るのだった。
ここでも監督の繊細な演出が見え隠れする。好き嫌いは、別にして、演歌の世界は、情念の世界。とっても、主観的でもあるが、その主観的が演歌を支えてるんだろうと思いやす。嫌いではない、いや、寅さんやアッシはむしろ日本人に流れている血は、七五調で出来上がっているのでは、ないかとも思っている位っす。

【男はつらいよ】ファンクラブTada InoさんBlog転記

ねぇ~、ご一統様に置かれましては、めでてぇ~正月!
ねぇ~! 年の初めが一ならば、
国の始まりが大和の国。
ねぇ~。島の始まりが淡路島。

泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、
博打打ちの始まりが熊坂の長範というくらい。

さあ、どお~。手に取って見てやって、
ねぇ~。二つ、二つ兄さん寄ってらっしゃいは、

吉原のカブ、仁吉が通る東海道、憎まれ小僧、世にハバカル、
仁木の弾正(にっきのだんじょう)、
お芝居の上での憎まれ役、さあどうだ!えぇ~、

よぉ~し!こうなったら並んだ数字が三つだ!

三つ三つ三つ三つ!どう、はい、三、三、六法で引け目がない。

産で死んだが三島のおせん、おせんばかりがおなごじゃないよ、
京都は極楽坂の門前で、かの小野小町が飲まず食わずに
野たれ死んだのが、これが三十三!とかく三十三というのが、

おなごの大厄ね!お大事にして、はい…
手に取ってどうぞ、見てやってください!ね!
だまって立ってないで、ほら、ねぇ~どう、買っていってちょうだい。

本日は大売り出しだよ~って威勢がいいやねぇ~、ねぇ!

昔のお嬢ちゃん!ねぇ、天に軌道のあるごとく、
人それぞれに運命というものを持っております。

この世に生きとし生ける者、その運命に逆らうことは
誰一人出来ません。お兄さんお兄さん、

心配事があるの。こっち来て、こっち来て、
随分青い顔してるねぇ学生さん?

手相見てやるから手を出しなさい。ねぇ。
あれぇ~誰一人立ち止まらないの行っちゃうの?

あとで大変な後悔をしますよ~ぉ、
ねぇ。 よ~し、さぁ、もうヤケだ。

ねぇ!ヤケのヤンパチ、日焼けのナスビ、
色が黒くて食いつきたいが、わたしゃ入れ歯で
歯が立たないよ、ときた。でへへへ。

まぁ~、新年の口上ってところで
ご免なすって。へい! ^^;

昨日の今日ってことでひとつ良しなに
ビシッと頼むぜ兄弟、舎弟に姉姐さん、
今後ともお引き回しの程を!

初代寅さんファン倶楽部会長のお言葉です。今日帝釈天に行って、素敵な言葉を知ったので、みなさんにもシェアします。
「深敬(じんきょう)」とは、深く人を敬うことである。最近は、すべてが自分勝手で、他人の立場や、他人の気持ちになって考える人が少ない。
相手の立場を尊重する。そうした思いやりの心が必要である。
柴又帝釈天主 望月日翔

男はつらいよ 寅次郎忘れな草 予告編   

1973年夏公開 シリーズ第11作目
寅さんシリーズのマドンナ役として最も多い4回の出演の浅丘ルリ子演じるリリーが初め­て登場した記念的作品

渥美 清(あつみ きよし、1928年3月10日 - 1996年8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。愛称は、寅さん、風天(俳号)。身長173㎝、体重70kg。

1928年(昭和3年)3月10日に、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。

1934年11月、上野の板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。

1940年板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年に同校を卒業するも、3月10日東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。 卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。

1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。

中央大学経済学部入学後、船乗りを志して退学したが母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。

なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。“渥美”は愛知県渥美半島から採ったとされる。

1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。

1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇東八郎関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。

1954年肺結核で右肺を切除しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。右肺を無くした事で其れまでのドタバタ喜劇が出来なくなった。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。

1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。

1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一関敬六スリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。

1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。

1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。

同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。

当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢岩下志麻三国連太郎丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。

1963年野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。

1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(喜劇急行列車喜劇団体列車喜劇初詣列車)(1967年1968年)なども有名である。

1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言う結末に視聴者からの抗議が殺到した。

1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。

1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。

1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。

1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。

映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。特に1977年『八つ墓村』が松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことは大きな岐路となる。

1979年(昭和54年)4月14日NHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど~昭和のこころ 古賀政男~』では作曲家古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるには至らなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。

1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。

その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。

後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。

ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。

また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。49作目は秋からクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だった。

病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。

1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば、病院で癌の手術が手遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。また同年6月に49作の映画化の件で話し合い、肉を食べ撮影に意欲を燃やしていたとのことである。

1996年平成8年)8月4日転移性肺癌のため東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院にてこの世を去る。68歳没。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。

そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が

5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。医師から、正月遺作となった映画に出演できたのは、奇跡といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。何故そんなに苦しめたのか。27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお礼を申し上げます。

との弔辞を読み上げた。

世間では、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。

妻は熱心なカトリック信徒で、渥美自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事が明らかになっている。

渥美は亡くなるまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。

経歴についての異説

渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。

巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。

実像

柴又駅前に立つ車寅次郎の銅像

「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は自身公私混同を非常に嫌い、他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で、撮影協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。

家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった[。結婚式は親族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表する事はなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。結婚まで秘密にしていたため、没する数年前でも渥美が独身と思っていた人が多かったようである。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は『新珠三千代さんごめんなさい。』の迷コメントを出した。

芸能界の関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、黒柳徹子関敬六谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという。

脚本家・早坂暁は大学時代に銭湯で渥美清と知り合い、何度もプライベート旅行に行くなど親友となり、渥美は早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、早坂の故郷である愛媛県北条市(現・松山市)にある「北条鹿島」はお気に入りで何度も訪れており、渥美の最後の句「お遍路が一列に行く虹の中」は、早坂作のドラマ花へんろ(渥美はナレーション担当で、遍路がモチーフになっており、舞台は前述の愛媛県北条市)及び早坂への想いであると思われる。 渥美の死後発見された晩年の手帳には「……家族で旅行に行こう。ギョウさん(早坂暁の暁を音読みしたもの)も一緒に」と綴ってあった。これらのことからも、渥美にとって早坂がどれほど大切な存在であったかが伺われる。 早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧し、渥美も何とか抜け出そうとの思いがあった。 渥美自身は尾崎放哉役を熱望し、早坂も脚本を用意したが、寸前で他局が尾崎放哉をドラマ化してしまったため、急遽種田山頭火に変更した。渥美と早坂はあちこち取材旅行に訪れたが、クランクイン寸前になって渥美から降板を申し出た。降板の理由は体調不良やスケジュール不合などいわれるが、周囲からの「寅さん」のイメージ損失を嫌ったこととの軋轢かと思われる。ちなみに渥美降板により主役がフランキー堺となったこのドラマ「山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく」は、モンテカルロ国際テレビ祭(脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。 しかし、早坂は渥美に、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、上記「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。

上記著書の小林信彦は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親友に近い関係であったが、次第に疎遠となっている。同書では、小林がその後親しくなっていくクレージーキャッツのハナ肇と渥美とは互いに敵愾心に近いライバル意識があったことにも触れ、クレージーのメンバーの社会常識を称える形で渥美とは性格的齟齬があったことを示唆している。なお、ハナからは後年、結果的に山田洋次作品のレギュラー主役の座を奪う形となった。

渥美は藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットには「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で見るだけで、楽屋には寄らずに帰れる。帰る道すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている。」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「横丁のトラ公、まだ帰ってこんのか。」と言うアドリブを発していた。

非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていた。しかし「寅さん」とは、まったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らには、ほとんど気づかれなかったという。

山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2,3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している

2006年9月4日にNHKプレミアム10で放送された『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。

黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。因みにそれを報道したスポーツ紙には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をした時の写真が掲載された。これは当時マスコミがその写真しか得られなかった為である。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席し、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。また森繁久彌は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。

永六輔とは少年時代からの旧知であり、本人曰く渥美は永も所属した不良グループのボスだったという。また渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導された事があり、その時の刑事に「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。

プライベートでの交流が多かった数少ない芸能人として笹野高史柄本明がいる(笹野と柄本は自由劇場の同僚でもあった)。2人とも「男はつらいよ」シリーズの共演者であった。芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督へ笹野を紹介したのは渥美自身であった。

山田洋次系以外のスタッフでは脚本家鈴木尚之が度々招かれ、信頼が厚かったことを伺わせる。ただし渥美自身が企画し鈴木が執筆した、1972年春公開の『あゝ声なき友』が不振に終わり、厳格な今井正監督の現場になじめなかったこともあり、これを境に渥美は山田作品へほぼ専心した。その5年後の『八つ墓村』が記録的大ヒットになったが、松竹と角川書店角川春樹)の確執からシリーズ化できなかったこともこの流れを決定づけた。

長男田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていたが、後に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となった

一方で健太郎は、講談社月刊現代』2002年8月号の記事『七回忌を前に初めて書かれるエピソード、寅でも渥美清でもない父・田所康雄の素顔』で、渥美が健太郎の食器・食事に対する扱いに突然激高し、激しい暴行を何度も加える等のドメスティック・バイオレンスが家族へ日常的に行われていたとも告白している。

晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。

「男はつらいよ」を授業する

私は私立中・高の教師です。この3学期、「アクティブラーニングで学ぶキャリア教育」と題して、初めてAL型授業に挑戦しました。

アクティブラーニング(AL)とは能動的学習のことで、これまでの座学中心の学びから、生徒たちが学び合ったり協働したりして内容を深める、新しい授業の形です。

1回目が「AL型授業に慣れる」 

2回目が「なぜ学ぶのか」
3回目が「働くということ」

1回目は、高校1年生が初めてALを体験する授業です。グループ学習に慣れさせるための最初の第一歩なので、何を扱うか相当悩みました。そして出た結論が、映画「男はつらいよ」第1作でした。

個人的に大好きな作品で、ほとんどのシーンが頭に入っているので、まず映画をみせて(1時間40分)、グループで好きな登場人物のランキングを話し合い、主人公の寅次郎の良いところと悪いところを挙げてシェア、登場人物の相関図をグループで作成、というところまでアイデアがすぐに浮かびました。

ところが、授業のしめをどうするか?一番大事な点を悩みだしたとき、私はある古い本の存在に気がつきました。

それが、映画の原作者でもある、山田洋次監督の『寅さんの教育論』(岩波ブックレット、絶版)でした。初版は1981年、購入したのが9刷の1987年ですから、私が大学1年生のときです。

そこに、驚くべきことが書いてありました。

「教育の場でも、子どもが真剣に遊ぶ姿をちゃんと先生が見守り、助言をし、応援するということがとても大事だと思います。」

いまから34年も前の、少なくとも日本にはアクティブラーニングなんて言葉がなかった時代に、山田洋次は本質的なことを述べている・・・。

私は衝撃を受けました。
これはアクティブラーニングの本質そのものではないのか!
そうか!真剣に遊ばせる、これが重要だぞ、と。

つづけて、
「お互いがある役割に扮して、それを演ずる」
「1つのルールをつくって、ゲームをする」。

私はこの2つの言葉にインスピレーションを得て、寅さんをグループ別に演じさせてみよう、と思いました。

あらかじめAとBの2つのシーンの台本を書いておきます。Aは寅さんが「とらや」に帰ってくるシーン。Bは「とらや」から旅立つシーン。そして、その台本のかなりのセリフを空欄にしておく。
グループでAかBのシーンをどちらかを選ばせて、空欄に入れるセリフを考えさせて、そして実演させて終わる。

ある生徒グループの台本。
(さくら)「お兄ちゃん、行っちゃうの?」
(寅次郎)「俺たち宇宙人には稼ぎどきだからなあ。宇宙エレベーターでも出来たら、すっと帰ってくるよ。お前、それまで元気でいろよ。」
(おばちゃん)「そんなこと言って!ホントは宇宙に行くお金なんかないんじゃないか!」
(寅次郎)「なあに、これからはビットコインの時代だい。あばよ!」

授業の目的は、
家族も社会もさまざまな人間関係によって成り立っている!
異質な人間同士の集まりである!
ということを認識することでしたが、結果的にはこの小演劇があって成功した、というよりこれが一番盛り上がったわけです。気がつけばほとんど写真撮る余裕がなかった(涙)。

ALって面白いんだという気持ちのまま、次につなげることができました。
山田洋次さんに、感謝申し上げたいと思います。

【 渥美清を、しのぶ会 】Apex product 代表 柳

【あなたは、一人じゃない。一人で悩まないで!!】命のメール受付 代表 柳より。

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