Apex product 【 青空と向日葵の会 】 サークル活動!!
【 スーパー歌舞伎 ・猿之助 】
歌舞伎との出会いは、新橋演舞場で見た
猿之助歌舞伎でした。スーパー歌舞伎?なんだろう。当時から
好奇心の塊でしたので話の種と思い、出向いたのを覚えています。
しかし見てみたら吸い込まれて行きました。
ストーリーも良く分かりますし、意外と観客は若い人がいました。
「幕の内」お弁当も美味しかった。「三国志」を1番初めに
見たのですが、それから諸葛孔明が好きになり、三国志に、はまって
しまいました。是非 歌舞伎を見て下さい。
- 青空と向日葵の会 Apex product 代表 柳 -
中村吉右衛門、襲名から50年「つなぐ役目を考え、天職と思えるように…」

歌舞伎の日本国宝、中村吉右衛門(72)は今年、2代目襲名から半世紀の節目を迎えた。初代吉右衛門の芸を顕彰する東京・歌舞伎座9月公演「秀山祭」(1~25日)では、当代の代表作としても知られる「一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)」を初めて上演。15歳から演じてきた“作り阿呆(あほう)”の公家、大蔵卿を「やればやるほどセリフの意味の深さを知る。ハムレットの心境」と語る。(内野 小百美)
1966年に22歳で「吉右衛門」を襲名して半世紀。一代で名前を大きくした初代に追い付きたい一心で「振りかえる間もなく、追われるようにして自分と闘い続けた50年。早かったというか…」。祖父(初代)の養子になったのも、吉右衛門を継ぐため。誕生時から定められた運命の中で生きてきた人だ。
「自分は器用ではありません」とほとんど歌舞伎一筋。武将、英雄、流刑者…さまざまな役の内面の奥深くに入り込み、秀でた理解力と表現力で、見る者の胸を打ってきた。
「気持ちの中で常に前を向いていなければ、初代が離れていくようで。大きかった吉右衛門と同じくらい自分も大きくならなきゃと。そればかり考えてやってきたように思う。立ち止まって自分を見つめ直すとか、僕の場合、全然なかった」
取材ではいつも、にこやかで穏やかそのもの。ゆっくりした口調での受け答え。宿命的な人生。描く理想と現実のはざまでもがき苦しみ「いなくなってしまいたい」と血を吐くほど思い詰めたこともあった。外見とは対照的に常に激しいものを抱え、それを演じることで昇華させてきた。
それがいつしか、歌舞伎俳優であることを「天職」と思える自分がいた。「次につなぐ自分の役目を考え、還暦を過ぎて秀山祭を始めたころから、そう思えるようになりました」
今年は初代の生誕130年。「秀山祭」をスタートさせて11年目で、初めて上演される「一條大蔵譚」。演じる大蔵卿は、15歳からやってきた当代吉右衛門の当たり役としても有名だ。
源氏と平家の間で揺れる公家で、警戒されまいと「阿呆」を装う。後半で見せるりりしく武芸にも秀でた本当の素顔との演じ分け、再び阿呆に戻るときの悲哀が見どころ。
「ハムレットの心境も取り入れながら。やればやるほど面白みがあり、セリフの意味の深さを考えさせられる」という。そして「阿呆のふりをしなければならない人生を、悲しんで楽しんで演じたい。本来もっと活躍できたのに時勢が許さなかった人ですね」と役に思いをはせた。
今年は5月の「團菊祭」で孫の和史くん(2)の初お目見えで一緒に舞台に。「やっぱり孫はかわいくてね。目の中に入れても痛くないということわざ通り。本当にそんな感じなんですよ」。自分のことを語るときとは別人のような優しい目になっていた。
◆秀山祭とは 初代中村吉右衛門(享年68、1954年死去)の生誕120年を記念し、その功績を顕彰し、芸の継承を目的とし、俳名を冠に。06年に始まった。演目も初代にゆかりの深い演目が選ばれる。昼の部「碁盤忠信」「太刀盗人」「一條大蔵譚」、夜の部「吉野川」「らくだ」「元禄花見踊」を上演。坂東玉三郎らが共演。
◆中村吉右衛門(なかむら・きちえもん)1944年5月22日、東京都生まれ。72歳。初代松本白鸚の次男。初代吉右衛門の養子に。48年中村萬之助を名乗り初舞台。66年2代目吉右衛門を襲名。兄は松本幸四郎。次回作がラストとなるテレビ時代劇「鬼平犯科帳」では長年、主人公の長谷川平蔵を演じてきた。屋号は播磨屋。
〇…9月は「碁盤忠信」を始め、市川染五郎(43)、尾上菊之助(39)、尾上松緑(41)ら次代を担う世代が大役を次々に演じる点も注目。吉右衛門は「もう若手でなく中堅どころに入った」という認識。「いろんなことを性急にしようとせず、じっくり腰をすえて伝統歌舞伎に取り組んでもらいたい」とコメント。
『一条大蔵譚』(いちじょうおおくらものがたり)

本名題:『鬼一法眼三略巻』(きいちほうげんさんりゃくのまき)
源平の争いに巻き込まれて暮らす貴族、一条大蔵の生き方をえがく話。
彼は舞にうつつをぬかすアホウで通っていますが、実は平清盛の横暴を憎しみ源氏に味方をする本心をカモフラージュしているのです。
天真爛漫なアホウ振り、それで本心を語るさわやかさ。世をあざむいて生きる哀愁を俳優が演じます。
この役を現・中村吉右衛門が、十七代目中村勘三郎に習ったのは、十六歳のとき。 正座が長びいて足の感覚がなくなり、思わず涙目になったのを見て、「い、いいんだよう。今にちゃんと出来るようになるよう」と、慰めてくれたとか。
”稽古のきびしさに音を上げた”と勘違いされたんです。
「平成中村座発祥の地記念碑」と「勘三郎の鼠小僧の像」除幕式

4月10日(金)、東京 浅草の隅田公園で「平成中村座発祥の地記念碑」と、浅草公会堂前の十八世中村勘三郎の顔を模した「鼠小僧の像」の除幕式が行われ、中村勘九郎、中村七之助が式に出席しました。
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2000(平成12)年11月、平成中村座が幕を開けた隅田川河畔の隅田公園に、「平成中村座発祥の地記念碑」が、浅草観光連盟を中心とする記念碑建立実行委員会によって建てられました。場所は、待乳山聖天にも近い山谷堀と呼ばれるところで、十八世中村勘三郎の最後の平成中村座公演となってしまった7カ月のロングラン公演を行った場所でもあります。
富士滋美 記念碑建立実行委員会代表から、「平成中村座が誕生した喜び、11年後には7カ月もの間、ここに平成中村座があったうれしさ、その年の12月に勘三郎さんが亡くなり、神輿で送った悲しさ、そして今また平成中村座が開かれていることの感謝、すべての思いを込めてこの石碑を建立しました」とのご挨拶に続き、1195名から1,130万円を超える募金が集まり、石碑と鼠小僧像の建立、さらには補修など維持のために使用していく旨が報告されました。
祝辞の中で、安孫子正松竹株式会社副社長は感謝と祝福とともに、「十八代目勘三郎さんが江戸歌舞伎の芝居小屋を浅草に建てたいと、途方もない夢を語り、浅草の方々のご協力、ご理解で実現したことが、こののちの歌舞伎に大きな影響を与えました」と述べ、あらためて平成中村座とその建立の地記念碑の意義の重要性に触れました。
勘九郎は「皆様のお力で記念碑が建ったこと、うれしくもあり…、“なんだかな”。というのも、父がいたら建っていないわけですから…。父が19歳のときに唐十郎さんの紅テントを見て、こういうところで歌舞伎をやりたいと夢を持ち続け、平成中村座が建ったときの父の顔を僕は一生忘れません。建った喜びとさあ始まるぞという覚悟の顔。緊張が伝わってきました。ここで襲名できたことを誇りに思います」とご挨拶。

七之助は「父が逝ってから、父が愛されたことのご恩返しをと舞台を勤めていますが、こうしてまたまた皆様から愛をいただくと、いつになったらお返しできるのかと思ってしまいます。募金によって碑が建つのは、父っぽくてうれしいです。死してなお皆を一つの目標に向けて引っ張っていける、すごいなと。出演者や皆さんの血と涙と汗が染みている、思い出の詰まった地に碑が建つのは本当にうれしいです」と語り、二人で現在の平成中村座公演を一所懸命に勤めることを誓いました。
幕が引かれて現れた記念碑は、十八世勘三郎の背丈と同じ高さで、「一味徒党の連判状」と題して、募金者の氏名を記した巻物が碑の下に納められました。祝いの鏡開きには除幕式に駆けつけた坂東彌十郎と坂東新悟が加わり、お集まりの皆さんに振る舞い酒も行われました。

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今年、3年ぶりに浅草へ帰って来た平成中村座は、浅草寺の境内での公演です。その参道、伝法院通りの浅草公会堂前にある「鼠小僧の像」が、記念碑建立と公演に合わせて勘三郎の顔に似せてつくり直され、記念碑除幕式に続き、こちらの除幕式も行われました。
除幕式にはモデルとなった『野田版 鼠小僧』の作・演出の野田秀樹氏が飛び入り参加、「ちょっとのぞこうと思ったら見つかってしまって…。2年ちょっと経っても、皆さんに愛されて、本当に幸せな人だと思います」と祝福しました。
お目見得した像は、「本当に似ていてびっくり。雨や雪や寒い日は心配になりますね」と勘九郎、七之助も驚くほど十八世勘三郎にそっくりで、その視線の先には、浅草公会堂の舞台があります。
「お正月の浅草歌舞伎は若手歌舞伎俳優の登竜門といわれる公演で、その劇場の前に父の像。若手に、“父が見ているからしっかりやってね”と言います」と七之助。「浅草の人たちの心意気がいい。街全体で盛り上げ、僕たちを鼓舞してくれる心意気を感じてうれしいです」と勘九郎も語り、「父のもとに生まれたことを二人で誇りに思い、いい芝居をしていかないといけません」と、気を引き締めました。
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「記念碑が建ったことで、子、孫、曾孫に、平成中村座が最初に建った地と伝えられる。ロングラン公演、今回の公演…、未来につながる公演ができたことは、父の残してくれた宝物」と言い切った勘九郎。七之助と二人、父への思いを胸に感謝と喜びにあふれる式となりました。
「平成中村座 陽春大歌舞伎」は、5月3日(日・祝)までの公演で、チケットは、
チケットWeb松竹、
チケットホン松竹にて販売中。各公演の開演1時間前から劇場窓口で販売される当日券は、先着順でお一人様1枚、お支払いは現金のみとなります。


「ワンピース」市川猿之助さん主演で歌舞伎に

歌舞伎版「ONE PIECE」 猿之助さん主演で来秋
週刊少年ジャンプ連載の人気マンガ「ONE PIECE(ワンピース)」が歌舞伎になる。集英社が21日発表した。四代目市川猿之助さん主演の「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」として、来年10、11月に東京の新橋演舞場で上演する。
集英社と創業120周年を迎える松竹の共同上演。尾田栄一郎さん作の「ONE PIECE」は1997年に連載が始まり、単行本の累計部数はまもなく発売される最新76巻までで3億2千万部以上。海外にもファンが多い。海賊王を目指す主人公ルフィが仲間たちと繰り広げる冒険物語だ。
「スーパー歌舞伎Ⅱ」は、先代猿之助(現・猿翁)さんの「スーパー歌舞伎」の精神を受け継ぎ、四代目が中心となって第1弾「空ヲ刻ム者」を今年上演。「ONE PIECE」は第2作となる。
「スーパー歌舞伎」の初演は86年の「ヤマトタケル」。哲学者の梅原猛さんが書き下ろし、宙づりなどの現代的な演出が新しい観客を取り入れた。これまで八犬伝や竹取物語、三国志などを題材にしてきたが、マンガ原作は初めて。
尾田栄一郎さんは「この企画が始まって、初めて歌舞伎を見にいきましたが、美しい! 日本人の美というものがつまったこんなに美しい舞台を、僕は見たことがありません。話を引き受けてくれたのは、現在の歌舞伎界のトップスター四代目市川猿之助さん。お会いしましたがまさに天才でした。プロデュース能力もハンパじゃありません。この人に任せておけば安心だと思わせてくれる人物でした。『ONE PIECE』の歌舞伎に、超ご期待下さい!!」とコメント。
市川猿之助さんは「日本中、いや世界中の数え切れないほどのファンに支持されているこの作品を歌舞伎にしようというのは、難しいけれどやりがいのある挑戦です。僕にとっての大冒険と言っていいかも知れません。世代を問わず楽しめる作品にしたいと思っています」とコメントしている。(小原篤)
【スーパー歌舞伎】
スーパー歌舞伎(-かぶき)は、3代目市川猿之助が1986年に始めた、古典芸能化した歌舞伎とは異なる演出による現代風歌舞伎。新橋演舞場などで上演されることが多い。第一作は梅原猛の脚本による「ヤマトタケル」であった。2014年より「スーパー歌舞伎II(セカンド)」として、4代目市川猿之助を中心とした作品を上演。
初演
- 1986年「ヤマトタケル」
- 1989年「リュウオー・龍王」京劇
- 1991年「オグリ・小栗判官」梅原脚本
- 1993年「八犬伝」横内謙介脚本
- 1996年「カグヤ」
- 1997年「オオクニヌシ」
- 1999年「新・三国志」横内謙介脚本
- 2001年「新・三国志II・孔明篇」同
- 2003年「新・三国志III・完結篇」同
- 2014年 スーパー歌舞伎II(セカンド)「空ヲ刻ム者」前川知大 作・演出
【市川猿之助】
市川 猿之助(いちかわ えんのすけ)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三つ猿。
- 初代 市川猿之助
- 浅草の立師の子、1855–1922。役者の門人から立役へ出世、澤瀉屋を権門にのしあげ、ついには歌舞伎界を代表する長老になった反骨の苦労人。
- 市村長松 → 坂東羽太作 → 山崎猿之助 → 松尾猿之助 → 初代市川猿之助 → 二代目市川段四郎
- 二代目 市川猿之助
- 初代の長男、1888–1963。欧米に留学して舞台芸術を学び、生涯新しい形の歌舞伎を模索した風雲児。「猿之助」の名跡に愛着が深く、53年間にわたってこれを使い続けた。
- 初代市川團子 → 二代目市川猿之助 → 初代市川猿翁(隠居名)
- 三代目 市川猿之助
- 二代目の長孫(三代目市川段四郎の長男)1939–。「劇界の孤児」という苦境を乗りこえて、明治以後は疎まれたケレンの復活で一世を風靡、古典劇を「復活」したり「再創造」したり、さらに「スーパー歌舞伎」という新境地まで切り開いた「歌舞伎の異端児」。
- 三代目市川團子 → 三代目市川猿之助 →二代目市川猿翁(隠居名)
- 四代目 市川猿之助
- 三代目の甥(四代目市川段四郎の長男)、1975– 。当代 。
- 二代目市川亀治郎 → 四代目市川猿之助
市川猿翁 (2代目)
二代目 市川 猿翁(にだいめ いちかわ えんおう、1939年(昭和14年)12月9日 - )は、日本の俳優、演出家、歌舞伎役者。屋号は澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三ツ猿。俳名に華果(かか)がある。また、紫派藤間流二代目家元として二代目藤間紫を名乗る。「猿翁」は隠居名で、49年間にわたって使い続けた三代目 市川 猿之助(さんだいめ いちかわ えんのすけ)としても広く知られる。本名は喜熨斗 政彦(きのし まさひこ)。
来歴・人物
三代目猿之助を襲名後ほどなくして祖父・初代市川猿翁(二代目市川猿之助)と父・三代目市川段四郎を相次いで亡くすという悲運に見舞われる。後ろ盾を失い「梨園の孤児」となりながらも他門の庇護を受けることを潔しとせず、祖父譲りの革新的な芸術志向と上方歌舞伎伝統のケレンとを結びつけることによって歌舞伎界に新風を吹き込んだ。
1968年(昭和43年)『義経千本桜』「四ノ切」で披露した「宙乗り」を皮切りに、明治の演劇改良運動以後は邪道として扱われ顧みられなかったケレンの演出を次々に復活させた「猿之助歌舞伎」で一世を風靡した。猿之助歌舞伎のエンターテインメント性に富む、見応えのある舞台は観客からは高い支持を集めたものの、当初はまだ一般に保守的だった他の歌舞伎役者や劇評家たちからは相手にされないほどの酷評を受けた。十一代目市川團十郎の実弟で、市川宗家の御意見番的存在だった二代目尾上松緑に至っては、この猿之助歌舞伎のことを「喜熨斗サーカス」とまで言い、揶揄している。木下大サーカスを猿之助の本名の「喜熨斗」(きのし)にひっかけたものだが、宗家の連枝とはいえ、別家の役者にそこまで言われるのも、歌舞伎界で孤立無援となった猿之助の悲しさだった。
しかし猿之助はそうした逆境を見事に克服する。やがて宙乗りがない従前の演出で上演した「四ノ切」が「つまらない」と不入りになると、七代目尾上菊五郎のような権門家の宗家までもが猿之助版の「四ノ切」を上演しはじめるようになったのである。この宙乗りの演出は元々、猿之助が三代目實川延若から教わったのが最初で、その後「四ノ切」に限らず、近年では後進の歌舞伎役者も多く取り入れており、前述の七代目尾上菊五郎をはじめ、十二代目市川團十郎、九代目松本幸四郎、十八代目中村勘三郎らも宙乗りの演出を使った公演を行うようになった。
古劇の復活から古典の再創造、スーパー歌舞伎の創造に至るまでの精力的な活動が舞台芸術にひとつの領域を切り開いた。
2003年11月17日、博多座で自身の演出・出演による『西太后』の公演中に体調不良を訴え、降板。この時は「初期の脳梗塞」との診断を受けた、と公表されたが、実際にはパーキンソン症候群を発症していた。これ以降、俳優として舞台に立つ機会は減り、スーパー歌舞伎や自身の手がけた復活演目の演出面で活動を続けている。2011年9月、二代目市川亀治郎の猿之助襲名会見時に、実子・香川照之と共に8年ぶりに公の場に姿を現した。
2012年6月5日開幕の新橋演舞場での六月大歌舞伎で、二代目 市川猿翁の隠居名を襲名した。
2014年2月1日から2月28日まで日本経済新聞の朝刊「私の履歴書」に連載。
家族
母は映画女優の高杉早苗。妹に女優の市川靖子、弟に四代目市川段四郎がいる。この四代目段四郎の一人息子(二代目 市川亀治郎)が2012年6月、四代目市川猿之助を襲名した。
2度の結婚歴がある。1965年(昭和40年)に結婚した最初の妻は、元宝塚歌劇団雪組のトップ娘役で女優の浜木綿子。浜との間には一人息子である香川照之(のちの九代目 市川中車)を儲けたが、実質的な夫婦としての生活は1年と数カ月で別居、1968年に正式離婚。息子は浜に引き取られた。
破局の原因は不倫だったが、その相手が日本舞踊藤間流紫派家元で女優の藤間紫である。藤間は猿之助が12歳の時の初恋相手だったが、16歳年上で既婚者、子持ち。しかも夫は自身の踊りの師匠、六世 藤間勘十郎ということもあり、なんとか諦めをつけ結婚したのが浜だった。だが結局、双方とも思いを絶つ事が出来ず、一人息子が1歳を迎えた頃には家庭を捨て、駆け落ち同然の暮らしを始める。この二人の同棲生活は35年にも及び、1985年に藤間の離婚が成立。2000年、正式に結婚した。しかし、その後は不遇が続き、2003年には猿之助が脳梗塞を発症、2009年には藤間が肝不全のため死去している。
息子・照之は大学卒業後、1989年に俳優デビュー。それを機に25歳の冬、思い立って猿之助の公演先へ会いに行っている。その際、猿之助は「大事な公演の前にいきなり訪ねてくるとは、役者としての配慮が足りません」と照之を叱責、「即ち、私は家庭と訣別した瞬間から蘇生したのです。だから今の僕とあなたとは何の関わりもない。あなたは息子ではありません。したがって僕はあなたの父でもない」「あなたとは今後、二度と会う事はありません」と完全に拒絶し、突き放した。その後、藤間紫の尽力で和解が進み、2009年の藤間の葬儀には親族として参列している。さらに、2011年9月27日、亀治郎の四代目猿之助襲名と自身の二代目猿翁襲名、照之と照之の息子・政明の歌舞伎界進出発表の際には涙ながらに「浜さん、ありがとう。恩讐の彼方に、ありがとう」と、前妻・浜に対して感謝の言葉を述べている。
藤間紫の死後、猿之助と親密になり、藤間の一周忌が明けた後に同棲をはじめたのが、30歳以上年下の元・博多座のスタッフの女性で、現在はこの女性が猿之助の介護から一門の人事まで諸事万端をサポートしているとされる。一時、息子一家との同居が報じられたが、その後は香川宅近くのマンションに居を移しており、稽古は香川が猿翁宅へ通い、行なわれている。
年譜
- 1939年(昭和14年) 12月9日、三代目市川段四郎の長男として東京に生まれる。
- 1947年(昭和22年) 1月、東京劇場『二人三番叟』の附千歳で三代目市川團子を襲名して初舞台。
- 1962年(昭和37年) 慶應義塾大学卒業。
- 1963年(昭和38年) 5月、歌舞伎座『義経千本桜』「吉野山」の忠信、『黒塚』の鬼女などで三代目市川猿之助を襲名。6月、祖父・猿翁が死去。11月、父・段四郎が死去。
- 1965年(昭和40年) 浜木綿子と結婚。同年12月に長男・香川照之誕生。
- 1968年(昭和43年) 浜と離婚。長男は浜に引き取られる。夫も子もいる藤間紫と同棲開始。これ以後、次々に猿之助歌舞伎を発表して話題になる。
- 1985年(昭和60年) 紫と夫・六代目藤間勘十郎の離婚が成立。
- 1986年(昭和61年) 古典芸能と化した近代歌舞伎にも新風を吹き込むべくスーパー歌舞伎を開始。哲学者の梅原猛に脚本を依頼した『ヤマトタケル』を新橋演舞場で上演。
- 1992年(平成 4年) バイエルン国立歌劇場によるリヒャルト・シュトラウスのオペラ『影のない女』(来日公演、翌年に本拠地プレミエ)の演出を担当。
- 2000年(平成12年) 2月28日、同棲35年目にして紫と入籍。
- 2002年(平成14年) リムスキー=コルサコフのオペラ『金鶏』の演出を担当。
- 2003年(平成15年) 11月17日、博多座で公演中に脳梗塞を発症し、12月の京都南座の「當る申年吉例顔見世興行」を降板。(翌年2月の地方巡業を最後に、現在まで舞台からは離れている)
- 2009年(平成21年) 1月2日、「歌舞伎座さよなら公演古式顔寄世手打ち式」に列席する。3月27日、紫が死去。
- 2010年(平成22年) 3月、自身の当たり役を集めた『猿之助十八番』を『猿之助四十八撰』に改める。この頃から元博多座スタッフの女性と同棲を開始。
- 2010年(平成22年) 紫の尽力もあり、実子の香川と「和解」を果たす。
- 2012年(平成24年) 6月、甥の二代目市川亀治郎に市川猿之助を四代目として譲り、自らは祖父の隠居名でもあった市川猿翁を二代目として襲名。
映画
- 楢山節考 (松竹大船) けさ吉 1958.6.1
- 大坂城物語 (東宝) 霧隠才蔵 1961.1.3
- 忠臣蔵 花の巻・雪の巻 (東宝) 大石主税 1962.11.03
著書
- 『演者の目』 (朝日新聞社、1976年)
- 『猿之助修羅舞台 - 未来は今日にあり』 (大和山出版社、1984年) ※文庫化(PHP文庫)
- 『猿之助の歌舞伎講座 とんぼの本』 (新潮社、1984年)
- 『市川猿之助 歌舞伎の時空』 (PARCO出版局、1986年) ※稲越功一写真、1993年に講談社で新版
- 『夢みるちから スーパー歌舞伎という未来』 (春秋社、2001年) ※横内謙介との共著
- 『スーパー歌舞伎 ものづくりノート』 (集英社新書、2003年)
評伝
- 『市川猿之助の仕事』 (演劇出版社、1995年)
- 光森忠勝 『市川猿之助 傾き一代』 (新潮社、2010年)
論文
受賞・栄典・顕彰
- 1965年 テアトロン賞
- 1969年 名古屋ペンクラブ賞
- 1976年 芸術選奨新人賞
- 1980年 松尾芸能賞優秀賞
- 1981年 ボローニア市文化功労章
- 1984年 毎日芸術賞
- 1987年 フランス芸術文化勲章(オフィシエ)
- 1990年 芸術選奨文部大臣賞
- 1996年 菊池寛賞
- 2000年 紫綬褒章
- 2010年 文化功労者
- 2013年 第22回モンブラン国際文化賞
補注・出典
- 「焦点・日舞紫派藤間流の新体制始動」読売新聞
- ただし、二世 尾上松緑は日本舞踊、藤間流勘右衛門派の家元、四世 藤間勘右衛門でもあるため、猿之助の私生活の行いに対して、少なからず感情的にならざるを得なかった事は否めない。
- スーパー歌舞伎は猿之助が倒れて以降、主に澤瀉屋の門弟筋(市川右近・二代目市川笑也・二代目市川春猿ら)によって継承されている。
- 47NEWS / 共同ニュース「市川猿之助が急病で代役 脳梗塞の初期症状」(2003/11/18 4:12共同通信配信)(2013年1月16日閲覧)
- NEWSポストセブン「香川照之と父・市川猿之助の三世代同居 すでに破綻していた」(2011年12月8日)(2013年1月16日閲覧)
- 猿之助は、この時の真意を後に「生きるも死ぬも身一つで、僕はあえて一人でやってきました。だから、照之も役者の道を貫きたいと思うなら私の事を父と思うな、何ものにも耐えうる独立自尊の精神でいきなさいと。僕としてはごく当然のことを言ったつもりなのですよ」と述懐している。NHKスペシャル「父と子 市川猿翁・香川照之」(2013年1月6日放送)
- デイリースポーツオンライン「香川照之 父・猿之助と45年ぶり和解 」(2011年9月28日)(2013年1月15日閲覧)
- その後、香川の歌舞伎初舞台のリハーサル中に訪れた浜と猿翁が離婚以来ほぼ45年ぶりに言葉を交わす様子が報じられている。
- 「香川照之歌舞伎界入り 背景に猿之助40代恋人の強大な影響力」(NEWS ポストセブン、2011年10月9日付)、および「香川照之と父・市川猿之助の三世代同居 すでに破綻していた」(同、2011年12月8日付)、2012年6月8日閲覧。
【香川照之】

香川 照之(かがわ てるゆき、本名同じ、1965年12月7日 - )は、日本の俳優、歌舞伎役者、及びボクシング解説者。
名跡「市川中車」の当代、九代目 市川中車(くだいめ いちかわ ちゅうしゃ)を名乗る。屋号は澤瀉屋。定紋は大割牡丹、替紋は片羽車。
身長171cm。コムスシフトを経て、ロータス・ルーツ所属。
来歴
生い立ち
東京都出身。父は歌舞伎役者の二代目市川猿翁、母は元宝塚歌劇団雪組主演娘役で女優の浜木綿子。父方の祖父は三代目市川段四郎、祖母は女優の高杉早苗、叔父は四代目市川段四郎、叔母は市川靖子。母方の叔母は元タカラジェンヌで宝塚歌劇団47期生の浜由理子。
1965年、母親である浜木綿子がNHK大河ドラマ『太閤記』に念仏踊り姉妹の姉役で出演中に照之を身籠り番組を途中で降板、その年の12月に誕生する。
両親は1968年に離婚、母に引き取られ女手一つで育てられた。小学校より暁星学園に入学し中高一貫を経て、1988年、東京大学文学部社会心理学科を卒業。
俳優として
1989年、NHK大河ドラマ『春日局』での小早川秀秋役で俳優デビューする。また、この時期の代表作にオリジナルビデオ作品『静かなるドン』シリーズがある。その後は橋田壽賀子脚本作品などのテレビドラマが活動の中心であったが、『犬、走る DOG RACE』、『独立少年合唱団』、2002年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した中国映画『鬼が来た!』等の映画作品への出演で、徐々に知名度が高まった。さらに、NHK大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』で演じた豊臣秀吉役で、一般的にもその存在が広く知られるようになった。
2004年、中国映画『故郷(ふるさと)の香り』での準主演で、東京国際映画祭男優賞を受賞し、同じく主演女優賞に輝いた寺島しのぶと話題の中心となる。テレビドラマでは、連続テレビ小説上半期の『天花』に出演した。私生活では、1月16日に長男・政明が誕生した。
2006年、スタジオジブリのアニメーション映画『ゲド戦記』で声優に初挑戦した。
2010年3月、『劒岳 点の記』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞した。
カンヌ国際映画祭へ3度(出演作品は2度の受賞)、ベルリン国際映画祭にも招聘(出演作品受賞)されている。愛称はドカベン。
歌舞伎界進出
2011年9月27日、香川が九代目市川中車を襲名して歌舞伎俳優に進出し、2012年6月に催される「六月大歌舞伎」に出演することが発表された。八代目まで屋号は立花屋だったが、香川が襲名する九代目からは特別に猿之助の屋号と同じ澤瀉屋を名乗る。また、同時に、実父の三代目市川猿之助が二代目市川猿翁、従弟の二代目市川亀治郎が四代目市川猿之助をそれぞれ襲名し、長男・政明が五代目市川團子(だんこ)として歌舞伎界にデビューすることも発表された。なお、特例により「香川照之」の名で引き続き芸能活動することを許され、俳優業では「香川照之」、歌舞伎では「市川中車」の2つの名前を使い分けることとされた。
きっかけとなったのは、父・三代目猿之助との和解と、何よりも政明の誕生だった。歌舞伎の家に生まれた事で「猿之助の名前は140年続く。政明という長男がいて、この船に乗らない訳には行かない」との思いを強くした、と語っている。
2012年3月、襲名公演の演目と配役を発表された。新橋演舞場六月大歌舞伎では、『小栗栖の長兵衛』の長兵衛、『スーパー歌舞伎三代猿之助 四十八撰の内 ヤマトタケル』の帝。新橋演舞場七月大歌舞伎では、『スーパー歌舞伎三代猿之助 四十八撰の内 ヤマトタケル』の帝、『将軍江戸を去る』の山岡鉄太郎である。
人物
俳優業
元々俳優になるつもりはなく、TBSの緑山スタジオで数か月、ADのアルバイトをしていた。連日、怒られ通しだったが、後輩として入ってきた新米ADには「でかい顔をして」かなり横柄に弁当の配り方などを教えていたという。その人物が後の映画監督の行定勲で、その後、監督と俳優として起用された際に、きっちりと復讐されたと語っている。 その後は、親が俳優だったことや他にやりたいこともなかったため、親の七光りを利用しない手はないとの消去法でこの道を選んだと言う。またデビュー当時を振り返って、両親のネームバリューと、「東大出身」という経歴ばかりがクローズアップされていた事に対して、不遜な態度をとり、批判の的となることも少なくなかった。20代の頃はなんとなく俳優を続けていたが、『静かなるドン』の撮影時、監督の鹿島勤から100回NGを出され、それ以来、真剣に演技に向き合うようになった、と語っている。
2009年、南京事件を題材にした『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』(原題:John Rabe)に昭和天皇の叔父・朝香宮鳩彦王役で出演。皇族としての役柄を演じる経緯や国際的な政治問題に言及するコメントが、事件の評価や発生そのものに異議を唱える国内右派を中心に物議を醸したが、他方ではこの姿勢を評価されて同年4月28日、中国北京において同映画製作を記念する「ラーベ平和賞」の第1回受賞者にも選ばれた。。
NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の出演に臨み、結核と脊椎カリエスに冒された正岡子規役を演じるため、食事制限やランニングなどで5か月間で15kg以上減量した。
2013年に大ヒットしたドラマ『半沢直樹』にて主人公のライバル大和田常務役を演じ高い評価を受ける。最終回の土下座シーンを安田大サーカスの団長安田がモノマネ芸として披露したのを見て留守番電話で「バンバンやってください」と自ら公認する。その後も団長安田に対しては「土下座のタメが浅い。もっと粘れ!」と熱演指導も行っている。
また、雑誌『キネマ旬報』にはコラム「日本魅録」を連載しており、撮影現場での共演者の素顔やエピソード、俳優論や様々な作品についての考察などを取り上げている。このコラムは2006年のキネマ旬報読者賞を受賞した。
ボクシング愛好家
熱狂的なボクシングファンである。きっかけは、少年時代に具志堅用高の試合を見たことだった。国内はもちろん海外の試合のビデオや専門誌をも通信販売で購入して研究するほどのマニアである。現役チャンピオンの防衛戦や世界タイトル戦などより新人のデビュー戦、国内戦を好んで観戦し、次世代の新たな才能を見出す事に強い関心を寄せている。WOWOWのボクシング番組『エキサイトマッチスペシャル』にゲスト解説者として出演した際(下述)にはその豊富な知識に、解説のジョー小泉や浜田剛史ですら、番組内で舌を巻き感心するほどだった。ボクシングライターとして活躍する原功氏は「WOWOWの世界戦中継の収録スタジオで香川君と一緒だったことがありますが、番組全体のバランスを見渡しながら、自分に求められている役割を見事に果たしていましたよ」と評価した。 無名時代から『ボクシング・マガジン』(ベースボール・マガジン社)で「香川照之の熱病的思考法」を連載していた。1回目では、「ガードを固め、テクニックがないのにがむしゃらに前進するファイターが賞賛される日本のボクシングは遅れている」と、当時の日本のプロ・ボクシング界の技術レベルを厳しく批評している。好きなボクサーはウイルフレド・ゴメス。プエルトリカン・ボクサーが好みである香川は、1990年代、ウェルター級、スーパーウェルター級、ミドル級の3階級を制覇したフェリックス・トリニダードの活躍を大いに喜び、1ページを割いて絶賛したこともあった。玄人受けする人気のコラムで長期連載となったが、最後はネタ探しに苦しみ、それも限界のため、連載終了を決めた、と最終回で述べている。
2011年公開の実写映画『あしたのジョー』に丹下段平役で出演が決まった際に「私生活でボクシングを30年間見守り続けてきたのは、この役のため」と語った。主演の山下智久にはボクシングの初歩から手ほどきし、他の共演者にもアドバイスしている。2011年2月には公開に合わせ、ボクシングへの思いを綴った著書『慢性拳闘症』(講談社)を出版した。
また元プロボクサーの西岡利晃とも親交が深く、2011年10月1日(日本時間10月2日)にラスベガスで行われた、西岡とラファエル・マルケスとのWBCスーパーバンタム級タイトルマッチの中継放送([『エキサイトマッチスペシャル』、WOWOW)では試合解説を務め、西岡が7度目のタイトル防衛を決めた際には涙を流して「30数年ボクシングを観てきました。日本人ボクサーで、いつか誰かが今日みたいな日を勝利で飾ってくれる時代がきてほしいって、ずっと…」とコメントを述べている。西岡が引退後に解説を務めるフジテレビ『ダイヤモンドグローブスペシャル』にもゲスト解説として出演している。
さらに『あしたのジョー』のプロモーションを通じて井岡一翔とも交流を持ち、井岡が出場する試合の中継(TBS)にてゲストとして解説をすることもある。
香川自身は仕事の関連等で多少ジムワークの経験がある程度で、ボクシング自体はほぼ未経験である。「ボクシングが好きだからこそ、一線を引きたい」と語っている。
『刑事コロンボ』ファン
学生時代に『刑事コロンボ』のノベライズ版を全て読破するほどのコロンボファンである。香川は『刑事コロンボ』の最後のエピソードである「殺意のナイトクラブ」の犯人役俳優、マシュー・リスの吹き替えを手がけている。香川が吹き替えを手がけたエピソードは、もともと佐久田脩がリスを吹き替えた作品であるが、2011年にブルーレイBOXが発売された際、新シリーズ23作品と旧シリーズ3作品でコロンボの吹き替えを担当した石田太郎による新しい吹き替え版が収録され、ここで香川がリスの吹き替えを担当することとなった。
家族・親族
1歳の時に父が家を捨て、3歳の時に両親が離婚以来、父・二代目猿翁(2012年6月までは、三代目 猿之助)との関わりは完全に絶たれたが、大学卒業後に俳優デビューしたのを機に、25歳の冬、思い立って初めて公演先の父に会いに行く。しかし猿之助は「大事な公演の前にいきなり訪ねてくるなんて役者としての配慮が足りません」と香川を叱責、「すなわち、私は家庭と訣別した瞬間から蘇生したのです。だから今の僕とあなたとは何の関わりもない。あなたは息子ではありません。したがって僕はあなたの父でもない。」「あなたとは今後、二度と会う事はありません。」と冷たく言い放たれたという。以来、長らく確執が続いていたが、それでもその間、香川は父の舞台を何度も観に行っている。近年、特に長男誕生を機に猿之助の2度目の妻・藤間紫の取り計らいにより父子関係が修復、藤間紫の葬儀(2009年)には香川も親族として参列した。2011年9月の合同襲名会見時には、父と共に8年ぶりに公の場で姿を現し、同年春より長年無縁だった父とともに3世代で同居していることを明かした。その後、程なくして同居は解消。二代目猿翁はパートナーの女性や弟子らとともに、香川宅近くのマンションに居を移している。稽古は香川が猿翁宅を訪れ、つけてもらっている。
私生活では「元・ミスさっぽろ」という経歴が話題だったタンゴ歌手・冴木杏奈と長く交際していた。一時は婚約関係にあり、冴木は所属事務所を退社したため「結婚秒読みか?」と報じられたが、結局離別。程なく1995年12月に元・日本航空国際線CAの智子夫人と入籍したことから、しばし香川の「二股交際」報道がメディアを賑わし、女性週刊誌上などでバッシングを受けている。夫妻の間には2004年に誕生した長男・政明(五代目市川團子)がおり、2012年6月の「六月大歌舞伎」で父子揃って歌舞伎界にデビューした。
従弟である二代目市川亀治郎(2012年6月からは、四代目市川猿之助)の存在は知っていたが、幼少期に両親が離婚しているという事情から、父方の親戚である亀治郎とは長らく疎遠であり、亀治郎がNHK大河ドラマ『風林火山』の収録を迎える前の2006年、祖母・高杉早苗の墓参りのため、上野の寛永寺に行った折、初めて出会っている[28][29]。この邂逅をきっかけに、それ以降、香川は同作でテレビドラマ初出演となる亀治郎の挨拶回りに付き添うなど映像の俳優の先輩としてのサポート、また、香川の歌舞伎進出に際しては亀治郎が細やかにアドバイスするなど、私生活においても親密な関係となる。亀治郎が『クイズ$ミリオネア』に出演した際(2008年3月27日放送)には、父子で応援に駆けつけている。大河ドラマ『龍馬伝』最終回では2シーンのみではあるがドラマ初共演を果たした。
- 高祖父:二代目市川段四郎
- 曾祖父:初代市川猿翁
- 曽祖叔父:八代目市川中車
- 祖父:三代目市川段四郎
- 祖母:高杉早苗
- 父:二代目市川猿翁
- 母:浜木綿子
- 叔母:市川靖子
- 長男:五代目市川團子
- 叔父:四代目市川段四郎
- 従弟:四代目市川猿之助
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二代目段四郎 |
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八代目中車 |
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三代目段四郎 |
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四代目段四郎 |
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藤間紫 |
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二代目猿翁 |
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浜木綿子 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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四代目猿之助 |
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香川照之 (九代目中車) |
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五代目團子 |
【坂東三津五郎さん死去 59歳、すい臓がん闘病中】


歌舞伎役者の系図(8)
坂東三津五郎家(一部、省略してあります)
坂東三津五郎家
代々が舞踏の名手としても活躍している名門。親戚関係にあたる守田勘弥は守田座の座元の名跡でもある。
初世三津五郎・・・容姿にすぐれ、立役・女形を兼ね、踊りもうまく、人気者だったらしい。
3世三津五郎・・・上方の3世歌右衛門に並ぶ名優で、江戸役者の親玉とたたえられた。
7世三津五郎・・・正統派の演技と「踊りの神様」と声がかかったほどの舞踏の名手として名高い名優。
13世勘弥・・・・・面長の古風な容姿で和事の二枚目を得意としたが、新しい芝居にも意欲的だった。
8世三津五郎・・・実悪と、味のある老け役を得意とした役者。ふぐ中毒で死亡したのはこの人である。
14世勘弥・・・・13世の甥。江戸前のすっきりした容姿で、和事の二枚目に本領を発揮した。
10世三津五郎・・・屋号:大和屋。本名:守田寿。1956・1・23生まれ。
5世玉三郎・・・・屋号:大和屋。本名:守田親市。1950・4・25生まれ。
2世吉弥・・・・・屋号:大和屋。本名:本間敏夫。1937・6・21生まれ。
初世弥十郎・・・・屋号:大和屋。本名:本間寿男。1956・5・10生まれ。
3世秀調・・・・・長唄の門下から9世團十郎に見込まれて役者に。顔、声、姿と三拍子揃った女形だった。


踊りの名手として知られ、端正な芸で幅広い役を演じた歌舞伎俳優の十代目坂東三津五郎(ばんどう・みつごろう、本名・守田寿〈もりた・ひさし〉)さんが21日、膵臓(すいぞう)がんのため都内の病院で死去した。59歳だった。遺族による密葬の後、本葬は25日午後3時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は長男の二代目坂東巳之助(みのすけ、本名・光寿〈みつひさ〉)さん。
2013年7月に膵臓の異常がみつかり、8月末から入院。9月に膵臓の悪性腫瘍(しゅよう)と脾臓(ひぞう)を切除する手術を受けた。療養後、14年4月に「寿靱猿(ことぶきうつぼざる)」で東京・歌舞伎座の舞台に復帰し、同年8月にも「たぬき」「勢獅子(きおいじし)」に出演した。9月には東京・国立劇場での舞踊会でも踊った。
9月の定期検査で肺の異常が発覚し、12月に出演を予定していたこまつ座の舞台「芭蕉通夜舟」の降板を発表。10月の小唄演奏会での舞踊が最後の舞台となった。
東京都出身。先代三津五郎の長男に生まれ、1962年、五代目八十助(やそすけ)を襲名し初舞台を踏んだ。八十助として長らく活躍。2001年に三津五郎を襲名した。「喜撰(きせん)」などで、折り目正しさの中に妙味のある芸を見せた。「魚屋宗五郎」の宗五郎といった世話物の役をはじめ、「勧進帳」の弁慶などの荒事や時代物の役もよくこなし、新作歌舞伎、現代劇まで幅広く演じた。NHK大河ドラマ「功名が辻」やTBS系「ルーズヴェルト・ゲーム」などテレビ、映画「武士の一分」にも出演。日本舞踊の坂東流家元としても知られた。


「大和屋!」のかけ声 三津五郎さん本葬に5千人

21日に59歳で死去した歌舞伎俳優の坂東三津五郎(本名・守田寿〈もりた・ひさし〉)さんの本葬が25日、東京・青山葬儀所で営まれた。歌舞伎関係者のほか、山田洋次監督や鳩山由紀夫元首相ら各界から計約5千人が参列。その早すぎる死を悼んだ。
弔辞で日本俳優協会理事長の尾上菊五郎さんは、1カ月前に会った三津五郎さんが「夏からは舞台に完全復帰したい」と話していたことを紹介。長男である坂東巳之助さん(25)を「きっと立派な役者にしてみせます」と述べた。
喪主の巳之助さんは「父の芸というのは、誰にでもできる小さな努力を、誰にもまねできないほど膨大な数、積み重ねた先にある一つの究極の形だったのではないかなと思います」とあいさつ。遺骨をのせた車が出る際、「大和屋!」「十代目!」と、かけ声がかかった。
24日に近親者のみで営んだ密葬では、ひつぎに三津五郎さんの当たり役だった舞踊「喜撰(きせん)」の小道具や稽古扇子などを納めたという。(増田愛子)
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落語家の林家正蔵さんは「おつきあいは古くて15年。食事をしたり、落語や歌舞伎のことを教えて下さったり、何時間も話したりした。寿(ひさし)さんと本名で呼ぶことを許して下さり、私のことも泰孝ちゃんと本名で呼んで下さいました。今月7日、お稽古に通っている日本舞踊坂東流の名取の試験があって、家元(三津五郎さん)の前で踊りました。踊りが終わると、右手を出して握手をして下さった。手が温かかった……。これが最後の別れの握手になるとは思わなかった。坂東蝶蔵(ちょうぞう)という名前もちょうだいしました」と涙ながらに話した。
いとこで女優の池上季実子さんは「もっとお兄ちゃんの芝居や踊りを見ておけば良かった。もっといろんなことを話したかった。子どもの頃の方が無邪気だからいろんな話ができた。こういう仕事をしているとなかなか会えなくて、お互い照れもあって……。でも、会えば素直になれるんだけど、それが残念。最後にありがとうって言いたいです」と話した。



愛知)秋だまねきだ顔見世だ 今年も金山で歌舞伎

歌舞伎興行「錦秋名古屋顔見世」の開幕迫る名古屋・金山の日本特殊陶業市民会館で3日、役者の名前を書いた看板を掲げる「まねき上げ」があった。勘亭流の鮮やかな墨跡をめがけ、尾上菊五郎さんら人気役者が勢いよく清めの塩をまき、興行の成功を願った。
建て替え中の御園座が会場を移しての興行で、金山での開催は昨年に続き2回目。「明るく楽しく、わかりやすい演目を選んだ。一人でも多くのお客様に喜んでほしい」と菊五郎さん。興行ムードを盛り上げる餅つきや鏡開きも行われ、集まった大勢の歌舞伎ファンらが歓声を上げた。
「大好きな歌舞伎だからどこで開かれても行く。でもやっぱり御園座で見たいわね」と同市中川区の庄司久美子さん(76)。ファンの期待と御園座再開場への願いをのせて、顔見世は5日から27日まで開かれる。(西本ゆか)朝日新聞デジタルより転記
挑戦する海老蔵 「和の世界」幅広く紹介 ジャパンシアター始動
「能や歌舞伎、文楽、落語などを日本人自身が知らない。海外でも和食は評価されても、文化はまだ浸透していない。ならば『これが日本文化だ』を、日本と海外で発信していきたい」。歌舞伎俳優、市川海老蔵(36)が10月から、和の世界を一堂に集めた舞台を東京・日本橋と京都から始める。「ジャパンシアター」と銘打った企画名に、その狙いが込められている。(飯塚友子)日経ニュースより転記

市川海老蔵さんから公演のご案内メッセージ! 市川海老蔵が紡ぐ『和の世界』 JAPAN THEATER
市川海老蔵、ジャパン シアター開幕。
歌舞伎新時代を駆け抜ける成田屋・市川海老蔵。
初代、市川團十郎生誕から350年以上。
團十郎が荒事を始め江戸の町の喝采を浴びた時より連綿と受け継がれてきた伝承芸能、歌舞伎。
江戸時代は能楽、狂言、人形浄瑠璃、落語とさまざまな文化が花開いた時代であったと言えます。
それらを市井の人々は慈しみ、楽しみとしていたと語り継がれています。
まさに日本固有の芸能が生まれた時代を今こそ振り返り、見直してみたいとの思いが海老蔵の心に
沸々ときざし「JAPAN
THEATER」にたどり着きました。
十一代目市川海老蔵は歌舞伎の伝統、伝承に真摯に向き合い次世代に向けて歩んでいます。
日本の伝統芸能を紐解き、紡ぎ出したいと願った舞台 『JAPAN THEATER』
が江戸の町の中心であった日本橋、
いにしえの都、京都で2014年秋、幕が開きます。
【全国の歌舞伎場】
歌舞伎座
歌舞伎座は国の登録有形文化財に登録されています。 1889年東京市京橋区木挽町に開設されたのは歌舞伎座の始まりです。火災や戦災に遭うなど様々な変遷がありましたが、今日に至るまで名実...
国立劇場
日本の国立劇場(こくりつげきじょう)(National Theatre of Japan)は、独立行政法人日本芸術文化振興会が運営し、歌舞伎や日本舞踊、他に演劇が行われる大劇場、文...
新橋演舞場
新橋演舞場は、もともと新橋芸者たちが誇る「東をどり」の披露の場として新橋芸妓協会が中心となり大正14年に建てられたのが始まりです。その途中で関東大震災に遭い、一時工事を中止するハプ...
大阪松竹座
大阪松竹座は、大正12年(1923年)日本初の洋式劇場として誕生しました。 テラコッタを使用したネオルネッサンス様式の正面大玄関の特徴あるアーチを持つ劇場建築は1923年(大正12...
京都四条南座
南座は、元和年間(1615~1623年)京都四條河原町に公許された7つの櫓の伝統を今に伝える唯一の劇場です。正式名称は京都四條南座(きょうとしじょうみなみざ)。 四条通りをはさんだ...
梅田芸術劇場
オープン当時は「劇場・飛天」だった。その後、かつての前身劇場「梅田コマ・スタジアム」から“梅田コマ”の名を襲名し、「梅田コマ劇場」に改称されました。 更に後に、現在の名である「梅田...
金丸座
天保6年(1835)の建築で、現存する日本最古の芝居小屋として国の重要文化財に指定されており、歌舞伎役者による公演が毎年盛大に行われます。 江戸時代中頃から金毘羅信仰が全国的に高ま...
博多座
博多座は、「芸どころ博多」にふさわしい歌舞伎、ミュージカル、芝居などの演目を、ひと月単位の常打ちで興行するほか、アジア各国をも視野に入れた演目の公演などにより、豊かな文化生活のご提...
【歌舞伎用語集】
時代を超えて舞台で生き続ける言葉の意味を知ることで歌舞伎はもっと面白くなります。
歌舞伎鑑賞のために知っておくと便利な歌舞伎用語を紹介します。
▼「絵面」(えめん)
見得の一種。
幕切れなどで、登場人物全員が整った形で静止し、舞台全体が絵のような美しい構図となることをいいます。
▼「縁切り」(えんきり)
相思相愛の男女が衆人環視の中で縁を切る場面。女が男の目的のために縁を切ろうとすることが多い。
女はその本心を隠して別れ話を切り出すので、男は真意に気づかず逆上して殺しに至ります。
背景に流れる胡弓などによる哀切ある音色が、心ならずも縁を切る女のつらい心情を引き立てます。
▼「大向う」(おおむこう)
常連客が屋号の「成田屋」「音羽屋」「待ってました」などのかけ声をかけ、舞台を盛り上げます。
舞台から一番遠い、向こう桟敷の後方あたりの席から声をかけていたことからこう呼ばれました。
転じて常連客や見巧者のことを意味するようになりました。
▼「顔見世」(かおみせ)
江戸時代、毎年11月は芝居の世界の正月とされ、一座総出演の芝居を上演しました。
劇場と1年間の契約を結んだ俳優の顔ぶれを見せることから「顔見せ」と呼ばれました。
現在は京都・南座の12月興行にその名残があります。東京の顔見世興行は名称だけが残りました。
▼「くどき」
おもに、女性が男性への思いをかき口説く場面。
唄・語りや三味線の叙情的な旋律に乗り、舞踊的な動きで切々と心情を訴える女形の見せ場。
舞踊の一場面にもあります。
▼「首実検」
人や武将の死の真偽を確かめるため、その人物が、首が本物かどうか検分する場面。
別人が身代わりとなる場合が多い。小道具の「切首」を使います。
▼「化粧声」
>荒事の主役の動作を引き立てるために、舞台上に居並ぶ端役らが声をそろえてかける声。
「アーリャ」「コーリャ」「でっけぇ」といいます。
▼「ご贔屓」(ごひいき)
俳優や劇団を後援する人々。
江戸時代は先祖代々、特定の俳優の「家」を支援しました。
今日のファンとは異なり、絶大な援助をしました。
▼「子別れ」
親子の別れの場面。
義理のためにとうしても別れなければならない状況となり、悲しみに耐えようとする親心と、子が親を慕う様が涙を誘う。
母と子の別れが多い。
▼「桟敷」
高級な観客席。
多くは堀リこたつ式の座席で、他の観客席より高い場所に位置しています。
頼べば、お茶や食事が席まで届けてもらえます。
▼「襲名」
先祖代々の名や師匠の名を継承すること。
「襲」には、“かさねる”という意味があります。
新之助→海老蔵→團十郎のように、ひとりの俳優が複数回改名することもあります。
▼「にらみ」
市川團十郎家の襲名披露時に口上で行なう睨む見得。
荒事とにらみは一体のもので、團十郎家に代々伝承されています。
▼「濡れ場」
官能的な場面。
多くは帯を解くなど、その後を暗にほのめかす動作を見せるにとどまるが、時として直接的な表現もあります。
▼「引き抜き」
観客の目の前で瞬間的に衣装を替える演出。
衣装を重ねて着付け、上の衣装に縫いつけていた糸を抜き、着物を引き抜くと、下の衣装が現れる仕掛けになっています。
▼「道行」
旅する人物の心情をその情景に絡ませて描写する舞踊。
本来は地名をよみこんだ単なる旅の行程を見せるものでした。
近松門左衛門の心中物以降、男女の逃避行や心中へ向かう旅路を情緒纏綿と描くものが多いが、親子や主従の組み合わせもあります。
▼「幕見」
上演演目のうちの一幕だけを見る場所。「一幕見」ともいいます。
現在常設で、一幕見ができる劇場は歌舞伎座と松竹座の2ヵ所。
▼「見顕し」
本来の身分や性格を隠していた人物が、本性を見破られ、本名を名乗り正体を顕す場面。
衣装を上半身だけ脱いで、内側に着ていた衣装を表す「ぶっかえり」という演出が使われることが多い。
▼「見染め」
男女の出遭い、一目ぼれする場面。
相手の容姿に見惚れて我を忘れ、陶然となることもあります。
▼「めりやす」
役者の演技の長短に合わせ伸縮自在に演奏される下座音楽。
色模様など情緒ある場面に流れる。
語源は諸説ありますが、伸縮自在の布地「メリヤス」説が有力。
▼「物語」
主役が過去の出来事や述懐を、身振り手振りを交えて物語る場面。
合戦の様子を語ることが多い。
立役の見せ場のひとつ。
▼「屋号」
歌舞伎俳優の家の呼び名。
市川團十郎の「成田屋」、尾上菊五郎家の「音羽屋」、など。
かけ声に使われます。由来は出身地、商店名など、家によって異なります。
▼「もどり」
悪人に見えた人物が、本心を明かし、実は善人であったことを明らかにする場面。
悪人は心を入れ替える場合もあります
▼「ゆすり」
殺人や盗みの現場を目撃した人物が、それをネタに犯人のところに出向き、金品をゆする場面。
▼「六法」
右手と右足のように、同じ側の手足を同時に振り出して歩く荒事の勇壮な演技。
天地東西南北の6方向を指すので「六方」とも書きます。「六法を踏む」といいます。