Apex product 【 日本の心を歌う 】 サークル活動!!
日頃のストレスを演歌に込めて、ご一緒に歌いましょう!!

演歌大好きですね。若い時から歌が好きなんですね。
好きな歌手のコンサート・ライブ・インディーズの
ライブハウス 等、今でも良く行きます。
音楽に関わる仕事がしたくて、30歳で、今では当たり前ですが、六本木にスタジオを借りて、音楽配信事業を起業しました。当時は、最先端の企画だったと思います。しかし
若いから結果、業界の人間に黙れました。でも新人アーティスト探しプロデュース業。テレビで見ていた人達に会えて
楽しい日々を経験させて頂き音楽業界の裏もわかりました。
勉強になりました。高い月謝を払いました。
コツコツ貯めたお金も全て無くなり、またゼロからのスタートになりました。まさに人生色々です。 それでも音楽は大好きです。音楽力・音楽心は、人生を変えます。名曲の数々。口ずさんで下さい。
- 青空と向日葵の会 Apex product 代表 柳 -
【北島三郎さんとの出会い】 柳

私が、アルバイトで靴屋に勤務していた頃の話です。
当時、大学卒で初任給10万程度だったと記憶しております。
そんな時期に飯も食わず貯めた8万円で、オペルカの靴を買いました。
ヨーロピアンな靴でしたがトラッドに履いていました。上着は
ブルックスブラザースの紺ジャケサイドベンツ。ボタンダウンとピンホールのワイシャツを交互に着て、ダブルカフスで決めてました。
ネクタイはニットタイ。ベルトはワイン色で靴もオーダーでワイン色。
洋服が好きだったんですね。親父の兄貴が洋服やだったからかも知れません。当時のアルバイト店員では、目立っていました。そんなときに、北島三郎さんが靴を買いに来たのです。「君、センスあるから靴選んでくれる。」テレビの人が前にいるのでビックリしましたが、くそ度胸だけは当時からありましたので、店で一番高い靴(オペルカ)を履いてもらう事にしました。自分も好きなんで人にも薦めたかっただけですが。
「値段も高いから雨の日とか大丈夫かな?」と聞かれたので
「雨の日は雨用の靴を、もう一足お買い求めください。」
「この靴(オペルカ)は私も一生履こうと決めています。手入れして履いてください。雨の日には絶対履かないで下さい。靴が可愛そうですから。」生意気な事を言ってしまった。熱くなりすぎたと思いました。
「良く分かったよ。君は本当に正直だ。これもらうよ。10足。ステージ用で。」「それならいいよね。室内履きだ。」良く考えたら雨の日 履くわけないか?試されたかな?緊張が一気に取れて恥ずかしくなりました。「大切に履くから手入れの仕方教えてくれるかな。」
なんだかやさしい人でした。ファンになってしまいました。新宿公演のチケット直ぐに手に入れたのは言うまでもありません。今思えば満足いく接客ではありませんでした。すみません。それなのに10足も買っていただきありがとうございました。
- 青空と向日葵の会 Apex product 代表 柳 -

【叔父さんが、サブちゃん?】

暫く、お待ちください。工事中!! NY
【バブルの時代 繁華街と芸能人】

しばらくお待ち下さい。工事中です。すみません。NY
【ダフ屋 って、ヤバイ】
しばらくお待ち下さい。工事中です。すみません。NY
【traditional & European カジュアル】

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店頭には黄金の北島三郎像 「演歌日本一」「テープ日本一」を掲げる「あこや楽器店」を訪ねた

「演歌日本一」を掲げ、演歌を推しまくっているレコード店が大阪にある。しかも店頭には黄金の北島三郎……一体どんなお店なのか、訪ねてみた。
【写真】店頭にある黄金のサブちゃん像
その店「あこや楽器店」があるのは大阪北区、日本一の長さを誇る天神橋筋商店街。店頭の黄金の北島三郎の像には「演歌は日本人の心」と書かれた札が下げられており、店名の下には「演歌日本一」の文字。店内にも「演歌専門店」というフリップが。これほど強く演歌をプッシュしている店はほかにあるだろうか。
●「演歌推し」の理由は?
店の中に入ってみると、壁際や中央の棚にCD・カセットがぎっしりと並んでいる。壁には演歌歌手のポスターがすき間なく貼られ、カラフルなギターが下げられ、とてもにぎやかな印象を受けた。
同店は楽器店としてギターやウクレレ、三味線といった楽器を販売するほか、演歌、クラシック、ジャズ、Jポップ、洋楽など多様なジャンルのCD、カセットをそろえている。その中で演歌の割合は4割ほどと高い。
演歌は不滅――あこや楽器店の野村茂夫社長は、Jポップの圧倒的なシェアは認めつつもこう語る。「なぜ演歌を引っ提げているというかと、ものすごく根強い力持ってるんでね。日本人の心を歌ったのが演歌なんでね」
演歌の魅力への自信だけではなく、商店街の客層とも関係がある。「通行している人のナリにもよってね、音楽に対する(好みを)大別したら、演歌の人が圧倒的に多いわけですよ。だから演歌専門でやってるわけですね」
幅広い年代の人々が行きかう天神橋筋商店街には高齢のお客さんも多い。演歌に対するこだわりだけではなく、その地域ならではのニーズをつかんだ経営方法でもあるようだ。
●店頭の北島三郎像は……?
店頭で黄金の輝きを放つ北島三郎像は、およそ30年前に、レコード会社に設置を求められたとのこと。演歌を多く扱う店でのプロモーション用に、像は10体ほど作られたそうだ。
あこや楽器店のシンボルともいえる北島三郎像だが、北島三郎さんが紅白出場をやめた後、一度「お別れ」の危機があった。
「レコード会社が返してくれ言うてきた。30年も置いてるのだから目標(目印)がなくなると言って断った。だからうちだけにあるんです。日本中にあるのはうちだけしかない。レコード会社も諦めたみたいで返してとは言ってこなくなりました」(野村社長)
野村社長の強い意志であこや楽器店に留まった北島三郎像。これからも天神橋筋商店街の人々に笑いかけるのだろう。
●創業から65年
65年前にオープンしたあこや楽器店。野村社長(91歳)は当時20代で、姉のいた奈良の楽器店で修業した後、独立して心斎橋筋商店街に店を構えた。店名の由来は、歌舞伎の演目「阿古屋琴責(あこやことぜめ)」に出てくる琴・三味線・胡弓(こきゅう)が得意な遊女、阿古屋(あこや)からとのこと。趣のある店名である。
当時の音楽事情について野村社長はこう語る。「音楽の業界に入ったのは戦争が終わってから4、5年たってからやから、そのころはやっぱり歌は全盛でしたよ。昔からの歌手がたくさんでたから。今でもそういう人のものが売れている。娯楽というもんが(戦争で)途絶えとった時代やからね。そのころはまだレコード屋さんも数が少なかったですよ」
「演歌専門店」と銘打つようになったのは25年ほど前の90年代から。不況でCDが売れなくなって多くの音楽店が閉店しだすようになり、演歌という特色を打ちだすことにしたという。
●音楽配信が拡大しても「テープ日本一」
音楽配信サービスの普及などによってCDの売り上げが減少している現在、あこや楽器店にも影響はあるのだろうか。
「音楽配信とかあるでしょ。そういうふうなのは、なんも目を通さんと売ってるわけでね。題だけ言うて、買う。やっぱりね、目で見て買うのが一番賢いんですわ。そんなもん(音楽配信)はね、形も何にもないわけでしょ。そういうのんは嫌やいう人もいるんですよ。頼りないでしょ」(野村社長)
あこや楽器店には、目で見てCDを選び購入するのを好むお客さんからの強い支持がある。お客さんの年齢層から考えても、手にとって見ることのできないネット配信にはなじみにくいのかもしれない。
店内にはカセットテープの棚もあり、「テープ日本一」というポップも貼られている。カセットを多く扱う店は珍しいと思うのだが、その理由を尋ねた。
「カセットそのものがね、機械も今の若い人が使わないような機械になっているでしょ。でも、カセットの機械でしか聞いてない人も、たくさんおるんですわ、特に女の人に多い。そういう人のために作ってる。主力ではない。お客さんのこと考えると、やめるにやめられない。要望があるからね」と野村社長。
昔からのお客さんを大切にし、地元のお客さんのニーズに寄り添い続けるのが、65年も続くあこや楽器店の生き残り戦略なのだろう。
座長サブちゃん、幸せありがとう!46年間公演「まつり」締め

演歌歌手の北島三郎(78)が29日、福岡・博多で「北島三郎最終公演」の千秋楽を迎え、46年間続いた座長公演にピリオドを打った。前人未到の4578回目のステージを終えたサブちゃんは「たくさんの幸せをありがとう」と涙。舞台上の劇団員、ゲストらも泣きじゃくるなど、多くの感動とともに一つの時代を締めくくった。
46年間の公演を締めくくる最後のあいさつ。観客席から口々に起こる「ありがとう」の声に北島もこらえるのを抑えることができなかった。「しゃべると泣いちゃうよ…。千秋楽でぐしゅぐしゅ泣くのは、みっともないけど感謝で止まらないよ」と目頭をぬぐった。
ともに舞台を盛り上げてきた劇団員も膝から崩れ落ちて号泣。応援に来たゲストもステージに上り、福岡市長・高島宗一郎氏(40)も「これからも日本人の心を伝えてください」と涙を流した。演歌歌手の島津亜矢(43)も「さみしいです!」と泣きじゃくると、思わず北島は「いや、まだ生きてるから」と苦笑いした。
この日は第1部で江戸時代の渡世人「国定忠治」を熱演。第2部では「風雪ながれ旅」「函館の女」など22曲を熱唱し、ラストは「まつり」。高さ4メートルの巨大カブトの上にあるシャチホコに乗り、観客席4列目くらいまで伸び、約1500人の観客を盛り上げた。
1968年に第1回を行い、ファンのリクエストで71年以降、毎年必ず行ってきた特別公演。体調が悪くても続けてきた。還暦を過ぎてからは禁煙。東京都・八王子市の自宅では家庭菜園に励んで気分転換し、心身ともに健康に気を付けてきた。
この日、終演後の取材では一昨年の紅白卒業と同じように「1本の線を引かせていただきます」と話したが「疲れるんですよ。疲れないような舞台ではいけないけど」とかすれた声で本音も吐露。「王貞治さんも、引退した時『20本打てる自信はあった』と言っていた」と世界の本塁打王に心境をなぞらえた。
座長公演は卒業となるが、今後は「引退はしません!」と強調。全国の小さい会場で歌唱や演技を行っていく。「少しだけ休みます」と話したが、関係者によるとすでに来月は節分会、コンサートなどの予定が入っているという。第一線を退いてもまだまだサブちゃんは引っ張りだこだ。
北島三郎「兄弟みたいだった」…菅原文太さん死去
菅原文太さんと映画「新兄弟仁義」(70年)、「修羅の群れ」(84年)などで共演した歌手の北島三郎(78)が1日、都内のホテルで行われた作曲家・遠藤実さんの七回忌の集いに出席し、菅原さんとの思い出を語った。
「兄弟仁義」シリーズの弟分だった菅原さんの第一印象は「やたら背が大きいけど、とてもいい味のあるやつだった」。それ以来、何度も一緒に酒を酌み交わし、「離れていても兄弟みたいだった」という。
「修羅の群れ」の神奈川・三浦半島のロケでは、撮影が遅れ、山下耕作監督に詰め寄る菅原さんに北島さんが「いいかげんにしろよ。そんなことしてたら日が暮れるぞ!」と一喝すると、菅原さんは「ああ、分かった、分かった」と言って引き下がった。3~4年前に会ったのが最後だったが「何でも言える仲だったんですよ」。高倉健さんとも親交が深かったため「そのうちオレも行くからあっちでも仲間と一杯やってて下さい」とさみしそうにつぶやいた。
演歌界で隆盛を誇った北島ファミリーが、深い悲しみに包まれている。
2014年7月20日・北島三郎さんの実弟・大野拓克さん死去・北島音楽事務所常務取締役
御大、北島三郎(77)の実弟で北島音楽事務所の常務取締役・大野拓克さんが20日、肝臓がんのため都内の病院で死去。享年67。大野さんは7人兄弟の長男である北島の一番下の弟で、長年、右腕として北島の劇場公演やコンサートなど営業面の実務を担当してきた。
「風貌は御大そっくり。影武者なんてあだ名もありました。所属歌手やスタッフも、御大や御大の妻で前社長の雅子夫人には直接言いにくいことでも、大野さんになら話せるという緩衝材的な役割もあった。北島音楽事務所は雅子夫人から長男に社長が代替わりしていますが、早すぎる死を惜しむ声は多い」(レコード会社関係者)
北島音楽事務所常務の大野拓克(おおの・ひろかつ)さんの通夜が24日、東京・西五反田の桐ヶ谷斎場でしめやかに営まれた。喪主は妻、弘美(ひろみ)さん。北島は悲しみに涙ぐみながらも気丈に施主を務めた。葬儀・告別式は、25日午前10時から同所で。
■ご冥福をお祈りいたします。- 青空と向日葵の会 staff一同 -
素晴らしい靴と、人との出会い!!
オペルカ【OPELKA】
株式会社オペルカの基幹ブランド。紳士・婦人用靴。1961年、青山学院大学に在学中の加藤義忠がヨーロッパテイストの紳士靴を販売。イタリアのマッケイ製法を取り入れて、日本で初めてデザートブーツを製品化した。1975年には、婦人靴とバッグをスタートする。1979年には、東京、青山にフラッグシップショップ「オペルカギャラリー」をオープン。2005年、2代目の加藤一秀がクリエイティブディレクターに就任し、現在に至る。本社は東京都港区北青山。
http://www.opelka.co.jp/


【弦哲也先生 名曲をありがとう!!】

郷土の星!!日本作曲家協会常務理事
【 犬吠埼~おれの故郷~ - 弦哲也 】
【銚子のご当地ソング!!】
銚子市
『銚子漁港』:千葉一夫
『真冬のサーファー』:松任谷由実
『9月には帰らない』:松任谷由実
銚子電気鉄道 『デキちゃんはトコトコはしる』
外川駅 『外川に春がやってくる』
【やしき たかじんさん】2014年1月3日未明、東京都内の病院で心不全で死去
大好きでした。いまでも、あなたの優しい顔が浮びます。
辛いです。苦しいです。あなたと出逢った人は皆、悲しんでます。歌が耳に残っています。忘れません。ありがとう。ゆっくり休んで下さい。悔しかったでしょう、つらかったでしょう、もういいんです。全て忘れて天国から皆の幸せを祈って下さい。たかじんさんの分まで精一杯破天荒に生きますから。笑って見守って下さいね。ほんまありがとう。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
- 青空と向日葵の会 Apex product 代表 柳 - 西成の仲間より
大阪市西成区出身。在日韓国人2世。本名は家鋪隆仁(読みは同じ)。血液型はO型。主に関西ローカルの番組に出演していた。愛称は「じんちゃん」「たかじんさん」「たかじん」など。
2002年に後遺症の緑内障の影響により、ファッションのためだけでなく、常にサングラスをかけていた。愛用していたサングラスはドルチェ&ガッバーナ。


やしきたかじん・妻さくらさんが顔写真公開!百田尚樹「殉愛」で壮絶な闘病、極秘結婚生活を告白・・・【画像】


今年1月に他界した歌手やしきたかじんさん(享年64)の壮絶な闘病生活の真相と、亡くなる3カ月前に極秘結婚していた謎の女性の正体が明らかになった。ベストセラー作家の百田尚樹氏(58)がたかじんさんの残した膨大なメモと看病日記を基に取材。 7日発売の新著「殉愛」(幻冬舎)で赤裸々にしている。
名うての遊び人として知られた「浪速の視聴率男」たかじんさんの“最後の女”が、32歳年下の妻さくらさん(32)。食道がんで闘病中のたかじんさんと亡くなる3カ月前に極秘で結婚し、たかじんさんの娘との確執もあったため「遺産目当て」などと週刊誌で報じられたが、その素顔も2人の出会いもベールに包まれていた。
たかじんさんの死から10カ月。全てを明らかにしたのは「永遠の0」「海賊とよばれた男」などの著書で知られる百田氏。
「メモ魔」だったたかじんさんが残した1000枚をはるかに超える膨大なメモと、さくらさんが2年間1日も休まず記した看病日記を基に300時間を超える関係者への取材を重ね、登場人物のほとんどが実名で登場する完全なノンフィクション本にまとめた。
その内容は衝撃的だ。さくらさんがイタリアでネイルサロンを経営するネイリストだったこと、2人は犬好きが集まるウェブサイトを通じて知り合ったこと、初めて2人で会った日にたかじんさんがいきなりプロポーズし、出会いから3週間後に食道がんが見つかったことなどが詳細に書かれている。一部でさくらさんが「韓国人」と報じられたことについては 「日本国籍」としている。

【 希望のともしび!! 】
この世でたったひとつの
命を削りながら
歩き続けるあなたは
自由という名の風
底知れぬ闇の中から
かすかな光のきざし
探し続ける姿は
勇気という名の船
だからどうぞ泣かないで
こんな古ぼけた言葉でも
魂で繰り返せば
あなたのため 祈りを刻める
眠れない夜のために
子守歌があるように
傷付いた心には
愛という名の絆を
A Ray Of Hope For You
A Ray Of Hope For Me
A Ray Of Hope For Life
For Everyone
運命に負けないで
たった一度だけの人生を
何度でも起き上がって
立ち向かえる
力を送ろう
どうぞ忘れないで
移ろう時代(とき)の中から
あなたを照らし続ける
希望という名の光を
あなたを照らす光を
希望という名の光を
A Ray Of Hope For You
A Ray Of Hope For Me
A Ray Of Hope For Life
For Everyone…
山下達郎さんの「希望という名の光」より
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人生で挫折したとき、くじけそうになったとき
元気になれる歌です
【つんく♂祝辞全文】一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選んだ

声帯がん治療のため療養していた音楽プロデューサー・つんく♂(46)が4日、母校・近畿大学(大阪府東大阪市)の入学式にサプライズで登場し、昨年10月にがん再発を公表後は初めて公の場に姿を見せた。新入生約7000人への祝辞の中で、声帯の摘出手術を受けた結果、声を失ったことを告白した。以下、入学式で発表された新入生への祝辞。
【写真】声帯を摘出したつんく♂ ギターをかき鳴らしながら懸命に声を出そうと…
【つんく♂メッセージ全文】(スクリーンに掲示された原文まま)
平成27年度 近畿大学にご入学の皆さん 入学おめでとうございます!この大学の卒業生でもあります私「つんく♂」と申します。
正直言いましょう、今日のこの入学式には、近畿大学にひっしのぱっちで入学した人。狙い定めた入った人。結果的に(滑り止めで)近畿大学に入った人。いろんな人がいるでしょう。
でも、あなたにとってどの大学が正解だったんでしょうか…それはわかりません。ただ、ひとつ言えるのは、この先の人生で、あなた自身が「ああ、この大学に入ってよかったな。」という道を歩めば良いんだと思います。
なぜ、今、私は声にして祝辞を読みあげることが出来ないのか…それは、私が声帯を摘出したからです。去年から喉の治療をしてきていましたが、結果的に癌が治りきらず、摘出するより他なかったから、一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選びました。
そんな私に、「今年も近畿大学の入学式のプロデュースをお願いしたい!」と、この大学から依頼がありました。その時に思いました。「ああ、この大学を卒業してよかったな。こんな私がお役に立てるなら精一杯頑張ろう!」そう心に思いました。昨年末から何度も大学とメールでやり取りしたり、スタッフが伝言してくれたり、を繰り返しつつ、今日、この日を迎えました。
KINDAI GIRLSの皆さん、吹奏楽、応援部の皆さん、その他たくさんの学生の皆さんが、今日の日の為に夢中でレッスンしたり、準備してくれました。「みんなで一緒に新入生を迎え入れよう!」と。
ここまでの人生はもしかしたら受け身だった人もいるかもしれません。親が言うから…学校の先生がすすめたから…でも、もうすぐ皆さんは成人します。もう自分の人生を歩んで行くんです。後悔しても意味がないんです。今から進んでいくんです。自分で決めて進んで行けば、絶対に何かを得、そしてまた次のチャンスへと繋がっていくんだと思います。
私も声を失って歩き始めたばかりの1回生。皆さんと一緒です。こんな私だから出来る事。こんな私にしか出来ない事。そんな事を考えながら生きていこうと思います。
皆さんもあなただから出来る事。あなたにしか出来ない事。それを追求すれば、学歴でもない、成績でもない、あなたの代わりは無理なんだという人生が待っていると思います。
近畿大学はどんな事にもチャレンジさせてくれます。だから何もしなかったら何もしないなりの人生をチョイスすることになるし、自分で切り開いていく道を選べば、きっと自分を大きく育てるようなそんな大学生活になるでしょう。
仲間や友人をたくさん作り、世界に目をむけた人生を歩んでください。私も皆さんに負けないように、新しい人生を進んで行きます!
だから最後にもう一度言わせてください。皆さん、近畿大学への入学、本当におめでとう!「ああ、良かった!」と思える大学生活をセルフプロデュースしてください!
そして、今日のこの出会いに感謝します。ありがとう!
平成27年4月4日
近畿大学入学式プロデューサー
つんく♂
最終更新:4月4日(土)16時39分
シャ乱Qはたけ、つんくは大丈夫「逆境をパワーにできるやつやねん」

シャ乱Qのボーカリストで音楽プロデューサーのつんく♂(46)が昨年10月に声帯の摘出手術を受け、声を失ったことを公表したことを受け、バンドのリーダーでギタリストのはたけ(46)が5日、ツイッターとフェイスブックを更新。「大変なことやし、もちろんショックも心配もある。でも大丈夫や」と自らに言い聞かせるように綴った。
【写真】つんく♂、声帯摘出で声失う 母校・近畿大でギター演奏
シャ乱Qのメンバー全員の母校でもある大阪・近畿大学で4日に行われた入学式にサプライズ出演したつんく♂は、大型スクリーンに「なぜ、今、私は声にして祝辞を読み上げることが出来ないのか…それは、私が声帯を摘出したからで、去年から喉の治療をしてきましたが、結果的に癌が治りきらず、摘出するより他、ならなかったから一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選びました」と映し出す形で声を失ったことを公表した。
大学時代から苦楽を共にしてきたはたけは「つんくの報道について、、、大変なことやし、もちろんショックも心配もある。でも大丈夫や。つんくという男は逆境をパワーにできるやつやねん」と強調。「シャ乱Qも幾度となくピンチに陥ったけど、オレらは逆境に立てば立つほど、周りがアセる中、『むしろ、逆にオイしい』と笑いながら乗り越えてきた。そんなムードをつくってくれたのは、いつもつんくだった」と振り返った。
かぶり物でおどけるつんく♂とのツーショット写真とともに、「今回は深刻な事やし、安易なことを言うのは不謹慎に思われるかもしれないけど。それでも、あえて、、つんくは大丈夫。オレはそう信じてるねん」と、エールを盟友に送る。
続けて「この先、つんくが何をするのか、、一緒に何ができるのか、まだわからないけど、、つんくは世の中に感動を与える表現者であり続けるだろうし、シャ乱Qのメンバーであり続けるねん」と今後も共に活動する意向を示す。最後に「みなさん、こんな時は悲愴感より、期待感を高めてほしい。その方が、、つんくは燃えよる そういう男やねん」と、つんく♂とファンに向け、力強いメッセージを送った。
最終更新:4月5日(日)16時42分
泉谷「忌野にも生きる方を…」 盟友引き合いにつんくの決断を尊重

歌手の泉谷しげる(66)が6日、自身のブログで、声帯摘出を公表したつんく♂へエールを送った。
【写真】声帯を摘出したつんく♂ ギターをかき鳴らしながら懸命に声を出そうと…
同じ歌手の立場から今回の決断を分析した泉谷は「アノ忌野清志郎は声失うくらいなら『手術しない』道を選び、己を真っ当した!ミュージシャンなら誰でもそうしたい気持ちはアルさ!」と喉頭癌のため09年に亡くなった忌野清志郎さんを引き合いに、決断の重さを思いやった。泉谷と忌野さんは長年の音楽仲間だった。
「つんく♂氏は声より生きるホウを選択した!その決意に至るもまた大変なモノだったろう」とした泉谷は、この日の朝に生出演した「白熱ライブ ビビット」(TBS系)でも「声を選んで死んじゃった忌野清志郎ってのと逆なんだよね。つんく♂さんは生きる方を選んだ。忌野にも生きる方を選んで欲しかったよね」と忌野さんの死を惜しんだ。
「-ビビット」で「声っていうのは、他の臓器でもしかしたら出せる可能性の高いものなんだから…。分かるけど、歌えなくなるのはつらいから。分かるけど、生きていてほしい」と訴えた泉谷。ブログでもつんく♂を、「個人差あるとは思うが声帯を失ってもリハビリしだいでは他の機能で声が復活出来るとも云われるので可能性に立ち向かってほしい!生きるチカラを大いに見せつけろ」と激励した。
最終更新:4月6日(月)13時45分
モー娘。、“声帯摘出”のつんくから逆エール「俺の分まで歌って」

アイドルグループ・モーニング娘。’15が15日、東京・池袋サンシャインシティで行われた58枚目のシングル『青春小僧が泣いている/夕暮れは雨上がり/イマココカラ』リリースイベントを行った。4日に声帯摘出を発表した音楽プロデューサーのつんく♂について、工藤遥(15)は「『俺の分までしっかり歌うんやで、俺もいい曲つくるから』と言われてすごく励みになった。私たちももっと頑張らないと」と背中を押されたことを明かした。
【写真】新メンバーも モーニング娘。’15ソロショット
声帯摘出の知らせを「ニュースで聞いた」というリーダーの譜久村聖(18)は、「きょうのイベントでも『心を込めて愛をこめて歌って』と言われた」と報告。メールでの連絡のみでまだ対面はしていないというが「できることって一つじゃない。声を失ってもできることを見つけているつんく♂さんはかっこいい。私たちのできることは、たくさんの人に夢や希望を伝えること。その役目をしっかり果たしたい」と意気込んだ。
今回のシングルは、新メンバー4人が加入した13人体制として初の作品となる。譜久村は「’15としてはスタートなので頑張りたいです」と気炎を上げ、念願の紅白歌合戦出場についても「道重さゆみさんがリーダーの時も目指していたのですが、’14でかなえられなかったことを、’15でかなえたい。せっかく’15、’16と上がっていくので、1年でしっかり結果を出したい」と目標を掲げた。
このほか、生田衣梨奈(17)、鞘師里保(16)、鈴木香音(16)、飯窪春菜(20)、石田亜佑美(18)、佐藤優樹(15)、小田さくら(16)、尾形春水(16)、野中美希(15)、牧野真莉亜(14)、羽賀朱音(13)が参加。2000人のファンに、新曲を含め全5曲を披露した。
最終更新:4月16日(木)0時42分
香田晋さん、板前になっていた!福岡県内で料理店経営

2012年4月に芸能界から引退した元演歌歌手、香田晋さん(47)が故郷の福岡県内で料理店を経営していることが6日、分かった。7日発売の「週刊女性」が報じている。
同誌は、福岡市内から約40キロ離れた遠賀郡で、板前として働く香田さんを直撃。一昨年に福岡県へ引っ越し、「生活のために、好きな料理をしよう」と思い、昨年9月に完全予約制の料理店を開店したという。
1989年のデビュー前の3年間、作曲家、船村徹氏(82)のもとで修業しており、関係者は「(内弟子時代は)だしからとって料理を作っていたので、彼の料理はすごく上手だった」と明かす。歌手時代に料理本を出したほか、まぐろ解体師1級の免許も持っており、その腕前は折り紙付き。
香田さんは同誌に引退理由も告白。当時はバラエティーでも活躍していたが、「そのうち思い通りに歌えなくなって、精神的に追い詰められて逃げ出した」と明かし、謝罪した。
09年に前妻と離婚し、その後に交際した11歳年下の女性と再婚。現在は夫婦で料理店を営んでいる。芸能界への復帰については「もう香田晋で商売するつもりはない」と完全否定した。
最終更新:4月7日(火)8時36分