Apex product 【 日本の国技・相撲 】 サークル活動!!

日本の国技「大相撲」楽しみましょう!!

「はっけよい、のこった!」

かけ声と同時に肉体と肉体がぶつかり合う。

一瞬の衝撃に場は包まれ、人々は息を呑み、

その刹那に魅せられる。

日本の国技、伝統文化である相撲。是非 ご一緒致しましょう。

 

-  青空と向日葵の会 Apex product 代表 柳 -

 

元横綱千代の富士の九重親方が死去 がん転移で闘病

大相撲の元横綱千代の富士の九重親方(本名・秋元貢)が31日、東京都内の病院で死去した。61歳だった。

【写真】九重親方、還暦と思えぬ肉体美披露

 同親方は2015年名古屋場所を全休し、膵臓(すいぞう)がんの手術を受けた。その後は職務に復帰していたが、最近はがんの転移が見つかったとされ、闘病を続けていた。

 九重親方の略歴は以下の通り。

 ◆九重貢(ここのえ・みつぐ)元横綱千代の富士。本名は秋元貢。1955年(昭30)6月1日、北海道松前郡福島町生まれ。70年秋場所初土俵。75年秋新入幕。81年秋から横綱に。通算1045勝。優勝31回。三賞7度。金星3個。89年には国民栄誉賞に輝いた。91年夏場所限りで引退後、年寄陣幕襲名。92年4月に九重を襲名し部屋の師匠に。08年2月に理事初当選。広報部長、審判部長、巡業部長などを経て、12年2月から事業部長。15年名古屋場所を休場し、膵臓(すいぞう)がんの手術を受けていた。家族は夫人と1男2女。現役時代は183センチ、127キロ。

【貴乃花親方・哀悼文】下積み時代に賜った激励の言葉…今も胸に

 ◇元横綱千代の富士・九重親方死去

 九重親方死去の報を受け、貴乃花親方(元横綱)が本紙に哀悼の意を寄せた。入門当時から憧れのまなざしで背中を追いかけた大横綱。「早く上に上がってこい」という言葉を励みに91年夏場所で勝利した当時の思い出や、現在の心境などを赤裸々につづった。

【写真】若き日の家族写真。久美子夫人、優ちゃん、梢ちゃん、剛くんと笑顔の千代の富士

 哀悼の意

 今は厳粛に静粛に受け止めています。

 時が過ぎ去るのは無常にも早いものです。入門したての私は離れた場所から横綱・千代の富士関を遠目に拝見していたのを昨日のように感じております。現役時代には胸をお借りし、鋼の肉体に額を恐る恐る当てたことも忘れていません。まだ下積み時代に横綱から“早く上に上がってこい”と激励のお言葉を賜ったことも忘れていません。

 本日、巡業初日の猛暑のなかに悲報が訪れたことは過ぎ去りし日の残酷な夏をも感じています。少年時代の夏の思い出が一気に消えたかのようで、幼い頃の童心が風に吹かれて浮遊してしまったかのようです。

 今年3月の理事長選挙の際にも、私のような若輩者に人生を懸けてお守りいただけたことは生涯の誇りとなります。九重親方と最後にお話ししたことを鮮明に覚えています。かたくなな私の心を抱きしめてくださいました。人知れずご苦労を抱えてこられた勇気。心の広い方だと改めて痛感した瞬間でした。北の湖前理事長も、九重親方も、父である初代・貴ノ花も肉眼ではそのお姿が見えなくなり、私の心は暗闇に迷い込んだかのようです。むなしく、寂しいです。

 今はご遺族に哀悼の意をささげております。その思いはこれからも何ら私の心は変わりません。

 貴乃花光司

最終更新:8月1日(月)8時57分

スポニチアネックス

千代の富士と北の湖、永遠のライバル

元横綱千代の富士、九重親方の若すぎる死が悼まれます。

強靭で精悍で、そして美しい横綱!千代の富士。

動画では「大きな壁」と語っています。
やはり元横綱、北の湖とは、手に汗握る勝負を展開しました。

今、あちらで再会し、互いの今生での健闘を
讃えあっておられるかもしれません。

ライバルの名勝負のひとつをご覧ください>>>

千葉開府890年記念!!
大相撲が千葉にやってきます!!

平成28年秋巡業 千葉開府890年記念大相撲千葉場所が来る10月6日(木)に「千葉ポートアリーナ」で開催されます。

観覧は、全席指定です。

良いお席はお早目に♪

開催概要、チケット購入方法などくわしくはホームページをご覧ください。

http://www.chibacity-ta.or.jp/…/chibakaifu890th-oozumouchib…

開催日 平成28年10月6日(木) 開場:8時、打ち出し(終了)15時予定
開催場所 千葉ポートアリーナ
住所 千葉市中央区問屋町1-20 
交通 JR京葉線「千葉みなと駅」より徒歩15分
JR「千葉駅」より徒歩16分
京成電鉄「千葉中央駅」より徒歩12分
千葉モノレール「市役所前駅」より徒歩8分
料金 3,000円~24,000円(全席指定)
主催者 サンライズプロモーション東京 【後援】千葉市・千葉市教育委員会・千葉商工会議所他
お問合せ サンライズプロモーション東京 0570-00-3337(10:00~18:00)
申込方法 前売券は、プレイガイドでお求めください。
良い席はお早めに♪
http://chiba.sumo-j.com/ticket.html#ticket

【席 種】全席指定
☆千葉場所記念座布団付 (消費税込)
タマリ席      14,000円(1名分)☆
ペアマス席     24,000円(2名分)☆
アリーナイスS席   9,000円(1名分)
アリーナイスA席   7,000円(1名分)
スタンドイスB席   5,000円(1名分) 
スタンドイスC席   3,000円(1名分) 
アリーナ車椅子席  20,000円(2名分) ※うち付添1名・敷地内駐車場付き
URL http://chiba.sumo-j.com/
備考 ※車椅子席をご希望のお客様は「サンライズプロモーション東京」までお問い合わせください。
・サンライズプロモーション東京
 TEL 0570-00-3337(受付時間 10:00〜18:00)
※4歳以上はチケットが必要です。
4歳未満のお子様でも、お席が必要な場合はチケットが必要です。
※タマリ席での未就学児童の観戦はできません。
また、1階席での膝上観戦はできません。
※1階席は土足厳禁となります。スリッパ等ご持参ください。
2階席は土足での観戦が可能です。
※お買い求め頂いたチケットは、お客様のご都合によるキャンセル・払い戻しはできません。
※付いている座布団はお持ち帰りいただけます。

 

【コロッケ次男の琴滝川が引退、入門からわずか1年】

ものまねタレントのコロッケ(55)の次男、琴滝川(19=佐渡ケ嶽)が引退したことが7日、分かった。

【写真】コロッケ次男 序ノ口デビュー戦で白星

 昨年春場所の入門後からけがに悩まされ、序二段56枚目だった初場所の7番相撲で大瀬海(阿武松)を破った際、右肩を脱臼。春場所も全休していた。先月23日に引退が受理された。

 師匠の佐渡ケ嶽親方(元関脇琴ノ若)は「リハビリも一生懸命やっていたけど、骨が欠けていて肩も上がらず落ち込んでいた。もっと早く(番付を)上がれるとも思っていたと思う。乗り越えてほしかったけど、こればかりは仕方ない」と残念そうに話した。

最終更新:5月8日(金)7時45分

日刊スポーツ

【逸ノ城が減量失敗、自己最高207キロにショック】

大相撲の力士会が28日、東京・両国国技館内の相撲教習所で行われ、新小結の逸ノ城(22=湊)が体重で自己最高を更新した。

【写真】遠藤 逸ノ城破る 年末年始TV断り

 200キロを超えた昨年末からダイエット宣言していたが、体重を量るのは春場所後初めてという。おそるおそる体重計に乗ると、メーターには「207」の文字が…。「思ったより、ちょっと行っていましたね」と、前回計測した2月より約4キロ増の結果に苦笑いするしかなかった。

 これまでは場所の初日までの減量目標を掲げてきたが、いずれも失敗。今回も減量できず「もう分かんないっす。適当っす」と、ショックを隠しきれない様子だった。

最終更新:4月28日(火)20時15分

日刊スポーツ

<大相撲春場所>「満員御礼」15日間確実に 14年ぶり

 大阪・ボディメーカーコロシアムで開催中の大相撲春場所が2001年以来14年ぶりに全15日間「満員御礼」となることが17日、確実になった。1月の初場所(東京・両国国技館)も15日間満員で、2場所連続は若乃花・貴乃花兄弟の「若・貴フィーバー」を挟んだ1990年初場所~97年春場所(44場所連続)以来18年ぶりだ。

【「御免札」見たことある?】「満員御礼」は最近よく見るけど…

 17日は初日から10日連続の大入り(約7200人)。12日目以降の前売り券は完売し、11日目も一部の升席を残すだけとなっている。日本相撲協会の北の湖理事長(元横綱)は「現役力士の頑張りが一番」と語るが、土俵上では横綱白鵬関の強さばかりが目立つ。

 そんな中、人気回復の要因に挙げられるのが、協会によるソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を使ったファンの新規開拓だ。11年に始めた公式ツイッターでは、巡業中の支度部屋で居眠りしたり、注射に顔をしかめたりする力士たちの“秘蔵写真”を公開。フォロワー向けに人気の遠藤関による「お姫様抱っこ」のイベントも催した。

 こうした取り組みで「スージョ(相撲女子)」と呼ばれる新たなファンが誕生。来場した大阪府岸和田市の高校2年生、上田由佳さん(17)は「見に行けない日もツイッターで『今日はこんな着物を着ているんだ』などと楽しめる」と明かす。

 協会業務推進室の加藤里実さん(32)は「10~30代がメインのSNS利用者に相撲を身近に感じてもらえているのでは」と手応えを口にする。フォロワーは現在8万7000人超。初場所のアンケートを分析した協会によると、平日に初めて来場した約3割がSNSや口コミをきっかけに興味を持ったという。

 消費動向に詳しい電通総研主任研究員の松本泰明さんは「『和食など日本文化が好きになった』という日本人が増え、そのうちの若い世代がSNSを通じて相撲に関心を持ち、人気につながっているのでは」と見ている。【岩壁峻】

最終更新:3月18日(水)11時55分

毎日新聞


【 勢が唄う相撲甚句 「 双葉山 」 】

相撲甚句(おっさん乱入~勢ソロ~ラストまで)2013年4月6日 大相撲藤沢場所   

この日は終盤の勢の部分だけ撮ろうと思い待ってたら、ニュースにもなったおひねりおじ­さん乱入(笑)で慌ててカメラを回しました。
勢や力士達は勿論、土俵越しにチラッと見える森三中の大島さんもビックリです。
しかし何より、ハプニングに遭いながらも冷静に熱唱し続ける竜王浪(黄色い化粧回し)­が男前だったのが収穫でした(笑)

【勢翔太】

勢 翔太(いきおい しょうた、1986年10月11日 - )は、大阪府交野市出身で伊勢ノ海部屋所属の現役大相撲力士。本名は東口翔太(とぐち しょうた)。身長195cm、体重165kg。血液型はB型。 得意手は右四つ、寄り。最高位は西小結(2014年11月場所)。好物は寿司、焼肉。特に寿司ネタの中でも貝類やイカ、ウニを好むという。

来歴

祖母や近所の住民などの大人に囲まれて東口は幼少期を過ごしたといい、特に年配の人から可愛がられていた。自身が小学1年生の頃に両親が交野市内で「すし家の繁」を開業し、接客などを見て学んだという。両親曰くこの頃から大人びていたといい、接客や店の手伝いなどを見よう見まねで行っていた。小学3年生の時に相撲未経験ながら地元のわんぱく相撲の大会に出場して優勝を果たしたことがきっかけで同学年で隣接の寝屋川市出身である澤井(現:豪栄道)の父親に勧誘され、澤井と共に交野市内にある相撲の古市道場に在籍。当時の東口は同世代と比べて体が大きいことで澤井の父は東口を澤井の稽古相手につもりで勧誘したといい、両親も小児ぜんそくの持病があった東口を相撲で鍛えるつもりで相撲をやらせたという。1日4時間の相撲の稽古を週4回行うことで途端に健康状態が良好化し、さらに放課後から稽古の時間がやって来るまでの1時間を野球などの外遊びに費やすほど元気になった。体を動かしっぱなしになったことで病院で「過労」と診断されたこともある。1996年わんぱく相撲全国大会の小学4年生の部では準優勝を果たした。小学5年生の頃に寿司屋の常連の紹介によって先代伊勢ノ海と出会った。

中学卒業後は相撲を離れてフリーター生活を送り、兵庫県尼崎市内で1年間1人暮らしをしたこともある。その中で社会性を身に付けたたが結果としてやはり相撲をやりたいと考えるようになった。ところが実家を離れていた東口は自身の大相撲入りを期待していた祖母の死に目に会うことができなかった。そんなところ、先代伊勢ノ海が祖母の葬儀に出席してくれたと聞いて入門を志願。18歳の時に伊勢ノ海部屋に入門、2005年3月場所で初土俵を踏み、翌5月場所から「勢」という四股名を名乗った。2006年5月場所には早くも幕下に昇進して、その5月場所でも5勝2敗の好成績を挙げた。同年9月場所では初日から3連勝し、8日目に同じく3連勝の琴冠佑張り手を交えて勝利し4連勝で勝ち越しを決めたものの、取組後に琴冠佑から顔面を殴られ、その後は3連敗と精彩を欠いた。2010年11月場所では自己最高位となる西幕下2枚目まで昇進したものの3勝4敗と負け越した。その後も幕下上位に在位し、東幕下3枚目の位置で迎えた2011年9月場所において5勝2敗の好成績を挙げ、翌11月場所に新十両へ昇進した。漢字一文字の四股名を持つ力士としては、1997年11月場所新十両の以来、14年ぶりの関取となった。

新十両となった2011年11月場所では、初日から8連勝で早々と勝ち越し、9日目に千代嵐の髷を掴んで反則負けを喫した以外は13日目まで白星を重ね、14日目の時点で初の十両優勝を決めた。新十両での優勝は2008年11月場所の翔天狼以来のこととなった。東十両3枚目まで大きく番付を上げた翌2012年1月場所でも7日目から8連勝して10勝5敗の好成績を挙げ、翌3月場所において新入幕を果たした。漢字一文字の四股名を持つ力士としては、1990年9月場所に新入幕を果たした以来、22年ぶりの幕内力士となった。その3月場所では3日目の若の里戦に両者合わせて10本の懸賞がかかるなど御当地力士としての人気ぶりを示したが、黒星を喫して若の里に懸賞を勝ち取られる結果となった。これも含めて初日から5連敗を喫するなどして5勝10敗と振るわず、翌5月場所に十両へ陥落した。翌7月場所に再入幕を果たしたものの、その7月場所でも7勝8敗と負け越して1場所で十両へ陥落した。翌9月場所では東十両筆頭の位置で11勝4敗の好成績を挙げて優勝決定戦まで進出したが、優勝決定戦では常幸龍に敗れて優勝は逃した。翌11月場所に3回目の入幕を果たし、9勝6敗の成績を挙げて幕内では自身初となる勝ち越しを決めた。2013年11月場所は11勝4敗の好成績を挙げ、幕内で初の二桁勝利を挙げるとともに、初の三賞となる敢闘賞を受賞した。翌2014年1月場所は西前頭2枚目で6勝9敗と負け越したが、大関・琴奨菊戦で初勝利。2014年5月場所は2日目から自身初となる9連勝を記録し、11勝4敗の好成績を挙げ、2度目の敢闘賞を受賞した。翌7月場所は豪栄道と栃煌山が関脇を維持した上に安美錦と碧山が小結の地位を得た影響で新三役を逃したが東前頭筆頭に据えられて最高位を半枚更新する。西前頭5枚目の地位で迎えた9月場所は新鋭の逸ノ城を破る活躍(詳細は後述)を見せた上で、10勝5敗の好成績を残した。翌11月場所は新三役(西小結)。大阪府からの新三役(小結)は、2008年11月場所の豪栄道以来戦後7人目。その11月場所では10日目に負け越しを確定させてしまったものの、11日目から4連勝するなど食い下がって場所を6勝9敗で終えた。

人物

親子揃って「我が強い」「何でもじっくり考えて、納得が行かなければ動かない。その代わり、納得して決めればしぶとい」と評する性格をしており、基本的に相撲以外はそれほど器用でないという。前述のとおり幼少期の経験もあって人当たりは良い。タニマチの高須克弥は「ゴルフもうまくて歌もうまい。遊び人力士だけどね(笑い)」と気に入っている一方で「勢も頑張るけど、相手も頑張っちゃう。だから、懸賞金を出すと逆に負ける確率が高くなっちゃうんだよ(笑い)。敵に兵糧を与えるくらいなら、懸賞を出さないほうがマシってなるんだよね。タニマチのジレンマだね」と苦悩している様子も見せている。

エピソード

  • 実家が寿司店を経営していて、小さいころから常に有線放送演歌が流れている環境で育ったため、自身の趣味であるカラオケでも演歌を得意としている。2012年7月場所8日目(2012年7月15日)のNHK総合大相撲中継において放送された「関取訪問」のコーナーでは、リポーター役であるAKB48岩佐美咲の訪問を受けて、稽古風景の取材を受けた後に岩佐と一緒にカラオケ店へ行き、自身はそこで山本譲二の『花も嵐も』を熱唱した後、岩佐からAKB48の振り付けを教わってAKB48の『ヘビーローテーション』に合わせて一緒にその振り付けを披露した。また、携帯用音楽プレイヤーを2個持っていて、演歌用とそれ以外用とを分けて使用していることを明かした。
  • 反面洋楽には疎く、2013年11月場所5日目の取組を終えた際にはその日にポール・マッカートニーが観戦していた話題について「僕は日本語しか知らないので、演歌で行きます!」とコメントした。
  • 相撲甚句の名手としても知られ、幕下時代より巡業で甚句を担当しており、「双葉山」などを持ち歌にしている。2013年6月22日には東京藝術大学において相撲甚句を披露。その際に史上初のオーケストラとの共演を果たした。
  • 先代師匠(元関脇・藤ノ川)に勧誘された際に「大好きな山本譲二さんと会わせてあげる」と約束され、入門して数年後に親方の計らいで会えることになり、コンサートの楽屋で握手してもらった時の写真はパソコンの待ち受け画面に設定されているという。これに関係する話として、同部屋の先輩である土佐ノ海は山本本人を通じて木梨憲武と知り合ったとされている。このように山本譲二は伊勢ノ海部屋と交遊関係にあると言える。
  • 苦手なものは注射。2011年12月に出羽海理事(当時、元関脇・鷲羽山)主催のインフルエンザ予防接種が行われた際には顔をひきつらせながら予防接種を受けた。
  • 2013年12月19日、両国国技館で日本相撲協会が史上初めて園児対象のイベントとして開催した「クリスマスお楽しみ会」で園児と触れ合い、“歌の先生”として「オリジナル相撲甚句」も披露した。
  • 2014年5月場所より第71代横綱に昇進した鶴竜の太刀持ちを同門の幕内力士として務めることになり、土俵入りの従者自体は同年3月28日に行われた明治神宮で奉納土俵入りで初めて経験。勢は「右手がプルプル。そんきょも不安定。本場所も巡業もやらせていただきます」と太刀持ちを務めた感想を述べていた。
  • 高須克弥西原理恵子をタニマチに持っている。そのため本場所では高須クリニック名義で懸賞金を設定されており、西原のデザインした化粧廻しを贈られている。
  • 地元のMBSラジオで放送中の生ワイド番組『上泉雄一のええなぁ!』には、十両時代から折に触れてゲストで出演。その縁から、同番組では、「『ええなぁ!』公認関取」として勢を応援する姿勢を示している。
  • 2014年9月場所7日目、新入幕で東前頭10枚目・モンゴル出身の新鋭である逸ノ城に勝ったことでインタビュールームに呼ばれた。通常はインタビュールームに呼ばれるのは勝ち越しや上位撃破の時だが、「館内が盛り上がったので特別に」と行われた。この取組は59秒9の熱戦で、逸ノ城の連勝を6でストップさせ、「敢闘精神評価」の投票者数が史上初めて1日で200人を超えた。敢闘精神評価アンケートは師匠の先代伊勢ノ海が発案した。

取り口

身長196cm、体重157kgという白鵬とほぼ同じ体格をしており、右差しと上手からの左前ミツという型が勢にとって理想の差し手である。秀ノ山はこの取り口に関して「正攻法の相撲であり幕内中位では十分通用する」と評価しながら「白鵬を真似て左足を引いて引いた足から立つが勢は足首が固いから同じように低く鋭く立つことはできず、前ミツが取れずに後退するしかなくなる」と指摘し、その上で「長身と手足の長さ、体のバネを活かして立ち合いから数発上突っ張りで体を起こしながら距離を詰めるべきだ。そうすれば四つ身の強さ、右からの下手投げが生きる」と解決策を提案している。

主な成績

2015年1月場所終了現在

通算成績

  • 通算成績:305勝261敗(59場所)
  • 幕内成績:113勝127敗(16場所)
  • 十両成績:41勝19敗(4場所)

三賞・金星

  • 三賞
    • 敢闘賞:2回(2013年11月場所、2014年5月場所)

各段優勝

  • 十両優勝:1回 (2011年11月場所)

【相撲甚句】

歌詞は7、7、7、5の甚句形式。

土俵上で力士5〜7人が輪になって立つ。輪の中央に1人が出て独唱する。周囲の力士たちは手拍子とどすこい、ほい、あ〜どすこいどすこいといったような合いの手を入れる。

起源、発祥についての定説は無いが、享保年間には流行歌として定着したものと見られている。

現在では、相撲教習所の教養科目として必須科目に取り入れられている。

幕下以下の力士が相撲甚句を披露する場合、大銀杏を結うことが許されている。

幕内経験者では、大至春日錦などが上手であった。現役力士では勢翔太が得意としている。

【 初 切 】(しょっきり)

初切初っ切り(しょっきり)とは相撲禁じ手を面白おかしく紹介する見世物。相撲の取組の前に一番最初に決まり手四十八手や禁じ手を紹介するために江戸時代から行われていたが、現在では大相撲花相撲巡業などで見ることができる

琴大信さんにがぶりつき!デーモン閣下も大好き、初っ切り!(Shokkiri,comic sumo)(平成26年2月9日、第38回大相撲トーナメント) 

解説

幕下以下の力士二人と行司土俵にあがり、対戦形式で禁じ手を紹介する。例えば相手を蹴り倒したり、力水を吹き掛けたり、現代のものでは他の格闘技の技を見せたりもする。笑いを取るためにプロレスを真似て、ピンフォールの3カウントを行司が取ってしまったり、ドサクサに行司をノックアウトしてみたり、あるいはザ・ドリフターズのコントよろしく一斗缶(土俵下に飛び降りて一斗缶を取り、土俵に飛び戻って缶で相手の頭を殴る)などの小道具が出てくることもある。

巡業という興行全体から見れば一種の余興であるが、演じる本人たちはかなり真剣に筋書きを練っており、力士・行司共に身体を張った芸を見せることが多い。元横綱審議委員会委員長の酒井忠正(元伯爵)が学習院時代の相撲大会で友人と初っ切りをやった際に、謹厳で知られた乃木希典学習院院長から終了後に呼び出されたのでおそるおそる出頭すると「あれはちょっとやそっとの稽古ではあるまい、よく頑張った」と褒められたという逸話を半藤一利が紹介している。

禁じ手を用いているが、初っ切りに限り反則負けはなく、勝負はなかなか着かない。これは、オチがつくまで行司が「本来なら反則負けのところを、格別の情けをもって」と宣言を繰り返し行い、取り直しにするためである。普段の取組では見られない滑稽さから人気が高く、これを見たさに早い時間から巡業先に足を運ぶ人もいるほどである。

蛇足ではあるが弓取式同様に、この初切を務めた力士は出世できないというジンクスが存在する(統計を取ったわけではなく、あくまで俗説)。ただし過去には栃錦清隆横綱に、出羽錦忠雄関脇に昇進しており、これで破られたと考える者がいる一方、現在でも相撲界のジンクスを語るときにはかなりの割合で出てくるものである。

幕下以下の力士でも初切では大銀杏を結うことが許されている(これは弓取りと同様)。

定番のパフォーマンス

  • 土俵に上がる際に踏み段を踏み外して転ぶ。
  • 仕切りの際、準備運動に見せかけて相手力士にラリアットを仕掛ける。相手力士はそれを避け、抗議の動作をしたり、「危ないだろう!」とツッコミを入れたりする。
  • 普通は一掴みだけ取って撒くを、掌に余る位大量に掬い取って持ち、盛大に振り撒く。敢えて撒かず、塊のまま足元に落とすだけのパターンもある。これを見かねた行司が「塩だってタダじゃないんだぞ!」と注意をする。相手が対抗して、箱ごと持って盛大に撒くフリをして、その実、一つまみしか撒かないボケを噛ますパターンもある。
  • 仕切り線を大きく越え、相手力士と肩が触れるほどの位置に腰を落とす。相手力士が「おい、近いだろう!」とツッコミを入れ土俵際まで後退させ、そこに腰を落とさせるパターンもある。
  • 禁じ手である蹴り技を用いる。力士は技の是非について行司と言い争いをした後、仕切り直しの取組で相手力士にスリッパで叩かれ、「手より足のほうが長いから、足で突っ張っただけ」と言い訳をした後蹴り技で土俵下に突き落とされる。自分が同じことをやったわけだから文句は言えない。その後行司の足に塩を投げつけるパターンもある。
  • 立合いの際、仕切り線に手を着き、ネコのように後ろ足を蹴り上げ砂を巻き上げる。
  • 相手力士に砂をかけられたことに腹を立て、右足に蹴りを入れる。蹴られた相手力士の右足が痙攣する。おぼつかない足取りで四股を踏もうにもバランスを崩して倒れる。何とか仕切りの体制に持っていくが、やはり四股が踏めずバランスを崩し相手力士に接触してしまう。すると痙攣を起こした力士は回復するが、今度は接触した力士が痙攣を引き起こし、さらに痙攣が腰にまで及ぶ。さらに行司にも痙攣がうつるパターンもある。柄杓を痙攣箇所に数回叩けば治り、痙攣が収まった力士は回復を飛び跳ねて見せつける。痙攣箇所の前に頭や股間を叩くパターンもある。
  • 四つに組むが相手の位置が気に食わず、マゲを掴んで強引に変え、これを複数回繰り返した後にマゲを掴んで引き落とす。掴んだままもう1度土俵へ叩きつけなおすパターンもある。
  • 行司から軍配を奪いうちわの様にあおぐ。奪い損ねるパターンもある。
  • 力水を吐き出さず、相手力士をスリッパで叩き、マゲを掴んで引き落とされたことを身振り手振りだけで抗議し、取っ組み合いで相手力士の顔に吹き掛ける。この後に相手も対抗して大量の水(柄杓で何杯も飲んだ後、桶ごと口に運ぶなどエスカレートする)を口に含む。2回目以降、しゃがんで攻撃をかわしたり、或いは攻撃側も同時にしゃがみこみ、結局吹き掛けられてしまうパターンや、立合いの際にいきなり吹き掛けられるパターンもある。
  • 反則技への抗議から張り手の応酬になり、互いにファイティングポーズを取ってボクシングプロレスのような形態になる(もちろん殴り合いを演じたりプロレス技まで出て来る)。これを見かねた行司が「相撲は平手!」と注意する。
  • 土俵下の呼出から柄杓を受け取り、負けを認めない相手の頭を叩く。
  • 観客を巻き込むこともあり、勢いあまって観客席に突っ込んでいったり、塩を席まで飛ばしたり、巡業先の場合は観客の食事を拝借したりするパターンもある。このパターンでは力士2人が揃って飲食をし、行司から土俵に戻るよう促されて力士は土俵へ戻るが、土俵へ戻る隙に行司まで飲食する事が多い。
  • 演目上負けた力士は、腹いせに、勝ち名乗りを上げる行司の烏帽子をはたき落とす。

初っ切りを演じる主な力士

【 相 撲 】

概要

大まかに分類すれば、力技(ちからわざ)による格闘技の一種である。名称は、日本語の動詞「すまふ(争ふ)」から。

素手(すで。つまり道具・武器類を一切持たない状態)で、まわし一枚の姿で土俵上で相対した二人が相手と倒しあい、また土俵外に出しあうことで勝負を競う。

歴史

広辞苑の簡潔な説明によると、古代から宮廷において「相撲(すまい)の」としてに行われたとのことである。

ブリタニカ百科事典の、より詳しい説明によると、弥生時代紀元前300年ころから300年ころ)の稲作にともなう農耕儀礼として発生したとのことで、もともと庶民の間で相撲の原始的な形式が発達し、奈良朝のころになって 天皇家に取り上げられて、年中行事として、七夕余興として行われるようになったとのことである。それが平安時代に入って、その年 農作物の収穫状況(五穀豊穣かどうか)を占う「国占(くにうら)」という国家行事となり、宮廷儀式の「相撲節」(すまいのせち)として発達することになり、三百年ほど続いた。その三百年の間に、様々な技が洗練されてゆき、次第に独特の様式を持つ格闘技となったのである。さらに、後に武家が台頭する時代になると、相撲は戦場で用いる武術のひとつとしても洗練されることになり、そうしてさらに独特の発達をとげることになり、(徳川家康の関ヶ原の合戦での勝利以降の)江戸時代には「勧進相撲」が盛んになり、職業としての相撲が隆盛するようになった。→#歴史

現状

以上の歴史を見てもわかるように、相撲には大きな二つの流れがあり、それは現在の相撲にも反映されており、一方で、職業力士を抱える「日本相撲協会」があり、もう一方で、非職業的でアマチュアによる相撲の「日本相撲連盟」という、ふたつの本流が存在し、それぞれ(いささか異なった)規則によって興行し 大会が催されているのである。また、そのほかにも、各地の神社では「奉納相撲」が行われている。

現在は(日本の)「国技」と称されている。 ただし、多数の優秀な外国人力士が誕生しており、海外巡業も行われている。日本国外でも、次第に興味を示しす人が増え、(ちょうど、柔道合気道が、すでにただの「日本人だけのもの」といったちっぽけなものではなく、「世界中の人々のもの」になってきて、むしろ大きな盛り上がりを見せているように)、日本国外でも(国によっては)小さな相撲大会が開かれることも増えてきており、相撲も少しづつではあるが、世界への広がりを見せ始めている。

英語では「sumoスモウ」または「sumo-wrestlingスモウ・レスリング」と表記される。

他の格闘技との類似と相違

格闘技としての面に着目した場合、類似したものは世界の多くの地域に見られる。相撲は、裸身(に極めて近い状態)で道具を用いず、つかみ合い、相手の体を倒しあうことを競ういわば「レスリング系統」の競技である。

沖縄本島シマモンゴルブフ中国シュアイジャオ朝鮮半島シルムトルコヤールギュレシなどに、そうした系統のものがある。[注 1]そうした類似の格闘技の中で比較すると、日本の相撲は、特に常に「前に出て押す」ことを重視するところに特徴がある。

なお、日本では組み合う格闘技的な競技を総称して「相撲」と呼ぶ。用例には腕相撲足相撲指相撲、拳相撲などがある。他に、相撲を模して行われるものに紙相撲がある。

相撲の歴史

相撲の起源は古い。 江戸時代以降の詳細は大相撲#歴史も併せて参照されたい。

古代
弥生時代
古墳時代

日本書紀』の雄略天皇13年(469年)には、秋九月、雄略天皇が二人の采女(女官)に命じてを付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれている。これが記録に見える最古の女相撲であり、これが記録上の「相撲」という文字の初出でもある

飛鳥時代
  • 日本書紀』の皇極天皇元年(642年7月12日 (旧暦)に「乙亥 饗百濟使人大佐平智積等於朝 或本云 百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名 恩率軍善 乃命健兒相撲於翹岐前」とある。百済の「大佐」(太政大臣クラス)の使者と、先に亡命していた王族の翹岐をもてなすため、健児(こんでい・ちからひと)に相撲を取らせた。
  • 『日本書紀』の天武天皇11年(682年)7月3日 (旧暦)にも「大隅隼人与阿多隼人相撲於朝庭 大隅隼人勝之」とあり、7世紀には、7月に相撲が行われていたことがうかがわれる。
奈良時代
  • 続日本紀』の養老3年(719年)7月4日 (旧暦)に「初置抜出司」と見える「抜出司は、諸国から集められた相撲人の中から選抜する臨時官で、のちの相撲司に当たるものと考えられている。
  • 突く殴る蹴るの三手の禁じ手・四十八手・作法礼法等が神亀3年(726年)に制定される。(吉田司家志賀清林を参照)
  • 続日本紀』の神亀5年(728年)4月25日 (旧暦)に、諸国の国司や郡司が相撲人を王族や貴族に献上してしまい朝廷に貢進しないことを諫める詔が出ている。これによって、すでに各貴族が相撲人を保持していたことが想像される。
  • 萬葉集』の巻五には、天平2年(730年)の大宰府からの「相撲部領使」と、翌年(731年)の肥後国からの「相撲使」の記述が見える。中央まで引率する官で、後者は大宰府を6月17日 (旧暦)に出発していることがわかる。
  • 続日本紀』では、天平6年(734年)7月7日 (旧暦)聖武天皇(在位724年 - 749年)が「相撲戯」を観覧したことを記している。これが、7月7日の節日に相撲が行われた明確な最初の記録である。
平安時代
  • 王朝
宮廷では各地から相撲人を選出し、相撲大会を催した。天皇が出御した行事を節会と称し、天皇御覧の元に相撲を行ったため、「相撲節会(すまひのせちえ)」と呼んだ。当日は「召合(めしあわせ)」と言う十数番までの取組があり、紫宸殿の庭で行われ、その後には近衛府による「相撲の還饗(かえりあるじ)」というもてなしが開かれた。
当初は、当麻蹴速(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の相撲対戦にちなんで7月7日に催したが、弘仁15年7月7日に平城天皇が崩御、命日と重なり7月16日に日程を改める。しかし、平安中期にはまた別の諸事情により、開催日は7月下旬が慣例となった。
平安後期になると相撲節会は徐々に衰微して行き、承安4年以降は行われなくなり、宮廷行事としての相撲大会は終結する。
相撲節会を行った旧暦の7月は凡そ現在の8月であり、時期がの収穫前であったことと、古来より相撲には五穀豊穣の祈願と作柄を占う、神事の意味が存在したことから、相撲節会も同様の儀礼を基底に催したと捉えられている。
  • 一般
宮中で行われた相撲節会のほかには、民間の相撲も大いに行われていた。一般の庶民による相撲は「土地相撲」、または「草相撲」と呼ばれていた。一方、「武家相撲」は武士たちの実戦で用いる組み打ちの鍛錬であり、また心身を鍛える武道でもあった。また「神事相撲」は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であった。

鎌倉時代

また、和田常盛朝比奈義秀兄弟が奥州を巡って、相撲で競った逸話がある。

南北朝時代

  • 正平年間、紀伊粉河寺(現在の紀の川市にある寺)で書かれた『粉河寺寺務御教書』という書物によると、粉河寺周辺で毎年六月に行われる粉河寺祭の奉納相撲の祭礼参加をめぐり、東村と荒見村との村同士の争いが起こった。
  • 室町時代以前には着衣で相撲を楽しむ庶民の絵などがあり遊戯としては土俵も無く着衣で行なわれていた。
  • 太平記』に相撲の記載がある。

室町時代

戦国時代

織豊時代

江戸時代[編集]

1788年の力士たちの似顔絵
19世紀半ばころの横綱、鬼面山谷五郎不知火光右衛門
1860年ころの行司
『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年刊

明治維新以降

相撲を取る皇太子時代の昭和天皇

神道と相撲

奉納相撲(東庄町諏訪神社


神社では、の際には、天下泰平子孫繁栄五穀豊穣・大漁等を願い、「神事」として相撲を行なうことも多い。そこでは、相撲は占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、多くが1勝1敗で決着するようにしている。

和歌山県、愛媛県大三島のある神社では一人角力(ひとりずもう)の神事を行っており、「稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となる」ととし、人が常に負けるようにしている。不作・不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることすらある。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道神道の影響も受けて、所作は様式化されていった。

神道と大相撲

  • 土俵祭
土俵祭とは、本場所の前日には立行司が祭主となって行なう祭事である。介添えの行司が清祓の祝詞をあげた後、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して式典が終わる。寛政3年(1791年)征夷大将軍徳川家斉の上覧相撲の際に吉田追風が「方屋開」として始めたものである。
  • 相撲場は明治中期まで女人禁制で、明治になるまで観戦することもできず、現在でも土俵上に女性が上るのを忌避している。
  • 土俵

相撲の呼び方

  • 「すもう」の呼び方は、古代の「スマヰ」から「すまひ」→「すまふ」→「すもう」に訛った。
  • 「角力」、「捔力」(『日本書紀』)、「角觝」(江戸時代において一部で使用)、などの表記が有る。これらの語はもともと「力くらべ」を指す言葉であり、それを「すもう」の漢字表記にあてたものである。
  • 古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたと言う説も有る。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴む事の意、または、素手で勝負をする事を意味する。)
  • 大相撲を取る人は「力士」(りきし)や「相撲取り」といい、会話では「お相撲さん」とも呼ばれ、英語圏では「相撲レスラー」と呼ばれる事もある。

相撲の闘い方

  • 競技としては、直径4.55m(15)の形または四角形をした土俵の中で、廻しを締めた二人が組み合って(取り組み)勝ち負けを競う。土俵から出るか、地面に足の裏以外がついた場合、もしくは反則を行った場合、負けとなる。その判定は行司アマチュア相撲では主審と呼ぶ)が行う。
  • 相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる。(つまり「無差別」で闘われるわけである。)
  • 相撲司家の吉田家の故実によると、禁じ手制定以前の相撲の戦い方については「相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である」と伝えられている。

通常は以下のような流れになる。

塵手水

「私は武器を持っていません、素手で正々堂々と勝負します。」ということを表明していることになる。

仕切り

  • 円形の土俵に入り、最初はやや離れて立ち、互いに顔を見合わせ、腰を落とし、仕切り線に拳をついて準備する。これを「仕切り(しきり)」といい、立ち会いが成立するまで繰り返す。仕切りは何度行ってもよく(ただし制限時間がある場合はその範囲 ※)、また、繰り返さなくてもよい。
(※)1928年(昭和3年)1月12日から日本放送協会のラジオ放送による大相撲中継がはじまった際、放送時間内に勝負を納めるため幕内10分、十両7分の制限時間設定とともに仕切り線が設けられた。現在の制限時間は幕内4分、十両3分である。

立合い

  • 拳をついた状態から、互いに目を合わせ、両者同時に立ち上がり、ぶつかる。普通は正面からぶつかり合うものであるが、必ずしもそうしなくても良い。この、試合の始まりを「立合い(たちあい)」という。
  • 立合いは、世界の類似の格闘技には見られない、日本独自の開始方法である。その開始は、両者の暗黙の合意のみで決まる。仕切りを繰り返すうちに、両者の気合いが乗り、共にその気になった瞬間に立ち上がるのが本来の形で、行司は一般のスポーツのように開始を宣言するのではなく、開始したことを確認するだけである。ただし、現実には時間制限などが設けられる。
  • 土俵に拳をつける立ち合いは江戸時代の元禄の大相撲力士の鏡山仲右衛門が始めたものが広まったものである。
  • 仕切り線ができたことにより発達した。これ以前は当時の写真をみればわかるとおり、立会いの距離制限がなく頭と頭をつけた状態から開始されることも多かった。

勝ちの確定

勝ちが決まるのは次の場合である。

  • 相手の体のうちで、足の裏以外の部分を土俵の土に触れさせた場合。投げて背中を着けても、引っ張って掌を着けてもよく、極端な場合には相手の髪の毛が着いてもその時点で相手の負けが決まる。
  • 相手を土俵の外に出した場合。相手の体の一部が土俵の外の地面に着いた時点で勝ちが決まる。

日本の相撲以外の多くの「レスリング・相撲系」の格闘技の多くは、レスリングにおけるフォールのように、相手の背中が地面に着かないと勝ちにならない。また、試合場の外に出ることを反則としても即座に負けと認める例も少ない。この二点のために、相撲は勝負がつきやすいと共に、勝敗の行方がデリケートである。体重制を取らなくても勝負が成立する理由の一つもここにある。

相撲の攻め手

  • 離れた状態から、ぶちかまし・喉輪・突っ張り・張り手・足払い等の攻め手を用いる立ち合いにより、優位な状況をつくる。
  • 触れあった状態で押す。胸に手のひらを当てたり、まわしを握って押し出す。
  • 廻しを掴んで引き寄せあう。両者が同じ側(右と左)で横より後ろの廻しを取り合った場合、互いの手が交差するが、その際内側にある手を下手、外側にある手を上手という。
  • 急に後ろに引いたり、体を開くなどによって相手のバランスを崩す。

相撲においては、まず押すことを良しとする。まわしを取った手は引くが、その場合でも体全体としては常に前に出ることを心がける。「引かば押せ、押さば押せ(相手が引こうが押そうが押せ)」との言葉もある。実際には引き落としなど引く技もあるが、ほめられない。また引かれた場合も引かれる以上の速さで前に出ることで攻勢を取るのが良しとされる。

相撲の防ぎ手

相撲の組み方

  • 力士同士のお互いの組み方として四つ身と言う組み方があり、右四つ・左四つ・手四つ・頭四つ または外四つ(もろ差し)等がある。
    • 互いにまわしを取り合う場合、標準的なつかむ位置として相手の腰の横から少し後ろとなる。すると、両者の腕が交差することになるが、このとき相手の腕の外を回る腕を上手(うわて)、内側に入る腕を下手(したて)という。両者互角に組む場合、それぞれ片腕が上手、もう片腕が下手となる。ここで互いに右手が下手になっているのを右四つ、左手が下手になっているのを左四つという。
    • 片方が両腕ともに下手でまわしを取るのをもろ差しという。このとき相手も両手でまわしを取ると、両手とも上手となるのが外四つである。
    • 両者が互いの向き合う手をつかみ合った状態で押し合うのを手四つという。大相撲で見ることはほとんどない。むしろプロレスで見ることが多い。
    • 互いの頭を押しつけあうのを頭四つ(ずよつ)という。そのまま相撲が進むことは少なく、その状態から互いの肩を押したりといった形になる。

これらは両者互角、あるいはそれに近い組み方であるが、当然ながら相手にそうさせない方が自分には都合がよい。自分がまわしを取っても、相手にとらせないのは重要な手法であるし、取られた手を離させる、たとえば『上手を切る』のは大切な技法である。

決まり手

  • 勝敗が決したとき、それがどのような技によるかを判断したものが決まり手である。当然様々な場合があるが、公式な決まり手として、投げ・掛け・反り・捻りを中心にしたものがある。かつては四十八手といわれたが、現在では大相撲協会が82の技名と技でない決まり手5(勇み足など)を決めており、そのどれかに分類される。

禁じ手

志賀清林吉田司家を参照のこと。

相撲の構え

  • 日本古来から伝わる「手合」と呼ばれる相撲の構えが江戸時代中期まであったが、現在まで、その名残として「三段構え」が存在する。(「手合」と「三段構え」は、世界の類似競技では見られない日本独自の構えである。)
  • 力士が、「両手の手(拳)を土俵に付けてから立ち会う」事は、江戸時代中期の人物で紀伊出身の鏡山沖右衛門から始まった、これは、土俵を用いる相撲に適応し、徐々に浸透していった。
  • 現在まで伝わっている相撲の「追っ付けの構え」は、相撲の攻防に適した構えである。

相撲の鍛練法

  • 受け身・鉄砲・四股・摺り足・股割・ぶつかり稽古等

相撲の段級

相撲の用語

大相撲の番付表。平成24年のもの。
相撲用語一覧を参照のこと。

あんことソップ

重量級の力士をあんこ、軽量の力士をソップと称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型のあんこ力士を倒す取組は大きな見所となる。近年では筋力トレーニングを重視した千代の富士霧島といった、いわゆるソップ体型の名横綱、名大関が登場している。

相撲と日本人移民

相撲は、日本移民とともにブラジルに渡り、南アメリカにも持ち込まれた。

ブラジルでの最初の相撲大会は1914年8月31日、天長節を祝してサンパウロ州グアダバラ耕地で、開催された。福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われた。

  • 1962年、アマチュアの普及発展を目的に、伯国相撲連盟が結成。1966年にはブラジル政府公認のスポーツ団体となった。相撲推定人口は約4000人、本部はサンパウロ市にある。
  • 1983年、日本とブラジルの両相撲連盟が発起人となり国際相撲協議会を発足。
  • 1985年にはパラグアイ、アルゼンチンの相撲連盟が同協議会に加盟する。
  • 1986年、パラグアイへの日本人移民50周年記念事業として、全パ相撲大会が開催される。日本、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの4か国から選手が参加した。

日本からの遠征は1951年、全伯青年連盟の招聘による秀の山一行の渡伯を皮切りに、大相撲からアマチュア相撲の選抜選手が現在も遠征が続けられている。

大相撲

行司家

  • 相撲司家の宗家吉田司家以外に、全国には行司家というものがあった。行司家は、五条家をはじめ、吉岡家、服部家、尺子家、一式家、岩井家、式守家、木村家、木瀬家、鏡山家、長瀬家など、その他多数存在した。
  • 現在では、木村家と式守家のみが残っている。行司も参照のこと。)

一般的に、吉田司家は五条家の目代と言われているが、一切そのようなことは無く、関係あるのは二条家のみである。

事実、吉田家の19世、吉田追風が寛政年間に徳川幕府に提出した故実書に「五条家は家業牢人の輩の道中絵符人馬宿駅の帳面免許す」とあり、又、「木村庄之助の先祖書きにも旅行の節御由緒これあり、京都五条家より御絵符頂戴いたしきたり候」と記されているように、相撲の宗家とは云い難い。

相撲 - Wikipedia より 転載

【相撲の番付】

番付とは

力士の階級を表した一覧表です。階級は段と文字の大きさになって現れます。また、行司、理事、監事、委員、主任、年寄、審判委員、若者頭、世話人、呼出しなども掲載されています。呼出しは十両以上だけです。

力士にはどんな番付がありますか?

力士の番付には、上から順に次の十段階あります。

関取

十両以上の力士

取的(とりてき)

幕下以下の力士。正式には「力士養成員」と言います。

三役力士

三役力士とは、本来は大関、関脇、小結の地位にある力士ですが、最近は関脇と小結という二つの地位にある力士だけをさすこともあります。横綱は三役力士に入りません。

役力士

横綱と三役の力士。三役とは本来、大関、関脇、小結のことです。

幕内力士

関取のなかで、「前頭」以上の力士。すなわち、前頭から横綱までの力士。十両を除く関取のことです。

前頭

幕内力士んのなかで三役力士と横綱を除く力士。

平幕力士

前頭の力士。

横綱は必ずいなければなりませんか?

番付ではいなくてもよいことになっています。横綱の人数にも制限はありません。

大関は必ずいなければなりませんか?

原則として、いなければなりません。番付の上では三役である大関、関脇、小結は東西にそれぞれ少なくとも一人ずつはいることになっています。大関がいないときは、「力齢岡」がその大関を兼ねます。そのような横綱を「横綱大関Jと言います。実質的な「大関」がいなくても、横綱がいればそれを「横綱大関」にすればよいのです。そうすれば、番付で「大関」がいなくなるということはありません。

「東西」の力士は同等ですか?

いいえ。番付には東方力士と西方力士がありますが、同じ番付の場合、東方力士が上位です。その割り当ては前場所の成績によって決めます。前場所が同じ勝ち星であれば、その前の成績によって決めます。番付は番付編成会議で決めます。

関脇や小結には人数制限がありますか?

関脇と小結は東西に少なくとも1名ずついなくてはなりませんが、その上限はありません。張出し関脇、張出し小結もありました。昭和47年(1972)には5人の関脇があった場所もありました。また、平成4年(1992)九州場所では関脇が東西に2名ずついました。

関取の人数は決まっていますか?

幕内力士と十両力士の数は、原則として、次のように決まっています。

1幕内

40名以内。平成3年(1991)初場所から。それまでは38名でした。幕内が全体で40名以内となっているため、横綱や三役以上の力士数によって前頭の数は必然的に変わります。

2.十両

26名以内。昭和42年(1967)夏場所から。それまでは36名でした。東西に13名ずつという枠が決まっています。

番付の力士数はどうなっていますか?

  1. 横綱  最高の地位。いなくてもよい。
  2. 大関  2番目に優秀な地位。必ず1名はいます。
  3. 関脇  東西に1名ずつ。必ず1名はいます。
  4. 小結  東西に1名ずつ。必ず1名はいます。
  5. 前頭  東西1~ 16枚目まで32名。小結以上の力士数によって前頭の枚数は違います。
  6. 十両  東西1~ 13枚目まで26名。正式には「十枚目」と言います。
  7. 幕下  東西1~ 60枚目まで120名。
  8. 三段目 東西1~ 100枚目まで200名。
  9. 序二段 約350名。人数は固定していません。力士数が最も多い。
  10. 序ノロ 約100名。人数は固定していません。

地位によって数が決まっているものもあるし、決まっていないものもあります。一人もいなくてもよい地位もあるし、数に制限がない地位もあります。

力士全体の総数は決まっていますか?

決まっていません。力士はすべて、協会に所属することになっています。しかし、その総数には何の制限もありません。幕内と十両以上の関取に関しては人数が明文化されていますが、幕下以下の数は明文化されていないのです。

同じ段の東と西1同じ階級の左と右ではどちらが上位ですか?

東と西では東が上位ですが、同じ階級の場合、基本的には右側が上位です。

幕内;幕下,十両などの名称に何か由来がありますか?

呼び方には次のような由来があると言われています。

  1. 幕内  将軍の上覧相撲のとき、上位力士は慢幕の内に控えたから。
  2. 幕下  幕内の「下」に位置するから。
  3. 大関  はっきりしていませんが、「関取」に「大」をつけ、「取」が消失したのではないかと言われています。「大関」という名称は江戸時代初期にはすでに使われています。
  4. 関脇  大関の脇に位置するから。
  5. 小結  はっきりしていません。大関、関脇の取組がないとき、次の位置の力士が結びの一番(役相撲取りの小口の結び)を取ったからという説があります。小口の結びはいわゆる三役の最下位を指すようです。
  6. 前頭  前相撲の「頭」であつたことに由来します。1700年代後半の番付では、現在の序ノロから小結までの力士は「前頭」です。前相撲を当時は「前」、それより上位を「幕の内」とも呼んでいました。前頭はその「前」の「頭」というわけで。現在の「序ノロ」も当時は「幕の内」力士だったのです。番付で「同」の文字が使われているのは、前頭の人数が多いからです。
  7. 十両  江戸末期、幕下上位十枚目までの力士で、給金が10両だったから。江戸時代は幕下と十両の区別はなく、共に「幕下三段目力士」です。その中の上位「十枚目までの力士」が後に「十両力士」になっています。現在、十両力士は13枚目に相当しますが、相撲協会は「十枚目」を用いています。
  8. 三段目 番付の三段目だから。
  9. 序二段 番付の序の2段目だから。
  10. 序ノロ  番付の最下段、序ノロだから。明治の中頃までは「上ノロ」とも呼んでいました。

番付の「蒙御免」は何ですか?

これは相撲歴史の名残です。江戸時代には勧進相撲を興行するとき、寺社奉行に届けを出して開催の許可を受けました。この「蒙御免」は、興行が幕府の公認であることを天下に示しています。興行許可を掲示する看板を「御免札」と言い、それには「蒙御免」とともに興行の場所と日時が表記されました。現在でも本場所初日の約1カ月前に「御免祝い」をしていますが、そのとき「御免札」を立てています。

意外と知られていない、日本の国技:大相撲の給与と福利厚生。横綱、大関…力士の懐は?


優勝力士がもらった賞金や賞品はもちろん優勝力士のものですが、力士は部屋に所属し、部屋には力士が多いので、分け合うことが多いようです。

このほか、横綱・大関に昇進すると「名誉賞」として、横綱に100万円、大関に50万円が授与されます。
ただし、再昇進の場合は授与されません。この名誉賞は、行司が「立行司」に昇進するときにも授与されます


幕下以下にはありません。
月給の内訳は、「基本給」と「手当」に分かれています。


横綱  260万6,000円
大関  216万9,000円
三役  156万4,000円
幕内  120万9,000円
十両   95万7,000円

サラリーマンに支給される定期的なボーナスはありません。


相撲社会独得の「褒賞金」という制度があり、これが月給と二本立てになっています。
力士は「序ノロ」に入ったときから、番付、場所の成績、昇格などによって、褒賞金の最低支給標準額が決まっています。これは、 一般に「持ち給金」とか「基本給金」と呼ばれ、単に「給金」と言うこともあります。
力士生活を続けるかぎり褒賞金がついて回り、番付、場所の成績、昇格などによって加算されていきます。力士褒賞金としての最低支給標準額は、地位によって次のとおり決まっています。


横綱  150円   
大関  100円   
幕内   60円
十両   40円
幕下以下 3円

地位が下がると、昇進当時の増加額に相当する金額を減らし、また、地位が上がったときに最低支給標準額に達していなければ、その額に引き上げます。この褒賞金をお金にして支給するときは、4、000倍します。
たとえば、ある力士の褒賞金が1、000円であれば、1、000円×4、000で400万円が支給されます。


本場所の成績によって力士養成員に支給されるものです。
幕下
三段目
序二段以下
勝ち星
2、500円
2、000円
1、500円
勝ち越し星
6、000円 4、500円 3、500円


三役以上の力士には、本場所があるごとに次の「本場所特別手当」が支給されます。
横綱  20万円  
大関  15万円  
関脇   5万円
小結   5万円



地方場所では、旅費支給規定により、旅費、宿泊料、日当などが特別に支給されます。正確な額や日当の日数は公表されていませんが、力士の地位によって額は異なり、日数は35日分として支給されているようです。

宿泊費日当
横綱8、000円3、000円
大関 7、500円 2、000円
関脇 6、500円1、600円
小結 6、500円 1、600円
前頭 5、700円 1、400円
十両5、000円1、200円



三賞とは、殊勲賞、敢闘賞、技能賞のことですが、次の額が支給されます。
殊勲賞  200万円
敢闘賞  200万円
技能賞  200万円



本場所の優勝者には、階級によって次の賞金が贈られます。
幕内  1,000万円  
十両    200万円  
幕下     50万円  
三段目   30万円
序手段   20万円
序ノロ   10万円



「退職金」という名目ではありませんが、十両以上の引退力士を対象に支給される「養老金」がそれに相当します。これは「基本金」と「加算金」の二本立てになっていて、「力士養老金および勤続加算金支給規定」に基づき、番付の地位や勤めた場所数などを考慮しています。


基本金一場所ごとの加算金
横綱1、500万円50万円
大関 1、000万円 40万円
関脇763万円25万円
小結 763万円25万円
前頭 763万円 25万円
十両475万円21万円

【両国国技館】

概要

旧両国国技館

先代は現在の国技館とは異なり、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。

1906年6月着工、3年後の1909年5月に竣工し、6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは小屋掛け(臨時に設備を設けて行なうこと)による「回向院場所」が行なわれていた)。しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。

設計は日本銀行本店東京駅浜寺公園駅の設計者として知られる辰野金吾とその教え子葛西萬司で、「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来する。工事費用は27万円。枡席約1,000席を含む13,000人が収容可能で、小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。建物の内径は62m、中央の高さは25mあった。

「國技舘」の名称は、明治42年5月29日に板垣伯爵(板垣退助)を委員長とする常設館委員会で話し合われるも決まらず、開館式の前日明治42年6月2日に了承される。よって、開館当所は「両国元町常設館」と書かれていた。作家の江見水蔭が執筆した開館式の案内文(「相撲は日本の国技なり」という内容)にヒントを得て、当時年寄で検査役でもあった尾車(元:大関大戸平)が提案した。

1917年11月29日午前1時30分、1階売店 福井軒にあった火消壷からの出火による火災が発生、放駒などの消火により2時40分に鎮火するも回向院花売場、本堂も含め全焼した。損害額120万円、(回向院12万円)火災保険は約13万円だった。使用不能の間は靖国神社境内に仮小屋を建てて興行を行なった。

『帝都大震災の惨状 両国国技館』
(墨田区立図書館収蔵 原文は正字)

新国技館は葛西博士により屋根は亜鉛製にて設計され、1918年(大正7年)7月に地鎮祭・起工式、1919年4月3日に鉄柱崩壊事故があるも、1920年1月15日に完成・開館式を行なった。1920年9月1日に再建興業したが、1923年9月1日の関東大震災で屋根・柱など外観を残して再度焼失。再建の結果、翌年の夏場所から興行を再開した。再建中、1924年1月に名古屋市で本場所が行われたこともある。

太平洋戦争中の1944年、1月の春場所を最後として2月に大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用された。このため5月(夏)場所は後楽園球場(番付には小石川後楽園球場と表記)で開催されることになり、球場の中央に協会員の手で土俵作りが行われた。野外での晴天10日間の興行は前述の1924年1月場所以来のことであった。この場所7日目には日曜日で晴天とあって、大観衆8万人以上という空前絶後の記録でスタンドまでギッシリ埋まった。

なお同年11月にも同球場で秋場所が開催された(十両以上。幕下以下は神宮外苑相撲場(現神宮第二球場)にて開催)。翌年1月が厳寒期に当たり、野外の興行が困難なため2か月繰り上げて11月5日より晴天10日間開催された。ちなみに東京で11月に本場所が行われるのは1872年以来72年ぶりであった。

1945年3月10日東京大空襲によりまたも焼失。そのため同年5月23日からの本場所は神宮外苑で晴天7日間の開催予定だったが宮中喪や空襲で延期され6月に国技館で傷痍将兵の招待以外は非公開で行われた。日本相撲協会の興行史上唯一の本場所非公開開催である。大鉄傘が空襲で破損したため、晴天7日間の興行であった。

両国メモリアルホール

敗戦後の同年10月26日には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により再度接収され、メモリアルホールとして改称・改装された。改装は1946年9月24日完成。改装前の1945年11月中旬には焼け爛れたままの国技館で戦後初の本(秋)場所が行なわれた。晴天10日間と露天並みの興行だった。

占領軍から本場所開催許可の一つの条件として「土俵を広げよ」という要請で、1場所限り土俵の直径を15尺(4.55m)から16尺(4.8m)に広げさせられた(ただし1場所で15尺に戻る)。改装後の1946年11月にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、1946年11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱双葉山引退披露が旧国技館での最後の興行となった。

以降はプロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。ちなみに日本初の公開プロレスは1951年9月30日にメモリアルホールで開催されており、大相撲を廃業したばかりの力道山がリングサイドで観戦、約1ヵ月後の10月28日にエキシビションながら同じメモリアルホールのリングに上がりこれがプロレスデビューとなった。また、全日本柔道選手権大会の会場にも使用された。

国際スタジアム

1952年4月1日の接収解除後、日本相撲協会が再び国技館としての使用を検討したものの、すでに蔵前国技館の建築が始まっており、また自動車用の駐車場などを設置する場所的な余裕が無いことから使用を断念、国際スタジアムに売却した。国際スタジアムでは、ローラースケートリンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。

日大講堂時代

1958年6月、日本大学に譲渡され「日大講堂」となる。

この日大講堂は、日本大学のイベントなどよりはプロボクシングプロレスリングコンサートなど多くの興行に使用されていた。プロレスでは主に全日本プロレスが東京でのビッグマッチに使用しており、1974年12月には日本人で初めてNWA世界ヘビー級王座を獲得したジャイアント馬場ジャック・ブリスコとの初防衛戦が日大講堂で行われた。ボクシングでは、大場政夫が出場したWBA世界フライ級タイトルマッチ、他にも輪島功一小熊正二の世界戦が行われた。

1968年から1969年にかけて全国で起こった全共闘運動のなかで、日大における闘争の舞台(対大学当局全学大衆交渉)としても使用された。

老朽化のため1982年をもって使用中止となり、翌1983年に解体された。幾度かの再建や改修を経つつも解体されるまで「大鉄傘」の姿を堅持したままであり、相撲協会理事長を務めた武藏川博物館明治村への移築も考えたようだが、あまりにも大きい建物であり、運ぶのは無理であったという。

解体後の跡地には複合ビル施設の「両国シティコア」が建設された。キーテナントは劇場シアターΧ(シアターカイ。Χラテン文字の「エックス」ではなくギリシア文字の「カイ」)であり、その他オフィス・住宅・レストランなどからなる。その中庭には先代の国技館があった当時の土俵の位置がタイルの色で示されている。

なお、敗戦後の大相撲の興行場所は、神宮外苑相撲場などでの野外興行を経て、1949年1月に日本橋浜町仮設国技館で行なわれた後、翌1950年1月に蔵前仮設国技館へ移り、その後1954年の完成以後1984年の9月秋場所まで蔵前国技館を使用していた。また日大の入学式・卒業式は1983年以降、日本武道館で挙行されている。

現在

両国国技館の吊り屋根と土俵

1985年1月場所より使用されている現在の建物(新国技館)は二代目。国鉄バス駐泊場(旧両国貨物駅跡地)に建設された。新国技館は地上2階、地下1階。総工費150億円(全てを借金なしでまかなった)。建設計画発表から3年の歳月で1984年11月30日に完成。翌年1月9日、盛大に落成式が催され、千代の富士北の湖の両横綱による三段構えが披露された。その場所で千代の富士は「全勝優勝」、怪我を押して強行出場した北の湖は1勝も出来ずに「引退」と、明暗分かれる世代交代の場所となった。

現在では大相撲の本場所引退相撲NHK福祉大相撲などで相撲協会自らが使用するほか、新日本プロレスG1 CLIMAX決勝戦(2014年を除く)に使用され、1991年から毎年11月に高専ロボコンの全国大会、1992年からは毎年全日本ロボット相撲大会が開催されるほか、毎年2月には国技館5000人の第九コンサートが行なわれている。

2020年東京オリンピックではボクシング競技会場になる予定。

イベント会場としての利用

プロレスリング試合

プロレス興行でのこけら落としは1985年3月9日全日本プロレス(当日のメインイベントはジャンボ鶴田天龍源一郎ロード・ウォリアーズインターナショナル・タッグ選手権試合)であった。しかし、輪島大士ら力士出身者の全日本プロレス入りが相次いだことなどから、全日本は日本武道館を主に使用するようになり、両国国技館は新日本プロレスの会場として定着していく。

新日本の初使用は1985年4月18日(当日のメインイベントはアントニオ猪木ブルーザー・ブロディ戦)である。だが、前年のIWGP優勝戦蔵前国技館大会の暴動事件から日本相撲協会に気を使った新日本がトップレスラーのブルーザー・ブロディに「入場コスチュームのチェーンの持ち込み禁止」を通達、激怒したブロディが猪木を試合前に襲撃するという一幕があった(ブロディは結局チェーンを持ってリング入りしている。またブロディは3月の全日本両国大会にもチェーン持参で参戦している)。なお1991年の第1回G1 CLIMAX決勝戦において蝶野正洋が優勝した際、リング上に大量の座布団が投げられたため、以後座布団の使用が禁止されている。

一方の全日本は武藤敬司体制となってから武道館が使用できなくなったのもあり、「プロレスLOVE in 両国」と題したPPV興行としてビッグマッチを再び両国で開いている。

全日本から分かれる形で旗揚げされたプロレスリング・ノアは長らくビッグマッチを武道館で開いていたため両国を使用することがなかったが、2011年限りで武道館から撤退したため、2012年7月22日に初の両国大会を開催した。この大会では力士出身である力皇猛の引退セレモニーも執り行われた。

1986年4月5日に、全日本女子プロレス(当日のメインイベントはデビル雅美ライオネス飛鳥WWWA世界シングル選手権試合)が女子格闘技として初進出。女子プロレスでは全女の他、JWP、LLPW(現:LLPW-X)がビッグマッチを開いていた。2007年2月のLLPWを最後に女子プロレス興行は行われなくなったが、2012年4月29日にスターダムが初進出。2014年10月11日にはLLPW-Xが7年ぶりに開催された。

2009年にはインディ団体のDDTプロレスリングも進出し、「両国ピーターパン」と題したビッグイベントを夏に開催している(2012年は武道館を使用したが、2013年は再び両国に戻し2日間に渡り開催)他、関西を拠点とするDRAGON GATEも東京におけるビッグマッチの会場として使用した時期がある。現在は解散している格闘探偵団バトラーツFFFも使用したことがある。2010年には世界最大のプロレス団体WWEの日本公演「WWE RAW Presents SUMMER SLAM TOUR 2010」も開かれ、2012年も「WWE Presents SMACK DOWN WORLD TOUR 2012」が開かれる。

2010年からIGFが、12月のビックマッチ「INOKI BOM-BA-YE」開催し、2012年以降はINOKI BOM-BA-YEを大晦日興行として行われている。

プロボクシング試合

プロボクシングでは、浜田剛史帝拳)が出場した世界戦(WBC世界スーパーライト級タイトルマッチ)3試合を全て両国国技館で開催。

また、世界戦のみならず日本プロボクシング協会主催のチャンピオンカーニバルで、1998年スーパーフェザー級王者・コウジ有沢草加有沢) vs 挑戦者・畑山隆則横浜光)の史上最大の日本タイトルマッチ、2000年フライ級王者・セレス小林国際) vs 挑戦者・浅井勇登)、スーパーライト級王者・小野淳一新日本木村) vs 挑戦者・前田宏行角海老宝石)、王者・コウジ vs 挑戦者・玉置厚司(守口東郷)の5階級日本タイトルマッチ同時開催興行等も実施された。

その他の競技・大会

その他格闘技では、高田延彦1991年12月にUWFインターナショナル「格闘技世界一決定戦」と銘打って元WBC世界ヘビー級王者トレバー・バービックに圧勝。その後もパンクラスSRCTHE OUTSIDERシュートボクシングなどで開催実績がある。

他のスポーツ競技では、1985年の新・両国国技館開場の年に、日本女子代表チームが出場したバレーボールの国際試合が開催されたことがある。2011年にはFIG体操ワールドカップ東京大会の会場となった。

スポーツ以外のイベント

1986年4月29日には、内閣の主催により昭和天皇御在位60年記念式典を挙行した。

1992年には格闘ゲームストリートファイターII』、1993年にはそのバージョンアップの『ストリートファイターIIターボ』、1994年にはさらなるバージョンアップの『スーパーストリートファイターII』(いずれもスーパーファミコン版)の全国大会が行われた。

アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテストという、高等専門学校ロボットの性能技術を競うコンクールでは、1991年の第4回大会(テーマ「ホットタワー」)以後、毎年全国コンクールの会場として使われており、地方コンクール(全国8地区)を勝ち抜いた高専生の憧れの場、「高専生の甲子園」とまで言われている。

また、年に数回程度、コンサート・ライブの会場として使われることがある。ライヴ会場としてのこけら落としは1985年3月31日に開催された、ロックバンド甲斐バンドの「BEATNIK TOUR in 両国国技館」。上記の「国技館5000人の第九コンサート」などのほか、1988年秋にはアメリカのアイドル歌手ティファニーのコンサートが催されたり、2007年11月22日に両国国技館では初のオールナイト音楽イベント「Connect '07」が開催され、石野卓球大沢伸一らが出演した。また同年12月24日には堀江由衣声優としては初めて単独コンサートを行なった。

年末年始は通常大相撲初場所の準備のため会場貸しは行われないが、2009年の大晦日から2010年の元旦にかけてさだまさしが国技館初のカウントダウンコンサートを行い、幟のほかに角界関係者をはじめとする企業・個人などから150枚を超える懸賞幕が出された。

2010年には演芸コンテスト「M-1グランプリ」の準決勝会場としても使用された。

ようこそ、相撲案内所へ
1400年の歴史と伝統を誇る日本の国技「大相撲」。年に6回開催される本場所のうち、1月の初場所・5月の夏場所・9月の秋場所が「東京場所」と呼ばれ、力士達の熱い取組の舞台が東京は隅田川のほとり、両国にある国技館になります。

 国技館内には20軒の案内所があり、その昔、それぞれが屋号を持って「お茶屋」と呼ばれていました。江戸時代にさかのぼると、大相撲のほかに芝 居小屋や歌舞伎などにもお客様に代わって、入場券やお弁当など飲食の手配を引き受ける代行業として「お茶屋」制度があったのです。

 現在「お茶屋」は「案内所」と名称を変えてはいますが、お客様に大相撲観戦を楽しんでいただく気持ちに変わりはありません。チケットの手配にお食事とお土産、そして雰囲気をご満足いただけるよう、上質なサービスを心掛けております。
 大相撲を心ゆくまで堪能できる相撲案内所。皆さま、ぜひご利用ください。


その壱 リッチな気分で館内に入場

 一般のお客様の場合、通常の入口から入場し席を探さなければなりませんが、案内所を通じてチケットを購入されると、情緒たっぷりの雰囲気が味わえる相撲案内所入り口からご入場いただけます。
 たっつけ袴姿の「出方さん」が出迎え、さらに広い館内をスムーズにお席までご案内いたします。


その弐 行き届いたサービスを思いのままに

 いよいよ観戦となれば、取組をじっくり見 るもよし、友人と語らいながら見るもよし。楽しみ方はいろいろですが、観戦しながらのご飲食が大相撲見物の醍醐味といっても過言ではありません。館内では 名物の焼き鳥やあんみつなどを販売していますが、すぐに売り切れたり行列ができていて、肝心な取組を見逃してしまうことも。
 そんな心配も案内所はしっかりフォローいたします。出方さんに頼めば、お飲み物からお食事まで即座にお届けいたします。もちろんご注文は可能。相撲を じっくりゆっくり、そして美味しくご堪能いただけます。(立て込んでいるときは、しばらくお待たせする場合もございます。予めご了承くださいませ。)


其の参 貴重なオリジナルお土産

 大相撲観戦のよい思い出となるお土産は館 内の売店でも販売していますが、案内所のお土産は一味違います。通好みなオリジナルグッズを種類も豊富に取り揃えているほか、年に3回、東京場所開催時に 新製品が加わります。なかなか手に入らない貴重なものばかり。熱い取組の余韻を楽しむことができ、ちょっと自慢できることうけあいです。


案内所一覧

 国技館での大相撲観戦を充分にお楽しみいただけるよう、私どもが誠心誠意お尽くしいたします。案内所全20軒、変わらぬサービスをご提供いたします。

・1番 髙砂家 ・2番 紀乃國家 ・3番 大和家 ・4番 吉可和
・5番 みの久 ・6番 中橋家 ・7番 和歌島 ・8番 上州家
・9番 西川家 ・10番 三河屋 ・11番 上庄 ・12番 四ッ万
・13番 武蔵屋 ・14番 白豊 ・15番 長谷川家 ・16番 河平
・17番 藤しま家 ・18番 伊勢福 ・19番 竪川 ・20番 林家

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