宮川軍曹は新潟県出身。
長岡工業学校卒業後、一旦は民間会社に就職したが大空への夢絶ちがたく、仙台航空機乗員養成所に入り、パイロットになった。
その後、特攻に志願した。
5月に一度出撃して、飛行機の不調で帰還。戦友と共に散華できなかったことに悩み、とめさんにその気持ちを打ち明ける手紙を書いていた。
「先輩、同期生がつぎつぎと散華し、自分たちばかり残るというのは、心苦しいことです。この心は、わかっていただけると思います。だが、決して死を早まらんつもりです。任務を完遂するまでは、断じてやります。ご安心ください。」
その後、6月6日に再度出撃し、還らぬ人となった。とめさんが宮川軍曹についてかたっているので引用する。
宮川さんが知覧に来られたのは20年5月の終わりごろと思います。
雪国の人らしく色白でハンサムな方でした。
前に、万世飛行場から一度、出撃したのですが、機体の故障で引き返して、一人だけ残ったのを大変気にしておられましてね。
ようやく代わりの飛行機がもらえ、出撃する前夜の6月5日一緒に隊を組む仲よしの滝本恵之助曹長と二人で私の食堂に来られました。
宮川さんは[あした出撃だ]とごきげんでした。
帰りがけに「おばさん、あしたも帰ってくるよ。ホタルになって滝本と二匹でね。追っ払ったらだめだよ」と冗談のようにいわれました。
食堂にくるとき、どこかでホタルでも見かけたのだろうと、そのときは気にもとめていませんでした。
翌6日はどんより曇った日でした。
この日は総攻撃の日で、朝から特攻機がどんどん飛び立ちました。
夜になって、出撃したはずの滝本さんが一人でひょっこり食堂にやってきました。
「宮川は開聞岳の向こうに飛んで行ったよ」といってぽろぽろ涙をこぼしました。
視界が悪いため、宮川機に何度も引き返そうと翼で合図を送ったが、「お前だけ帰れ」といってそのまま飛んで行かれたそうです。
夜の九時ごろでした。
食堂には娘二人と滝本さんの三人。
奥の広間には私と遺書を書いている隊員が七、八人おりました。
すると食堂の方で、娘が「あっ宮川さんよ。ホタルになって帰ってきた」と叫びました。
一匹のホタルが開けていた食堂の玄関から、すーっと入ってきたそうです。
もう大騒ぎ。
滝本さんはびっくりされた様子でした。
私は「みなさん。宮川さんが帰っていらっしゃいましたよ」といい、全員で「同期の桜」を歌いました。
ホタルは長い間、天井のはりに止まっていましたが、すっといなくなりました。
僕たちの今の生活は英霊、先人たちが家族、祖国日本を護るために命をかけて戦かった戦争の上にあることを絶対に忘れてはなりません。
今だけ、金だけ、自分だけな生活をしていませんか?
どんな小さな事でも良いと思います。
世のため人のために何かしてみてはどうだろうか?
家族、会社以外に、あなたの生きた証しは何か残りますか…?
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ナチス水晶の夜 (木曜日, 22 9月 2016 19:35)
ヒトラーが、始めた戦争で5500万人の尊い命が亡くなった。許されない独裁者だ。しかし、そいつもまた人間で決してモンスターでは無かった。人の心には、残虐性が潜んでいる。自己コントロール出来なくなれば人間失格。常に己に厳しく生きたいものだ。