【人々の心を耕すことで600以上の 荒村を復興させた二宮尊徳が示す「幸福と繁栄を呼び寄せる生き方」とは】

 百術は一誠に如かず。 

 どのような権謀術数を弄そうとも、
 一つの誠を貫くことに
 かなうものはない――

 この言葉の出典は詳らかではないが、
 古来、日本人が
 その精神の根底に等しく有していた
 価値観であったように思われる。

 即ち日本人を日本人たらしめていた
 価値観である。 

 この言葉の典型のように
 生きた先人は多い。

 二宮尊徳(金次郎)は
 その最たる人である。

 尊徳が衰退荒廃した桜町の復興を
 小田原藩主・大久保忠真から
 依頼されたのは文政4(1821)年。

 尊徳は固辞したが、
 忠真の3度にわたる丁重な要請に、
 ついにこれを引き受けた。

 尊徳が妻波子と3歳になる弥太郎を
 連れて桜町に移ったのは
 37歳の時だ。

 この時、
 尊徳は自分の家屋敷、田畑を
 すべて売り払っている。

 背水の陣で一家を挙げての桜町赴任。

 尊徳の覚悟がうかがえる。
 私財を売り払って得た78両は、
 桜町の復興資金に充てている。
 
 桜町は百年の衰退の結果、
 土地は痩せ、人心は荒廃を
 極めていた。
 
 日が昇っても
 雨戸を開けない家が多い。
 無頼、怠惰の風が領内の村を
 覆っていた。
 
 赴任した尊徳は朝4時起床、
 村中を隅々まで巡回することから
 始めた。
 
 領内150戸の家と
 家族の様子や人柄、
 4000石の領地の有様を
 頭に刻みつけるためである。

 この朝4時起床、
 そして夜は12時就寝、
 食事は一飯一汁(時に一菜)の生活は、
 尊徳が70歳で亡くなるまで続いた。

 尊徳が第一に取りかかったのは、
 荒れた神社仏寺の修復だった。

 桜町衰退の最大の因は
 人心の荒廃にあると見て、
 感謝報恩の心を興す拠り所を
 神社仏寺の修復に向けたのである。

 また、屋根や便所などが
 壊れた家もすぐに直した。
 そういう状態では気が滅入り、
 働く意欲が削がれるからである。

 善行者、篤行者の表彰も
 熱心に行った。

 こうした努力は
 人々の勤労意欲を徐々に甦らせ、
 形のある成果になっていった。

 村人は尊徳に信頼を寄せ、
 その教えに従うようになった。
 
 だが、中にはそっぽを向き、
 妨害する者もいた。

 厄介なのは、小田原藩から派遣される
 勤番の武士に、
 尊徳の施策を批判中傷する者が
 いたことである。

 中でも尊徳が桜町に来て
 6年目に赴任してきた豊田正作は、
 反対派の百姓と結託、
 復興をことごとく妨害した。

 文政12年正月、尊徳は江戸に出て
 藩主に新年の挨拶を済ますと
 消息を絶った。

 桜町は大騒ぎとなった。
 八方手を尽くして探すと、
 尊徳は成田山新勝寺で
 21日間の断食修行に
 入っていたのである。

 そして4月6日、満願の日。

 尊徳は

「不動尊とは動かざること尊し」

 と悟りを得、

「たとえ背中に火がついても
 桜町から離れない」

 と不動の決心をし、
 一杯のおかゆをすすって
 20里(80キロ)の道を下駄で
 歩いて桜町まで帰ったという。
 
 以後、反対者は消え、
 復興は急速に進み、
 十年目の天保2(1831)年、
 ついに桜町の再建は成就した。

 悟りを得たあとの道歌がある……