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「親父の成功術!!」 Apex product

【初めは「外見」がモノをいう】

人の心を掌握するーその第一歩は、味方をつくること、援助を受けることです。しかし、人は、タダでは援助してくれません。ここに、「どんな見返りがあるか」というギブ・アンド・テークの法則があります。ただし、ナウ・アンド・ヒア(いま、ここ)だけでなく、未来における約束も加わります。

すなわち、信頼性と「将来性に賭ける」ということです。もし、あなたが、若輩のだれかに借金を頼まれたとき、もちろん、貸せる金には限度があります。そのとき、どのような基準で、「貸せる人」と「貸せない人」とを分け、「いくらなら貸せるか」を計るのでしょう。

親戚だの義理人情などの「しがらみ」を別にすれば、「本当に金を返してくれるか。投資すれば、本当に金を増やしてくれるか」という「信用」をまず第一に考えるはずです。その時、ポイントになるのが、「これから事業を興すための元手を持っているか」でしょう。「元手」とは、つまりタネ銭になるもの、いま、あなたが経営者の側ではなく、まだペイペイであり、しかし、成功を望むのであれば、タネ銭づくりこそが、第一歩でしょう。

あるいは、タネ銭をつくりつつある状態でなくてはなりません。金がなくても、金を貯めよう、儲けようとしているプロセスは、相手の信頼を引きつける力があるのです。倹約に努め、三度の食事を二度にしても、ひたすら金を貯めろ・・というのではありません。もちろん、初めは、堅実に金を蓄える姿勢も必要ですが。

講談社を興した野間清治は、「将来、野心を持つなら、最初の給料で、まずよい背広をつくれ」と、若い者に語っています。背広の次は、家。「安普請ではなく、目で見て、人が信頼するような家を建てなければならない。気張って、よい家を建てろ。そして、その家には、桐の火鉢をおけ」。これは、借金をして、「タネ銭」をつくるノウハウです。

相手を判断するとき、人はまず、身なりや家を見るものです。出資者に信頼されるために、野間は、身分不相応ともいえるほどの立派な身なりをして、立派な家に住めといっています。桐の火鉢というのは唐突ですが、桐は年月がたつほで立派になってくるとかで、そんな高級趣味で、相手を「おや」と思わせろということでしょう。桐の箪笥ではなく、火鉢というところも心憎い。

ホラやハッタリを勧めているわけではありません。しかし、質素な暮らしをして、貯金に励むだけでは、小金を貯めただけで終わります。「蟹は自分の甲羅に似せて、穴を掘る」同じ収入でも、家賃10万の家に住む人間より、20万の家に住む人間のほうが、信頼され、将来性を感じさせます。

風呂にも入らず、着替えもせず、家はボロボロ、そうして「こんなにがんばっているんです」と訴える人に、金を貸したがる人はあまりいません。その人が、「未来のエジソン」だとしても。初めに少々の無理はしても、自分の「ランク」を持ち上げる。そうしていると、不思議なことにお金が吸い寄せられてくるのです。

【初めに「欲望」を持て】

ほとんどの人は、成功したいと思っているし、物質的に豊かになりたいと願っています。そのためには、人の力と人の金を使えなければならない。では、最初に何が必要か。人でしょうか、金でしょうか。あるいは、何かの才能でしょうか。

成功者に必要な資質、それは「欲望」です。すると、あなたはいうでしょう。「もちろん、私にだって欲望はありますよ。いや、欲望だらけなんですから」と。しかし、単に金持ちになりたい、事業がやりたい、社長になりたいというのは、成功につながる「欲望」ではありません。

なじみのスナックで、私がよく会う会社員がいました。彼は、ゴルフの会員権を売る仕事をしています。酒が入ると、彼は必ず、自分の会社の社長を不平たらたら、批判します。「あんなやり方じゃ、よくないよ。経営がなってないんだから」そして、「もしおれに二千万の金があれば、自分で会社を興して、必ず成功してみせる」のだそうです。「そんな考えじゃ、ダメだね。成功なんかするもんか」と、私はいいました。たとえ二千万の金が都合できたところで、彼は必ず会社をつぶす人間だと思ったのです。

まず、彼は「金の力」しか考えていない。二千万の金があれば、人が動くと思っています。彼には、社長の持っている「人を使う器量」がみえていません。「金さえあればなんとかなる」と考えているような人間は、金を持っても、使い方を誤ります。その上、彼には、「どうしても自分でゴルフ会員権売買の会社を興し、なんとしても大発展させなければ」という、ムラムラするような欲望がありません。あとの章でお話しますが、「どうしても成功したい。金持ちになりたい。」という欲望があれば、熱望があれば、不思議なことに、人も金も自然に集まってくるものなのです。

しかし、彼にはそれがありません。「だれか金を与えてくれれば・・」の他力本願で、欲望のエネルギーがわいていない。このような状態では、金をつかんだとしても、彼はそれを握りしめて、歯を食いしばりながら欲望の階段を上っていくようなことはないでしょう。繰り返しますが、成功を望む者にまず必要なのは、「どうしても成功したい。社長になりたい」という欲望です。それが第一段階。金はあとからついてきます。「金があればいいなあ」だけの人は、成功レースのスタートラインにもつけません。

 

【時間・約束を守らないということ】

金次郎の報徳社もそうであったように、「信用」は、あらゆる商売の根幹です。特に、「時間に遅れるな。約束を破るな」は、原理以前の問題です。時間に遅れたり、約束を破ったりすることをさほど「重大事」だと思っていない人は、最初から金を儲けようなどとは考えないことです。

「5分や10分、人を待たせたところで、どうってことはない」などと考えるのは,思い違いもはなはだしい。そもそも、なぜ時間に遅れてはいけないのか。それは、単に「時間にルーズだから、信用を失う」ということではありません。ある経営者は、「時間を守らない」ことで有名な人物でした。会談の約束をしても、いつも15〜20分ほど遅れます。「遅れても仕事はできる」というのです。

私は、彼に「待つ身のつらさを考えたことがあるのか」といったことがあります。「相手はイライラするだけでなく、あなたに軽んじられているという怒りを覚えるだろう。相手は重要な人物だと思えば、遅れないはずだ。時間に遅れるのは、相手をバカにしているという証拠だ。それで、相手から利益をもらえるはずはない。いずれ処罰を受けるだろう」と。

結局、彼は事業に失敗し、家屋敷まで売ってしまうようなハメになりました。また、別のある経営者からは、こんな言葉を聞きました。「取引先のセールスマンなんだけど、もちろん、初めは約束の時間に遅れるようなことはなかったよ。が、つき合いが長くなって、慣れてくると、5分ぐらい遅れるようになってね。そのとき『あっ、こいつ、おれを甘く見るようになってきたな』と感じたね。」「軽んじられている」「甘く見られている」と感じながら、相手を信用し、力を貸そうとする人間はいません。人の機嫌を損ね、好意を失うのは、人の力を失う最大の原因です。

人の力を得ようと思うのなら、人の持っているプライドや自己重要感を押し下げてはいけません。時間に遅れれば、相手のプライドを傷つけます。もちろん、約束を破ることなど、論外です。無意識のうちに人を軽視し、人をバカにする人間は、人の力を得ることはできません。「徳」が「徳」で報われるように、「不徳」もまた「不徳」によって報われます。

人を待たせること、約束を破ることは、悲しい金や不幸の金をもたらすのと同様、人に悩みを与えることです。「申し訳ありません。しかし、遅れたのには訳がありまして」「お約束を守れなかったのは、実はこういうわけでして・・」と、「すみません」をいい続ける経営者、言い訳の多い経営者は、決して大きくはなれません。「私の不徳のいたすところで・・」をいう必要があるような事態にたびたび陥るのは、経営者としての資質に欠けるということです。これをしっかりと肝に銘じてほしいものです。

 

【論で人は動かぬ。利で動く】

金などなくても、人の力だけでなんとかなる。力を合わせれば、どんな大きなことも成し遂げられる。ひとりの力は小さくても、皆が集まれば・・・。何やら募金か選挙運動の宣伝文句のようですが、このように「人の力」を過大に評価し、結局、挫折していく人が多いのではないでしょうか。

昨今の「自然環境保護ブーム」で、「地球にやさしい・・」「・・のリサイクル」といった商品の開発、建築計画、市民運動が盛んです。しかし、どれだけ、素晴らしい計画を立てても、賛同者が集まらなければ、投資してくれる人がいなければ、成功は得られません。「この計画に間違いはないのに、どうしてわかってくれないのか」と嘆く人は、人間がわかっていないのです。「正しいことをしていれば、必ず人はついてくる」ものではないということを。

それで思い起こされるのが、坂本龍馬の逸話です。

龍馬が脱藩してまもなくのころだと思われますが、当時、京都に集まった浪士たちは、連夜、酒を飲んでは、「攘夷」だの「討幕」だのと喧々囂々の議論に明け暮れていました。そんなとき、龍馬だけは、その輪に加わらず、ひとり黙々と酒を飲んでいた。そこである者が、「貴公、なぜ論に加わらぬ」と問うたところ、

龍馬はひと言、論で人は動かぬ。利で動く

人間は、事の善し悪しで動くのではない、損得で動くというのです。ここが、正論をもって人を動かそう、国を動かそうと考えていた浪士たちと、龍馬の違うところです。それだけ「人間」を見通していた龍馬だからこそ、「薩長連合」「大政奉還」という二大事業を成し遂げられたのではないでしょうか。

 

【世の中の常識について】

過去において決まりきった一つの常識、先人によって与えられたものが、絶対ではないことの一つのケースを寓話で紹介します。

野原があった。そこへ一匹の子牛がやってきた。子牛は気まぐれに、くねくね曲がりながらその野原を通って行った。

その翌日、狩人に追われた鹿がやってきた。鹿は子牛の通った、草がねているあとを逃げていった。(緊急の時は、創造しているひまはない。人の通ったあとを通るものだ。)狩人もそこを通って追って行った。草はますますふみつけられ、はっきりと曲がった道ができた。

その次の日は羊が来た。羊は、その曲がりくねっていると不平を言いながら通っていった。

しばらくたって、こんどは旅人が来た。旅人もその曲がった道を通っていった。こうして、草はとれ、土面が顔を出し、曲がりくねった小道が出来上がった。こうなると、村人も、旅人も、馬車も、犬も、そこを通る。

月日は矢のように過ぎ、その曲がりくねった小道は大通りになった。村の家々は、その大通りに沿って曲がりくねって建てられていった。またたくうちに、そこは大都会の中心街になった。

鉄道も敷かれたが、その線路も道に沿って曲がっていった。

何十万人もの人々が、今もなお、三百年も昔に通った、あの子牛に導かれて、くねくね曲がりながら通っていく。

確固たる前例なるものは、こんなにまでも尊ばれるのだ。

解説:つまり何百年もの間大勢の人間が、まっすぐ行けばいいものを、もともとここは曲がっているなどということで曲がった道を通ってきた。どうして曲がったのかと思ってよくよく昔をたずねたら、何の事はない、一匹の子牛がヒョコヒョコいいかげんに歩いたに過ぎたかったと、そういう話です。

引用:「非まじめ」のすすめ(森 政弘)

常識は正しいものとは限らず。現在、常識とされている事柄は、先人の何らかの気まぐれの結果ということもあります。偏見なしに物事を判断する目を養いたいものです。※「非まじめ」のすすめ、非常に面白い内容でした。

 

【人の二倍は働いている人が報われないわけ】

私は、人の二倍は働いているのに、なぜか金とは縁がなくて・・」などと嘆く人がいます。「働き者」や「努力家」が、すべてそれ相応に報われるわけではありません。むしろ、朝はだれよりも早くから、夜はだれよりも遅くまで、一生、額に汗して、働いたとて、せいぜい先祖伝来の田畑を守りきれるか、「うさぎ小屋」の家一軒も残せるかどうか・・というところでしょう。虚しくなります。

しかし、一方に、「成功者」といわれる人たちがいるのも、また事実です。文字どおり「裸一貫でスタートし、トントン拍子で莫大な財産を築き上げ・・」という人を、私は大勢知っています。彼らは、一般に賞賛されるような、「働き者」とは違います。確かに、働き者、努力家でもあったでしょう。しかし、「人の二倍は働いて」も、自分の力、自らの持てるものには、限界があります。

ほとんどの成功者(物質的に成功を遂げた人)は人の力と、人のお金を生かして、富と名声を築き上げたのです。いかに人のふんどしで相撲がとれるか。他人の財力と能力を使いこなす、それだけの器量がなければ、「成功者」とはなれません。

「金の力」と「人の力」、このどちらが欠けても、成功は得られない。金を集める力はあるが、人心を集める魅力がない。逆に、人望は厚いものの、金銭的苦労がつきまとう。これでは、一時的な発展はあっても、最後は、金にも人にも見放されます。「新進気鋭の経営者」「時代の寵児」などとスポットライトを浴びながら、「金の力」と「人の力」のアンバランスから、失敗、失脚していった人たちの名を何人もあげることができるでしょう。

歴史上の人物を思い起こしてください。あとでまたお話しますが、天下をとった豊臣秀吉、徳川家康などは、現代でいえば、経営者として「成功」した人物です。織田信長や石田三成などは、人心をつかみきれずに、志なかばで失脚しています。また、「立派な人物」としてあがめられながら、財を得られずに消えていった無数の人々がいるはずです。人の力と金の力をバランスよく活用してその相互作用ではじめて成功者になれるのです。

【成功をもたらす「報徳」の心】

人に悩みや不幸をもたらせば、自分も悩み、不幸になる。まさに「因果応報」です。逆に、人に喜びや幸福をもたらせば、まわり回って、自分に喜びや幸福が訪れる・・ということになるでしょう。二宮金次郎(尊徳)というと、その業績はほとんど忘れられ、昔はどこの小学校の校庭にもあった、たきぎをしょって、本を読んでという銅像の記憶から、いまや多くの人には、「勤勉な子ども」というイメージしかないようです。が、彼は優れた農民指導者であり、小田原藩再興の立役者であり、今日の信用組合の生みの親でもありました。

その二宮金次郎の思想の根本にあったのは、報徳の心です。それには、こんなエピソードが添えられます。ある日、金次郎は、十分にわいていない風呂に入ってしまいました。上のほうは熱いのだけれど、下のほうは水なのです。しかたなく、熱い湯を身体のほうにかき寄せようとしましたが、指の間からもれてしまって、少しも温まりません。そこで今度は、手前から湯を押し出すようにしてみます。すると、まわり回って、背中のほうから熱い湯がめぐってきたのです。このとき「報徳」の哲学を発見したというわけです。

およそ世の中に喜びを押し出していれば、金もまわり回って、後ろのほうから戻ってくる。そう考えた金次郎は、疲弊した農村を立て直すために、「報徳社」を組織しました。そのシステムはこうです。まず金次郎が金貸しから金を借りる。それを困っている農民に低利で貸しつけ、月賦で返還させる。それをまた資金にして回転させるのですから、一種の「農民信用金庫」といえるでしょう。

この報徳社は、だれに金を貸すかという決め方もまたユニークで、「いちばんまじめに働いているのに、いちばん金に困っているのはだれか」をメンバーに投票させ、その票の多かった者を選ぶのです。そして、その票を入れた者は、その人物の保証人となる。つまり、金を借りたい者は、まじめに働いて信用を得ねばならないし、借りた者は、仲間の信用を裏切らないように、また必死に働く。これで荒廃した農村にも活気が戻ったのです。

世の人々に悩みを与えれば、必ず、悩みはなんらかの形で自分に返ってくるし、喜びを与えれば、喜びが帰ってくる。金の流通過程において、人に悩みを与えると、どこで報復を受けるかもしれません。とんでもない大病にかかるかもしれない。会社そのものが傾くかもしれない。脱税その他で投獄されるかもしれない・・。

それは、以前において、「苦しいお金、悲しいお金」を取り扱っていたからです。「報徳」とは、こういうことです。「ぜひとも、買って喜び、売って喜ぶような商売をやっていかなくてはいけない」と、金次郎はいっています。「借りてしまえば、売ってしまえば、こっちのもの」では、必ず処罰を受けるでしょう。自分がそのタネをまいているのですから。

【欲している人のところに集まる「おもしろい金」】

悲しい金、楽しい金があるならば、「おもしろい金」というのも、あるのでしょうか。実際、「おもしろいように金が儲かる」などということはあるでしょう。「人間のインサイドにおける思考(考えていること)とアウトサイドにおける物質とは、本来同じものである」という考え方があります。

精神世界にも、物理法則は働きます。深層意識の奥に押し込んだものは、アウトサイドに押し返される。よいイメージを思い描いて、しきりに願うなら、そのイメージは深層意識に育てられ、いずれ外に出て、欲していたものを得ることになります。悪いイメージを思い描き、しきりに恐れるなら、それも実現してしまうでしょう。

前の章で、「初めに欲望を持て」とお話ししたように、「どうしても金が欲しい。成功したい。いい女をモノにしたい」と願い、「金持ちになった自分、成功した自分、いい女を手に入れた自分」をイメージしている人は、それが実現します。逆に、いつもいつも「この財産を失ったらどうしよう」「いつかはひどい目にあうのではないか」と恐れている人には、その不幸が訪れます。

インサイドに押し込んだことはアウトサイドに出て、アウトサイドに出したものはインサイドに押し返される。反動の法則です。自分はリッチだ、リッチになれると思っている人には、なぜかおもしろいように金が集まるものです。これが、「おもしろい金」といえるかもしれません。

たとえば、百人の人間の集団に百万円の金を投げ込めば、それぞれが一万円ずつ手にする勘定です。しかし、実際にはそうはならずに、「自分のモノになる」と思っている人間だけが手に入れます。これは、「善人」「悪人」には関係ありません。「自分には金が入る」という想念が、金をもたらすのです。潜在意識には、願いや夢をかなえる力がある、この潜在意識のことを、仏教では「アラヤ(阿頼耶)識」といいます。

自分は金持ちになれる、金を得るに値する人間だと思っていれば、あらや識に富の保有想念、保有力が蓄えられ、金銭的な成功に一歩近づくものなのです。「濡れ手で粟」という言葉がありますが、せっかく粟をつかんだところで、その手が十分に濡れていなければ、粟はまた、すぐボロボロとこぼれ落ちてしまうでしょう。富の保有想念がない人、もともと「金がほしい」と念じていなかった人は、たとえ粟の山をつかむチャンスに恵まれたとしても、乾いた手を出すしかありません。

宝くじで一千万円を当てた中学生がいました。少年は、有頂天になって、まず、母親に200万の「こずかい」を渡したそうです。そして半年後には、彼には100万の借金ができていました。中学生には衣食住の心配がなく、飢えに対する恐怖感がなく、富の保有観念がなかったのです。「悪銭身につかず」、たまたま競馬で儲けても、それで商売を始めて成功した人はいないでしょう。

【無形の財産が物質的な財産を生む】

「生きていたい、飢えたくない」という生存本能を満たしてやる方法は、ひとつです。それは金を与えること、あるいは、金に代わるもの、場合によっては食べものを与えること。あなたが経営者であれば従業員には遅滞なく十分な給料を支払い、取引はスムーズに行なう。つまり「楽しい金」を扱えばいいのです。悲しい金は、相手の生存本能を脅かします。

そして、あなたにはどんな見返りがあるでしょう。楽しい金を扱っていれば、従業員はあなたを慕い、取引先はあなたとあなたの会社を信頼します。あなたは、相手の生存本能を満たすことによって、自分の群居衝動や自己重要感 を高めることができるのです。どこでも、気前よく金をばらまけば、人は寄ってきます。酒場でもデパートでもホテルでも、「金ばなれのいい上客」になれば、扱いが変わるというものです。あなたの自己重要感は満たされます。

金という物質的な財産を与えることによって、あなたは無形の財産を得ました。しかし、あなたが相手に与えられる物質的な財産には限度があります。金で女の、あるいは男の歓心を買っていても、「金の切れ目が縁の切れ目」になるように。つまり、金を与えることによって相手が満たされたのは、生存本能だけなのです。

しかし、金がなくても、相手の群居衝動や自己重要感 、性欲、好奇心を満たすことはできます。そして、この四つの、いわば無形の財産には限度がありません。これを交換条件にして、金を得ることができるでしょう。そして、この四つの欲求も、世の中には無限に存在しています。風呂桶の中の水のように、押し出したものは、いずれ返ってくる。無限の財産を与え続けることによって、金や人の力は無限に集まってくるはずです。

【なぜ外に救いを求めるのか?】

チルチル、ミチルの話は、誰もが知っている有名な童話です。幸福の青い鳥を求めて、さんざん各地を探して歩きましたが見つかりません。とうとう諦めて、家に帰ると、なんとその青い鳥は、自分の家に居たのです。これに類した寓話は、世界各地にあります。幸福は他人に求めるものではなく、それは自分の内にすでにある、という教えです。にもかかわらず、多くの人々は、この教えを生かせないでいるのです。

これはまた、宗教的な救いに関しても、同様なことが言えます。悩みからの脱却と、心の救いを求めて、多くの人が新興宗教の教団に入信し、大きな社会問題に巻き込まれております。これは、、依頼すべき他者を求めて、さまよい歩いている姿です。なぜ、人は、自分の内に、救いの主を見いださないのでしょうか?なぜ、「救いの主は他人の教祖である」と信じ、それに全面依存しようと願うのでしょうか?

数千年の昔、すでに、釈迦は、自分の中に、神性たるそれを見いだし、それを仏陀(ほとけ)と称しました。すなわち、それが「悟り」です。私たちは、誰でも、釈迦のように、自分の中に神性を見いだし、その神性をもって、自分の救い主とすることが出来るのです。これは、言ってみれば、我々は、一人一人が自分の教祖になり、自分を救い導くということになります。

【完全主義と清濁のバランス】

古い友人たち数人が、都心で会合した時の話です。そこは日本料理屋だったのですが、友人の一人が、酒は飲むのですが、料理にはほとんど手をつけないのです。ただ、お新香程度のものしか食べていない。

聞けば、彼は玄米菜食主義者で、彼の家族全員が毎日、玄米食であり、子供も学校では給食をとらず、家から玄米菜食と野菜だけの弁当を持っていくという徹底ぶりです。その料亭で、彼はこう言ったのです。「外食はしないようにしているんだ」その理由というのが、ふるっているのです。「外で旨いものを食っちゃうと、玄米菜食がまずくて、食えなくなっちゃうんだ」と言うのです。だから、我慢して、外では食わないでいる、というわけです。

友人たちは驚きましたが、そこは昔からの悪友のこと、「いいじゃないか、今日一日だけのことだ。明日から、それをまた始めればいいだろう」と、よってたかって勧めて、とうとう彼は、マグロの刺身を食べてしまったのです。一時間ほどした時、彼の顔を見て、友人の一人がびっくりしたように叫びました。「あれっ、あんたの顔、まっかにふくれているよ!」

彼の顔いっぱいにジンマシンが吹き出ていたのです。これは大変とばかり、彼はその場からすぐ医者に行ったのですが、治るまで五日間もかかったとのことです。もちろん、この時に、このマグロを食べて、体の具合が悪くなった者は一人もいませんでした。マグロに罪はなく、ただ、彼の免疫力が低下していたに過ぎないのです。

古語に「水清ければ魚棲まず」とあります。これは、人の人格性について語られた警句ですが、これはまた、他の自然界の法則にも案外あてはまるのです。すなわち、自然環境でも人間環境でも、「清濁」があまり極端になるのは、好ましいこととは言えないのです。

そこで望ましいのは、「清濁のバランス」がとれていることです。そのためには貴方は、ある環境から遠ざからねばならない時もありましょうし、また、貴方自身で、その環境を作り変えなければならないこともありましょう。

いずれにしても、貴方は自分自身で、貴方自身の環境を選択し、また、築いていかなければなりません。ということは、「他の人の教え」に、唯々諾々として従っていてばかりは駄目だということなのです。それが、どんなに高邁な教えであろうとも、です。要は、貴方は貴方の人生の主人公だということです。

【努力しただけでは願いは叶わないわけ】

今、あなたの周囲を見回してごらんなさい。このような人々がいませんか?あるいは、あなた自身がそのような人の一人ではないでしょうか?「いつもまじめに一所懸命働いているのに、さっぱりうだつが上がらない人」「他人からいい人といわれ、自分でも親切だと思っているのに、いつまでたっても貧乏な人」「常に神仏をあがめ、信心深いのに、なかなか病気が治らないという人」「有名大学を卒業して、自分でも頭が良いと信じているのになぜか出世をしない人」「美人なのに男性運が悪く、縁遠い人」「人に好かれる明るい性格なのだが、やることなすことうまく行かず、お金に困ってばかりいるという人」ここにあげたいくつかの例は、日常、世間でよく見聞きすることです。

ところで、あなたは子供の頃、両親や周囲の大人たちから、次のような教訓めいたことをいわれませんでしたか?曰く「努力する者はいつか必ず報われる」「心正しく生きれば、きっと運は拓けてくる」など・・。

ところが、その通りに生きてきたのに一向に思う通りにならない。この世の中には、いかに不合理なことが多いことか。そこで、その不合理さに気づいた人々のなかには、こんなことをいう人もいました。「正直者はバカを見る」「悪い奴ほどよく眠る」そして、「善人は若死にする」などと。なぜ、このような不合理な現象が起こるのでしょうか?それに対する答えはいくつかありますが、私はその最大の原因は貴方自身の中にあると私は言いたいのです。

しかし、もしあなたが、「私はお金は欲しくない」「私は異性にもてたくない」「私は昇進したくない」「私は健康でいたくない」と、このように思っていらっしゃるのでしたら、これは話が別になります。私がこれからお話する内容は、このような考え方をしている人々には不要のものです。

また、よく世のとりすました宗教家や道徳を唱える人格者たちが、老人のような声音で、「欲を捨てよ」とか、「無に徹せよ」とか説いています。そんな言葉に耳を貸してしまう人もこれを読む必要はありません。その反対に、あなたが「私はお金が欲しい」「私は異性に対して魅力的でありたい」「私は成功したい」「私は健康でありたい」と願っているのでしたら、ぜひこれをじっくり読んでいただきたい。なぜなら、これは「多くの人々は、何かを望みながらなぜそれが得られないのか?」という疑問の解明と、「どうしたら望みのものを手に入れて行くことができるか?」という方法についてのノウハウが、解り易く説かれているからです。

【一休和尚の遺言】

一休さんの説話の一つに、遺言の話があります。一休さんは亡くなるときに一通の封書を寺の弟子たちに残しました。 「この先、ほんとうに困ることがあったら、これを開けなさい」と言い遺しました。

何年かたって、寺に大変な難問題が持ち上り、どうしようもないので、弟子たちが集まって、その封書を開いてみると、そこには「しんぱいするな、なんとかなる」と書いてありました。とたんに弟子たち一同、大笑いの内に落ちつきと勇気と明るさを取戻し、難しい問題を解決できた、という話です。

緊張しすぎや、不安感や、心配で心の中がいっぱいの状態では、良い答も行動する勇気も湧いていきません。「大丈夫、しんぱいするな、なんとかなる」という、楽観主義に支えられた積極性を心に常駐させる工夫が、成功、健康、富、愛情などを手にする黄金のカギであるのはまちがいないようです。

小坊主の一休さんは大人たちが次々と突きつけてくる難問を、少しも騒がず抜群の集中力とトンチですーっと切り抜けます。彼は今から約600年前に生まれ、88歳という当時としては、けた外れの長生きをしました。

さすがの一休も、「平常心でいられない」、「楽しめない」、「ばく然とした不安がある」、「焦りを感じる」、「なんとなく無気力で元気がない」等々、人生の苦しみ、悩みにさいなまれた時期がありました。けれども『不思善悪(ふしぜんなく)』、もの事の善し悪しに、あまり厳しくこだわり過ぎない、ありのままをありのままに見てしまう、常に気を楽にするという事を悟ったようです。

気分を楽にすると、必ず同時に元気が湧いて来ます。気分を楽にすると、勇気が湧いてきます。積極心が湧いて来ます。不安やしんぱいや、焦りの中では決して生れない知恵や創造力が気分を楽にした時に湧き出て来ます。難問が難問に見えなくなります。しんぱいをやめたとたんに健康がもたらされます。その後の一休和尚はリラックスした心で、楽々とした気分で、やっかいな問題を料理し、自由自在な行動や、とんちを終生、発揮し続けたと言われます。

【一休と良寛の悟り】

良寛禅師と一休禅師。偉大な二人は、まったく生き方が違う。良寛は人里離れた野の果てに一人無欲にひっそり暮らし、一休はといえば酒場や女郎宿に入り浸り、放蕩無頼な暮らしぶり。ところがこの二人、ある点ではまったく共通していたという。

それは二人が「他人の自分に対する思惑」についてまるで考慮していないということ。つまり「周りの人から立派な人物であると尊敬されたい」という自己重要感ともいうべき人間の最も大きな欲望からまったく開放されていたのである。彼らには「極めて楽に生きている」という共通した悟りがあったのだ。

ものぐさ和尚の秘訣

  • 昨日のことは過ぎたこと、明日のことはわしゃ知らん
    極楽往生どうでもいいし、精進功徳わしゃ要らん
    腹がへったら飯を食い、眠くなったら寝るだけさ
    こんな楽しみあることを、わかる奴にはわかるけど
    おそらくお前にゃわかるまい

無能唱元の過ちに乾杯!

  • 私には失敗する自由がある
    間違いをおかす権利があるのだ 
    人に後ろ指さされることを恐れることなく
    これからも繰り返すであろう数々の私の過ちに乾杯!
  • 【浮浪者から実業家に】

    1929年に始まるアメリカの大恐慌時代、いくつもの銀行がつぶれました。そのなかのひとつの銀行の頭取は、世をはかなんで蒸発してしまいました。頭取から一転し、浮浪者となって、公園にたむろする身となったのです。「乞食は三日やったらやめられない」といいますが、彼は「二度とあくせく競争するのは嫌だ」と、ブラブラ暮らしていました。この自由な生活に、真の安らぎをおぼえたのでしょう。

    ある雨の日のこと、ひとりのルンペンが、彼に「どこか雨露をしのいで寝られるところはないか」と尋ねてきました。ガードの下か廃屋か、とにかく彼がその場所を教えると、ルンペンは彼の手のひらに五セント玉をおいたのです。そのとき、彼の身体のなかに、事業家の血が再び流れはじめました。

    雨をしのげる場所を教えたら、五セントもらえる

    いくら浮浪者でも、お金は必要です。自分は何ヶ所、そんな場所を知っているか・・。彼はノートを出して、知っている場所を書き出しました。しばらくすると、公園にたむろしている連中の間に、「寝るのに困ったら、彼のところに行けばいい場所を教えてもらえるよ。ただし、五セント必要だがね」という評判が立ちました。

    おかげで、彼は金を稼いだだけでなく、いろいろな人に会うことになって、さまざまな情報を持つようになったのです。そして、この情報も売る。「ケンタッキーから来た、ジョンってやつを知ってるか」と聞かれたら、「そいつだったら、セントラルパークの西のほうにいるよ」という「情報産業」を始めたのです。一年後、彼は公園の近くに店を出し、不動産屋を始めました。十年後、彼の会社は以前の銀行より大きくなっていたそうです。

    保有力がある人は、たとえ一敗地にまみれても、そのままでは終わりません。だれでもひとつやふたつ、「雨露をしのいで寝られる場所」は知っていたはずです。しかし、知識や情報の力を商売にしようとする人間はほかにいませんでした。「情報を金に変える」というインスピレーションは、右脳からわき出てくるものです。富の保有力のない人には、このようなインスピレーションはわき出ません。

    アラヤ識論によれば、日常的にそれを願っている人に、「富の保有力」が深層意識に蓄えられます。彼のように、一度は金持ちになった人、あるいは、もともとの金持ちで、「富の保有力」のある親に育てられた人のほうが、「金を得る」ということに関しては、有利です。生まれながらの金持ちは、ますます金持ちになり、貧しい者は、ますます貧しくなる・・。しかし、金持ちには、社会的な制裁もあり、相続税に押しつぶされたり、金に対する欲望が希薄なために、没落したりする危険もありますが。

  • 【自己重要感】

    ある雨の日、背中を丸めたおばあさんが、杖をつきながら、ひとりでワンマンバスに乗ってきました。二〜三段のステップを上がるのに、けっこうな時間がかかります。やっと運転席のところまで上がってきて、ふところの「何か」をチラリと運転席に見せ、そうしてまたヨロヨロと歩き出そうとしたとき、運転手がマイクを通して叫んだのです。「そんなんじゃ、見えねえよ!」。どうやら、おばあさんが見せたのは、都が支給する無料バスで、運転手はそれが確認できなかったということのようです。

    おばあさんが、すまなそうに何度もお辞儀をしながら、もう一度ふところからパスを出すと、運転手の「ああ」というぞんざいな声が聞こえました。そして、「待ちきれない」とでもいうふうに、おばあさんが座席に着く前に発進したのです。いかにも、「タダで乗せてやってるのに」という態度、口ぶりで、当のおばあさんだけでなく、乗り合わせていた人は皆不快な思いをしたでしょう。「タダで乗せてもらう」おばあさんは、運転手に抵抗することができません。しかし、「タダで乗せてやる」のは、この運転手の力ではないはずです。なぜ、こんな尊大な態度をとってしまうのか。

    うっとうしい雨の日に、うっとうしい年寄りの客。運転手のイライラは高まっていました。職場か家庭で、何か嫌なことでもあったのかもしれません。とにかく、このとき、「どうしておれはこんな仕事をしなきゃならないのか」と思っていたことは確かです。つまり、自分の自己重要感 が満たされていない。「こんな仕事をさせやがって」という被害者意識や「こんな仕事をしなきゃならないなんて、情けない」と、劣等感にさいなまれているのではないでしょうか。

    劣等感や被害者意識を持っていると、たいていの人は、無意識に、相手の自己重要感を傷つけて、自分の自己重要感 を高めようとするようです。役所に何か手続きをとりに行って、横柄な役人の態度に閉口した、という経験を持つ人は多いでしょう。また、販売や営業、旅行の添乗などに携わっている人は、毎日のように、非常識で傲慢な客にウンザリさせられているはずです。

    「自己重要感を高める」のが人間の本能のひとつだとすれば、その自己重要感が満たされていない人は、自分のポストと相手のポストの力関係を利用して、自分の優位性を保とうとやっきになります。相手の 自己重要感 を高めるどころか、相手に助けを求めてしまうのです。相手の自己重要感を高めるには、まず、自分の自己重要感 を満たしておかねばなりません。自分に財産がなければ、相手に分け与えることはできないのです。

  • 【ひと声で相手を感激させる人】

    なかには、限りなく生存本能の充足のみを求める人もいるようです。金を貯めても貯めても、なお金を貯めたがる人、たとえば「死後に枕もとから二億円」の先生などは、「人に好かれたい」という群居衝動や自己重要感 、性欲などはいっさい求めず、ひたすら生存本能のみに生きていたように見えます。金を貯めれば貯めるほど、ますます貧乏や飢えへの恐怖がつのっていったのかもしれません。恐怖に支配されていただけで、「人生の成功」を望んでいたわけではないようです。しかし、たいていの人は「金」だけでなく、「成功」を望みます。「金がほしい、金持ちになりたい」のは、地位や名誉、称賛、尊敬を手に入れたいからなのです。それは、より群居衝動や自己重要感 、性欲、好奇心を満たしたいという欲求からでしょう。あなたが望むものは、相手も望んでいるはずです。しかし、ほとんどの人は、自分が望むばかりで、相手に与えることができません。ほんのひと握りの人だけが、相手の欲求を満たす術を心得、成功者となるのです。

    特に、「いかに相手の自己重要感を高めるか」これがカギとなるでしょう。この 自己重要感 は、群居衝動と密接な関係にあります。「お互いに、自分が相手より少し優れていると思っているかぎり、友情が続く」とはバルザックの言葉ですが、だれでも仲間はほしい。もちろん、それはあくまでも、「自分を認めてくれる」仲間です。また、自分が「重要な人物である」と認めている相手から、自分が認められれば、自分の群居衝動も 自己重要感も満たされます。

    豊臣秀吉は、天下をとってからも、軽輩に「よお、元気でやってるか?」などと、気軽に声をかけることがあったそうです。声をかけられたほうは、「自分のような者も気にかけてくださっているのか」と感激し、いっそう忠義を尽くすようになるでしょう。私の知っている成功者たちにも、「気さくで腰が低い」という共通点があります。そして、「私がこうしてやっていけるのも、あなたのおかげです」などと口にします。大実業家や大政治家に、「あなたのおかげ」といわれて、感激しない人はいません。「この人のために、もっと力を尽くさなければ」と思います。一円の金もかけず、ただ相手の群居衝動や自己重要感を高めるだけで、人の力を得られるのです。

    逆に、自己重要感 を傷つけられると、人は相手を憎み、嫌います。「時間に遅れるな、約束を破るな」というのは、相手の自己重要感を傷つけないための最低のルールです。自己重要感 を傷つけられた相手は、あなたから離れていくでしょう。あなたの群居衝動も傷つけられます。もっとも、秀吉にしても私の知人にしても、すでに「成功者」の地位にあるから、ひと声かけるだけで、簡単に相手の群居衝動や自己重要感 を高めることができるのだ・・・ともいえます。その地位が、大いにモノをいっているわけです。では、特に地位もない人が、十分に相手の群居衝動を満たし、 自己重要感を高めてやるには、どうすればいいでしょう。

  • 【称賛に値する人間になる方法】

    劣等感や被害者意識などまったくない、という人がいるでしょうか。「大企業に勤めている」「有名な大学を出た」などということを再三再四、口にするのは、むしろ劣等感の裏返しにほかなりません。ほかに誇れるものがないから、肩書や学歴にすがっているのです。家柄や職業、財産などで人を差別しようとする人も同様に、人を不当におとしめなければ自分の優位性が保てないほど、劣等感と被害者意識が強いのです。

    自分の自己重要感 を満たすには、肩書その他には頼らずに、真に「自分は称賛に値する優れた人間である」と思わなければなりません。ただし、それはあくまでも、ひそかに、自分の中だけで、うぬぼれていること。もちろん、「称賛に値する」だけの才能や実力があり、それを存分に発揮できれば、それに越したことはありません。しかし、そのような人は、すでに「成功者」となっているはずです。

    それだけの才能や実力がないと考えるなら、人に喜びを与える人間、人の役に立つ人間になること。ボランティア活動でも寄付でも市民運動でも、他人の幸せのために汗を流すのです。「自分は人の役に立っている。世の中のためになっている」という思いは、自分の自己重要感 を高めることになるでしょう。むろん、それを人に自慢したり、語ったりしていては、何にもなりませんが。少なくとも、いままで自分のことばかり考えていた人が、「どうすれば、世のため人のためになる人間になれるか」を考えはじめただけでも、自分の劣等感や被害者意識から解き放たれます。

    「称賛に値する」人間になる方法は、もうひとつあります。それは、自己暗示をかけることです。出来の悪い子どもでも、「お前は、本当は頭のいい子なんだよ」とほめていれば、成績が上がっていくものです。「あなたはキレイだ」といわれていれば、どんな女性でも、次第に磨かれていくように。

    呼吸を整え、肩の力を抜き、心の中で、「私は優れた人間である」といった言葉を、ゆっくり呪文のように、三回以上唱えます。いつ、どこでやってもいいでしょう。自慢話を聞かされたり、けなされたり、傲慢な態度をとられたりと、だれかに自分の自己重要感 を傷つけられているときも、これは有効です。相手をボーッと見ながら、静かに呼吸を整え、心の中でゆっくり、「私は優れた人間である」と三回。すると、あなたの 自己重要感は満たされ、相手が何をいおうと気にならなくなるはずです。

    それどころか、あなたは相手に、「気の毒に・・。劣等感や被害者意識の強いやつなんだ」と哀れみの感情さえ抱くようになるでしょう。こうなれば、あなたは相手の言葉や態度を静かに受け止め、相手の自己重要感を高めてやることさえできるのです。こうして、常に相手の 自己重要感を高めていれば、あなたは真に「称賛に値する人間」となり、あなたの周りに人が集まります。あなたと、あなたを取り巻く人々の群居衝動も満たされます。

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コメント: 1
  • #1

    通りすがりの名無し (月曜日, 14 11月 2022 11:01)

    加齢なる親父さん 最高や