【世界平和】人類はみんな家族!!Apex product ⑮

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2023年師走は 千葉県飯岡海岸から 
天才漫画家ちばてつや先生の憲法9条総力特集!
満州から引き上げてきた 貧しい、ちばてつや少年は
太陽の昇る素敵な漁村 旭市飯岡海岸に疎開移住して トニーズランド飯岡の近くの飯岡小学校に入学した!
トニー志茂も 世田谷から飯岡海岸に移住して 真っ先に 尊敬する反戦漫画家ちばてつや先生の
飯岡小学校を訪問したよ
日本で最も美しい田舎 旭市飯岡海岸は ちばてつや少年の美しい平和感性を育んだ!
飯岡海岸に移住した健気な少女ユカ!の少女漫画を構想し 紫電改のタカの特攻隊から憲法9条に目覚める帝國軍人の物語! そして飯岡海岸の不良が東京下町どや街に放浪して世界チャンピオン🥊になる漫画の構想をした
戦争の悲惨さの中でも 「あしたのために」日本人はどう生きるか? を考えた
現在戦後75年 ちばてつや構想漫画「戦争めし」では 戦争の食糧事情や 千葉県旭市の素晴らしい食糧自給率や飯岡海岸のグルメめしを ユーモア交えて伝えている😋 
こんな平和でグルメな街は 世界でも稀である
飯岡海岸のユカは叫ぶ こんな平和な戦後がずっと続きますように!
俺は鉄平は叫ぶ! 
憲法9条はオレたちの宝!と
現在 世界は大戦が始まり 日本も軍事増税👓️首相や 裏金パーティー保守政権は 憲法9条を改定しようと躍起である
この年末年始は あしたのためにその1 
ちばてつや先生の命をかけて平和を問う!
「おかげさまの大切さ」をYouTube配信!
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佳子内親王
(1994年12月29日-)
皇族。
身位は内親王。
敬称は殿下。
お印はゆうな。
勲等は宝冠大綬章。
秋篠宮文仁親王と同妃紀子の第2女子。
明仁(第125代天皇・上皇)の孫。
徳仁(第126代天皇・今上天皇)の傍系(姪)。
姉に小室眞子(眞子内親王)、弟に悠仁親王。
2021年(令和3年)現在、内親王としては最年長。
2014年(平成26年)12月に成年皇族となり、
宮中行事に参列するほか、公務に携わっています。
少年の主張全国大会や全国高校生手話パフォーマンス甲子園、全日本高等学校馬術競技大会などの出席が恒例となっており、
外国公式訪問を経験するなど、公務の幅を広げています。
(佳子内親王)

1960年安保反対闘争

自衛隊の皆様は素晴らしい!
自主的に人命救助、災害復旧が円滑に行われております!
「陸自部隊が石川県の珠洲、輪島で人命救助 自衛隊航空機20機が情報収集、9500人待機。」
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高松宮宣仁親王
(1905年1月3日-1987年2月3日)
皇族、海軍軍人。
有栖川宮の祭祀を継承。
御称号は光宮。
身位は親王。
お印は若梅。
栄典は大勲位功四級。
大正天皇と貞明皇后の第三皇子。
皇長兄に昭和天皇、
皇次兄に秩父宮雍仁親王、
皇弟に三笠宮崇仁親王。
第125代天皇明仁は甥、
第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥。
妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。
当時の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第3皇男子として青山東宮御所で誕生。
幼称(御称号)を光宮。
高松宮は四親王家の一つ、
有栖川宮の旧宮号ですが、
宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承。
1923年(大正12年)、
有栖川宮最後の皇族となった威仁親王妃慰子の薨後1年祭をもって同宮が絶家すると、
その祭祀、および邸宅などの財産は正式に高松宮に引き継がれました。
1920年(大正9年)4月、
学習院中等科三年退学、海軍兵学校予科入学。
1921年(大正10年)8月24日、
海軍兵学校本科に編入(52期、同期に源田実海軍大佐 等)。
1924年(大正13年)7月24日、
海軍兵学校卒業、
少尉候補生となりましたが9月に赤痢のために、
候補生遠洋航海は断念。
1925年(大正14年)1月3日、成年を迎え、
同日付で貴族院皇族議員に就任。
1月13日に成年式が執り行われ、
8月には、
長兄摂政宮皇太子裕仁親王の樺太行啓に同行。
同年12月1日、海軍少尉に任官。
1927年(昭和2年)12月1日付で海軍中尉に昇任。
1930年(昭和5年)2月4日、
自身が祭祀を継承している有栖川宮威仁親王や徳川慶喜の孫にあたる徳川喜久子と結婚。
「公武合体」と話題を呼びました。
同年、
兄・昭和天皇の名代として妻・喜久子と14か月にわたって欧米を周遊訪問し、
5月27日には米カリフォルニア州・サンフランシスコに立ち寄って日系移民たちの前でスピーチを行いました。
1932年(昭和7年)11月29日、 
海軍砲術学校高等科を卒業し、巡洋艦「高雄」、戦艦「扶桑」の分隊長。
1933年(昭和8年)11月から約1年間、
広島県呉市新宮町で暮らしました(邸の名前は俊山荘)。
当時は、昭和天皇にまだ皇子が無く、
男児の誕生が強く望まれていました。
また、
義母徳川實枝子(有栖川宮威仁親王第2女子:實枝子女王、喜久子妃の実母)が癌に倒れ、
1933年(昭和8)4月25日に逝去。
同年12月23日に、
昭和天皇の第5子、第1皇男子として継宮明仁親王(のち第125代天皇、上皇)が誕生した際には、
「重荷のおりた様なうれしさ」と日記に記し、
「おのつから 涙わきけり うれしさは 日つきの御子の うまれましたる 」
をはじめ、複数の和歌を詠みました。
結果的に、
長兄・昭和天皇(7人:2男5女)、
弟・三笠宮崇仁親王(5人:3男2女)と違い、
宣仁親王は次兄・秩父宮雍仁親王同様に子女は無く、
夫妻の血筋は遺されていません。
1934年(昭和9年)11月10日、
海軍大学校に入校(甲種学生34期、同期に大井篤 海軍大佐 等)、
1935年(昭和10年)11月15日付で、
海軍少佐に昇任。
1936年(昭和11年)11月26日、海軍大学校卒業、
同年12月1日に軍令部出仕兼部員に補され、
第二部(軍備)、第三部(情報)、第四部(通信)などを歴任。
1940年(昭和15年)4月29日、
支那事変従軍記章と功四級金鵄勲章を受け、
同年7月3日、戦艦「比叡」砲術長、
11月15日に海軍中佐に進級。
1940年(昭和15年)11月10日に、
内閣主催で、
昭和天皇・香淳皇后臨御の下に宮城外苑にて挙行された
「紀元二千六百年式典」の翌11月11日に同会場で行われた奉祝会で、
その総裁であった兄・秩父宮雍仁親王が病気により欠席したため、
その代理を務め、
同奉祝会で長兄・昭和天皇への奉祝詞奏上、自身による聖寿万歳三唱などを行いました。
1941年(昭和16年)4月5日、
横須賀海軍航空隊教官に補され、
同年11月15日付で、海軍中佐に昇任。
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の11月20日、
軍令部部員と大本営海軍参謀を務めました。
1942年(昭和17年)11月1日、海軍大佐に昇級。
満州国にも派遣。
宣仁親王は1944年(昭和19年)夏ごろには、
政府の方針に異を唱える言動を繰り返しており、
「絶対国防圏が破られた以上、大東亜共栄圏建設の理想を捨て、如何にしてより良く負けるかを模索すべきだ」
「一億玉砕など事実上不可能。新聞などは玉砕精神ばかり論じていて間違っている」と主張。
宣仁親王は昭和天皇と直接話す機会が徐々に少なくなっています。
1945年(昭和20年)4月9日、
戦局の悪化を受けて、宣仁親王は民心一新の為、
兄・昭和天皇の名代として伊勢神宮を参拝。
大戦末期にはフィリピンに向かう大西瀧治郎海軍中将に対して
「戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しい」と伝えました。
1945年(昭和20年)8月15日、
玉音放送において兄・昭和天皇が読み上げた「終戦の詔書」について、
「天皇が国民にわびることばはないね」と天皇の責任(昭和天皇の戦争責任論)について指摘。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、実質的にはほとんど米軍)が進駐する間際には
東久邇宮稔彦王首相宮(史上唯一の皇族首相かつ任期が54日間と史上最短の首相)の命を受けて
寺岡謹平海軍中将や第三航空艦隊参謀長・山澄忠三郎海軍大佐と共に、
厚木海軍飛行場において徹底抗戦を主張する第三〇二海軍航空隊に対し、武装解除の説得に赴きました。
終戦時に軍令部第一部長・富岡定俊少将の構想で、
有事の際に皇統を守ることを目的とした皇統護持作戦に協力。
邸宅の本館を光輪閣と改称し、
ウィロビー、ホイットニーなどの占領軍(GHQ)関係者を招いて昭和天皇の勅旨を伝えるなどし、
終戦直後の不安定な状況下の天皇制の維持にも努めました。
1946年(昭和21年)5月23日、
貴族院議員を辞職。
終戦直前の1945年(昭和20年)7月21日から日本赤十字社の総裁を務めていましたが、
GHQによる公職追放の影響で、
1948年(昭和23年)7月31日に退きました。
1951年(昭和26年)10月頃に高松宮は、
野村吉三郎元大将を通じて旧海軍関係者に対して、
『講和条約発効後、皇室保持と「再軍備精神を喚起する」ために昭和天皇は譲位し、新たな天皇が再軍備後の新「国軍」を指揮する』という命令を伝えていたとされます。
1953年(昭和28年)に兄の秩父宮雍仁親王が肺結核で危篤となった際、
長兄・昭和天皇は弟宮の最期に一目会うことを願いましたが叶わず、
これを天皇は大変悔やんだとされ、
1986年(昭和61年)に宣仁親王が末期の肺癌に侵されたときは、
昭和天皇は3度にわたって親ら親王のもとへ渡御し、見舞っています。
宣仁親王自身には、病名は「老人性結核」と伝えられていました。
天皇が弟宮を見舞った最後は、
1987年(昭和62年)2月3日、
宣仁親王薨去の当日で、
須崎御用邸での静養を中止してのこと。
昭和天皇が病室に着御した時すでに親王の意識はありませんでしたが、
宣仁親王妃喜久子の願いもあり、天皇は手を握りました。
昭和天皇と今生の別れを行った約1時間後の13時10分、
宣仁親王は肺癌のため東京・広尾の日本赤十字社医療センターで薨去。
享年82。
(高松宮宣仁親王)
知覧特攻平和会館には、数多くの遺書や手紙が残されています。 
特攻隊の教官だった年配者の一人は、教え子が続々と出撃していく中で「必ずオレも後に続く!」と約束を繰り返していました。
しかし、重要な職務を持ち妻と子二人の家族を持つ隊長には出撃命令は出されませんでした。
何度嘆願書を出してもだめです。
 逆に妻は夫に死なないで欲しいと何度も説得を繰り返しました。
しかし、夫の決意があまりにも固いことを悟った妻は、「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」と遺書を残し、3才と1才の女の子を連れて入水自殺してしまいました。
引き上げられた妻子の遺体のそばで号泣した教官は再度血書嘆願を出しやっと出撃を認められたのです。
教官の遺書には「母とともに消え去った幼い命がいとおしい まもなく会いにいくからね。
お父さんの膝でだっこして寝んねしようね それまで泣かずにまっていてください」と書かれていました。
<特攻隊員の妹さんへの遺書>
「なつかしい静(しい)ちゃん! お別れの時が来ました。
兄ちゃんは、いよいよ出撃をします。
この手紙が届くころには、沖縄の海に散っています。
思いがけない父、母の死で、幼い静ちゃんを一人のこしていくのは、とても悲しいですが許して下さい。
兄ちゃんの形見として静ちゃんの名で預けてある郵便通帳とハンコ、これは静ちゃんが 女学校に上がる時に使って下さい。
時計と軍刀も送ります。
これも木下のおじさんに頼んで、売ってお金に換えなさい。
兄ちゃんの形見などより、これからの静ちゃんの人生の方が大事なのです。
もうプロペラが回ってます。
さあ、出撃です。
では兄ちゃんは征きます。
泣くなよ静ちゃん。がんばれ!」
<遺書を託された兵からの手紙>
大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。
 わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。
伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。
そのとき、このお手紙を わたしにあづけて行かれました。
おとどけいたします。
伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう(特攻人形)を大へん だいじにしてをられました。
 いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。
ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や 落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。
 飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。
伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます。
苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。
いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。
伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう
けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。
伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。
静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。さやうなら
元日から、石川県能登地方での地震災害に対して、自衛隊員の皆様が、被災地域で人命救助及び救援物資を届けて下さっております。
改めて自衛隊の皆様に感謝申し上げます。
即応体制がいつ何時もとれ、人々を救う実力を備えているのが自衛隊です。
多くの国民は、自衛隊が日本にあって本当に良かったと、感じていると思います。
国民の命を守っているのが自衛隊です。自衛隊は正に日本の宝です。自衛隊に感謝しましょう。
警察や消防救急、インフラ復旧で作業されている電力会社の社員さん、その他関係各所の皆さんへも感謝申し上げます。
一人でも多くの命が救われる事を願います。
※各種専門の方々が、懸命に各々作業をされております。安全確保がなされるまで、関係機関と連携が取れていない民間人(個人)の現地入りは避けた方が良いです。作業の邪魔になったり、渋滞の発生や二次災害で被災して要救助者になり、現地で活動されている方々の仕事を増やしてしまう可能性があります。したがって、安全確保されるまで、行政の受け入れ体制が整うまでは、自己完結が困難な民間人の現地入りは、自衛隊経験者の観点から見て、控えた方が良いと思います。
35年前の本日1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇崩御。足かけ64年続いた「昭和」が終焉。
新元号は「平成」。翌8日から。
昭和天皇(1901年4月29日-1989年1月7日)
第124代天皇(在位: 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日-1989年〈昭和64年〉1月7日)。
身長165cm。
諱は裕仁、御称号は迪宮。
お印は若竹。
1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りにわたって、
父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、
摂政宮となりました。
60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、
大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と
日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇。
皇太子嘉仁親王(当時、のちの大正天皇)と
同妃節子(当時、のちの貞明皇后)の第1男子として誕生。
弟に、
秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)、
高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)、
三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)の3人。
少年期は学習院初等科(院長:乃木希典)に通学し、
卒業後は東宮御学問所(総裁:東郷平八郎)で教育を受けました。
1916年(大正5年)に立太子。
日本の皇太子として初めて
イギリス王国やフランス共和国、ベルギー王国、イタリア王国などをお召艦で訪問(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。
帰国後、
父大正天皇の病気により摂政に就任(直近最後の摂政)。
この他、外地にも行啓(台湾行啓)。
1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、
大正天皇の崩御に伴い皇位継承、
第124代天皇として践祚。
大日本帝国憲法下において
「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」と規定された立憲君主たる地位にありました。
憲法が通常想定する大臣による輔弼が機能し得ない
緊急的例外的局面(二・二六事件における反乱軍鎮圧や、第二次世界大戦の日本の降伏における連合国に対するポツダム宣言受諾決定など)については、
自ら天皇大権を行使。
1945年(昭和20年)8月15日に、
ラジオでいわゆる「玉音放送」を行って国民に終戦を宣言。
1946年(昭和21年)1月1日には、
いわゆる「人間宣言」(新日本建設ニ関スル詔書)を発して神格化を否定(それ以前については「現人神」)。
占領期にはダグラス・マッカーサーとの会見などを通じて独自の政治的影響力を発揮。
また、
1946年(昭和21年)2月から1949年(昭和24年)まで全国各地を巡幸し、
敗戦後の国民と接しました(昭和天皇の戦後巡幸)。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法では、
「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴(第1条)」である天皇(象徴天皇制)であり「国政に関する権能を有しない(第4条)」とされています。
また、
生物学研究者でもあり、『相模湾産後鰓類図譜』などを著。
1971年(昭和46年)には
天皇として初めて欧州各国を訪問し、
1975年(昭和50年)には同じく天皇として初めてアメリカ合衆国を訪問(いずれの外国訪問にも香淳皇后を同伴)。
1989年(昭和64年)1月7日に崩御。
これに伴い、
第1皇男子の皇太子明仁親王が皇位を継承して第125代天皇に践祚。
第26代継体天皇以降の明確な記録が残る歴代天皇の中で在位期間が最も長く(62年及び14日間)、
在位中に崩御した天皇としては最高齢(宝算87)。
(昭和天皇)
1989年1月7日、
この日、
昭和天皇が崩御したことに伴い、
当時の皇太子明仁親王が皇位を継承。
元号法並びに元号を改める政令(昭和64年政令第1号)に基づき、
新・元号を「平成」と決定(昭和最後の日)。
(新元号「平成」の墨書を掲げる小渕恵三内閣官房長官)
『日本に自衛隊がいてよかった』桜林美佐
元日に能登で地震が起きた。
本当に悲惨な状況に日々心を痛めています。
そして、この本を再読していました。
この本、多分大きな震災が起きる度に読み返しているそんな大切な本。
もうね、題名が全てですよ。今回も迅速な対応で人命救助に当たってくださった自衛隊の方々に心より感謝してます。
日本に自衛隊がいてよかった、本当に心からそう思います。
おすすめです。
小野田寛郎さん
(1922年3月19日-2014年1月16日)
陸軍軍人、実業家。
最終階級は予備陸軍少尉。
旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。
和歌山県出身。
剣道錬士五段。
和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて
父・小野田種次郎(県議会議員)、
母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生誕。
長兄・敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、
次兄・格郎は東京帝国大学、陸軍経理学校卒の経理将校(最終階級陸軍主計大尉)、
弟・滋郎はのちに陸軍士官学校に入校し航空部隊関係の兵科将校(最終階級陸軍少尉)。
旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍。
中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、
中華民国の漢口支店(現:中国の武漢市)勤務となり中国語を習得。
上海の商事会社で働いていた1942年12月、
満20歳のため徴兵検査(徴募)を受け
本籍のある和歌山歩兵第61連隊(当時同連隊は戦地に動員中のため、その留守部隊)に
現役兵たる陸軍二等兵として入営。
同時に留守部隊をもとに編成された歩兵第218連隊に転属、
同連隊にて在営中に甲種幹部候補生(予備役将校を養成)を志願しこれに合格、
1944年1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校。
卒業後、
漢語や英語が堪能だったことから選抜され、
同年9月に陸軍中野学校二俣分校入校。
主に遊撃戦の教育を受け(他にも諜報・諜略・防諜・偽装・潜行・破壊などの特殊任務を叩き込まれます)、
退校命令を受領。
その後、
見習士官(陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官。
1944年12月、
フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、
残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。
当地では
第14方面軍隷下の第8師団参謀部付(配属)の情報将校として、
遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、
第二次世界大戦終結から29年を経て、
フィリピン・ルバング島から日本へ帰還。
その後は、
メディアにつきまとわれた事もあり、
戦後の日本への適応は困難でした。
帰国から半年後の1975年、
ブラジルで牧場を経む次兄を頼って移住し、
兄と同じく小野田牧場を経営することを決意。
バルゼア・アレグレ移住地 (マット・グロッソ州テレーノス郡)にて、
約1,200haの牧場を開拓。
7年間は無収入でしたが、
10年を経て牧場経営を成功させ、
1,800頭の肉牛を飼育。
1976年、結婚。
1979年5月に発足した「バルゼア・アレグレ日伯体育文化協会」初代会長に就任。
その後、
「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として
「祖国のため健全な日本人を育成したい」と、
サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰(1984年7月)。
全国の子どもたちにキャンプ生活の極意や初歩的なサバイバル術などを指導。
また、
1988年にルバング島での潜伏生活の回想やサバイバル術などその後も多くの著書を刊行し、
作家としても活動。
書店でサイン会を行うなどしました。
2004年ブラジル空軍より民間最高勲章メリット・サントス・ドモントを授与。
同年マット・グロッソ州名誉州民に選ばれます。
2014年1月16日、
肺炎のため東京都中央区の病院で死去。
91歳没。
(小野田寛郎)
1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効。
日本は米国の占領下から、再び独立国として出発。

昭和時代生まれの私達の家には天皇皇后.両陛下の御真影が有りました🥰🐼❤️

昭和33年、銀座4丁目交差点。和光の向いの三愛がまだ2階建ての時代に屋上に当時皇太子殿下と正田美智子様の婚約記念の看板が建てられました。
御成婚は翌34年4月10日でした。
御成婚パレードはテレビで放送され、日本中を釘付けにしました。
高松宮宣仁親王(1905年1月3日-1987年2月3日)
皇族、海軍軍人(最終階級は、海軍大佐)。
有栖川宮の祭祀を継承。
御称号は光宮。
身位は親王。
お印は若梅。
栄典は大勲位功四級。
大正天皇と貞明皇后の第三皇子。
皇長兄に昭和天皇、
皇次兄に秩父宮雍仁親王、
皇弟に三笠宮崇仁親王。
第125代天皇明仁は甥、
第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥。
妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。
1920年(大正9年)4月、
学習院中等科三年退学、海軍兵学校予科入学。
1921年(大正10年)8月24日、
海軍兵学校本科に編入(52期、同期に源田実海軍大佐 等)。
1924年(大正13年)7月24日、
海軍兵学校卒業、少尉候補生。
1925年(大正14年)1月3日、
成年を迎え、同日付で貴族院皇族議員に就任。
同年12月1日、海軍少尉に任官。
1927年(昭和2年)12月1日付で海軍中尉。
1930年(昭和5年)2月4日、
自身が祭祀を継承している有栖川宮威仁親王や徳川慶喜の孫にあたる徳川喜久子と結婚。
夫妻の血筋は遺されていません。
1932年(昭和7年)11月29日、
海軍砲術学校高等科を卒業し、
巡洋艦「高雄」、戦艦「扶桑」の分隊長。
1934年(昭和9年)11月10日、
海軍大学校に入校(甲種学生34期、同期に大井篤海軍大佐 等)、
1935年(昭和10年)11月15日付で、
海軍少佐に昇任。
1936年(昭和11年)11月26日、
海軍大学校卒業、
同年12月1日に軍令部出仕兼部員に補され、
第二部(軍備)、第三部(情報)、第四部(通信)などを歴任。
1940年(昭和15年)7月3日、
戦艦「比叡」砲術長、11月15日に海軍中佐。
1940年(昭和15年)11月10日に、
内閣主催で、
昭和天皇・香淳皇后臨御の下に宮城外苑にて挙行された「紀元二千六百年式典」の
翌11月11日に同会場で行われた奉祝会で、
その総裁であった兄・秩父宮雍仁親王が病気により欠席したため、
その代理を務め、
同奉祝会で長兄・昭和天皇への奉祝詞奏上、
自身による聖寿万歳三唱などを行いました。
1941年(昭和16年)4月5日、横須賀海軍航空隊教官。
1942年(昭和17年)11月1日、海軍大佐。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、実質的にはほとんど米軍)が進駐する間際には
東久邇宮稔彦王首相宮(史上唯一の皇族首相かつ任期が54日間と史上最短の首相)の命を受けて
寺岡謹平海軍中将や第三航空艦隊参謀長・山澄忠三郎大佐と共に、
厚木海軍飛行場において徹底抗戦を主張する第三〇二海軍航空隊に対し、
武装解除の説得に赴きました。
1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職。
1987年(昭和62年)2月3日、
昭和天皇と今生の別れを行った約1時間後の13時10分、
肺癌のため東京・広尾の日本赤十字社医療センターで薨去。享年82。
1930年2月4日、
この日、
昭和天皇の弟の宣仁親王(1905年1月3日-1987年2月3日、当時海軍中尉)と
徳川喜久子(1911年12月26日-2004年12月18日)が結婚。
明治天皇の孫と徳川慶喜の孫の結婚とあって、
「公武合体」と話題を呼びました。

晩年迄プライベートで運転をしておられたエリザベス女王陛下、第二次世界大戦時は、陸軍の整備兵の任務でした。

⛩️明治神宮の紀元祭から
建国記念日奉祝パレードへ
河口湖 自動車 博物館の航空館 三菱 一式陸上攻撃機 ベティを拝見して来ました。😂
葉巻きスタイル😲
ベティはアメリカの若者の俗語で魅力的な女性だと聞いた事が有ります。😂
何故か?爆撃機は女性名
戦闘機は男性名ですよね?😂
炎の翼 陸攻隊
桜花を抱いて いざ出撃って悲しい過去が有りました😭
此れを観ると松本零士さんの
音速 雷撃隊を思い出します。
私はですよ?
しかし素晴らしい操縦技術ですね?
海面スレスレ飛行
2番機は囮ですかね?
レーダー探知を嫌ったのか?🤔
はたまた、対空砲の下角度 以下なのか?🤔弾幕が凄いです。😲
可愛らしい零式艦戦の通称おちょぼ口もおはようございます。🙇😂
サム・ペキンパー 「戦争のはらわた」
何度観てもこの映画は傑作だと思い知らされる。
原題「Cross Of Iron」はドイツ軍の「鉄十字勲章」のこと。
「戦争のはらわた」という邦題はナンセンスも甚だしいと言いたいところだが、意外にも本質を抉り取っているかも知れない。
旧西ドイツとイギリスの合作で、1943年第二次大戦、ロシア戦線のドイツ軍一中隊を描く。まずドイツ軍が主役というのがユニーク。もはや負け戦が見えているロシア戦線が描かれている。
全体が独特なトーンで統一されている。常にロシア軍の砲撃にさらされている作戦基地、地獄絵図のような塹壕、暗澹たる戦闘描写。
ジェームス・コバーン演じるシュタイナー軍曹は、軍神のような戦いをする勇者といえるが、上官の言うことを聞かず、出世欲もない。仲間を大切にするが上に媚びない。要するに組織には向いていないタイプ。
シュタイナーは上官であるフランスから着任したマクシミリアン・シェル演じるプロイセン貴族の末裔シュトランスキー大尉と徹底的に対立する。この大尉は鉄十字勲章が欲しいばかりに、その為なら部下を犠牲にしても厭わないくらいに腐りきった人物だ。
この二人を中核としてドイツ軍一中隊の泥臭い人間関係を描きつつ、戦闘の方は敗戦の色が見え始め、常に砲弾が雨あられのように降り注ぎ続ける。
最初から最後まで、砲弾が着弾した爆発音が通奏低音のように続く。
負傷したシュタイナーが入院し、センタ・バーガー演じる美しい従軍看護婦に看病されるシーンは唯一トーンが穏やかではあるが、同時にシュタイナーの心の闇をも映し出す。
シュタイナーは一体何のために戦っているのか?出世や名誉など欲しくはない。
では母国の為なのか?そうなのかも知れないが、ナチスは毛嫌いしている。
このコバーンとセンタ・バーガーのシーンは、シュタイナーが性的不能であることをそれとなく匂わせていると昔から俺は思っている。
本物のソ連戦車T-34が登場するシーンはさすがに凄い迫力。
ロケ地のユーゴスラビアから20台のT-34をレンタル出来るはずだったのに3台しか借りられなかったそうだが、3台だけでも十分に重量感あるシーンが撮れている。
(20台も登場したらとんでもないが)
ラストの言いようのない無常感、不快な余韻がたまらない。
エンドロールの最後に提示されるベルトルト・ブレヒトの言葉には言葉を失う。
「諸君あの男の敗北を喜ぶな。世界は立ち上がり奴を阻止した。だが奴を生んだメス犬がまた発情している」
明治神宮
明治神宮会館 午後1時に建国記念の日(紀元節)奉祝中央式典に行きました。
皇紀2684年
本日2月11日は 建国記念の日
(紀元節)
感謝とお祝いの想いを込めて
https://t.co/rPfBr2ws3d
「紀元節」
https://youtu.be/P0_EsU1eaTo
「古事記」
https://youtu.be/e1MPtk45TCA
「紀元二千六百年」
#建国記念の日 #紀元節 #奉祝中央式典
唱歌「紀元節」
一、雲に聳(そび)ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も なびきふしけん大御世(おおみよ)を 仰ぐ今日こそたのしけれ
二、海原なせる埴安(はにやす)の 池のおもより猶(なお)ひろき めぐみの波に浴(あ)みし世を 仰ぐ今日こそたのしけれ
三、天(あま)つひつぎの高みくら 千代よろずよに動きなき もとい定めしそのかみを 仰ぐ今日こそたのしけれ
四、空にかがやく日のもとの よろずの国にたぐいなき 国のみはしらたてし世を 仰ぐ今日こそたのしけれ
高根おろし…高い峰から吹き降ろす風
埴安の池…橿原神宮近くの池
高みくら…天皇の御席
1946年2月19日、
この日、昭和天皇の戦後巡幸が開始。
2月19日 - 20日は、神奈川県。
19日:川崎市、横浜市(鶴見、横浜)
20日:横須賀市
『昭和天皇の戦後巡幸』
戦後(第二次世界大戦における日本の降伏後)の混乱期と復興期に当たる
1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間に、
第124代天皇の昭和天皇が行幸して各地を巡った(巡幸)事。
第二次世界大戦の終結後、
昭和天皇自身の発案により、
1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月まで、
8年半をかけて全国各地(米国統治下の沖縄を除く、
全46都道府県)を行幸。
当初は日帰り又は短い旅程でしたが、
次第に10日~数週間に及ぶ長い旅程のものに変化。
行幸は天皇単独で行われることが多く、
香淳皇后が同伴したのは
1947年(昭和22年)の栃木県行幸、
1954年(昭和29年)の北海道行幸の際の2回のみ(静岡県へは同一旅程ですが、皇后単独で沼津市に行啓)。
行幸先各地では、
奉迎場(学校・公営グラウンド・駅前など大勢が集える広場)や特産品天覧会場が準備され、
行在所(宿泊先)も、
各地の公的機関や旧家の邸宅のみならず、
保養地の温泉旅館・ホテル等も選ばれています。
天皇誕生日🎌
おはようございます😊
毎日お疲れ様です
今日は 🇯🇵天皇誕生日です
一般参賀 開かれますね
午前中に3回、天皇陛下が皇后様をはじめ皇族方と共に皇居・宮殿のベランダに立たれる予定です
そして
今日は日本一の山 富士山の日 です
四季折々 神々しく美しい景色を見せて
くれる富士山🗻
飛行機✈️から見下ろせる富士山も何か
感動、出来る気持ちが生まれます😅🤣👍

お若い頃の上皇后様と、ご幼少の頃の天皇陛下。エレガントなお姿に、あたたかな愛情が伝わります。あたたかいご家庭の中で、陛下がご成長されたのがよくわかります。