Apex product 【東日本大震災・脱原発】②

いつも、ご訪問頂きありがとうございます。

2011年3月11日の東日本大震災と、東京電力福島第1原発事故から4年。犠牲者は1万8000人を超え、いまだ20万人以上が避難生活を送っています。一方、復興への取り組みは本格化し、産業面など新たなモデルを目指す試みもあります。東日本大震災に関連するニュースをまとめました。ご覧下さい。そして忘れないで下さい。

まだまだ、これからです。私達に出来ることをやっていきましょう。

今も苦しんでいる全ての人に、笑顔が戻るその日まで。援助支援活動は続きます。震災で亡くなられた方々のご冥福と被災された方々の安寧な生活が一日も早く訪れますことを、町が元気に復興されますことをお祈り申し上げます。

 

 

2015年3月11日

- 青空と向日葵の会  Apex product  代表 柳 -

東日本大震災の発生から4年となる11日、天皇皇后両陛下が出席されて、政府主催の追悼式が東京で開かれ、地震の発生時刻に合わせて安倍総理大臣や遺族の代表ら出席者全員が黙とうをささげ、震災で亡くなった人たちに哀悼の意を表しました。
政府主催の「東日本大震災四周年追悼式」は、11日午後、東京の国立劇場で開かれて、天皇皇后両陛下、安倍総理大臣、遺族の代表ら、およそ1200人が出席し、地震が発生した午後2時46分に出席者全員が黙とうをささげて哀悼の意を表しました。
続いて、安倍総理大臣が「原発事故のために住み慣れた土地に戻れない方々をはじめ、23万人の方が厳しい不自由な生活を送られています。被災された方々に寄り添いながら、復興を加速してまいります。先人たちが幾多の困難を乗り越えてきたように、あすを生きる世代のために、私たちが共に立ち向かっていくことを改めてお誓いいたします」と式辞を述べました。
天皇陛下は「この4年間、被災地においては、人々が厳しい状況のなか、幾多の困難を乗り越え、復興に向けて努力を続けてきました。依然として被災した人々を取り巻く状況は厳しく、これからも国民皆が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。教訓を決して忘れることなく子孫に伝え、より安全な国土を築くべく努力を続けることが重要であると思います」と、おことばを述べられました。
このあと、追悼式では、岩手、宮城、福島の3県の遺族の代表があいさつしました。
岩手県の遺族代表の内舘伯夫さんは「ふとしたときに父との温かい思い出に優しく包まれます。そして、少しあとに、父の遺体と対面した記憶がよみがえり、悔しさで胸が苦しくなります。後悔と自責の念を、お互いを思いやり助け合う心にしたことを伝え残していくことが、震災を乗り越えた証しとなり、亡くなった方々への最大の敬意であると信じ、一日一日を大切に過ごしていきます」と述べました。
宮城県の遺族代表の菅原彩加さんは「あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数え切れないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。被災した方々の心から、震災の悲しみが消えることはないと思います。前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、しっかりと前を向いて生きていきたい」と述べました。
福島県の遺族代表の鈴木幸江さんは「大地震と大津波により、父、母、そして弟を失いました。4年たった今でも、原子力発電所の事故のために町に戻れない状態が続いており、将来の展開がなかなか見通せず、やりきれなさを感じています。残された私たちがなすべきことは、二度とこのようなことを繰り返さないために、大震災を風化させないために、経験を次の世代に伝えていくことではないかと思います」と述べました。
このあと、追悼式では、各国の代表ら参列者が献花を行い、犠牲者を悼みました。

東日本大震災の発生から4年目を迎えた3月11日、東京・千代田区の国立劇場で、政府主催の「東日本大震災4周年追悼式」が開かれた。天皇陛下のお言葉の全文は、以下の通り。

東日本大震災から4年が経ちました。ここに一同とともに、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。

4年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す死者・行方不明者が生じました。テレビに映った津波の映像は、決して忘れることのできない本当に恐ろしいものでした。

死者・行方不明者の中には危険をかえりみず、人々の救助や防災活動に従事した人々があったことが、今も痛ましく思い出されます。被災地で、また避難先で、被災者の多くが今日もなお、困難な暮らしを続けています。特に年々、高齢化していく被災者の健康は深く心にかかります。

さらに、この震災により原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、多くの人が住み慣れた地域から離れることを余儀なくされました。今なお自らの家に帰還する見通しが立っていない人が多いことを思うと、心が痛みます。この4年間、被災地においては人々が厳しい状況の中、お互いの絆を大切にしつつ、幾多の困難を乗り越え、復興に向けて努力を続けてきました。またこうした努力を支援するため、国内外の人々が引き続き、いろいろな形で尽力しています。

この結果、地場産業の発展、防災施設の整備、安全な居住地域の造成などさまざまな進展がみられましたが、依然として被災した人々を取り巻く状況は厳しく、これからも国民みなが心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。

このたびの大震災においては、私どもは災害に関し、日頃の避難訓練と津波防災教育がいかに大切かを学びました。こうした教訓を決して忘れることなく子孫に伝え、より安全な国土を築くべく努力を続けることが重要であると思います。

この14日から宮城県仙台市において第3回国連防災世界会議が開催されますが、この会議において、我が国のみならず世界各国においても、この大震災の教訓が分かち合われ、被害の軽減や人々の安全性の確保に意義ある成果が挙げられることを願っています。被災地に一日も早く安らかな日々が戻ることを一同とともに願い、御霊への追悼の言葉といたします。

「大好きだよ」瓦礫に母残し4年 19歳が誓った言葉

東日本大震災追悼式の宮城県遺族代表、菅原彩加(さやか)さん(19)=石巻市出身=のことば

私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。

 小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。

 あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。

 しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。

 そんな体験から今日で4年。

 あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。全てが、今もまだ夢の様です。

 しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることが出来ます。

 震災で失った物はもう戻ってくることはありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていける物だと私は思います。前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、しっかり前を向いて生きていきたいと思います。

 最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。


<震災4年>宮城沿岸13市町で11日追悼式

 東日本大震災から4年を迎える11日、多くの犠牲者が出た石巻市など沿岸13市町は、それぞれ追悼式や慰霊祭を開く。
 各地の式典は表の通り。各会場では政府主催の追悼式中継が放映され、地震発生時刻の午後2時46分に黙とうをささげる。村井嘉浩知事は、名取市の追悼式に参加する予定。
 宮城県は、県庁2階講堂と大崎、大河原の両合同庁舎に献花台と記帳所を設置。利府町の県総合運動公園(グランディ21)の総合体育館には県スポーツ振興公益財団が献花台などを設ける。
 11日は県条例で、震災の犠牲者を悼み、復興を祈念する「みやぎ鎮魂の日」に制定されている。県教委によると、公立高などほとんどの県立学校が休校。小中学校は石巻市が休校し、気仙沼市と南三陸町は午前授業とする。

祈りの灯火2015~これからも共に~
3月11日(水)に盛岡城跡公園(もりおか歴史文化館前広場)ほかで開催され、内陸から沿岸被災地の復興を祈りました

【3月11日】東日本大震災が起った日(2011)

東日本大震災は、2011年(平成23年)3月11日(金)に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、
及びその後の余震により引き起こされた大規模地震災害である。

<地震発生>
2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートル、

仙台市の東方沖70キロメートルの太平洋の海底を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生した。


地震の規模はモーメントマグニチュード (Mw) 9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震である。


震源は広大で、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500キロメートル、東西約200キロメートルのおよそ10万平方キロメートルという
広範囲すべてが震源域とされる。


最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・栃木・福島・茨城の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測した。


<被害>
この地震により、場所によっては波高10メートル以上、最大遡上高40.1メートルにも上る巨大な津波が発生し、

東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害が発生した。


また、巨大津波以外にも、地震の揺れや液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などによって、北海道南岸から東北を経て東京湾を含む関東南部に至る広大な範囲で被害が発生し、各種ライフラインが寸断された。


2014年(平成26年)1月10日時点で、震災による死者・行方不明者は18,524人、建築物の全壊・半壊は合わせて39万9284戸が
公式に確認されている。


震災発生直後のピーク時においては避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上等の数値が報告されている。


復興庁によると、2013年12月12日時点の避難者等の数は27万4088人となっており、避難が長期化していることが特徴的である。


日本政府は震災による直接的な被害額を16兆円から25兆円と試算している。


この額は、被害が大きかった岩手・宮城・福島の3県の県内総生産の合計に匹敵する(阪神・淡路大震災では兵庫県1県の県内総生産の半分ほどであった)。


世界銀行の推計では、自然災害による経済損失額としては史上1位としている。


<死因>
この震災での犠牲者の死因の殆どが、津波に巻き込まれた事による水死であった。


津波の中には、大量の砂や海底のヘドロ、港湾施設の重油などの有害物質などが含まれていた。


砂が肺に入れば気管を詰まらせ、有害物質が肺に入れば身体を侵す。


水死に至る経緯は、これらで呼吸困難になったり、瓦礫が当たり意識を失ったり、3月の雪の舞う中で低体温を伴ってなど、さまざまな経緯もあったと考えられる。


圧死・損傷死・焼死も、ほとんどが津波による瓦礫が要因となっている。


<福島第一原発>
地震から約1時間後に遡上高14-15メートルの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、全電源を喪失して原子炉を冷却できなくなり、1号機・2号機・3号機で炉心溶融(メルトダウン)が発生した。


水素爆発により原子炉建屋が吹き飛び、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展した(→福島第一原子力発電所事故)。


この事故は国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7、チェルノブイリ原子力発電所事故と同等に位置づけられている。


同原発の立地する福島県浜通り地方を中心に、周辺一帯の福島県住民の避難は長期化するとともに、2012年からは「帰還困難区域」「居住制限区域」も設定された(→福島第一原子力発電所事故の影響)。


その他に火力発電所等でも損害が出たため、東京電力の管轄する関東地方は深刻な電力不足に陥り、震災直後の一時期には日本国内では65年ぶりに計画停電が実施された。


計画停電は東北電力管内でも震災直後に実施されたほか、翌2012年の夏前には関西電力管内でも大飯発電所(大飯原発)の再稼働を巡って論議が起き、計画停電の可能性が議論された。


<問題点・課題>
震災後、ボランティア活動に対する保健衛生上の規制や支援車両に対する道路交通法の規制など、現在の法令による制限が復興の障害となっていることが明らかになった。


復興の遅れにより経済や生活に二次的な被害が生じているため、関係自治体では災害特区指定や特別立法への期待も大きい。


市街地が壊滅した岩手県陸前高田市などでは、集落ごと高台に移転するといった大規模な対策が検討されているが、課題も山積している。


震災以後も、2011年9月には戦後最大級の勢力をもって上陸した台風15号によって被災地が広範囲で浸水し、福島第一原発では汚染水上昇等の被害が起きている。


膨大な量のがれき(例えば岩手県では前年1年間のごみ処理量の23倍に上るがれきが発生した)をどのように処理するかについても、がれきに付着した放射性物質の濃度が問題とされ、広域的な処理は進んでいない。


国及び福島県は原発事故に伴う長期避難世帯を被災者生活再建支援法の長期避難世帯と認めていないことから、原発事故の長期避難に伴う災害関連死(特に「原発関連死」と呼ばれる)対策や原発避難者生活再建支援施策が求められている。
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【編集者の目】
忘れられない日だ。


小手先の被害対策をしても、大規模自然災害には全く対応ができないという事を思い知らされた。


津波被害から逃れる為には、高台か内陸しか方法がない。


ましてや原発事故からは遠く離れるか、原発の無い国に行くしかない。


少なくとも大きなグランドデザインを軸に判断するしか方法がない。


全ての事故を想定内にしておくことは、日々の生活をしていくうえで無理があるかも知れないが、自身と家族の『命』だけは守れるよう最大限の努力をしたいと思う。

今日は何の日?ちゃんねる~毎朝7時に届く朝礼ネタ~

お母さんはほんとにすごいですね。
 
 
3.11 東北大震災で自らを犠牲にして
わが子を守ったある母の本当のお話です。

地震の鎮まった後、救助隊は、ある若き女性の家に到着し、
そこで瓦礫に埋もれた彼女の遺体を発見しました。

しかし、彼女の遺体はどういうわけか奇妙なことに膝立ちし、
あたかも祈りを捧げるかのように身体を前方にやりながら、
両腕に何かを包み守っているかのようでした。倒壊した家屋は
彼女の背中と頭にのしかかっています。

数々の困難な状況にありながらも、救助隊リーダーは
狭い壁の隙間に手を入れ、なんとか彼女の身体に触れようとします。
彼は、彼女はまだ息があるものと信じていました。ですが、
彼女の冷えて硬直した身体は、彼女はもうすでに亡くなって
いることを物語ります。

彼と隊員たちは、その家を後にし、
隣の倒壊したビルに向かおうとします。

そこで途中、リーダーは想うところあり
急遽彼女の家に引き返す指令を出しました。

そこで再び跪き、
今度は瓦礫の隙間から彼女の遺体の下の
小さな隙間に手を入れてみます。

そこで彼は突如興奮して叫びます。
「子供だ! 子供がいる!」

そしてチーム全体が協力し合い、
彼女の遺体周りの瓦礫を除去してゆきました。

するとそこには、母の身体の下で、
花柄の布に包まれた生後三ヶ月の小さな男の子がいます。

その母の姿は、明らかにわが子を救う究極の自己犠牲の姿でした。

家が倒壊する時に、彼女は自分の身を投げ打って息子の命を守ったのです。
救助隊が救い出した時、幼い男の子は、未だ静かに眠りについたままでした。

医師は速やかに幼子の様態を確かめに駆けつけます。

布を開くと、そこには携帯電話も包まれています。
そのスクリーンにはこう書かれていました。

「もしもあなたが生き残れたなら、
 わたしがどれだけあなたを愛していたか、どうか憶えていてね。」

携帯はそのままその場の全員に手渡され、
そのメッセージに皆むせび泣きました。

「もしあなたが生き残れたなら、
 わたしがどれだけあなたを愛していたか、
 どうか憶えていてね。」

3・11の夜・被災者の思いとともに 当日の星空を再現 仙台市天文台制作

 あの日の夜、被災地で満天の星を見上げた人たちはどんな思いを寄せたのだろうか-。東日本大震災が発生した二〇一一年三月十一日の夜、大停電となった被災地の空に現れた星空を再現し、被災した人たちの思いをたどるプラネタリウム番組「星空とともに」が七日から、東大和市と足立区で上映される。仙台市天文台が一二年に制作し、大きな反響を呼んだ番組は、都内初の上映となる。(萩原誠) 

 <流れ星は天国へ向かう魂。その多さに耐えられなくなり目を伏せた。あれほどつらい夜空はこれまでもこれからも決して見ることはないだろう><あの千年に一度の星空は、失意に突き落とされた私たちに降り注がれた、絶望とは対極の希望の光だった>…

 被災した人たちは、夜空を見上げながら絶望と悲しみ、犠牲者への追悼の思いを胸にする一方、希望の光も感じていた。その言葉の数々を、「星空とともに」のナレーションが読み上げる。来場した人たちは、被災者の気持ちに思いをはせながら、プラネタリウムで再現される震災の日の曇り空、夕方の雪、空に輝く星々を体験する。

 震災後、地元紙に載った読者投稿を仙台市天文台職員が読み、番組を企画。投稿の声などをまとめて制作し、震災から一年後の一二年三月十一日、同天文台で初公開した。一三年六月の日本プラネタリウム協議会全国大会で上映すると、大きな反響を呼んだ。昨年の三月十一日前後には、全国十カ所で上映され、今年は十四カ所に増えた。

 企画した仙台市天文台の高橋博子さんは「星は声を出さないが、希望を見いだしたり力をもらったりと、いろんなメッセージを与えてくれた。そんな星の力を知ってほしい」と話す。

 東大和市では市立郷土博物館(奈良橋一)で上映される。担当者は「満天の星と被災した人たちの言葉に胸がいっぱいになった。被災の映像がなくても、言葉だけで震災の実態が十分伝わってくる。多くの人に見てほしい」と来場を呼び掛けている。

 上映時間は四十分で、七、八、十四、十五の各日は午後四時から、十七~二十日は午後一時半から。定員百人で入場無料。問い合わせは市立郷土博物館=電042(567)4800=へ。

さおり、今日も聞いて 津波で失った娘にあて日記11冊

娘にあてて書く日記は11冊目になった。夜寝る前。娘の部屋で、娘の机で、娘の写真に囲まれながら、語りかけるように書く。

【写真】藤野紗央里さん

 あの日から4年を迎える夜。10日はこうつづった。

 《今日はすごい風。時々雪まで舞う。明日、紗央里(さおり)の日も寒くなりそう。お父さんと行くからね》

 岩手県陸前高田市の藤野順子さん(60)は、津波で一人娘の紗央里さん(当時25)を亡くした。勤め先の市役所から1・5キロ離れた海沿いで遺体が見つかったのは、震災の2週間後。後を追いたいとさえ思った。

 そんな藤野さんに、以前に夫を亡くした近所の女性が「寂しかったら日記を書くといいよ」と声をかけてくれた。

 2階の紗央里さんの部屋で、淡い緑色のノートを見つけた。開くと、娘の書きかけの文字。その続きにボールペンで一文字一文字、ゆっくり書いてみた。

 《さおりにきいてもらったり、伝えたり相談にのってもらうような気持ちで書きます。お母さん、そうでもしなければ生きていく力がなくなってしまいそうだもの(2011年4月26日)》

 書いてみると、言葉が次々に浮かんできた。

 《さおりの使ったバスタオルをお父さんとお母さん使わせてもらっているよ。お母さんはキティーちゃんの青いタオルを枕カバーがわりに使っています。夢で会いに来てくれるかも知れないと思って

 広田湾の海は風が少しあるけど、静かだよ。今日は》

 娘がそばで聞いてくれているような気がした。

 ある日、幼い頃の娘が夢に出てきた。その頃の呼び名でも書くようになった。

 《朝起きて泣いて、お墓に行って泣いて、車で泣いて、お風呂で泣いて、お部屋で泣いて。ちゃーちゃん。ちゃーちゃんに会いたいよ(5月13日)》

 娘は人気アイドル亀梨和也さんの大ファンだった。震災の前年、韓国ツアーへ行って友達を何人もつくって帰ってきた。亡くなって最初の誕生日には、ファンの友達や同級生たちが贈り物や手紙で祝ってくれた。

 《お友達からプレゼントが届き、紗央里としあわせ気分を分かちあって、お母さんも「しあわせ」になりました(11月15日)》

 節目の日に訪ねてくれる友達の話の中に、初めて知る娘がいる。一人っ子で甘えん坊と思っていたのに自分から声をかけて友達をつくっていたなんて。男性からももてていたらしい。

 《楽しい青春したね。みんなお母さんの為にひみつを打ち明けてくれるね。紗央里がお母さんのために打ちあけてくれたんだね(12年3月11日)》

 毎月11日と、震災が起きた金曜日にお墓の花を替える。手を合わせ、同じことを祈る。

 《絶対に長生きしてしあわせな人生を送れる女性に生まれかわろうね(13年3月11日)》

 仲のよかった友達の結婚式には、娘の遺影を抱いて出席した。

 《今日はウェディングかわいかったね。白打ちかけ、赤うちかけ、パープルドレス。どれもこれも紗央里だったら(14年2月22日)》

 晴れの日に寂しさも募る。娘は結婚することはできなかった。自分ももう、孫を抱くことはない。

 最初の1年で、ノートは5冊になった。2年目は3冊。3年目は1冊半。

 最初はあふれる思いをノートに落とした。最近はその日のことを静かに記すことが増えた。記すペースが落ちたのは、体調が優れない日が増えたこともある。週に3回、人工透析の治療を受けている。

 体調を崩して10年前に中学校の音楽教師を退職してからは、娘との時間が生きがいだった。娘がいなくなり、一緒に習い始めた日本舞踊もやめた。何をするにも気力がなくなった。

 震災の年の夏に、息子と娘を亡くした知人の女性から「子どもたちに恥ずかしくない生き方をしたい」と聞いたことがあった。自分は決してそんな気持ちにはなれない、と思った。

 それが、少しずつ変わった。今年1月、生け花の稽古に足を運んでみた。

 《ちゃーちゃん、4年ぶりにお花のおけいこ。たくさんおしゃべりもしたけど、たのしかったね(1月19日)》

 そういえば最近は、「今日も泣いたよ」と語りかけることも少なくなった。悲しさは変わらないのに、どうしてなんだろう。

 一つだけ言えるのは、娘がいつも一緒にいて、支えてくれているということ。

 11日、今年も友達から花やぬいぐるみが届いた。お墓に行き、手を合わせ、語りかけた。

 ちゃーちゃん、いつもありがとう。(杉村和将)

朝日新聞社

最終更新:3月12日(木)10時13分

朝日新聞デジタル

 


東日本大震災から4年、写真で振り返る「記憶」…首都圏でも混乱、大量の帰宅難民

ふなっしー、「なっしー」付けず被災地への思いつづる 「この日を必ず忘れない」

千葉県船橋市非公認の人気キャラクター・ふなっしーが11日、東日本大震災発生から4年を迎え、語尾に「なっしー」を付けず被災地への思いをTwitterにつづった。

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 番組ロケで南極へ向かっており、現在はアルゼンチン・ブエノスアイレスを訪れているふなっしー。日本を離れても3.11のことは忘れず、「もし忘れさられるのではと寂しさを感じている人がいたら 声を掛けさせて欲しい。 頼りにならないかもしれないけど。 背中を押させてください。 この日を必ず忘れないから 安心してください」と呼びかけた。

 ネット上でも多くの人が4年前に東北地方を襲った未曾有の大災害を思い返し、犠牲になった人々を悼んでいる。ふなっしーも「みんなが一つになったこの日を。 みんなの声が東北に届くように。 空の上にも届きますように」と、最後まで「なっしー」を付けることなく、真摯な思いをつづった。

最終更新:3月11日(水)16時38分

RBB TODAY

 

被災地ゆかりの芸能人ら「震災4年」で復興への決意新たに

東日本大震災の発生から4年を迎えた11日、被災地にゆかりのある歌手やタレント、スポーツ選手らが「震災4年」についての思いをブログやツイッターを通じて発信し、被災地復興、日本再生への決意を新たにした。

震災から4年…田中将大、大島優子、各界からの声「刻む時を大切に」「完全復興願う」

 宮城出身のロック歌手・高橋ジョージはツイッターで「あの日から4年。2週間後に故郷宮城にかけつけた時見た光景、人々の姿は色褪せていない」と4年前の記憶に思いを馳せ「今の自分の悲しみや苦しみなんて比べものにならない。励まそうとして逆に励まされてきた。恩返しを更に決意し追善の祈りを、復興の祈りを続けようと思う」と誓った。

 同じく宮城出身のタレント・狩野英孝もツイッターを更新。「こんなに寒い中、みんな苦労したんだと思うと本当に大変だったんだと感じます」と被災者を思いやり「いつまでも忘れず、少しでも力になれるよう頑張ります」と復興への決意を新たにした。

 かつてプロ野球・楽天に所属した米大リーグ・ヤンキースの田中将大は「風化させてはいけないという思いはいつも変わりません。これからも自分に出来ること、自分なりに震災とは関わっていきたいと思います」。同じく楽天で活躍したマリナーズ・岩隈久志も「どの場所に居ても、家族皆で東北を思い、復興の役に立っていきたいと思います」と決意をつづった。

 1995年の阪神・淡路大震災を経験した女優の藤原紀香は「風化させないために、私も自分にできる最大のことを続けていきながら、みんなに喜んでもらえるよう、しっかりお仕事もがんばりますよー」と前を向き、仙台で学生時代を過ごしたフィギュアスケーターの荒川静香は「今日は今自分にできることをあらためて考え、完全復興を願い、心穏やかに過ごします」と伝えた。

最終更新:3月12日(木)2時50分

オリコン

宮城県出身のお笑いコンビ、サンドイッチマンは2011年3月11日に地元ローカルテレビ番組を収録中に東日本大震災に遭遇しました。その後すぐに彼ら自身で開設した「東北魂義援金」も今年で4年。

伊達みきおさんのブログで3.11の前日である2014年3月10日に、宮城県庁で三浦副知事へ「東北魂義援金」を渡したことを報告していました。

岩手県・宮城県・福島県の3県に順番で我々が届けている『東北魂義援金』は、震災遺児・孤児となってしまった子供達の為に使われます。 宮城県だけでも、1000人を超える子供達がその対象です。

両親が亡くなった、または行方不明となっている子供達(孤児)が136人います。もし自分だったらって思うだけで混乱してしまいます。


これまでサンドイッチマンは東北魂義援金を多くの人から預かり「宮城・福島・岩手の震災孤児・遺児支援の為に」約3億8千万円以上を各地へ届けています。地元のため、被災者のため、子供のために義援金の支援だけでなく、3.11を風化させないための活動を継続的に行っているサンドイッチマン。

ブログには「いつも東北を気に掛けて頂きましてありがとうございます。」との言葉で閉めていました。

サンドウィッチマン 伊達みきおオフィシャルブログ「もういいぜ!」
サンドイッチマン事務所オフィシャル「東北魂義援金に関して」

東日本大震災の発生から4年目を迎えた今日(3月11日)午後2時46分に合わせ、犠牲となられた多くの方々のご冥福を祈り、沖縄にある米海兵隊太平洋基地の司令部でも、黙とうを捧げました。

耐え続ける福島、原発事故で「止まった時間」 

 津波に加えて、原発事故の傷に4年経っても耐え続けている福島。原発から20キロ圏内に市の一部がかかっている南相馬でも、鎮魂の灯りが灯されました。

 福島県の沿岸部にある南相馬市では、4年前のあの日と同じように小雪がちらつき、冷たい風が吹きつけています。こちらでは、メッセージが書かれたキャンドルに灯りが灯され、震災の犠牲者を追悼するイベントが開かれています。

 南相馬市では、津波などで500人以上が犠牲になっただけでなく、福島第一原発から20キロ圏内にある市の南部の地域は、原発事故によって現在も避難指示が続いています。福島県内では、地震や津波などであわせて1604人が犠牲になりました。これに対し、原発事故による避難などが影響して亡くなった「関連死」は、1884人にのぼっていて、震災の「直接死」を上回っています。原発事故で、今もおよそ12万人の避難が続いている福島県。原発の問題を抱える「被災地」の4年間です。

 東京電力・福島第一原発。事故から4年を迎える現場は今、汚染水をめぐる問題で揺れています。

 東日本大震災から4年を迎えた11日、福島第一原発の免震重要棟には、東京電力の広瀬社長などが訪れ、社員に訓示しました。
 「我々は少なくとも(県民と)同じ方向を向いて、一日でも早い復興、一日でも早い漁業の再開を我々も目指していく」(東京電力 広瀬直己社長)

 一方で、福島県内には11日、小泉純一郎元総理も訪れ、集まった県民を前に「脱原発」を訴えました。

 「『原発安全』『コストが安い』『クリーンエネルギー』。これが全部ウソだということが分かったんです。よくもこういうウソをいまだに政府が言っているなとあきれているんです」(小泉純一郎元首相)

 福島県では原発事故の影響により、今もおよそ12万人がふるさとを離れて避難生活を送っています。そうした中、国は除染で出た土などを保管する中間貯蔵施設を福島第一原発の周辺に建設することを決め、13日から一時保管場に廃棄物の搬入を始めます。

 施設が建設される町の住民は、ふるさとの土地を奪われることに、複雑な思いを抱いています。
 「非常に我々地権者も悔しい気持ちでいっぱい。(施設が建設される)大熊町民・双葉町民、みんな幸せになる権利がある」(施設の地権者)

 原発事故、そして放射能の問題を抱える福島県。福島第一原発周辺の地域では、来年度以降、徐々に避難指示が解除されていく見通しですが、時間が止まったままの地域をどのように再生していくか、課題も残されています。(11日18:06)

2011年 3月11日、午後2時46分。

「夢の国」であるディズニーランドで
楽しいひと時を過ごしていた人たちは
突然襲う激しい揺れ。

「これもアトラクションのひとつか?」

と思った人もいたかもしれない。

しかし、収まらない揺れに
ようやく自分たちが大地震に
見舞われたことがわかった。

そうなったが最後、人は大きく動揺する。

泣き叫ぶ子供たち。

その場から逃げようと無我夢中になる人々。

広い園内が大パニックに陥ろうとした
そのとき場内に男性のアナウンスが流れた。


震災発生から約40秒が経過していた。

「皆様におしらせいたします。

 ただ今、地震がありました。

 建物のそばにいらっしゃる方は
 建物から離れて広いところで
 お待ちください。」

「地震と園外の状況は、確認が取れ次第
 ゲストの方々におしらせします!」

そして、沈着冷静に行動する
1万人のキャストたち。

「頭を守ってしゃがんでください!」

「どうぞ その場から動かず
 お座りになってください!」

と声をかけながら
不安で怯える来園者に駆け寄り
心身のケアを行う。

これが、7万人もの来園者を一切混乱させず
無事避難誘導した
東京デイズニーリゾートのキャストたちの
活躍の始まりだった。

東京ディズニーランドでは
震度6、来場者10万人を想定した防災訓練を
年間実に、180日行っている。

加えて、5万人が3~4日過ごせるだけの
食糧を備蓄している。

万が一の事態が起こり、客が怪我をしたり
最悪の死という状況に至ったりすれば
「夢の国」のブランドが嘘になる。

想定外を想定内にしておく備え。

それがあってこそ
日常を忘れて虚構世界に浸ってもらうことが
可能になる。

それが本当の安心・安全。


「全てはゲストのため」


その哲学がスタッフ一人ひとりに
浸透していた。

午後3時22分には社長をトップとする
「地震対策本部」が設置された。

ディズニーランド、ディズニーシー統括責任者

エリア統括者

アトラクション責任者

スタッフの順にピラミッド型に構成される。


これにより
現場の判断と指揮命令が
スムーズに行き来し
全社員が総力を上げて事態に
対応することができた。

現場レベルで判断できない重要事項を
総括本部が決定する間
全従業員の90%を占める
アルバイトスタッフが各々の活躍を見せた。

あるスタッフは
店頭のぬいぐるみ「ダッフィー」を持ち出し
「これで頭をお守りください」と差し出した。

防災ずきん代わりに使用してもらうためだ。

別のスタッフは
店頭販売のクッキーやチョコレートを
無料で配布。

「必ず皆様のお手元に届けますので
 その場に座ってお待ちください」

と、混乱が起きないように声をかけながら。

これらの行動は、誰からも命令されていない。

独自に作った
地震対策基本計画に基づく防災訓練で
使えそうなものは何でも使用してよく
ゲストの安全確保のためには
たとえ店舗の商品であっても
率先して提供してよいとされている。

それを受け
各スタッフが自分なりに動いたのだ。

夕方、ディズニーランドには、雨が降り出し
気温10度までに冷え込んできた。

その際もスタッフたちは自主的に行動した。

お土産用のビニール袋や青いゴミ袋を
雨カッパ用に提供
それでも足りなかったため
ダンボールまで取り出した。

ゴミが散乱して園の美観が
損なわれることは
「夢の国」にあってはならない。

普段は食料の持参を禁止するほど
景観維持を徹底している。

なのに、美観を汚すことしかならない
ダンボールを持ち出した。

スタッフたちが
いかに来園者の安全を第一に考えていたかが
わかる。

心のケアもスタッフたちは忘れていない。

お土産袋を渡しながら

「皆さん、お土産袋お持ちですか?
そして皆さん、お土産袋に
″隠れミッキー″(ミッキーマウスの形)
がいるっていうのは ご存知ですか?
よろしければ探してみてください。」

と声をかけたスタッフ。


また、シャンデリアの近くにいたため
余震の恐怖に怯える子供たちには

「皆さん大丈夫です。
 僕はシャンデリアの妖精ですから。
なにがあっても皆さんを守ります。
大丈夫です。」

と明るく笑顔で話した。

スタッフだけではない。


「夢の国」を支える
肝心のキャラクターたちも大活躍。

地震発生直後
パレード中だったウエストランドでは
パレード車が緊急停止。

自分で車から降りられない状態に。

しかし、ミニーや妖精の外国人たちは
救出されるまでの数十分間
来園者たちに手を振り続けた。

スタッフ、キャラクターの
冷静かつ愛情あふれる行動が
不安の絶頂にある人々を勇気付け
なぐさめた。

夜,帰宅できない2万人が
ここで一夜を過ごすことになった。

まだ交通機関が不通になっている。

そんな状態で園外に出れば
多くの人が路頭に迷ってしまう。

ならば園内で十分に休んでもらい
外の状況が落ち着いてから
帰宅してもらおうという判断によるものだ。

早く来園者を建物内に入れたい。

しかし、そのためには
建物の安全確認が必要だった。

そこで、先に
点検が済んだディズニーシーへ
移動してもらうことに。

普段、ランドとシーへの行き来は
ディズニーリゾートラインという
乗り物を使用する。

だが当然
電気の供給は止まっているから動かせない。

一般道路を歩いての移動は
大きく回り道になるし
その上、液状化現象を起こしている。

そこで、開園以来28年間
守ってきた掟を統括本部は破ることに。

従業員専用のバックヤードと
呼ばれる通路の開放である。

これにより
短距離でかつ安全にディズニーシーへと
移動することができる。


そこは、配線や基盤がむき出しになった
工場のような空間。

「夢の国」を支える裏側を見せることは…

しかし、スタッフが
開ける扉の先に広がる光景に
来園者は目を奪われた。

何百人ものスタッフが
ペンライト片手に両サイドに並び、

光の道を作っていたのだ。

2つの「夢の国」をつなぐために
開放された無機質空間が
突如感動的な演出により
夢の通路へと変貌した。

来園者の安全を最大限に確保しつつ
「夢の国」のイメージも演出する。

ディズニーランドが見せた
プロが成せる術であった。

支給された毛布を使用し
無事に2万人は夜を過ごした。

非常食の温かい「ひじきご飯」も
ふるまわれた。

こうして、東京ディズニーランドでの
長い一日が終わった。

その後、4月15日まで
東京ディズニーランドは閉園した。

再開時には
ミッキーやミニーとの再会を待ちわびた
ファン1万人が列を成した。

ディズニーランドとディズニーシーを合わせ
年間来場者数は 約2500万人を誇る。

その驚異的な来園記録を維持する秘密が
震災対応で明らかとなった。


………………………………………

4年前の3月11日、夢の国ディズニーランドでは、
こんなことがあったのですね。
どんなときでも『夢の国』であり続ける準備が
スタッフに行き届いている‥
そのポリシーに感動しました。

引用元: http://iinee-news.com/post-1200/

明るい未来見えず…原子力PR看板撤去へ

 東京電力福島第1原発の立地町で、全町民が避難している福島県双葉町は、原子力のPR看板を掲げた町内2カ所のゲートを撤去する方針を決めた。老朽化が理由。看板は、原発との共生を目指した町の象徴だった。帰還困難区域の町中心部で町道をふさぐように倒壊している家屋も除去する。

【標語考案者は……】惨事に胸痛め「脱原発」発信

  新年度の一般会計当初予算案にゲートの撤去費410万円と、家屋除去を含む町道環境整備費3200万円を計上した。

  国道6号に面した町体育館前のゲートは1988年の設置で、表裏に「原子力明るい未来のエネルギー」「原子力正しい理解で豊かなくらし」と表記。役場入り口のゲートは91年に完成し、「原子力郷土の発展豊かな未来」「原子力豊かな社会とまちづくり」と書かれている。標語は町民から募集した。

  ともに鉄骨やトタンで造られ、文字板はアクリル製。長期避難で管理ができず、腐食が進んだ。町復興推進課は「作業員や一時帰宅した町民の安全性を考え、撤去を決めた。標語の内容は関係ない」と説明。伊沢史朗町長は「保存は考えていない」と述べた。

  撤去は夏以降になる見通し。いわき市に避難する男性(57)は「安全神話が崩れ、避難している町の現状を考えれば、看板の言葉はふさわしくないが、町の歴史を表してもいる。撤去は一つの節目で、複雑な気持ちだ」と話した。

  道路に倒壊した家屋の除去は、旧国道の町道沿いにある11カ所が対象。所有者の了解を得た上で、道路にはみ出した部分を取り除く。地震や長期避難による老朽化で崩れた家屋は、無人と化した町の荒廃を物語っている。

最終更新:3月11日(水)18時27分

河北新報

 

アングル:不信渦巻く福島の中間貯蔵施設、地権者は「恒久化」懸念

[大熊町(福島県)11日 ロイター] - 東日本大震災から4年目の春、東京電力福島第1原発事故で故郷を追われた避難住民が新たな試練に直面している。放射能汚染物を保管する「中間貯蔵施設」への対応だ。

施設建設への協力は、大津波の犠牲となった家族だけでなく、多くの思い出が残る自らの土地を失う事態にもつながりかねない。施設建設による復興促進への期待が高まる中、候補地の地権者にはなお強い怒りと戸惑いが渦巻いている。

中間貯蔵施設が予定されているのは、同原発周辺の福島県双葉郡大熊町、双葉町にまたがる約16平方キロの用地。県内各所に仮置きされている汚染物を同施設で最長30年にわたって一括して保管する計画だ。

政府は福島県に対し3010億円の交付金を提供し、中間貯蔵を開始して30年経った後は県外に廃棄物を移すことを約束。福島県知事とともに双葉町と大熊町の町長も建設に同意し、今月13日から一時保管所への汚染土の搬入が始まる。

運び出し作業は双葉郡と田村市など9市町村でも実施、さらに除染を行っている同県内の残り34市町村にも広げる予定で、被災地の復興を妨げている除染の遅れが大きく解消されるという。

しかし、施設の建設候補地には、2300人を超す地権者がいるとされ、その特定と用地取得の交渉はなお難題だ。環境省は今月10日の会見で、両町内の地権者と売買契約を結び、貯蔵施設の建設に必要な一部の用地を取得したと発表した。しかし、地元には、国や行政の強引な進め方に反発し、不信感を強めている地権者も少なくない。

<「政府の約束は信用しない」>

「被災地であるここに、廃棄物を捨てようとするなんて信じられない」。大熊町の地権者のひとりで現在は長野県白馬に住む木村紀夫さん(49)は、津波にさらわれた家の土台だけが残った小高い丘にたたずみ、こう語った。

2011年3月11日の東日本大震災で、妻と父、そして7歳の次女を失った。大津波で行方不明になった家族の捜索を中断せざるを得なかったのは、原発事故ですぐに避難するよう命じられたからだ。数カ月後に妻と父の遺体は見つかった。しかし次女の汐凪(ゆうな)ちゃんの安否はなお不明のままだ。

がれきの山からみつかったのは、汐凪ちゃんのものと思われる泥まみれのピンク色のスカート、レギンスとおもちゃ。震災から4年間、木村さんは今もなお、汐凪ちゃんの行方の手掛かりを追って、大熊町の砂浜を探し続ける。ただし、それは被ばくガイドラインに沿って帰還困難区域に許される5時間だけ。東電事故による放射能汚染は、木村さん自身の災害からの復興と人生の再出発を大きく妨げている。

その苦難に輪をかけるように、木村さんはいま自分と家族の人生を刻んだ土地を汚染土の保管場所として提供するよう求められている。

環境省は用地交渉のため、約140人の不動産事業経験者を臨時職員として募集しており、両町の土地所有者と個別の交渉に当たる。木村さんに土地売却を促すため、環境省の意を受けた不動産業者が接触してくるのは時間の問題だ。

しかし、木村さんは、土地は売らないし貸さないと語る。30年後に県外に最終処分場を設けて廃棄物を運びだし、この土地を元に戻すという政府の約束を信用してはいないからだ。

木村さんが持つ土地の近くには汐凪ちゃんが通っていた小学校が今でも震災当時のまま建っている。しかし、ここも国の中間貯蔵施設の用地計画に入っており、取り壊されるかもしれない、というのが木村さんの悩みだ。

「(この小学校には)思い出がある。つらい気持ちがあるけれど、思い出がよみがえる場所。これを取り壊してほしくない」と木村さんは語る。

「汗と血が染み込んだ土地をそう簡単に手放すことはできない」と、同じ大熊町の地権者であり、30年中間貯蔵施設地権者会の会長も務める門馬幸治さん(60)も苦しい胸の内を明かした。門馬さんの会には、双葉、大熊両町の地権者100人が参加しており、環境省が提示している土地価格、そして借地契約の条件について協議を続けている。

<中間貯蔵が恒久保管に>

地権者の反発を和らげるため、環境省は昨年10回を超える住民説明会を開催した。しかし、地権者との土地取得交渉について、当時の石原伸晃環境相が「最後は金目でしょ」と発言し、その問題をめぐって政府側と地権者は激しく対立。会合に参加したのは登記が確認されている地権者の半数程度に過ぎず、両者間で何ら合意することはできなかった。

地権者側が政府の約束に不信感を抱く背景には、日本で原発が稼働を始めて40年以上経つものの、使用済み核燃料の恒久的な貯蔵施設が建設されていない、という実態もある。昨年11月、国会は福島県に設置する原発除染廃棄物中間貯蔵施設について、「施設使用開始後30年以内に県外最終処分する」と明記した「日本環境安全事業株式会社法(JESCO法)」改正案を可決した。

環境省は「住民が懸念するのは理解できる。しかし、国会で国民への約束をしたわけで、県外最終処分が実現できるように全力を尽くす」とコメントした。

しかし、ある大熊町の73歳の地権者は「政府は中間貯蔵施設を放射性廃棄物の最終的な貯蔵場所にしようと考えているのではないか」となお強い不安を隠さない。「私は彼らを信用できない。30年後にはどうなるかは、誰にも分からないでしょう」。

*見出しを修正しました。

(斎藤真理 編集:加藤京子、北松克朗)

最終更新:3月11日(水)17時56分

ロイター

 

【東日本大震災は新しい日本の始まり】

<卒業式答辞・東日本大震災>



死者15891人、行方不明者2584人、震災関連死3194人。

そして今なお22万9千人の方々が避難生活を余儀なくされています

昨日まで笑いあっていた友人達、愛すべき家族。

その他多くのかけがえのない存在。

一夜にして多くのものを失った国難となりました。

しかしそれと同時に、あの震災により日本の目覚めの胎動が始まりました。

あの震災から自分の中で何かが変わり、生き方・考え方・見える景色、様々な変化が生まれてきた人は少なくありません。

私はあの震災によって、隣にいる人がどれだけ大切な人だったのか。

人の優しさや支え合いはナニモノにも代え難い事だと改めて気づきました。

幸い自分の身は助かれども、それ以上に自分の無力さと、力の無さも思い知る事にもなりました。

何より流通は混乱し、被災地への支援で食品や生活必需品、またはガソリンなど、お金さえあれば当たり前に手に入れる事が出来るはずのものが手に入らなくなり、常識が覆されました。

またその時その時、場当たり的に作り上げてしまってきた社会の脆さも痛感しました。

「今だけ・金だけ・自分だけ」と言う自分の中で、何かが大きく変わり始めたのです。

もちろんお金も大切だし、現実の今が大切だし、自分の事も大切に考えたい。

しかしそれだけで終わる人生で良いのか・・・。

そんな生き方が本当に人間の幸せの道なのか。

強い疑問が生まれたのです。

正確に言えば、あの震災の少し前から何かモヤモヤしていた気持ちが、確信に代わり始めたと言った方が正解かも知れません。

神様はなんて厳しいのかとも考えました。

先の戦争ではすさまじいダメージを受けた日本は、その後多くの困難を何とか乗り越え、今の繁栄があります。

そこへ来ての大震災。

しかしその繁栄と共に失いかけていた精神性が、あの大きな国難によって思い出す事になりました。

その後あらゆる真実が明るみになり始め、今世界が動乱と共に変わらなければならない時に来ているように思います。

あの震災から日本の中で少しづつ何かが変わり、それに呼応するかのように世界が動き始めているのです。

日本が変われば世界が変わる。


それは傲慢な事でも、日本民族優位な思想などでもなく、心を取り戻した社会を創り上げる事が私達に課せられた使命なのかも知れません。

その為に、あの時何が起きたのか、これからをどう生きて行くべきなのか。

大きな犠牲を払えども、それを神様は私達に教えてくれたように思います。

復興もままならない被災地に対して、風化させずに引き続き復興させて行くだけではなく、新しい社会のあり方をあの震災から学び、そして考え、それぞれが出来る事を行っていく。

それこそが本当のお悔やみであり、復興ではないかと思うのです。

上の動画で答辞を読み上げる青年。

「自然の猛威の前には、人間の力は余りにも無力で、天が与えた試練というにはむごすぎるもの。命の重さを知るには大き過ぎる代償でした。しかし生かされた者として、顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きて行く事が、私達の使命です。」

私達日本人があの震災で何をしたのか。

それを改めて知ることで、日本を誇りに思えてくるにではないでしょうか。

その誇りを胸に、私達は前に進むのです。

【東日本大震災】3.11~あの日を忘れない~

【マスコミに惑わされないで】東日本大震災後の韓国の街の様子。あなたは知っていますか?

日に日に日韓関係が冷えきる昨今。
日本のマスコミも韓国のマスコミも、これでもかという程反韓・反日感情を煽る報道を繰り返し、ネットをはじめ現在では心ない言葉の投げ合いをしているのが現状です。
 
ひいてはここ数年、日本でも韓国でも、歴史上でも稀にみる災害や事件が偶然にも頻繁に起きました。
最もインパクトがあったのは、やはり『東日本大震災』。
日本のネットでは、東日本大震災が起きた時に韓国人が「震災を喜んでいた」「天罰が下った」などとネットに書いているとして、今でも「震災の時にですら喜んでいた韓国人を一生許さない」という様な書き込みを散見します。
 
しかし、果たして、本当に全ての韓国人が、ネットに書かれている様に、心ない酷い邪心を震災の時に抱いていたのでしょうか?
 
これは、東日本大震災が起きた後、すぐの韓国の街の様子の写真です。
あの時、街には、こんなメッセージが溢れかえっていたのです。

マスコミの情報だけ見ると、韓国人は皆日本人が嫌いの様に思うこともあります。
しかし、決してそうではありません。
震災の時も、たくさんの人が、日本を応援していました。
 
互いの「良い所」を互いに見れる様になったら、日本と韓国の関係は、少しでも良い方向に進むのではないでしょうか。

【スパリゾートハワイアンズ】

スパリゾートハワイアンズとは、福島県いわき市湯本に所在する、大型温水プール温泉ホテルゴルフ場からなる大型レジャー施設である。

温泉施設

ウォーターパーク(2014年1月撮影)
  • 「スプリングタウン」 - 水着を着用して楽しめる。打たせ湯、オンドル、ミストサウナ、ボディシャワーなど。
  • 「温泉浴場パレス」 - 裸で入浴する大浴場。960平方メートルの大浴場で12種24浴槽(男女合わせて)の温泉施設。
  • 「スプリングプラザ」 - 幅20メートル、高さ3メートルの滝が印象的な広場。
  • 「江戸情話 与市」 - 浴場面積1,000平米、江戸時代の雰囲気がある世界最大の大露天風呂。ギネス・ワールド・レコーズに認定された。

温泉は常磐湯本温泉が引かれている。なお、常磐湯本温泉の泉源は、常磐炭鉱跡地の鉱底をボーリングして開発されている大規模なもの。一度炭鉱採掘により枯渇したが、当施設の開設にあわせ巨額の費用を投じて再開発された異色の存在である。

宿泊施設

  • 「ホテルハワイアンズ」 - 客室数305室あるメイン宿泊施設
  • 「モノリスタワー」 - 一枚岩をイメージした宿泊施設
  • 「ウイルポート」 - 地中海リゾート風宿泊施設
  • 「やすらぎ亭」 - 和風な宿泊施設

オフィシャルゴルフ場

  • 「クレストヒルズゴルフ倶楽部」 - 3コース・27ホール

沿革

設立過程

石炭業界は、朝鮮戦争1950年6月25日 - 1953年7月27日)に伴う1950年代前半の朝鮮特需期には需要増から一時好況となったものの、1950年代後半には労働運動の盛り上がりによるコスト増から低価格な輸入石炭との競合が露呈し、さらに1962年10月の原油輸入自由化によってエネルギー革命が加速して、構造的な不況に陥った。常磐炭鉱(後の常磐興産)での整理解雇1955年から始まった[3]

そこで炭鉱労働者やその家族の雇用創出、さらに同社の新たな収入源確保のため、炭鉱以外の新規事業を立ち上げることになり、『日本人が行ってみたい外国ナンバー1』だった「ハワイ」に着目。炭鉱で厄介物扱いされていた地下から湧き出る豊富な温泉水を利用して室内を暖め、「夢の島ハワイ」をイメージしたリゾート施設「常磐ハワイアンセンター」(じょうばんハワイアンセンター)の建設を計画した。しかし、社内でも先行きを疑問視する声が強く、炭鉱の最前線にいた社員たちの転身にも根強い反対があり、「10年続けば御の字」という悲観的な見方すらあった。最終的には当時の常磐湯本温泉観光社長(常磐炭鉱副社長兼務、後に社長)の中村豊が押し切る形で事業を進めた。

フラダンスポリネシアンダンスのダンサーは、自前で設立した常磐音楽舞踊学院から人材を供給した。

常磐ハワイアンセンター

1964年に運営子会社として常磐湯本温泉観光株式会社を設立し、1966年にオープン。高度経済成長を遂げる日本に於いて、1964年海外旅行が自由化されたものの、庶民には高嶺の花という時代であり、開業前の悲観論を尻目にホテルが当時破格の1泊3万円以上ながら東京方面から多くの観光客を集め、大型温水プールを中心にした高級レジャー施設として年間120万人強の入場者を集めた。年間入場人員は、1968年度には140万人を突破し、1970年度には155万3千人となりピークに達した

1971年ニクソン・ショックによりブレトン・ウッズ体制が崩壊してスミソニアン体制に移行し、1アメリカ合衆国ドル=360円から308円に切り上げされ、1973年には変動相場制移行とオイルショックによって輸出に依存していた日本の高度経済成長は終焉を迎えた。当センターの入場人員も日本の経済状況に合わせて減少し、1975年度には年間110万人にまで落ち込んだ。ハワイ州オアフ島出身のアグネス・ラムの人気もあってか、1976年度はやや入場人員が増加したものの、1977年度以降は年間100万人から多くても年間110万人程度で横ばい状態が続いた、この時期、毎週日曜日および祝日にはアイドル歌手や演歌歌手の歌謡ショーが開催されていた。

バブル景気が始まると、1988年度に一気に年間140万人超まで入場人員が増加した。これを機に総事業費50億円をかけてリニューアルを始めることになった。

スパリゾートハワイアンズ

「スパリゾートハワイアンズ」正面出入り口と、「モノリスタワー」(2014年1月撮影)

1990年、オープン25周年を機に「常磐ハワイアンセンター」を「スパリゾートハワイアンズ」に改名し、「スプリングパーク」をオープンした。同年度および翌1991年度は年間140万人超の入場人員があったが、バブル崩壊1992年度には年間120万人台にまで減少した

一方、1985年プラザ合意により急速な円高が発生してバブル景気期には海外旅行が普及するが、1994年には円相場が1米ドル=100円の大台を突破して円高が進行し、さらに同年の航空法改正でZONE PEX運賃が導入されて格安航空券が一般化した。すると「本当のハワイに行った方が安い」とまで言われるようになり、同年度以降、年間110万人前後で横ばい状態になった

1997年、日本一の大露天風呂「江戸情話 与市」をオープンした。すると、同年度に年間120万人を回復し、ここから右肩上がりに入場人員の増加が続くことになる。これは、前身の常磐ハワイアンセンターから引き継いだ「ハワイ」「南国」というコンセプトに加え、海水浴と比べて日焼けの心配が低い屋内プールや美白の効能があるとされる温泉を備えた当施設が美白を求める女性の需要に合致し、さらに東京仙台などからの無料バスによる送迎サービスを行うなどの集客努力が功を奏したものと考えられている。また、2000年アクアマリンふくしまが開館して人気施設となり、いわき市内で回遊性が生まれたことも影響したと考えられている。2005年度には常磐ハワイアンセンター時代の1970年度以来の年間利用者数150万人を達成した。

2006年9月23日から映画『フラガール』が全国公開されたのを機に、「ワイワイ・オハナ」「アロハタウン」「フラ・ミュージアム」など次々オープンした。すると、翌2007年度には過去最高の年間161万1千人が入場し、かつ、初の年間160万人超を達成した。

アクセス

スパリゾートハワイアンズを扱った作品

フラガール(2014年1月撮影。)

フラガール

1965年の炭鉱閉山から「常磐ハワイアンセンター」の誕生を支えた人々の物語が、『フラガール』と題し映画化された(2006年9月23日公開)。第80回キネマ旬報ベストテン・邦画第1位、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀脚本賞、話題賞(作品部門)、最優秀助演女優賞を受賞した。なお、下記にも記述している「DON!」ではフラガール第1期生のうちの3人と映画に出演した南海キャンディーズしずちゃんおよびこれらの人々を(現在も)指導している常磐音楽舞踊学院・カレイナニ早川講師のインタビューを放送し、さまざまなエピソードなどを話した。なお、フラガールのメンバーは、「東日本大震災」後、被災者支援の一環として福島県内の避難所を中心に全国142ヶ所を廻った。

Wikipedia より 転載

スパリゾートハワイアンズ応援ソング「息吹/AERIAL」

「息吹」
東京の下町を中心に活動するミュージシャンAERIALから、復興に向けてがんばるハ­ワイアンズ、いわき、そして福島の人々を応援するために贈られた応援歌です

フラガール きずなステージ 前半 ノーカット 2011.10.1

2011.10.1 20:00~ スパリゾートハワイアンズ スプリングパーク・プラザ特設会場で行われた期間限定特別公演フラガールきずなステー­ジ グランドポリネシアンショー「きずなの足跡」です。ハワイアンズ再開後の最初のステー­ジです。

フラガール きずなステージ 後半 ノーカット 2011.10.1

フラガール 石井美子 ラストステージセレモニー 2014.6.29

石井さん、14年間ありがとうございました。お幸せに!
20140629 石井セレモニー 1

フラガール 石井美子 ラストステージ「オテア〜虹を」 2014.6.29

グランドポリネシアンショー「オハナこころひとつに」の「オテア」〜「フラガール〜虹­を〜」です。石井美子さん、最後のステージ。

蒼井優としずちゃん、感無量で言葉に詰まる!震災から休業していたスパリゾートハワイアンズ営業再開!

東日本大震災以降休業していた福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズ(常磐興産株式会社)が10月1日、半年ぶりに営業を再開した。再開オープニングセレモニーには、同施設の誕生を映画化した『フラガール』の蒼井優としずちゃんこと「南海キャンディーズ」の山崎静代が祝福に駆けつけ、常磐興産株式会社の斎藤一彦社長らと共にテープカットを行った。

 同施設は3月11日の震災に続き、4月11日にいわき市を襲った震度6強の直下型地震により大プールのあるウォーターパークが甚大な被害を受けて、当初目標にしていた夏の営業再開が不可能に。修復作業を行うと同時に、被災者に温泉施設を解放し、ホテルを避難所として受け入れてきた。また、施設の華であるフラガールたちは「フラガール全国きずなキャラバン」と銘打って、5月3日のいわき市内にある避難所への慰問を皮切りに、全国26都道府県から韓国ソウルまで125か所で震災復興を願っての巡業公演を行った。この日の再開も一部施設のみだが、それでも浮き輪を持った子供たちや「きずな」と書かれたTシャツを来た人たちなど約300人の観客が列を作って開場を待ちわびた。

 オープニングセレモニーで斎藤社長が登壇すると、観客から「待ってました!」という威勢の良い掛け声が飛んだ。続いて蒼井としずちゃんが紹介されると、観客のボルテージは最高潮。映画の撮影で同施設に約2か月間滞在した蒼井は「まさかこんな日が来るとは思ってもいませんでした。わたしは福島出身ではないですが、ここを第二の故郷だと思ってますので、出来る限り皆さんの力になりたいと思ってます。微力なのは分かっているんですけど、何か力になりたい……」と一つ一つ言葉を選びながらあいさつ。しかし、後に続く言葉がなかなか見つからなかったようで「何て言ったらいいんだろう……」と迷いながら「……がんばっぺ」とハニカミながら観客に呼びかけると、大きな拍手を浴びていた。

 続いてあいさつに立ったしずちゃんも「これからまだまだ大変だと思うけど、何かあったら言ってください。何でもします!」と力強く宣言。2人とも映画のキャスト・スタッフと共にいち早くいわき市に義援金を送るなどいわき市の方たちを案じていただけに、観客の笑顔に感無量といった面持ちだった。

 同施設では来年1月に全館グランドオープンを目指しているが、福島第一原発事故の風評被害に加え、いまだ福島を震源地とした余震も多いことから厳しい状況が続いている。それでも斎藤社長は「(放射能の)風評被害を払拭し、ハワイアンズだけでなく福島に人の流れを作る取り組みを行いたい」と意気込んでいる。

また、復興に向けて奮闘しているフラガールたちを4か月に渡って追ったドキュメンタリー映画『がんばっぺフラガール!~フクシマに生きる。彼女たちのいま~』が制作中だったが、この日の営業再開の様子を撮ってクランクアップした。蒼井が同作品のナレーションを担当する。(取材・文:中山治美)

 映画『がんぱっぺフラガール!~フクシマに生きる。彼女たちのいま~』は10月29日全国公開

 

【ハワイアンセンターの思い出!!】柳

幼い時、1度だけ家族旅行で、ハワイアンセンターに、連れて行ってもらいました。夏休みだったので、かなり混んでいた印象があります。センターの中に入り、水着に着替えて、プールに立つと、あまりの広さにビックリしました。テンションが上がって、笑顔になったのを覚えてます。複雑な家庭環境だったので、笑顔になる時は、なかったので、自分でも自分が、不思議に感じました。当時 1泊30,000円 は、かなり高く、家族5人は、さぞ大変だったと思います。今になって親に感謝です。日頃 暴力をふるう親父も今日ばかりは、普通の親として過ごしてくれました。とっても楽しかったです。忘れられない思い出です。ハワイアンショーも、見ました。サモアファイアーダンス、フラダンス。歌謡ショー。歌謡ショーは、当時の有名な歌手が来てました。演歌歌手が、中心ですが、若手のアイドルも来てました。それだけメジャーな、施設だったんですね。まさか、後に何度も訪れる事になるとは、当時の幼い俺は、知る由もありませんでした。

それから、15年 経って再びハワイアンズ に訪れたのは、就職したての、若造が食品メーカーの営業で、東北地区担当になり、昔の楽しかった思い出を思い出し、訪れたのでした。毎月泊まるたびに友達が増えて、仕事でも取引できる様になりました。ハワイアンズの皆様、ありがとうございました。センターの中のスナックで朝まで飲みましたね。とっても楽しかった。舞台にも出してもらいました。それだけに、フラガールの大ヒットは、本当に嬉しかった。震災は本当に悲しかった。辛かった。そして、復活して、飛び上がる程、喜びました。今は、出張する事も無くご無沙汰しておりますが、いつまでも、俺は家族だと思っています。

- 青空と向日葵の会  Apex product 代表 柳 -

「がんばっぺ フラガール!」 予告編

【10月29日(土) 新宿ピカデリー 丸の内ピカデリー他にて全国ロードショー】
復興支援ドキュメンタリー映画 

3.11 東日本大震災 踊る場所を失ったフラガールたちの感動の200日。

2011年3月11日に発生した東日本大震災により甚大な被害を受けた福島県いわき市。
地震、津波、原発事故、風評被害の四重苦にあえぐこの地で、東北のハワイとして長い間親しまれてきた大型レジャー施設・スパリゾートハワイアンズは、避難住民に一部施設を提供しながら営業再開に向けて動き出した。
2006年に公開された映画『フラガール』でも描かれた、フラガールたちによる全国キャラバンも46年ぶりに復活。自らが被災しながらも、踊り続けることを決意した現代のフラガールたちは、ひとりひとりが抱える事情、暮らし、思い、度重なる苦難を乗り越え、すでに復興への“次なる大きな一歩”を踏み出していた。
いわきに住む人々の姿が私たちを、そしてこの先の日本を勇気づける。彼女たちの今を伝えるために『フラガール』のメイキング番組を手がけた監督の小林正樹はじめ、ナレーションに蒼井優、音楽にジェイク・シマブクロと『フラガール』のキャスト・スタッフが作品に参加。主題歌は東日本大震災で本人も被災したRakeが、復興を象徴する歌としてベストセラーとなった「100万回の『I love you』」を提供している。
[ 2011年10月全国劇場公開 ]

映画『フラガール』 感動のラストシーン

【「原発ゼロ」はやればできる】~福島県で小泉元首相、語る~ - Japan In-depth編集部

 

小泉元首相が雪国で吠えた。



東日本大震災・福島第一原子力発電所事故から4年を迎えた2015年3月11日、福島県喜多方市で、元内閣総理大臣、一般社団法人自然エネルギー推進会議の発起人代表小泉純一郎氏の講演会が開かれた。



原子力に依存せず、再生可能な自然エネルギーを「地域内で資金を循環させ、地域の自立を実現する」という理念の元に2013年に設立された会津電力株式会社が講演会を主催した。題して「日本の歩むべき道」。



言わずもがなだが小泉氏は、東日本大震災後に、同じく元首相細川護熙氏と共に一般社団法人自然エネルギー推進会議を立ち上げ、原発ゼロの日本の実現を訴え続けている。



大吹雪に見舞われた講演会当日、交通機関のダイヤが乱れる中、会場にはおよそ950人が詰めかけほぼ満席となった。冒頭行われたパネルディスカッションでは、再生可能エネルギー先進国である欧州の現状とその可能性について活発な議論が交わされた。



続いて行われた講演で小泉氏は、「総理在任中は原発を推進していながら、今度はゼロにするとはあまりにも無責任じゃないか、と批判もされる」としながら、「当時、専門家から原子力はなくてはならないと教えられ、真に受け、経済成長も考慮して推進してきた。しかし、専門家達が言っていたその必要性とは全部うそだった」と述べた。



その上で小泉氏は、この「うそ」は大きく分けて3点である、と指摘した。それらは、原発は 1)安全 2)コストが最も安い 3)クリーンエネルギーである、というものだ。



日本だけではなく、過去50年間の間に世界で3つもの原発事故による取り返しが付かない大惨事が起こっているにも関わらず、(日本が)安全とはどうゆう意味なのか明確でない、と小泉氏は指摘した。



また、小泉氏は、「日本は世界でも原発安全基準が一番厳しいと言われているが、その基準は国民に十分に説明されているとは言えない」と述べると共に、「日本の原発は一番テロ攻撃にも狙われやすいと世界中も言っている」と日本の原子力発電所のセキュリティーにも疑問を呈した。



さらに、「(原発ゼロを)やればできるのにやろうとしない」、「判断力が落ちている」と安倍政権を批判した。一国の指導者である安倍首相が、「(原子力発電について)やっぱり状況は変わっていない、安全ではない、コストも安くない、クリーンでもない、やっぱゼロにしよう、といえば、自民党も、野党も(原発ゼロ推進に)協力するよ。」と小泉氏は述べた。


また、日本は再生可能エネルギーというものを活用できる環境がととのっているのに十分に活用できていないのが「勿体ないし、惜しい」と残念そうにつぶやいた。



「日本はいつもピンチをチャンスに変えてきた。敗戦後、東京大空襲、広島、長崎に原爆が落とされても、300万人以上が戦争で尊い命を落としても、屈しなかった」と述べ、日本の底力を強調すると共に、今後も原発ゼロへ邁進して行く決意を表明した。



会津電力は昨年太陽光発電所の運用を開始、市民ファンドや地場の金融機関の融資などを得て設立された。代表の佐藤彌右衛門氏は福島県は原発に頼らずとも再生可能エネルギーによる電力で十分需要を賄えると主張している。2月には飯館電力が同じく太陽光発電を開始した。



こうした中、政府は再生可能エネルギー固定価格買取制度の見直しを進め、太陽光発電の買い取り価格が引き下げられた。その為、福島で進んでいるエネルギー地産池消の動きにブレーキがかかる可能性も否定できない。震災から丸四年。政府は福島県含め被災地の事情を十分考慮して、新たなエネルギー政策を立てるべきだろう。

【あなたは、一人じゃない。一人で悩まないで!!】命のメール受付・柳

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