Apex  product 【日中 友好!!】①

私は、日本同様に、中国も愛してます。私の心友の住む、アモイとハルピンをご紹介致します。どちらも素晴らしい都市です。是非 ご興味が湧いたら出掛けて見て下さい。必ず良い出会いが訪れるでしょう。歴史の国 中国は奥が深いです。私は、第二の故郷と思っております。同じ地球人、アジアの仲間 仲良くしないでどうするんでしょう。単純な私は、そう思います。お互い様。意地張らずに

友好関係を築きましょう。

 

- 青空と向日葵の会  Apex product  代表 柳 -

【廈門市】

福建省南部、九龍江の河口に開けた海浜都市。厦門港には「海上の楽園」と呼ばれる島が浮かび、温暖なリゾート地としても知られる。古くから東南アジアとの交易があり、経済特区として発展を続けている。

アモイ概況

アモイ(アモイ)は、中国4つの経済特区の一つであり、有名な華僑の故郷の一つで、現在、海外に居住しているアモイ出身の華僑は35万人ほどといわれています。アモイ本島、鼓浪嶼島と内陸九竜江北岸の一部の沿海地区からなっています。中国で最も早く対外開放を実施した4大経済特別区の1つでもあります。現在も経済特別区を持つ港、マリンリゾートのメッカとしても知られています。華僑の故郷、台湾人の本籍地、輸入出の主要港口でもあります。

アモイは中国福建省南部に位置する美しい沿岸部都市で、廈門本島、コロンス島(鼓浪嶼)、九竜江北側の沿岸部や周りの小島、同安県からなり、総面積は1516平方キロです。漳州、泉州を背にして金門島と向かいあい、台湾海峡を隔てて台湾澎湖列島に臨んでいます。マカオや台湾に近く、遊覧船もあるので台湾のお土産も買うことができます。アモイは沿海都市なので海産物が豊富です。アモイへ海鮮料理や新鮮な刺身を食べに来る人も多いです。

アモイは亜熱帯モンスーン気候に属し、温かくて降水量も多いです。年間の平均気温は21℃で、最低気温は4℃です。夏は熱すぎず、冬も格別寒くはありません。太平洋気流の影響で毎年4、5回の台風に襲われ、主に7月~9月の間に集中しています。アモイの日照時間は長く、日当たりが良いため一年中をとおして花々や緑におおわれています。春と秋の両シーズンが旅行に最適な時期で、4月~7月くらいがよいでしょう。

海に囲まれているためアモイの景色は美しく、砂浜が広く、日当たりもよいので、島、礁、岩、寺、花、木はお互いに引き立てあって美しい自然景色を形成しています。西洋の雰囲気に満ちたコロンス島、草木が鬱蒼としている万石植物園、神秘優雅な南普陀、威厳のある姿で海に向かっている胡里山砲台や台湾民俗村等の文化観光地も数多くあります。華僑の故郷であり、福建台湾の民俗や海辺の美食、外国の建築物ありと特色のある観光都市として大人気を博しています。

美しい海島風光

総面積は1565平方キロメートル。全市総人口は約127万人で、そのうち都市部の人口が40%を占めている。アモイの観光資源は豊富です。美しい海島風光、すばらしい亜熱帯気候、さんらんたる歴史文化、便利な交通と整備された観光施設はますます多くの国内外の観光客を引きつけている。今では、「一番暖かい都市」、「中国クリーンシテイー」、「中国園林都市」、「中国環境保全模範都市」、「中国優秀観光都市」及び「中国十大住み心地の良い都市」と評されています。

昔から「海の花園」との名声が高く、「海に囲まれて海を囲む」の特色を始めとして、山、海、岩、洞、寺、園、花、木など豊富多彩な観光資源に恵まれています。

市花---三角梅

アモイの市の花は三角梅です。

別名:三角梅,三角花,南美紫茉莉

赤,ピンク,橙,黄,青むらさきなどの色があります。このきれいな色は花のように見えますが,そうではありません。「がく」とよばれる花びらをつつむ部分です。 つる状の植物です。

市の木---鳳凰木

鳳凰木は、熱帯の3大花樹の1つで、初夏~秋まで鮮朱赤色の花を咲かせ続け、シダに似た涼しげな緑色の葉との対比が美しい落葉高木です。花は大きく開花し、雄しべと雌しべを突出させます。

日本語では正式には鳳凰木(ほうおうぼく)と言うが、火炎樹(かえんじゅ)と俗称されることもあります。鳳凰木はベトナムでは南北を問わず見ることができ、5月から7月にかけて真紅の花をつけています。このハデな色のため、火炎樹の別称もあります。

ホウオウボク(鳳凰木)の樹形は、整っており、笠状であり、大きな葉が多数出るので、樹下はとても涼しいです。花後に、枝からぶら下るように、青い大きな剣状の莢(サヤ、豆果))が生りますが、時間の経過と共に黒く変色し、少し不気味に見えます。

鳳凰木の花はベトナム語では「ホアフオン」とよばれています。ホアは花、フオンは漢字で「鳳」であるから「鳳凰の花」といった意味で、日本語の鳳凰木と同じ言い方です。熱帯地方では、ホウオウボク(鳳凰木)は、街路樹として普通に植えられます。種子は、レイやネックレス等の素材として使われ、土産物として売られています。


アモイの区域


アモイ市には思明、湖里、海滄、集美、翔安と同安区の6つの区があります。

アモイの基本情報

  • 名称:厦門
  • ピンイン:xià mén
    • 別名:鷺島
    • 所属地区:福建省
      • 人口:353万人
      • 面積:1569 K㎡
        • 郵便番号:361000

廈門市(アモイし、中国語: 厦门市英語: Amoy City)は、中華人民共和国福建省南部に位置する地級市。日本を含め一部の国ではアモイ (Amoy) と呼ばれている。中華人民共和国の5大経済特区の1つであり、副省級市にも指定されている。華僑のふるさとの街としても知られる。

市名

19世紀より、廈門は「アモイ (Amoy)」の名で国際的に知られていた。廈門の古い地名「下門」は、閩南語漳州方言では白話字 (POJ) ローマ字表記で Ē-mûi と書くようにエームイと発音され(廈門方言と泉州方言では Ē-mn̂g エームン)、これがアモイに転じたと思われる。

「廈」と「厦」はともに「大きな家」を意味し、互いに異体字の関係にある。「厦」も古くからある字体であり、簡体字ではない。ただし、「厦」は俗字とされてきた。中華人民共和国では、簡体字の正式採用前の1955年に「第一批異体字整理表」が発表され、「廈」の字体は使用しないこととされた。よって、現代中国では「廈門」を「厦门」と表記する。

地理

福建省南部の九竜江河口付近に位置し、市内には廈門島鼓浪嶼などの島嶼部が含まれる。廈門島や大嶝島から近い金門島小金門島などは中華民国(台湾)の実効支配下にあり、台湾海峡を隔てて台湾に臨む。

歴史

晋代には晋安郡同安県が設置されていた。五代十国から宋代泉州に属した。1387年洪武20年)に廈門城が築かれて「廈門」という地名が初めて使用されている。明末清初には1650年永暦4年)に鄭成功は廈門を本拠地とし思明州と命名、反清活動を行ったが、1680年康熙19年)、この地を占領した清朝により思明州は廃止されている。1684年(康熙23年)の対外貿易を再開に際しては廈門は中国人商人による東南アジア貿易の拠点として繁栄し、また台湾の開発が進むにつれて台湾との貿易も増大した。

アヘン戦争では1841年(道光21年)にイギリス軍により占領され、翌年の南京条約によって外国人に対して開港、1860年代からは茶葉の積出港として海外に知られるようになった。1862年同治元年)にイギリス租界が、1902年光緖28年)には鼓浪嶼に共同租界が設置され、外国商社の商館が進出した。その後、廈門の茶葉は日本茶台湾茶との競争にやぶれて衰退、また台湾との貿易も日本の台湾領有によって衰退した。一方で廈門出身者の海外移民が増加し、大東南アジア方面からの出稼者からの送金で廈門の経済は維持された。また20世紀になると東南アジア華人からの投資も始まった。1935年民国24年)、市制が施行されたが、1938年(民国27年)には日本海軍が占領、1940年(民国29年)の汪兆銘政権成立後は廈門特別市が成立している。1945年(民国34年)8月の日本敗戦に伴い汪兆銘政権は崩壊、中華民国の行政権が回復したが、まもなく始まった国共内戦の結果、1949年10月に共産党軍によって「解放」されている。

中華人民共和国成立後は、1973年同安県を統合、1997年には同安区を設置している。改革開放政策により、1981年経済特区が設置され、主に対岸の台湾資本を集めて経済成長を遂げた。2000年には大規模な汚職事件が摘発され、200人以上が逮捕された。

中華民国台湾)が実効支配している金門県との間に限定的な直接交流である小三通が認められている。

華僑の出身地として現在も東南アジア各国との交流が盛んであり、タイシンガポールフィリピン領事館を置いている。

行政区画

廈門市は以下の6市区によって構成される。

  • 思明区 - 廈門島南部に位置し、アモイの都心である。人口は73.6万人。
  • 湖里区 - 廈門島北部に位置する。人口は12万人。
  • 集美区 - 市の中央部に位置し、廈門島とは廈門大橋、集美大橋、杏林大橋で連絡する。旧杏林区を併合。台商投資区が設置され、人口は28万人。
  • 海滄区 - 廈門島対岸に位置し、廈門島とは海滄大橋で連絡する。台商投資区が設置されている。
  • 同安区 - 市域北部を占める。人口25万人。
  • 翔安区 - 市域北東部を占める。同安区から分離。廈門島とは翔安トンネルで連絡する。中華民国|台湾の統治する地域金門島との距離が一番近い。
  • Wikipediaより転載

【ハルピン市】

ハルピンの概況

ハルピン市(哈爾濱)は中国最北部に位置する黒龍江省の省都で、中国東北部の経済、文化の中心のひとつで、東北経済地区で第二の都市です。ハルピン(哈爾濱)は北緯44度、東経125度に位置しています。黒龍江省の西南部東北平原の東端にあり、大陸性気候に属する。市の総面積は1.8432平方キロメートルで。総人口約950万人。そのうち中心部の面積は約1637平方キロです。人口は約570万人です。

19世紀末まで小さな漁村にすぎなかったハルピンが劇的な変化をしたのは、清朝と帝国ロシアの不平等条約により開始された東清鉄道の建設が始まりです。その帝政ロシアの支配の下、人口は急激に増えていきハルピンは近代都市として大きな変貌を遂げました。

ハルピンのヨーロッパ式建築

20世紀初頭には秋林公司や馬迭爾賓館といった現在でも有名な欧風建築が数多く建てられました。商業地や住宅地に限らず風格のある西洋古典式、ビザンティン式、ゴシック様式、アール、ヌーヴォー様式、アールデコとモダニズム、中華バロック式(西中折衷式)シベリヤ様式イスラム様式などのさま名建築物が建てられ、現在でもこれらの欧風建築物が残っているため、ハルピンは東方のモスクワ、東方の小パリなどと呼ばれています。 また移民都市であるため、市内に住む人々は非常にきれいな標準語(北京語)を話します。

ハルピンのロシア風情

st sofia orthodox church聖ソフィア教会堂

20世紀初期、中東鉄道が開通したことによって多くの外国人がハルピンを訪れるようになりました。その中、一番多いのはロシア人でした。ゆえに当時のハルピンは有名な国際商業都市でした。

現在でもロシア風の建築やロシア式レストランの老舗は数多くあります。サン・ニコラ教会堂、聖ソフィア教会堂を代表とする教会建築、中央大通りのモダン賓館、現在の黒竜江省博物館などは典型的なロシア式建築です。

ハルピンの飲食習慣もロシアの影響を受けています。ハルピンにはロシアスタイルのレストランがたくさんあります。ロシア風情に溢れたレストランで、ロシア風のハンバーグ、サラダ、ボルシチ、エビ料理、マッシュポテト、牛肉とじゃがいもの煮込みなどを味わうことができます。

ハルピンではマトリョーシカ人形、錫器、装身具箱などロシア風の工芸品が手に入ります。夜にはモスクワ大劇場でロシアの音楽と舞踊を観賞し、異国風情を体験することができます。

夏は避暑地、冬は氷雪世界

the ice and snow world氷の城

夏(7~9月)のハルピンは理想的な避暑地です。気温が低く、涼しいのでとても快適です。夏のハルピンの代表といえば木々が青々と茂り、美しい松花江と太陽島でしょう。松花江のほとりは、いつもにぎやかで多くの人たちがここに集まり、ビールを飲んだり美しい景色を眺めたりしています。特にビール祭りの頃には、中国東北地方の人々が豪快にビールを飲み干す姿は松花江と共にユニークな風景になっています。

太陽島観光エリアは太陽島とそのあたりの諸島や砂州からなっており、観光・避暑地になっています。ここでは相映る山と湖、透きとおった渓流、滝、立派なあずまやや青々とした柳、ぴちぴち跳ねる魚などの美しい風景が現代の人々の心を癒してくれます。

ハルピンは北国の氷城として有名です。アジア最大のスキー場と言われているアブリスキーリゾート、二竜山スキー場、欧亜之窓スキー場など、設備が完備し、規模が大きいスキー場は数十箇所あります。年に一度の「ハルピン氷雪祭」は、ここの氷雪を利用した盛大な祭典です。すらりと立ち並んでいる氷に覆われた山の峰、あちこちに飾られる氷のちょうちんや雪で作られた彫像は人の目を引き、いつまでも見ていたいという気持ちにさせることでしょう。

ハルビンの基本情報

  • 名称:哈尓濱(ハルビン)
  • ピンイン:hā ěr bīn
    • 別名:冰城 東方莫斯科 東方小巴黎
    • 所属地区:黒龍江省
      • 人口:1063.6万人
      • 面積:53100 K㎡
        • 面積:31200 K㎡

ハルビン市(ハルビンし、簡体字: 哈尔滨市拼音: Hā'ěrbīn英語: Harbin)は中華人民共和国黒竜江省に位置する副省級市。黒竜江省人民政府の所在地であり、黒竜江省の政治・経済の中心である。市区人口は587.9万人、都市圏人口は1063.5万人の大都市である。

歴史

市名の由来としては、白鳥を意味する満洲語、平地を意味するモンゴル語、栄誉を意味する女真語などの諸説があり定まっていない。

晋代には夫余隋代には靺鞨唐代には渤海鄚頡府の地とされていた。遼朝が成立すると東京道完顔部の支配地となり、やがて完顔部の首領であった阿骨打により金朝が建国されると上京会寧府の管轄とされ、阿城区には金朝の都城であった上京会寧府の遺跡が残る。

元代になると遼陽行省開元路が、明代には奴児干都司、清初には寧古塔将軍の、後に阿勒楚喀副都統の管轄とされたが、開発が制限されたため当時は森林地帯を形成していた。本格的な開発が着手されたのは光緒初年に民官が設置された後である。松花江を境界として南に吉林将軍の管轄である賓州、双城庁を設置、北側を黒竜江将軍の管轄である呼蘭副都統の管轄とされた。

1898年光緒24年)、ロシア帝国により満洲を横断する東清鉄道建設が着手されると、交通の要衝としてロシア人を初めとする人口が急激に増加し経済の発展をみるようになった。1905年(光緒31年)10月31日、清朝は哈爾関道(浜江関道を設置)、翌年5月11日には正式に道署を設置し現在の浜江城(現在の道外区)に駐在するようになった。

1907年1月14日、清朝はハルビンを対外交易拠点とすることを決定、吉林将軍及び黒竜江将軍の奏准を容れ浜江庁を設置、浜江関道の管轄とされ行政権の強化が図られた。これに対しロシアは同年11月23日に中東鉄道管理局による『ハルビン自治公議会章程』を発布、埠頭区(現在の道里区)、新市街(現在の南崗区)の7,000平方キロメートルの地域を市区と定め公議会の管轄とし、清朝に対抗した。

1909年10月26日ハルビン駅頭で日本の枢密院議長伊藤博文安重根に暗殺されている。ハルビン市は黒竜江省の中南部、北流してアムール川に注ぐ松花江の河畔に位置する。

中華民国が成立すると1913年3月に浜江庁は浜江県と改称され、翌年1月31日には松北市政局に改編された。更に1921年2月5日にはハルビン市政管理局、1923年3月1日に東省特別区行政長長官公署が正式に成立すると公署がハルビン埠頭区に設置され、現在の政治的な地位の基礎が築かれた。1926年3月30日に東省特別区市政管理局はハルビン市公議会を廃止、ハルビン自治臨時委員会が設置され、ロシア人による統治が終焉した。同年6月17日には『ハルビン特別市自治試弁章程』を施行し、埠頭区、新市街をハルビン特別市管轄区域とし、それ以外の馬家溝、老哈爾浜(現在の香坊区)、新安埠、八区、顧郷、正陽河等の地域を東省特別区市政管理局の管轄とした。

満洲事変が勃発、満洲国が建国されると、1933年7月1日にハルビン特別市が成立し、東省特別区市政管理局の管轄とされた。その後1937年7月1日に浜江省管轄の普通市に改編されるなどの行政改編が行われながらも満洲地区からロシア・ヨーロッパ方面への鉄道輸送の要衝として発展し、1940年に実施された国勢調査では人口60.55万人に達している。

満洲国が崩壊し、国共内戦の結果中国共産党1946年4月28日にハルビンの支配権を獲得すると直ちにハルビン特別市政府を設立、1948年4月21日には省轄市に改称し松江省省政府が設置された。1954年6月19日の松江省と黒竜江省の合併により黒龍江省に移管され、省人民政府が設置され現在に至っている。

その他

ロシア革命後、ソ連中東鉄道(東清鉄道の後身)の利権を維持し、満洲国に譲渡したのは1934年のことだった。

気候

ケッペンの気候区分では亜寒帯冬季少雨気候に属し、夏と冬の温度差が非常に大きい顕著な大陸性気候である。1月の平均気温は−18.6℃と世界の大都市の中では最も寒い部類に入る。朝の最低気温は平均で−23.9℃にまで下がり、−40℃以下まで下がることもあるが、非常に乾燥していて降雪はほとんどない。この寒さのため、ハルビンは氷の町と言われている。一方、夏は暑く7月の平均気温は22.8℃、日中は平均で28度程度まで上がり雨も多く、年間降水量のほとんどが6月から9月で占められる。年間平均気温は4度、年降水量は502.3ミリである。

絶対に行くべき絶景
━━━━━━━━━━
中国丹霞(甘粛省、中国)...

中国丹霞(たんか)とは、中国南部にある切り立った断崖などを伴った赤い堆積岩の地形で、2010年に世界遺産に登録されています。

同じ地球上とは思えないカラフルな色合い。
鮮やかな色が織りなす、独特な景観をご覧ください。

「中国丹霞地形」の主なものは湖南省、広東省、福建省、江西省、貴州省、浙江省などに存在し、6カ所とも有名な丹霞地形の観光地区であり、まとめて世界遺産に登録されました。

主にジュラ紀~新第三紀に形成され、雨季に川や湖に流れ込んだものが堆積した結果、このような独特の景観になったそうです。

レアアースの「中国依存」・・・脱却を進める日本=中国メディア

中国メディアの中国稀土在線は10日、日本が2014年に輸入した希土類(レアアース)の量は2万2307トンに達し、世界最大のレアアース輸入国だったことを紹介する一方、08年から14年までの財務省貿易統計を紹介したうえで、日本の「中国依存からの脱却」が進みつつあることを示した。

 記事は、「今なお日本はレアアースの輸入を中国に高く依存している」とする一方、日本が14年よりマレーシアからのレアアース輸入を開始したことを紹介。マレーシアからのレアアース輸入は12年は0トン、13年はわずか9トンだったものが、14年は一気に1218トンまで増加したことを紹介した。

 財務省貿易統計によれば、日本が輸入するレアアースを国別で見た場合、08年の輸入量は3万4330トンで、中国産が全体の90%以上を占めていたが、09年にはレアアースの輸入量全体が減少した影響によって中国産の占める割合も85.49%にまで減少。さらに、尖閣諸島(中国名:釣魚島)沖で発生した漁船衝突事故および中国のレアアース差し止め措置によって同割合は81.61%にまで減少した。

 日本は中国によるレアアース輸出の差し止め措置を受け、中国に輸入を依存する危険性を認識、調達先の多元化のほか、都市鉱山からの回収、レアアースを使わない技術の開発などを進めた。

 その結果、中国から輸入するレアアースの割合は10年の81.61%から11年には68.37%まで低下、さらに14年には59.64%に低下した。

 逆に、日本がベトナムやフランス、エストニアから輸入するレアアースの量は年々増加しているほか、特にマレーシアからのレアアース輸入の伸びが著しいことから、記事は、世界最大のレアアース輸入国である日本が、現在輸入しているレアアース全体に占める中国産レアアースの割合は「15年も減少することが予想される」と懸念を示した。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

最終更新:4月16日(木)13時53分

サーチナ

【中国人の私が帰化して新宿区議選に出る理由】

前半戦が終了した今年の統一地方選挙。後半戦も多くの自治体で選挙が行われるが、東京都新宿区の区議会選挙では、異色の“日本人”が立候補する予定だ。それが、李小牧(り・こまき、リ・シャム)氏である。
日本在住27年、留学生として来日した後、同区内にある日本一の歓楽街・歌舞伎町の「案内人」として著書も多数あり、日本でも知名度が高い人物だ。李氏は今年2月に日本国籍を取得したばかり。なぜ李氏は今回の地方選挙に出馬するのか。李氏の胸の内を聞いてみた。

【写真】私が新宿区議選に立候補したワケ

 ――日本国籍を取得してわずか2カ月。日本国籍者として早速の権利行使です。

 すべては私の好奇心からです。私はもともと好奇心が強い人間。そして、日本に住みながら日本と中国のことを考えてきたのですが、その考えと好奇心が立候補へと押し上げました。

■ 「中国ではできないこと」が、日本ではできる

 ――帰化申請前から「民主主義をしてみたい」と発言されていました。

 そうです。自分も投票できて、選挙にも立候補できる。これ以上の民主主義はありません。中国にいる限り、こんなことはできない。日本に来て、私はやりたいことをすべてやってきました。それは、本を出す、新聞を出す、ラジオやテレビなど放送にも出るということ。これらはみんな言論の自由です。民主主義の一つですが、これが中国にいてはできないものです。

 言論の自由を楽しみにながら、もちろんおカネもたくさんかかりましたが(笑)、さらに感じたことがあるのです。私がプロデュースした中華料理店にはこれまで、(1989年の)天安門事件に参加した民主化活動家が多くやってきました。

 中国を離れて、米国やカナダ、欧州、台湾などからいろんな活動家がやってきて、私のお店で侃々諤々の議論をやっている。彼らの話を聞きながら、「民主主義はこういうことなんだ」と、ますます民主主義に関心を持つようになりました。

 そこで自分の周りを振り返ってみたのです。私がベースにしている歌舞伎町には多くの外国人がいます。新宿区の人口は約32万人、その1割超が外国人です(2015年3月現在)。

 歌舞伎町だけでなく、新宿区には多くの外国人が住み、日本国籍を取得した人も少なくはない。そう気づいた時、日本国籍取得者をはじめ外国人を代表するような人がいないのではないか、と思ったのです。

 現実的に、外国人が住んでいる。でも、日本人との接点は少ない。日本には国会でも外国系日本人の議員はほんのわずか。そこで、私のような日本経験が長い人間が彼ら外国人の代表になれないか、日本人との架け橋になれないかと思いました。

 ――これまで中国人が日本国籍を取得して立候補するケースはないですね。立候補だけでも異例、さらに選挙に当選したらビッグニュースです。

 そうなると思います。それは、日本よりは中国で大きなビッグニュースになるでしょう。なぜなら、中国人は私が立候補したことさえ簡単に理解できないと思います。中国にいれば経験することはおろか、見聞きしたことさえないのですから。日本に住んで日本国籍を取得すれば、投票ができて、しかも立候補できるということ自体、なかなかわからないでしょう。

■ 「もし私が当選すれば中国に大衝撃になるだろう」

 だからこそ、私はそんな自分を中国人に見せたかった。民主主義が中国にはないから。私はこれまで、言論の自由を行使しながら(笑)、中国でも有名人になりました。「李小牧が立候補できた、しかも当選した」となったら、中国人はどう思うでしょうか。彼らの日本に対するイメージも変わるし、そして自国の政治や民主主義を考えるきっかけに必ずなると思います。

 私の日本人の友人で、中国が大好きな人がいました。好きなあまり、中国人女性と結婚した。そして留学もしたのに、帰国したら中国がすっかり嫌いになってしまった。

 政治体制、共産党、環境汚染などなど、中国を徹底的に非難する人に変わってしまいました。この友人は極端な例であってほしいと思いますが、彼の非難は中国人がこれまでやってきたことの結果に対するものです。だから、中国にもよくなってほしいし、私の立候補でどうすればよくなるのかを考える契機になればいいと考えます。


 ――中国や韓国など、日本は今、隣国との関係がよくありません。そのような中、街頭での政治活動は問題ありませんか。

 まったくありません。もちろん、街頭で話をしていると「中国に帰れ!」と言ってくる人が毎日10人ぐらいはいます。また、「本当に外国人なのか」と思ったのか、じーっと私を見つめ近寄ってくる人もいます。確かに気分はよくない。

 それでも、毎日新宿を歩いてみると、私をきっかけに政治に関心を持ち始めた人がいることを実感します。たとえば、オフィスなどに入ってあいさつをすることがあります。中には、外国人が多いオフィスもある。すると、「あの李小牧さんですね。公約、読んでいますよ」と言ってくれるオフィスが少なくはない。そこで働く人のなかには、帰化して投票権がある人も、投票権がない外国人もいますが、私の政治活動を記したチラシなどを読んで話しかけてくれるんですよ。

 ――投票権がある外国人の、日本の政治に対する関心はどの程度でしょうか。

 正直言えば、これまで「われわれにはまったく関係ない」というのが本音でしょう。日本に中短期に滞在し、カネを稼ぐためだけにいる。それさえできればいいという外国人が多いし、私もそれは理解できます。

 でも、投票権のある外国人でさえ政治への関心がない。一票を投じることができるのに、日本の選挙がどんなものか、あるいは実際に投票とはどうするものかさえわからずにいる人が多いのです。それが、私が立候補したことで、「投票どころか立候補もできるのだ」とわかった人もいるのです。

■ 「投票は1人でできるの?」と真顔で聞く知人

 こんなことがありました。ある中国人でもう何十年も前に帰化した人ですが、投票の意味がわからない。「団地である政党の人と握手してしまったけど、実際の投票には違う人を書いてもいいのかしら」と言ってきた人がいます。また、「投票は1人で行ってもいいのか、誰か付き添わなければいけないのか」と言ってきた人もいます。実は私もかつて、「投票は1人でできるのか、誰に投票したのか本当にわからないのか」と心配していました(笑)。

 私が日本国籍を取得した時、瞬く間に30人ぐらいが「どうしたら帰化できるか」と相談にやってきました。彼らが帰化したいと思うのは、日本が好きだからこそなのです。好きな国だからこそ長くいたい。であればこそ、合法的に、そして日本の人とともに長く住めるようになりたいと願っているのです。それならば、日本で長く住めるルールを教え、日本人とどう共生できるかも伝えたい。これも、私が立候補してアピールしたい一つなのです。

――それでも、外国人に拒否感を覚える日本人は少なくありません。李さんが考える共生とは、どんなイメージでしょうか。

 一つ日本人に助言したいのは、「外国人にとってやさしい所は、日本人にとってもやさしい所になる」ということです。2011年の東日本大震災は、私にとってもショックでした。最もショックだったのは、余震や原発事故による放射能を心配して、中国人をはじめ外国人があっという間に帰国してしまい、しかもあまり戻ってこなかった。これは、彼らのように帰国してしまった人は、普段から日本人との関係が希薄であったことが大きな原因だと考えています。

 なぜか。私は、少なくとも彼らよりは日本人を知っています。日本人と付き合って、日本人がどのような人たちかを理解しています。余震や放射能は確かに怖いかもしれないが、同じ場所に住んでいる日本人はとどまっている。彼らと普段から地域的な関係を持っていれば、また日本人との良好な関係があれば、帰国という拙速な行動をとることはなかったはずです。

■ 外国人が住みやすい所は、日本人も住みやすい

 だからこそ、私が彼らと日本人の間に立って、議員になれたらその地位を生かして橋渡しをしたい。互いに良好な関係を構築できれば、これは日本人にとってもよいことだと確信しています。そのためのルールづくりや交渉に、議員という仕事は有効なのだと考えています。

 それは、外国人も日本で役に立ちたい。災害が発生したとき、逃げるのではなく、ボランティアなどで復旧活動をしたいと思う人がいます。地域での関係が密接であればあるほど、そんな気持ちが湧いてくる。そんな関係が東日本大震災でなかったことは非常に残念でなりません。

 具体的な取り組みも、私はすでに考えています。日本の地域には神社などがあって、夏や秋にはお祭りがある。それに外国人も気軽に参加できるようにして、日本人と仲良くなってもらう。

 防災訓練があれば、できるだけ参加してくれるように働きかける。そんな活動がどうなるか。これが、2020年の東京オリンピックのボランティアにつながるなど、高齢化・人口減を迎える日本にとって最大の武器になると思うのです。幸い、東京都にある日本語学校の3分の1が新宿区にあります。日本語を勉強する外国人は、少しでも上達の機会をつかもうと喜んで参加するでしょう。参加へのきっかけや後押しを、私はしてみたい。

 私は中国系日本人として、日本人に言いたいことも、外国人に言いたいこともどちらとも話したいことを話せます。日本人がいるからこそ、外国人にとってもやさしい。外国人がいるからこそ、日本人にとってもやさしい。そんな関係を新宿区から構築できればと考えています。

李小牧=1960年中国湖南省生まれ。1975~81年、バレエダンサーや文芸誌記者として働く。88年に留学生として来日、1993年から「歌舞伎町案内人」、作家、レストランプロデューサーとして活動。2015年、日本国籍取得。著書に『歌舞伎町案内人』『歌舞伎町より愛を込めて』など多数。

福田 恵介

最終更新:4月16日(木)8時30分

東洋経済オンライン

G7外相会合「中国の一方的な海洋進出に懸念」

ドイツで開かれていたG7外相会合は15日、中国の一方的な海洋進出に懸念を示す外相宣言を発表して終了しました。

 議長声明では、パリやチュニジアでの事件などテロの脅威に対して各国が連携していくことで一致し、過激派組織「イスラム国」などによる罪のない人質の殺害を強く非難しました。また、北朝鮮が続ける核弾道ミサイル開発の即時中止や拉致問題の早期解決を求める内容も盛り込まれました。また、外相会合では初めてとなる「海洋での安全保障に関する宣言」も採択されました。東シナ海や南シナ海で大規模な海洋開発を進める中国を念頭に、「一方的な行動を懸念する」と牽制(けんせい)しています。また、日本や周辺各国との対立について「威嚇や力による権利の主張に強く反対する」としていて、日本の主張が大きく反映された形となりました。

最終更新:4月16日(木)14時43分

テレ朝 news

 

工場の異臭に数千人抗議=警察と衝突―中国四川省

【北京時事】中国メディアによると、四川省内江市威遠県で13日から14日にかけ、コークス工場から出た異臭に抗議し、学生や住民ら数千人がデモを行った。デモ隊は警察車両をひっくり返すなどし、多数の警官と衝突。負傷者が出たほか、十数人が拘束されたとの情報もある。
 異臭が出たのは10日。有害物質が漏れ出したとみられ、子供や高齢者が嘔吐(おうと)したり、倒れたりしたほか、工場近くの学校では生徒に発疹症状などが表れた。13日に行政の迅速な対応や工場の生産停止を求める住民が抗議活動を起こし、14日には学生らもデモに加わった。 

最終更新:4月15日(水)22時52分

時事通信

 

中国人がコンビニバイトに殺到する理由 牛丼屋は「やりたくない」

4月に行われた経済財政諮問会議と産業競争力会議の合同会議において、安倍晋三首相は外国人労働者の受け入れ拡大に向け、大きく舵を切った。従来受け入れてきた高度外国人材だけでは、労働人口減少への対策として不十分であるという判断を下したのだ。不可避かつ逼迫した議論が慎重になされるよう見守ることが重要だろう。ところで、そういった国の在り方を左右する議論がどのように決着しようとも、すでに日本では留学生をはじめとする多くの外国人アルバイトが働いている。 特に都市部であれば、彼らの姿を見ずに1日を終えることはごくまれだろう。彼らの実情に肉薄すべく、中国人留学生である李陳平さん(仮名)にインタビューをした。「新橋の居酒屋と住宅地のコンビニでバイトしています」 李さんが流暢な日本語でそう話す。日本にやってきたのは2年前。当時は日本語をほとんど話せなかった。「まず工場で6カ月働きました。工場なら日本語ができなくてもOKですけど、ずっと立ったまま同じことを続けるからとても疲れます。そのあと中国人が経営する中華料理店で8カ月働きました。わからない言葉があってもすぐに助けてくれます」李さんのバイト遍歴は留学生にとっては典型的コースだ。日本語が上達するにしたがって選択肢が増えるが、大抵は居酒屋やコンビニといった業種に落ち着く。 日本語が上達しなければ接客なしの単純作業に従事するしかないので留学生にとって日本語学習は語学習得以上の意味を持つ。現在、李さんは時給1000円の居酒屋で午後5時から12時まで週に3回、時給900円のコンビニで5時から11時まで週に2回働いているという。なぜ今のバイトを選んだのか。 「居酒屋はやらないといけないことが多いし、たくさん動くし、皿洗いが特に大変。だけど、お給料がいい。コンビニはとても楽ですけど、みんなそのことを知っていて応募するので、シフトを増やすのは無理です。ただし、セブン-イレブンはお客さんに人気があってとても忙しいから、留学生には人気が少ないです(笑)」李さんは同じ学校の中国人留学生たちとバイトに関する情報を交換している。仲間内で最も人気があるのは、来客の少ないコンビニと、中国語を生かせるデスクワークだ。「貿易会社でバイトしている友達は時給1200円です。座ってパソコンで仕事するだけなのにお給料がいいから、うらやましい。牛丼屋の友人は『疲れた。死ぬ』と言っているから私はやりたくない」しかし李さんは週に30時間以上働いていることになる。就労制限に抵触しないのか。「留学生は1週間に28時間までしか働けません。内緒ですけど、個人営業のコンビニでは、労務管理がいい加減で私の労働時間は公にはバレません。お給料はもらっても、税金はかからない、そういうコンビニはたくさんありますよ」

 (ジャーナリスト 唐仁原俊博=文 村上庄吾、原 貴彦、市瀬真以、奥谷 仁=撮影)(PRESIDENT Online)

伊犁鼠兔 天生萌物

小個子、大耳朵、長胡須,表情呆萌、神似“泰迪”…… 近日,一組伊犁鼠兔的照片爆紅網絡。1983年該物種被中國科學家意外發現,並被判定爲新物種,僅存于我國新疆天山山脈,數量估計不足1000只,是世界最瀕危的動物之一,比國寶大熊貓還要稀有。


イリ Pika ナチュラル キュート
小さな男、大きな耳と長いひげおよび顔滞在... 愛らしい、「テディ」とよく似ています. 最近、イリ ピカピカの写真のセットは、ネットワークで爆発しました。1983 年に、種は中国の科学者によって発見され、中国、新疆ウイグル自治区の天山山脈でのみ新しい種であると判断された推定数は 1000 未満とパンダより稀である、世界で最も絶滅寸前の動物の一つです

【 日中国交正常化 】

日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、1972年9月に日本国と中華人民共和国とが国交を結んだことでこの時まで第二次大戦後の懸案となっていた外交問題である。1972年9月25日に、田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として中華人民共和国北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの周恩来国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行い、9月29日に「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、田中角栄周恩来両首相が署名したことにより成立した。なお、日中共同声明に基づき、日本はそれまで国交のあった中華民国に断交を通告した。

前史・戦後の日中関係

二つの中国

1945年の第二次大戦の終了で日本軍が降伏して、その後国共内戦が始まり、1949年10月1日、中華人民共和国が建国された。大陸では中国共産党が勝利して、それまで少なくとも中国を代表していた中華民国政府・中国国民党は台湾を支配するのみとなった。ここに中国を代表すると主張する政府が北京と台北で対峙することになった結果、世界各国は中国を承認するに際して、どちらの政府を中国を代表する政府と見なすかという中国代表権問題に直面することとなった。この時は日本はまだ戦後4年でGHQの統治下に置かれ、外交権の無い時期であった。西側でもイギリスは1950年1月に、台湾との領事関係は維持したまま中華人民共和国を承認して、中国代表権問題については最初からアメリカとは違うスタンスを取った。

そして同じ年1950年に、朝鮮戦争が始まり、1952年4月に日本が戦後の独立を果たした頃には、すでに朝鮮半島では国連軍の主力である米軍と中国の人民解放軍が砲火を交えて東アジアは緊張と混乱の中であった。この東西対立の激しい時代に入って日本はアメリカの保護の下に西側陣営に属し、国内に対立を残しながら台湾の中華民国政府を支持する立場に立ち、北京の中華人民共和国とは国交断絶の状態が結局1972年まで続くことになった。その間は民間での経済交流を促進する動きのみが続いた。

日中民間貿易協定

中華人民共和国が建国されて以降、日本と中華人民共和国との交流は友好関係にあった日本共産党や日本社会党以外は細々とした民間交流に過ぎなかった。

1950年10月1日には日中友好協会が設立されたものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあって12月6日には対中輸出を全面禁止するなど中華人民共和国を警戒する政策がとられていった。さらに1952年4月、日中貿易促進会議を設立していた高良とみ帆足計、宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反しソ連から直接北京を訪問。6月に第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。この時期は台湾と日華平和条約を結んだ頃でもあった。1953年7月に朝鮮戦争が休戦に至ると、「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、10月に第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。

吉田内閣と日華平和条約

吉田茂首相は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議の前は国会答弁でも台北の中華民国政府(国府)を承認するとは明言しなかった。西側でもイギリスが北京を承認しつつ台湾とも関係を保っていることに注目して、国府を承認するにしても上海に貿易事務所を開設することに言及していた。むしろ中国代表権問題が解決するまで承認を先延ばしすることも考えていたが、アメリカのダレス国務省顧問に一蹴されて、結果として国府承認に踏み切らざるを得なかった。そして講和条約が発効された4月28日に日華平和条約が締結されて、日本と中華民国との戦争状態は終結した。これが、20年後1972年の日本と中国との国交正常化で最も難しい問題となった。

鳩山内閣と政経分離

吉田茂の首相辞任後に鳩山一郎が首相に就任して、対共産圏との関係改善を目指して、特に日ソの国交回復に尽力した。そして対中国に関しても政経分離を原則に、外交関係はなくても経済関係の拡大を求め、特に石橋湛山通産相は日中貿易拡大を望んでいた。このような鳩山政権の動きに中国は注目していた。1955年4月になると、バンドン会議において高碕達之助と対談した周恩来総理は、平和共存五原則の基礎の上に中華人民共和国が日本との国交正常化推進を希望すると表明した。同年5月には日本国際貿易促進協会、日中貿易促進議員連盟と中華人民共和国日本訪問貿易代表団との間で第三次日中民間貿易協定を結んだ。同年12月に中国政府内に「対日工作委員会」が設けられて郭沫若主任、廖承志副主任で対日政策の策定、執行に関する責任部局が出来た。翌1956年9月には、日本人の戦犯およそ1000人が釈放されて11年ぶりに故国に戻ってきた。

こうした動きには中国側に民間交流を積み上げることによって政府レベルの関係強化をめざす狙いがあった。第三次貿易協定の交渉で外交官待遇の通商代表部の設置を求めてきたことで、あくまで政経分離の方針の日本側とのズレが生じていた。しかし日本側はあくまでアメリカが黙認する範囲内での民間交流の拡大であり、鳩山及びその後の石橋政権での対中政策は、東アジアの冷戦の枠組みからはみ出るものではなかった。

岸内閣とアジア外交

1957年2月に石橋首相の病気辞任の後岸信介が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に台湾に立ち寄り、蒋介石総統と会談して台湾との関係を強化した。岸政権は必ずしも中国との経済関係の進展に消極的であったわけではないとされている。そして1958年3月に第四次日中民間貿易協定が結ばれた。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に台湾とアメリカから反発が出て、台湾では予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中国側が態度を硬化。険悪なムードが漂う中で1958年5月2日に長崎国旗事件が起きた。これに中国の陳毅外相が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。

そしてこの年の夏に周恩来首相が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、2つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、日中間はしばらく膠着状態となった。中国は岸首相が台湾の蒋介石の大陸反攻に一定の支持をしたことを重く受け止めていた。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中国側の「政経不可分の原則」と相対して国レベルでは断絶であった。1959年に訪中した石橋湛山前首相と周恩来首相との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。 しかし民間レベルでの接触は続き、友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は60年代も続くのである。

池田内閣と二つの中国政策

1960年の日米安保条約改定の混乱の中で岸首相が辞任して、池田勇人が首相に就任した。池田首相は日中関係改善論者であり、日中貿易促進を唱えていた。しかし困難な問題があった。現実には「二つの中国」があり、けれどもどちらの国も「一つの中国」を唱えており、片方と結ぶことはもう片方とは断絶することになる。そして国連での常任理事国である議席の中国代表権をどう解決するかであった。池田首相は国連中心の外交方針で、中国の国家承認と国連における中国代表権問題を密接に関連づけるようになっていた。そして、まず国連での中国代表権問題の進展を図り、連動して中国政府の承認をめざすというものであった。これは中国代表権の範囲を中国本土(大陸)に限定して、台湾の国府の議席を維持したまま中国の国連加盟を推進して最終的には国交樹立を目指すもので、あくまで「二つの中国」が前提であった。しかし北京も台北も「一つの中国」を原則としており、多くの国が「二つの中国」という現実への対応に苦慮していた。

池田首相は当面中華民国を支持しつつも、実際に支配する地域(台湾)にその地位を限定することで国府の国際法的地位を確定し、中華人民共和国の国連加盟が実現しても国府の議席は守られると考えていた。そのためには国府を説得しなければならず、それが可能なのはアメリカのみであると考えて、1961年6月の訪米時に当時のケネディ大統領にこの問題の重要性に言及したが、ケネディの反応は中国の国連加盟に対する国内の抵抗が大きいとするものであった。この問題はこの時で終わってしまった。

そして1964年1月に突然フランスのドゴール大統領が中国との国交正常化に踏み切って世界を驚かせたが、フランスは中国との国交正常化をしても国府が自ら断交措置を取らない限り関係を維持する意向を示していた。この時に国府が「二つの中国」政策を認めるのか、日本も注目して、しかも1月30日の衆議院予算委員会で池田首相は、中国の国連加盟が実現すれば日本も中国政府を承認したいと述べた。しかし、翌月に国府は対仏断交に踏み切り、池田内閣で検討していた「二つの中国」政策は挫折した。

友好貿易とLT貿易

1960年夏の池田内閣の誕生と合わせるかのように、中国側から対日貿易に対して積極的なアプローチがなされてきた。そして松村謙三古井喜実、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、日中貿易促進会の役員と会談した際に周恩来首相から「貿易三原則」(政府間協定の締結、個別的民間契約の実施、個別的配慮物資の斡旋)が提示されて、ここから民間契約で行う友好取引いわゆる「友好貿易」が始まった。これはあくまで民間ベースのものであったが「政治三原則」「貿易三原則」「政経不可分の原則」を遵守することが規定された政治色の強い側面があり、日本国内では反体制色の強い団体や企業が中心的な役割を果たしていた。

そこで、これとは別に政府保証も絡めた新しい方式での貿易を進めるために1962年10月28日に高碕達之助通産大臣が岡崎嘉平太(全日空社長)などの企業トップとともに訪中し11月9日に「日中総合貿易に関する覚書」が交わされて、政府保障や連絡事務所の設置が認められて半官半民であるが日中間の経済交流が再開された。この貿易を中国側代表廖承志と日本側代表高碕達之助の頭文字からLT貿易と呼ばれている。しかし1963年10月7日に日中貿易のため中国油圧式機械代表団の通訳として来日した人物が亡命を求めてソ連大使館に駆け込み、その後台湾へ希望先を変えて、その後もとの中国への帰国を希望する事件が発生した(周鴻慶事件)。政府は結局中国へ強制送還したが、国府が反発して日台関係が戦後最悪といわれるほど悪化し、その打開に吉田元首相が訪台してその後にお互いの了解事項を確認した「吉田書簡」を当時の国府総統府秘書長張群に送り、その中で二つの中国構想に反対して日中貿易に関しては民間貿易に限り中国への経済援助は慎むことなどの内容があって、LT貿易に関しては影響を受けた。しかし池田首相の日中貿易に対する積極的な姿勢は変わらなかった。

さらに1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中国人記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった(日中記者交換協定)。

文化大革命と覚書貿易

1964年秋に池田首相が病気のため辞任して佐藤栄作が首相に就任した。佐藤内閣は歴代最長の7年8ヶ月続くが、その在任期間はベトナム戦争、沖縄返還、日米安保延長があり、そして中国では原爆保有、文化大革命があって国内が混乱し、日中間には大きな溝が生まれて、再び交流に齟齬をきたした。

1966年3月には日本共産党宮本顕治が訪中したが、毛沢東と路線対立して帰国し、それまで友好的であった両国共産党の関係が悪化した。この直後、中国では文化大革命が始まり、やがて中国共産党を巻き込んで国内が混乱し、中国の外交活動も停滞した。この混乱は3年後の1969年4月の中国共産党九全大会で党の立て直しが図られて以降鎮静化した。しかし政府間の関係は冷え切ったままであった。そのような中でも1968年3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。いわゆる覚書貿易が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。そして、政治的に激動した1960年代後半は、両国の外交関係は半ば閉じられた状態であった。しかし、貿易面ではLT貿易は浮き沈みがあったが民間の友好貿易は右肩上がりで当初の10倍に達した。

経緯

米中接近

中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、1950年にイギリスが、1964年にフランスが承認して国交を樹立していた。折しも1962年頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。

1971年3月に名古屋市で開催された世界卓球選手権に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月にヘンリー・キッシンジャー米国大統領補佐官(当時。後に国務長官)が北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして7月15日に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。このニクソン大統領の中国訪問は翌1972年2月に行われた。

この当時アメリカにとっては中国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、また膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争を抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権を持って外交を積極的に推し進めるためには中華人民共和国を承認することが必要であることをニクソン自身は大統領になる前から考えていた。また前年に国際連合での中華人民共和国の加盟をめぐって賛成票が多数となり(米国の重要事項案も可決されて三分の二以上の賛成票ではないので加盟は実現しなかった)、この年秋の国連加盟が確実視されていた。また大統領選挙で公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退を進めるためにも北ベトナムを支援する中国との交渉が必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中国訪問が実現した。

このニクソン訪中の時に周恩来との数回の会談の中で日米安保条約は対中国のものでなく、日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであることをキッシンジャーが説明して周恩来も理解を示した。このことは後に日中国交正常化の障害を1つ取り除いていたことになった

佐藤内閣

佐藤首相は、池田前首相の立場とは少し違って、政権発足当初は二つの中国を前提とせず、国府の国連での議席を守ることでは前政権と変わらないが、国府を正統政府と見なすという現実的対応を前提にして、将来両国がお互いを承認する方向を模索するものであった。しかし時代はベトナム戦争の激化と中ソ対立や文化大革命の混乱で、池田内閣の時代と違い、佐藤首相が積極的に日中接近に打って出ることはそもそも不可能であった。そして、佐藤内閣の大きな課題は沖縄返還であり、日中関係は停滞していた。そして1970年代に入る頃にこの米中間の対話開始と急速な接近で、当時先進国で中国との国交が正常化していない国は日本と西独だけで他の英仏伊加がすでに承認していたことは、日本外交が取り残されているとの認識が一般にも広がっていった。一方当時の自民党内ではまだ東西冷戦の思考から抜け出せず、また中華民国(台湾)を支持する勢力が多数であり(石原慎太郎浜田幸一なども親台湾派であった)、様々な権益が絡んでいた。また当然のことながら、中華人民共和国、中華民国の両政府はともに、他国による中国の二重承認を認めないために、佐藤首相の外交は60年代の冷戦思考そのままのものであった。1971年3月に訪中した藤山愛一郎氏は周恩来首相の言葉から米国が先行して米中対話を行うことを危惧する旨を外務省に伝えているし、福田赳夫氏は「中国問題では米国が日本に相談に来ている」と語っていた。それが「ある日の朝、目を覚ませばアメリカと中国とが手を握っていた」ことで右往左往することになった。

71年秋に国連総会で中華人民共和国の加盟を審議した際には、日米とも加盟そのものには反対せず、しかし台湾を排除することは重要事項であるとして前年までの方向と全く違う考え方の「逆重要事項案」と中国・台湾両国とも議席を認める「複合二重代表制決議案」の2つの案を共同提案国として提出したが、まず逆重要事項案が否決されて、複合二重代表制決議案は自然消滅となり、中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を求めたアルバニア案の採決で日米とも反対したが結局賛成が大きく上回り、加盟と追放が決定された。アメリカは反対を唱えながらもこの時すでにキッシンジャーが訪中して翌年のニクソン訪問の実務的な協議をしており、日本はただ反対するだけで何の対応も出来ない状況に置かれて佐藤外交の無策ぶりが目立った。中国の国連加盟が実現して台湾が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった保利茂は東京都の美濃部都知事が訪中した際に極秘に周恩来首相宛ての親書を託したが、中国側の対応は冷ややかであった。中国側は佐藤内閣には何ら期待しておらず、もはや次の内閣が日中間の正常化をめざすことは誰の目にも明らかになった。

田中内閣

1972年7月5日に自民党総裁選挙で総裁となり、7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は就任前から日中関係の打開に積極的な姿勢で、就任した7月7日の首相談話で「日中国交正常化を急ぐ」旨を語り、すぐに異例なことに直後の7月9日に周恩来は「歓迎する」旨を明らかにした。7月16日に社会党の佐々木元委員長が訪中した際には「日本の田中首相の訪中を歓迎する」メッセージを示し、そして7月25日に公明党の竹入委員長が訪中して27日から3日間延べ10時間に渡って周恩来首相と会談して、中国の考え方の内容が示された。帰国後の8月4日に田中首相と大平外相にその内容を書いたメモを手渡している。この竹入メモには「国交回復三原則を十分理解する」「唯一合法政府として認める」「共同声明で戦争状態を終結する」「戦時賠償を放棄する」「平和五原則に同意する」「覇権主義に反対する」「唯一合法政府として認めるならば復交3原則の台湾に関する部分は秘してもいい」「日米安保条約を容認する」等の内容で、田中首相はこれを読んで北京に赴くことを決意した。

この時から中国側も田中内閣での日中国交正常化に本腰を入れ、当時上海舞劇団団長として来日していた孫平化中日友好協会副秘書長と肖向前中日備忘録貿易弁事処東京連絡処首席代表の2人が8月15日に帝国ホテルで田中首相と会談する場が設けられて、その場で田中首相は自身の訪中の意向を初めて公式に伝え、中国側から正式に田中首相を本国へ招待することが伝えられた。ここから、日本国と中華人民共和国との交渉がスタートした。

日中国交正常化交渉

ここで田中首相は、アメリカよりも早く日中国交回復を果たすことを決断した。

このとき日本はニクソン訪中の後に日中関係の正常化へ動いたにもかかわらず、アメリカよりも先に中国を承認したのは日本の戦後政治史において例外的なことではあるが、ただし田中首相は就任後7月19日にアメリカのインガソル駐日大使にその意思を伝え、8月31日と9月1日にハワイで行ったニクソン大統領との会談でも確認しており、訪中前にアメリカにとってはすでに織り込み済みの話ではあった。

1972年9月25日、田中首相は秋晴れの北京空港に降り立ち、自ら中華人民共和国を訪問した。ニクソン訪中から7ヶ月後であった。同日午後から第1回会談が行われた。出席者は日本側が、田中首相、大平外相、二階堂官房長官、高島条約局長、橋本中国課長、栗山条約課長など8名。中国側は、周恩来首相、姫鵬飛外相、廖承志会長、韓念龍外交部副部長、張香山顧問など8名。この席でまず共同声明の形で国交正常化を行うこと、中国側が日米安保条体制を是認すること、日本側が台湾との日華平和条約を終了させることが確認された。夜の晩餐会では、周恩来首相は「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めることで中日国交正常化は必ず実現できるものと確信します。」と挨拶して、一方田中首相は「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します」と挨拶した。

26日の午前中の外相会談で「戦争状態の終結」「国交回復三原則」「賠償請求の放棄」「戦争への反省」の4点に関する基本的な見解を提示した。午後の首脳会談で周恩来首相から前夜での「御迷惑」発言と午前中の高島条約局長の「日華平和条約との整合性」発言で厳しく指摘を受けた。これを受けて夕方に日本側からの提案で急遽外相会談が開かれ、台湾は中国の一部とする中国側に対して「不可分の一部であることを再確認する」「この立場を日本政府は十分に理解し、ポツダム宣言に基づく立場を堅持する」旨の案を提示した。

27日の午前中は万里の長城などへ見学に行き、夕方から首脳会談を行った。前日の厳しいやり取りから一転して穏やかな雰囲気で始まった。全般的な外交問題や政策についてが話題となり、中ソ間のことも話題となった。また尖閣列島について田中首相から出されたが周首相から「今、話し合っても相互に利益にはならない」として、それ以前のまだ正常化に向けて残っている案件の処理を急ぐこととなった。夜に田中首相・大平外相・二階堂長官の3氏は毛沢東の私邸を訪ねて、この時に毛主席から「もうケンカは済みましたか」という言葉がかけられた。この日の深夜に外相会談が開かれて、戦争責任について「深く反省の意を表する」という表現で、戦争状態の終結については「不正常な状態の終結」という表現にする案でまとまった。

28日の午前中は故宮博物館を見学して午後の首脳会談で、大平外相から日本と台湾の関係について今回の共同声明が発表される翌日に終了すること、しかし民間貿易などの関係は継続される旨の発言があり、周首相は黙認する姿勢を示した。

そして9月29日に日本国総理大臣田中角栄外務大臣大平正芳が、一方中華人民共和国国務院総理周恩来中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名し、ここに日中国交正常化が成立した。日本が第2次大戦後、戦後処理に関する国際文書の中で歴史認識を示し、戦争責任を認めたのはこれが初めてのことであった。

なお、当時はまだ戦後30年も経過しておらず、交渉には日中戦争の傷が影を落としていたが、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明を実現させた。この論理によれば、抗日民族統一戦線の戦いをどれほど賛美し、日本の軍国主義の侵略をどれほど非難しても、それは日本との外交関係にいささかもネガティヴな影響を及ぼすものではないとされる。この「未来志向」の政治的合意は現在にも引き継がれている。

それから6年後の1978年8月、福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が調印された。

参考文献

  • 倪志敏「田中内閣における日中国交正常化と大平正芳(その1・その2・その3・その4)」『龍谷大学経済学論集』第45巻第5号/第46巻第5号/第47巻第3号/第48巻第3・4号(2006年3月・2007年3月・2007年12月・2009年3月)
近年公開された日中双方の外交記録及びその他の第一次資料(『森田一秘書官訪中日記』等)を援用すると同時に、日中双方の当事者及び関係者への貴重なインタビュー資料も多数利用している。日中国交正常化のプロセスを跡づけ、北京交渉の過程に考察を加えている。
  • 鹿雪瑩 『古井喜実と中国 日中国交正常化への道』(思文閣出版、2011年)ISBN9784784215904
  • 西原哲也『覚醒中国 秘められた日本企業史』(社会評論社、2012年)
  • 中野士朗『田中政権・886日』(行政問題研究所、1982年)
  • 安藤俊裕『政客列伝~保利茂~』(日本経済新聞出版)
  • 鬼頭春樹『国交正常化交渉~北京の5日間~』 (NHK出版 2012年)
  • 石井明・朱建栄・添谷芳秀・林暁光『日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』 (岩波書店 2003年)


その他

1971年1月25日、第31回世界卓球選手権名古屋大会に際し、日本卓球連盟会長の後藤鉀二が中国チームの参加を中国当局に説得。3月21日には中国が訪日し大会に出場した。このことから4月にアメリカの卓球選手団の訪中と周恩来首相との会見につながり米中の緊張緩和に微力ながら貢献した。

関連項目

注釈

  1. これは当時植民地として租借していた香港が大陸にあり、その維持を優先する立場から、北京に代理大使を置くこととなった。そして後年国連を舞台に展開した中国代表権の争いでは、イギリスは北京を支持する方も台湾を支持する方もどちらの提案も賛成する態度に終始することとなった。
  2.  講和条約の批准が米国議会で難しくなると指摘を受けた。この時は日本はまだ独立しておらず、まだ日本外交の無い時期であった。
  3.  この背景には、アメリカの台湾支持の強い姿勢と同時に、アメリカの後押しで講和条約発効までに日本と国交成立をめざし、合わせて戦争賠償に関する戦後処理を急ぐ国府の狙いがあったと言われている。講和条約発効後の二国間交渉になると台湾の立場が弱くなるとしていたからである。
  4. ^ このような中国側の政策を「以民促官」政策といい、民間交流によって政府レベルの関係へと昇華させていこうとするものであった。「日中関係史」62P  有斐閣 
  5. この日、長崎市の浜屋デパートの4階催事場で行われた中国商品展示会でその会場に掲げられた五星紅旗を1人の青年が引き摺り降ろした事件。日本の警察が軽微な事件として犯人をすぐに釈放した。
  6.  この池田政権の事実上の「二つの中国」政策は、積極的に中国との国交回復を図るというよりも、むしろ国連での中国代表権問題でいずれ国府が議席を失うとの予測から、その国際的地位を守り国連での議席を確保する方策として考えられた側面が大きい。この10年後にニクソンが佐藤首相の頭越しに対中関係の樹立に踏み切り(ニクソンショック)、台湾が国連から追放される事態となった。
  7. この間の動きは日中共産党の関係を参照のこと。
  8. これをMT貿易と表記される向きがあるが、MTとはMemorandum Tradeで覚書貿易の英語訳の略称であり、それにわざわざ貿易をつけると重言表現であり、当時は普通に覚書貿易と呼称されていたものである。
  9. これは当時まだニクソン訪問が実現する前に、西欧各国が中国を承認する動きが出てきた頃に、いずれアメリカも承認せざるを得ないのではとの声から、日本が世界から取り残されるジョークとして週刊誌などで述べられていた。しかし由来はもっと古く、1957年から1963年まで駐米大使を務めた朝海浩一郎氏が、「日本にとって最大の外交的悪夢は、日本の知らない間に頭越しに米中両国が手を握る状態が訪れることだ。」と語ったことである。ニクソンショックはまさにこのジョークや悪夢が現実に起こったこととなった。
  10.  前年まで中国の加盟は重要事項で三分の二の賛成が必要という案(1960年頃に中国加盟案を審議する際にアメリカが反対するための方策として考えられたものであった)をずっと提出していたが、この年は台湾の追放が重要事項で三分の二が必要という案に変った。
  11. 当初は中国も台湾も議席を認めたうえで、国連安保理の常任理事国をそれまでの台湾を継続させる案であったが、やがて中国支持派の増加で結局中国が安保理の常任理事国になることを認めたうえで、台湾は総会での議席を認める内容に変更した。
  12. この時の国連総会の質疑で反対の論陣を張ったアメリカ国連大使がジョージ・ブッシュで、彼は皮肉なことに後に北京の米国連絡事務所(実質的には米国大使館)の所長(実質は全権大使)を務め、その後レーガン政権で副大統領、1989年に第41代大統領となった。
  13. この親書は後に「保利書簡」と言われている。1971年10月25日付けで1.中国は1つである、2.中華人民共和国が中国を代表する政府である、3.台湾は中国国民の領土であるとして保利氏自身が訪中して両国政府間の話し合いを進めたい旨の内容であった。「政客列伝」~保利茂~ 283~284P 安藤俊裕著 日本経済新聞出版
  14. これは直後に明らかになり、キッシンジャーならぬミノベンジャーだと言われた。しかしタイミングが国連総会で日本が逆重要事項案に賛成し、中国加盟・台湾追放のアルバニア案に反対していた時であったため、周恩来首相から「まやかしで信用できない」と一蹴されている。
  15.  この時に結果は不首尾であったが保利氏がそれまでの台湾支持の立場から中国との国交正常化へ立場が変ったことは、自民党内での親台湾派と親中国派との力関係に変化が生じることとなった。「政客列伝」~保利茂~ 283~284P 安藤俊裕著 日本経済新聞出版
  16.  竹入委員長の訪中は政府の特使でもなければ、田中首相の意を受けたメッセンジャーでもなかった。紹介状も田中首相は書かなかった。竹入氏が後に「特使もどき」と自ら述べているが、実際には中国側が田中首相の「伝言」を持ってきたと勘違いしていたところを竹入氏がうまく橋渡し役としての役割を果たし、田中首相への伝言をうまくまとめたものであったと言える。
  17. 後に竹入は交渉のやり取りを詳細に記したメモと会談記録を作成して、このメモは後に竹入メモと呼ばれている。
  18.  当時の外務省条約局長栗山尚一条約課長は、後にこの対日賠償請求を放棄する意向を示さなかったら、中国との国交正常化は国家財政上不可能であった、と述べている。「外交証言録 沖縄返還・日中国交正常化・日米密約」栗山尚一著 参照 
  19.  竹入委員長は実際に周恩来から賠償請求を放棄すると聞いて体が震えたという。500億ドル程度は支払わなけらばならないと思っていたからだ。中国側には賠償問題を言い出せば自民党内が纏まらなくなることも見抜いていた。「日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉」201~202P 証言 歴史の歯車が回った 流れを決めた周首相の判断  竹入義勝
  20. この時に密かに竹入と周恩来は、「この内容で訪中することに決したならば、合図として近く来日を予定している廖承志訪日団の来日を延期することを発表すること。これで田中訪中を了解したと受け取ります。」と打ち合わせしていた。翌日の新聞に中国代表団の訪日延期が掲載されて、これが中国当局には田中訪中のシグナルであると了解していた。「国交正常化交渉~北京の5日間~」第2章 竹入メモ 52P 鬼頭春樹著 
  21.  この廖承志訪日団の延期を本来の招待者であった佐々木社会党元委員長に事前連絡することなく竹入委員長が記者会見ですぐに発表して、佐々木氏が怒鳴り込んできて、平謝りする一幕があった。「日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉」206~207P 証言 歴史の歯車が回った 流れを決めた周首相の判断  竹入義勝
  22. アメリカの外交戦略の先手を取ったというのは皮相的な見方で、アメリカには台湾に米軍がいて、国交回復の足かせがあったが、日本には経済関係の問題があっただけで、この時点ではすでに他の先進国は承認していた。
  23.  また一部に先に承認したことをキッシンジャーが怒ったという話があるが、皮肉にも米中関係の正常化が日中関係の正常化を促進したことは明らかであり、彼の日米安保条約の解釈を周恩来が理解したことも大きく貢献している。またこれより3ヶ月前の6月にキッシンジャーが訪中して(この時は東京から北京に飛んでいる)、周恩来が日中正常化に反対かと尋ねた時に、キッシンジャーは反対ではなくむしろ促進をと思っていると語っている。しかし彼はもともと日本嫌いで不信感を持っている。軍事的に独立した日本を全く信用せず、軍事力を持つと簡単に1930年代の政策を繰り返すと考えている。皮肉にもこの警戒心は周恩来も共有していることで、怒ったかどうかは全く問題にする話ではない。
  24. 「求道存異」。日本では小異を捨てて大同につく、という表現になるが、この場合は「小異を残して大同につく」とさらに「大同を求め、小異を克服する」ことにつながることを意味して、周恩来首相が初日の首脳会談で「求道存異」を交渉の基本方針として提起して、この日中首脳会談のキーワードとなった。「国交正常化交渉~北京の5日間~」 114~115p 鬼頭春樹著
  25.  この「ご迷惑」を通訳が「添了麻煩」と訳して中国側が猛反発した。「添了麻煩」とは日本語で「ゴメン」、英語で「ソーリー」にあたる軽い表現で小さなことでしか使われない言葉であった。
  26.  この当時日本と中華人民共和国との間には平和条約が結ばれず、法的には戦争状態が続いていることとなった。しかし台湾の中華民国とはすでに日華平和条約を結び、戦争状態の終結と国家賠償の請求を放棄することで決着がついていた。この時点で戦争が終結したと謳えばそれまでの日華平和条約の存在自体を過去に遡って否定するという論理的な袋小路に陥るので避けたいとの考えが外務省にあり、このことがこの26日に日中間での緊張したやり取りになった。結果的には「戦争状態」でなく「不正常な状態」が終結したことで決着し、最終日の声明によって日華平和条約はこの日に終了したことになった。
  27. この席で高島条約局長が日華平和条約との関係から戦争終結と賠償放棄についての整合性に言及して中国側から反発を受けた。
  28.  ここで唐突に出てきた文言であるが、この時点では米国でさえ認めていない中国が唯一合法政府であることを日本が認めてしまうと、米国と台湾との関係をも損なうことになり、日本としては絶対に避けなければならないことであった。そこで栗山尚一条約課長が出した案が「ポツダム宣言の堅持」でこれで日本が台湾の独立を支持しないことを間接的に示す表現であった。
  29.  国交正常化当時の中国外交部アジア局長の陸維釗、中日備忘録貿易弁事所東京連絡所首席代表の肖向前、日本特派員の王泰平、会談の通訳、中日友好協会副会長の王効賢、日本側では、田川誠一加藤紘一森田一〔大平正芳の娘婿、秘書官、元運輸大臣〕、真鍋賢二〔大平正芳代議士の秘書官、元環境庁長官〕、中江要介〔元アジア局長、中国大使〕、橋本恕〔元アジア局長、中国大使〕、佐藤嘉恭〔元大平内閣首相補佐官、中国大使〕、谷野作太郎〔元中国課長、中国大使〕等。

Wikipediaより 転載

【 田中角栄 】

田中 (たなか かくえい、1918年大正7年)5月4日 - 1993年平成5年)12月16日)は、日本政治家建築士衆議院議員(16期)、郵政大臣第12代)、大蔵大臣(第676869代)、通商産業大臣第33代)、内閣総理大臣(第6465代)などを歴任した

来歴・人物

自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。大正生まれとして初の内閣総理大臣となり、在任中には日中国交正常化日中記者交換協定金大中事件第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。政権争奪時に掲げた日本列島改造論は一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いた。その後の田中金脈問題への批判によって首相を辞職、さらにアメリカ航空機製造大手ロッキード社の全日空への航空機売込みに絡んだ贈収賄事件(ロッキード事件)で逮捕収監され自民党を離党した。

首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取った。また高等教育を受けていない学歴を持ちながら首相にまで上り詰めた当時は「今太閤」とも呼ばれた。さらに次世代のリーダーの一人として総理総裁の座を狙っていた頃は、その膨大かつ明晰な知識とやるといったら徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた。

道路法の全面改正や、道路港湾空港などの整備を行う各々の特別会計法や日本列島改造論によるグリーンピアなど、衆議院議員として100本を超える議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を残した。また、社会基盤整備を直接担当する建設省運輸省、大臣として着任していた通商産業省郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。

経歴

小学校卒業まで

新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。ただし、長兄は夭逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ吃音があり、浪花節を練習して矯正した。

1933年昭和8年)、二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)卒業。なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒と公称することが多かったが、彼が学んだ当時の中央工学校は、学制上の学校ではなかった。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学にすぐれ、ずっと級長をしていたという。高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ。

上京

卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、その後柏崎の県土木派遣所に勤めた。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という。

1934年(昭和9年)3月、「理化学研究所大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する。だが、東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた。一時は、海軍兵学校入学を目指して研数学館正則英語学校などにも通ったが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えた。

1936年(昭和11年)3月、中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベーターに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。

1938年(昭和13年)、徴兵検査で甲種合格となり、陸軍騎兵第3旅団第24連隊への入隊が通知される。1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった。1940年(昭和15年)3月、入営から1年で騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、除隊翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月 長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。

1943年(昭和18年)12月に、事務所を改組して田中土建工業を設立した。理研コンツェルンとの関係も復活し、理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった。

1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。田中土建工業は戦災を免れる。

国政進出

長岡鉄道社長の頃

1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金をおこなったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補する。田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動をおこなったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した。この選挙の時に、「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めて佐渡まで陸続きにすればよい」という演説をした。

1947年4月、日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で当選する。民主党は日本社会党国民協同党の3党連立による片山内閣与党となったが、1947年11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。民主クラブは1948年3月に、吉田茂を党首とする日本自由党と合同して民主自由党となる。この政党再編により、田中は吉田茂の知遇を得た。民主自由党で田中は「選挙部長」の役に就く。

1947年10月、芦田内閣昭和電工事件により総辞職すると、後継首相として野党第一党党首であった吉田茂が浮上するが、連合国軍最高司令官総司令部民政局は吉田を嫌い、幹事長の山崎猛を首班とする工作をおこなった(山崎首班工作事件)。しかし、民主自由党内からの反対によりこの工作は潰え、第2次吉田内閣が発足する。新内閣で田中は法務政務次官に就任した。まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾決議を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。

直後の1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、1949年1月13日に保釈されたもののわずか10日間の運動しかできない中、1月23日の選挙では2位で再選を果たした。地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした。都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した。炭鉱国管疑獄は1950年4月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった。

再選後の田中は国会で衆議院建設委員会に所属し、生活インフラ整備と国土開発を主なテーマに活動した。田中が提案者として関わった議員立法は33本にもおよんだ。その主なものとして建築士法公営住宅法などがある。また道路法の全面改正に取り組み、この改正法も自らが提案者となって1952年に成立した。二級国道の制定で国費投入の範囲を広げ、道路審議会を設置して「陳情」の民意を反映させる方式を取り入れた。1953年には、建設省官僚の意も受ける形で、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、「ガソリン税(揮発油税)相当分」を道路特定財源とすることを可能にした。

民主自由党は1950年3月に自由党となる。田中は1954年に自由党副幹事長に就任。「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の一人と目されるようになった。1955年3月、衆議院商工委員長となる。同年11月の保守合同で自由党は日本民主党とともに自由民主党を結党する。

政界外では、長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化を実現させる切り札として要望を受け、1950年10月に同社の社長に就任した。田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる。これを契機に西村は晩年まで田中の支援者となる。また、それまで大野市郎亘四郎の地盤であった(長岡鉄道沿線の)三島郡で支持を広げることとなった。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。

このほか、1953年4月には、母校の中央工学校の校長に就任している(1972年に退任)。

閣僚・党幹部を歴任

  • 1957年(昭和32年)7月 - 第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。戦後初めて30歳代での大臣就任。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な指導力により、現在の新聞社 - キー局 - ネット局体制の原型を完成させる。その過程で官僚のみならずマスコミも掌握した。特にテレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことはその後の田中の飛躍の原動力になった。
  • 1961年(昭和36年)7月 - 自由民主党政務調査会長
  • 1962年(昭和37年)7月 - 第2次池田勇人内閣の改造で大蔵大臣。第1次佐藤栄作内閣まで留任。
  • 1965年(昭和40年)6月 - 大蔵大臣を辞任し、自由民主党幹事長に就任。
  • 1966年(昭和41年)
  • 1968年(昭和43年)
    • 5月 - 自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を発表。
    • 11月 - 幹事長に復帰。
  • 1969年(昭和44年)4月 - 眞紀子が鈴木直人元衆議院議員の三男、直紀と結婚。直紀は田中姓を名乗る。
  • 1970年(昭和45年)9月 - 産経新聞の購読を通じた党への支持を求める幹事長通達を、「取扱注意・親展」で全国の県支部連合会と支部(党所属衆議院議員)に出していた事が発覚。11月4日の参議院決算委員会で和田静夫に取り上げられた。
  • 1971年(昭和46年)
  • 1972年(昭和47年)
    • 5月 - 佐藤派から田中派が分離独立。
    • 6月 - 『日本列島改造論』を発表。
    • 7月5日 - 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選。
    • 7月6日 - 第1次田中内閣が成立。初の大正生まれの首相であり史上初の新潟県出身の首相である。各種機関の内閣支持率調査で70%前後の支持を集める。なお、田中の次の大正生まれの首相は5代後の中曽根康弘

首相在任時

首相退陣後

全日本空輸が購入したロッキード社のL-1011トライスター
  • 1976年(昭和51年)
  • 1978年(昭和53年)12月 - 第1次大平内閣発足。田中が強く支持。
  • 1979年(昭和54年)10月 - 第35回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、その後の「四十日抗争」で田中は大平正芳を支持。党分裂の危機へ。
  • 1980年(昭和55年)6月 - 第36回総選挙。参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の鈴木善幸内閣発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元越山会青年部長の桜井新が自民党公認で初当選。
  • 1982年(昭和57年)11月 - 上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。第1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。
  • 1983年(昭和58年)
    • 10月 - ロッキード事件の一審判決。東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。
    • 12月 - 第37回総選挙11月28日に衆議院解散(田中判決解散)。22万票の圧倒的支持を集めて当選。田中批判を唱えて新潟3区から立候補した前参議院議員の野坂昭如は落選。直紀も福島3区から初当選。ただし、自民党は大敗し、中曽根康弘総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を発表。
  • 1984年(昭和59年)10月 - 自民党総裁選。田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。12月、田中派内の中堅・若手により、竹下登を中心とした「創政会」の設立準備が進められる。
  • 1985年(昭和60年)
    • 2月7日 - 創政会が発足。
    • 2月27日 - 脳梗塞で倒れ入院。言語症や行動障害が残り、以降政治活動は不可能に。
    • 6月 - 田中事務所が閉鎖。
    • 9月 - ロッキード事件控訴審開始、田中は欠席。
    • 10月 - 関越自動車道全通。
  • 1986年(昭和61年)7月 - 第38回総選挙。トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。
  • 1987年(昭和62年)
    • 7月4日 - 竹下が経世会を旗揚げ。田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。
    • 7月29日 - ロッキード事件の控訴審判決。東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告
    • 10月 - 竹下が田中邸を訪問。眞紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化。
    • 11月 - 竹下内閣が発足。
  • 1989年(平成元年)10月 - 直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。
  • 1990年(平成2年)
    • 1月24日 - 衆議院解散により政界を引退。衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散。
    • 2月 - 第39回総選挙。元越山会員で前小千谷市長の星野行男が自民党公認で当選。
  • 1992年(平成4年)
    • 8月 - 中国訪問。中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。
    • 12月 - 経世会が分裂。
  • 1993年(平成5年)
    • 7月 - 第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。
    • 12月16日 - 慶應義塾大学病院にて75歳で死去。戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物は正二位大勲位菊花大綬章以上に叙される事が慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため位階勲章は与えられなかった。

没後

  • 1995年(平成7年)2月 - 榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、最高裁判所が田中の5億円収受を認定する(首相の犯罪)。
  • 1998年(平成10年)4月 - 田中角栄記念館が新潟県柏崎市(旧西山町)に開館。
  • 2007年(平成19年)7月16日 - 新潟県中越沖地震で墓石が倒壊する。
  • 2009年(平成21年)3月 - 朝日新聞の『「昭和」といえば何を思い浮かべますか… 全国世論調査』において、人物の分野で回答の21%を占め3位以下を引き離し2位となった(1位は31%の昭和天皇であった)。
  • 2012年(平成24年)12月16日 - 第46回衆議院議員総選挙にて角栄の地盤を受け継いだ娘の田中眞紀子が落選する。(この日は角栄の命日)

人間関係

  • 田中内閣発足にあたっては三木武夫の支援を受け、この支持を恩義に感じた田中は三木を国務大臣として内閣に迎え入れ、後に副総理にも指名している。しかし、三木と田中は日中国交回復という点では一致していたものの、金の力に物を言わせる田中と政治浄化を信条とする三木とでは政治姿勢が全く異なり次第に対立していくようになった。そして1974年の参議院選挙の徳島県選挙区での公認候補選定を巡り、三木が「現職優先の原則」通り三木派で現職の久次米健太郎の公認を申し入れたのに対し、田中が元警察庁長官で新人の後藤田正晴に公認を与えたことから二人の関係は抜き差しならないものとなった。選挙の結果久次米が当選し三木の面目は保たれたものの三木は閣外へ去った(詳細は阿波戦争を参照)。その後反主流派の福田赳夫が三木に接近し福田もまた閣外へ去り田中倒閣への動きを先鋭化していくこととなった。ただ田中は、小派閥を率いて永田町を器用に遊泳する「バルカン政治家」の三木を「政治のプロは俺と三木だけだ」と評価していたとされる。
  • 大平正芳とは長く盟友関係にあり、頭角を現す切っ掛けとなった1961年池田内閣での自民党政調会長就任、1962年第2次池田内閣での大蔵大臣就任は、大平との関係を生かしたもので、田中の成長は佐藤派の参謀でありながら池田勇人の側近でもあったからといわれる。「大角連合」と呼ばれた、田中の首相就任の際には大平の協力が、大平の首相就任の際には田中の支援があった。田中政権の成立にあたっては「内政は田中、外交は大平」との方針でいくことが2人の間で交わされており、大平は自派(宏池会)からの三役就任の声を押し切って外相を引き受けた。日中国交正常化交渉の実務を取り仕切り、日中航空協定では党内の批判の矢面に立ち交渉を取りまとめた。両者の関係は田中と大平の個人的関係にとどまらず、田中派大平派は兄弟派閥として議員の交流も盛んであった。
  • 党人派で副総裁を務めた川島正次郎と田中は佐藤内閣で近い関係にあり、佐藤長期政権を作ることで川島は田中の総理への道を切り開いた。一方、官僚出身政治家として対極にあった福田赳夫や、「クリーン政治」を訴え自らの逮捕を容認した三木武夫とは激しく対立した。特に福田との「角福戦争」は第2次大平内閣時に首班指名選挙での党分裂状態や不信任案の福田派欠席による可決までエスカレートした(四十日戦争ハプニング解散)。
  • 正妻・はなとの間には1男1女を儲けたが、長男の正法は夭折し、成人したのは長女の眞紀子のみ。はなは病弱のため、田中が首相の時には眞紀子がファーストレディの役目を代行した。
  • 東京・神楽坂芸者辻和子との間に2男1女がいる(1女まさは夭折、2男は田中の子として認知されている)。彼女らは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。二男の京は音楽プロデューサーやバー経営者で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した。秘書であった佐藤昭子との間の1女は認知されていない田中の子供とされている。
  • 2,575坪(約8,500m²)の敷地を誇る東京都文京区目白台一丁目の自邸は「目白御殿」と呼ばれ、政財界の要人が常時ここを訪れたことから「目白詣で」いわれた。この当時、政界で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。
  • 中華人民共和国からは「日中国交回復を決断した偉大な政治家」として尊敬され、小平が1978年に来日した際に田中邸を訪問するなど、田中がロッキード事件により訴追された後も多くの中国政府の要人が田中邸を訪問した(日中国交正常化)。
  • 経済界での人脈も広く培っていた。その中で、田中が「刎頸の友」と呼んだ国際興業小佐野賢治は、田中を資金面でバックアップしたとされ、後に共にロッキード事件で刑事責任を問われた。この事件では小佐野を介して右翼団体の大物活動家である児玉誉士夫との接点が指摘された。この方面の人脈については現在でも不透明な部分が多い。

派閥

小沢一郎(右)と

田中派は自民党内最大の派閥であり、特にロッキード事件以後は田中の「数は力なり」の信念の下で膨張を続け最盛期では約140人の国会議員が所属していた。その数の多さや華やかさなどからマスコミには「田中軍団」「田中親衛隊」等と評され流行語にまでなった。その中には、二階堂進、金丸信、竹下登などの当時の党幹部が含まれ、中堅には後に竹下派七奉行と呼ばれた羽田孜橋本龍太郎小渕恵三小沢一郎梶山静六奥田敬和渡部恒三、他に綿貫民輔野中広務(京都府議時代から目をかけていた)などであった。なお、小沢は早世した正法と同じ1942年生まれで、田中は特に小沢をかわいがったとされる。その後、七奉行の中で羽田・小沢・奥田・渡部の4人は自民党から離党し、民主党への流れを作った。

派閥の肥大化、権力の掌握にあたって非常に機能的に組織されていたのが秘書集団であった。それが最も機能的に働いたのが第1次大平正芳内閣発足前夜の自民党総裁予備選であった。当初、現役総理の福田は「予備選に負けた側は本選を下りるべき」と明言するほど党員票の差があると見られていた。大平を推す田中派は後藤田正晴の指示の下、秘書集団が東京を中心とする党員を戸別訪問する「ローラー作戦」を展開することによって結果は逆転、一転福田を本選辞退に追い込んだ。有名なところでは金庫番と言われた佐藤昭子、スポークスマン的な役割を担った早坂茂三、選挙戦を新潟から支えた国家老本間幸一、目白にあって城代家老と言われた山田泰司、総理大臣秘書を務めた榎本敏夫などがいる。しかし、田中が倒れた後は眞紀子によって遠ざけられた者も少なくない。

ロッキード事件による逮捕で自民党を離党した後も党内最大派閥の実質的な支配者として君臨し、マスコミは田中を「闇将軍」と呼んだ。田中自身が復権に固執(裁判で無罪判決が出た後に首相に返り咲く事)したため、自派からの自民党総裁選立候補を許さず、内閣総理大臣の権威を失墜させ、日本の政治権力構造を不透明なものにしたが、配下(子分)からの不満が起こり、最終的には竹下登の離脱で田中派が崩壊した。眞紀子曰く派閥分裂後は見舞客も年を追うごとに激減し没後墓参りに訪れた元田中派若手議員も稀であったという。

典型的な党人派政治家であったが、多くの官僚出身者も迎え入れた。特に自分の内閣で内閣官房副長官(事務担当)を務めた元警察庁長官の後藤田正晴は重用され、田中が倒れた後も自民党政権の中枢に座り続けた。

芸能界からも積極的にスカウトを行い、参議院選挙では全国区で山口淑子(大鷹淑子、李香蘭)、山東昭子宮田輝などを当選させた。また、田中からの勧誘を断った芸能人に対しては他党からの出馬をしないように言い含めたともされる。

選挙区

自らの選挙区である新潟県への社会基盤整備には特に熱心だった。「雪国と都会の格差の解消」「国土の均衡ある発展」を唱え、関越自動車道や上越新幹線のような大規模事業から、長岡市や小千谷市などの都市部での融雪装置設置や、山間部の各集落が冬でも孤立しないためのトンネル整備(小千谷市の塩谷トンネル等が知られる。当時戸数60戸の集落に10億円の建設費用を掛けて建設された為、反発も少なからずあった)等の生活密着型事業や柏崎刈羽原子力発電所誘致など、多様な公共事業を誘致した。さらに自身のためのテレビ番組も持ち、選挙民の陳情を番組で直接吸い上げると共に、業績を強烈にアピールした。

選挙区の旧新潟3区の全市町村で結成された後援会組織「越山会」は、鉄の団結と評された。越山会は、建設業者による公共事業受注と選挙の際の田中への投票という交換取引の場ともなり、地域住民の生活向上に大きく貢献する有効な組織となった反面、自民党政治の典型である利益誘導や金権体質への強い批判を受け、公共事業へ過度に依存したいびつな産業構造も残した。これらの公共事業の実施に際しては、長岡市の信濃川河川敷買収・利用問題などで自らや親族が役員を務める「ファミリー企業」への利益供与が疑われ、金脈問題への追及を受けることになった。しかし、ロッキード事件後も、越山会は田中に圧倒的な得票での当選を続けさせて、中央政界での政治的影響力を与え続けた。

自らの選挙区で後継者を定めることはなく、自らがトップに君臨し続けたため、桜井新の離反などが起こった。それでも倒れた翌年1986年の総選挙では本人の肉声が全く伝えられない中で田中はトップ当選する。1990年の引退時には越山会を解散し、自主投票となったが、1993年の総選挙では旧越山会会員の多くが眞紀子を支持した。眞紀子の当選後にお国入りした際「目白の骨董品が参りました」と紹介された。

浦佐駅東口には田中の巨大な銅像が建立されている(1985年除幕)。二階堂進が揮毫した。2005年「冬に雪をかぶって可哀相だ」との眞紀子からの要望によって銅像の上には新たに屋根が設けられた。一方、自ら校長も務めた母校の中央工学校が校内に銅像を立てようとした際には、「学校に政治を持ち込むのは良くない。自分は母校のために何もしていない」と言いこれを断っている。

外交

田中内閣の外交業績としてまず挙げられるのは、日中国交正常化である。背景として、1972年1月にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を訪問したこと、および三木武夫が総裁選における田中支持の条件として日中国交正常化を条件としたことがある。(詳しくは日中国交正常化を参照)これによって田中は中華人民共和国から「井戸を掘った恩人」と評価された。日中外交の先駆者という意味であり、田中が金脈問題で失脚した後も鄧小平が田中の私邸を訪問し敬意を表している。

田中はブラジル側にセラード農業開発協力事業という共同の農業開発プロジェクトを提案し、この事業推進の嚆矢となっている。この時期、米国の穀物相場暴騰による大豆の禁輸措置、第一次石油ショックなどを切っ掛けに資源の安定確保が日本の重大な外交課題となっていた事を背景に、ブラジルを訪問し共同プロジェクトを提案した。2001年までの終了するまでの21年間、3期に分けて実施され、国際協力事業団(現JICA)を通じて多数の農業専門家の派遣や農家の入植などにより、21年間で約600億円の資金が投じられプロジェクトが遂行された。熱帯の約面積2億ヘクタール(日本の約5倍ほどの面積)の潅木林地帯で、酸性の赤土に覆た耕作には不適とされてきた土地の土壌改良による穀物栽培の開拓が行われた。セラード農業開発の成果もあり、今ではブラジルはトウモロコシや大豆の生産・輸出大国となっている。

北方領土交渉においてレオニード・ブレジネフに「未解決か?」と訊き、ブレジネフは最初はっきりと断言せずあいまいな回答をしたため、田中は顔色を変え「イエスかノーなのか、最高責任者としてこの場で今すぐはっきりと回答してもらいたい」と迫り、驚いたブレジネフから「ダー(そうだ)」という回答を引き出した。

北朝鮮に対しては、1973年に金日成の提案した祖国統一・五大綱領を支持した。当時の大平正芳外務大臣は、同年7月4日の衆議院法務委員会で、このことに関する日本社会党赤松勇委員の質問に対し、「案ずるに、朝鮮民族といたしまして祖国の統一ということが最高の念願である、それを具体的に提唱されたことに対しまして評価されたことと私は思います。」と答弁している。

日本国内閣総理大臣として初めてアメリカ大統領(ジェラルド・フォード)の訪日を実現させている。

野党との関係

議員活動が長く、議員立法などで野党との協力を行う場面も多かった。

民社党との間では、1965年の「日韓国会」(日韓基本条約承認)から春日一幸とのパイプがあった。 また、民社党の衆議院議員であった和田耕作はロッキード事件の論告求刑の数週間後、「田中前総理と政治倫理」というパンフレットを作り、「角栄の功績を法律論で縛ってはいけない。政治家としての行動規範は検察的求刑には馴染まない。仮に5億円を授受していたとしても、私的に着服したものでも無かろう。政治家の政治倫理の問題を単なる法律違反の論議に矮小化してはならない」「私は政治倫理の消極面を過小評価するつもりはないが、それを必要以上に強調すれば、何もしないサラリーマン的政治家が立派な倫理的な政治家であるかのような重大な錯誤が起こるからである」という内容で、永田町周辺にばらまいた。

公明党とは「言論出版妨害事件」をめぐり公明党側に配慮した行動をとったため、田中と公明党との友好関係が生まれた。田中は社会党・共産党の革新勢力を相対的に弱めるために中道の公明党には融和的態度をとったとされ、田中派や竹下派(後の平成研究会)所属議員の中にも公明党議員や公明党の支持母体創価学会と親密な関係を持つ者が少なくなかった。自公連立も田中派・竹下派に属した小渕恵三内閣期にはじまっている。

1981年2月に、同じ選挙区で議席を争っていた社会党の小林進の永年在職(25年)議員表彰祝賀会が行われ、その会に田中も招待されたが、田中は「私は社会党の悪口はいうが、小林君の悪口は言ったことが無い。小林君も、自民党の攻撃はするが、田中角栄の攻撃はしたことがない」と挨拶した。

闇将軍

ロッキード事件発覚による受託収賄罪の逮捕、起訴されたことによって自民党を離党したが、すぐに保釈された上に受託収賄罪の刑事訴訟が長期裁判化して実刑確定にならないまま係争中であることを口実に、自身は無所属候補として地元選挙区で1位当選し続け、自民党籍を持たない無所属衆議院議員(いわゆる「自民党周辺居住者」)ながら派閥領袖として田中派を通じて裏舞台から政界に影響力を維持し続け、マスコミは「闇将軍」と称した。特に大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の首相就任には田中の支持が不可欠でありキングメーカーのポジションであった。閣僚や党役員や国会の委員長人事にも関与し、自身の刑事訴訟における指揮権問題につながる法務大臣や党資金や選挙における公認権限を持つ自民党幹事長などの重要ポストを田中派及び田中に近い議員で多く占めた。また、田中が闇将軍として大きく影響力を与えた内閣は「角影内閣」「直角内閣」「田中曽根内閣」とも呼ばれた。また自身の無罪が確定した場合は自民党への復党による表舞台復帰と総理総裁への返り咲きすら目論んでいた。

1985年に病に倒れ、次第に影響力を失っていった。

語録

  • 三国峠ダイナマイトでふっ飛ばせば越後に雪は降らない。そしてその土を日本海に運べば佐渡と陸繋ぎになる」(初出馬時の演説)
  • 「政治は数であり、数は力、力は金だ」(=数の論理
  • 「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る」
  • 「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」
  • 「中国国民全員が手ぬぐいを買えば8億本売れる」(日中国交正常化の際の発言)
  • 「いままで政府が統一見解で述べておりますものは、自衛の正当な目的を達成する限度内の核兵器であれば、これを保有することが憲法に反するものではないというのが、従来政府がとってきたものでございます」(1973年3月17日参議院予算委員会での答弁)
  • 日の丸君が代国旗国歌として定着しているという認識を示した上で)「私はやはりある時期に、もうこの時期にでもいいと思いますが、国歌や国旗というものを明確にやっぱり国権の最高機関としての院の議決を得て法律として制定をすべきときが来ておると思います。そして制定をしたら、これは少なくとも、小中学校とか、国公立の学校においてこれを歌うということは当然でございます」(1974年3月14日参議院予算委員会での答弁)
  • 「よっしゃよっしゃよっしゃ」ロッキード事件の賄賂を受領した際に述べたとされる発言
  • 「跳ねたが地面に落ちたら干物になるだけだ。魚の干物なら食うが、の干物は誰も見向きもしない」(中川一郎に『鯉は跳ねちゃいけませんか?』と、小派閥ながら自民党総裁選に出馬を決めたという報告を受けた際の返答)
  • 「私は、かつて日本と朝鮮半島が合邦時代が長くございましたが、その後韓国その他の人々の意見を伺うときに、長い合邦の歴史の中で、いまでも民族の心の中に植えつけられておるものは、日本からノリの栽培を持ってきてわれわれに教えた、それから日本の教育制度、特に義務教育制度は今日でも守っていけるすばらしいものであるというように、今度のASEAN五が国訪問で、しみじみたる思いでございました。これはかっての台湾統治の中でも、そのようなほんとうに民族的に相結ばれる心の触れ合いというものが、いまでも高く評価をされておるという一事をもってしても言えるものでございます。」(1974年1月24日衆議院本会議答弁で。この発言が日韓併合を正当化するものだと南北朝鮮から批判を受けた。)
  • 「政治家は発言に、言っていい事/悪い事、言っていい人/悪い人、言っていい時/悪い時、に普段から気を配らなければならない」(伊藤惇夫が2013年6月19日TBSひるおび!』で政治家のブログ炎上に関して語った田中のエピソード)
  • 「人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ。」
  • 「田中はなぜ倒れないか。人間、はだかになったことがないからびくびくするんだ。おれははだかになっているんだもの。」(1983年10月13日、ロッキード裁判で有罪判決をうけた翌日の言葉)
  • 「中曽根は象に乗っているのに、どうしてきつねやたぬきに乗り換えるのか。」(1987年ごろ、ロッキード裁判の判決直後に中曽根康弘首相が福田や三木に接触していることを聞いて)

エピソード

田中角栄といえば、カネに対する大胆さ・豪快さが印象強く、これに関連する話は枚挙に暇がない。彼は金を最大限に生かして相手の信頼を獲得するために、相手の予想(期待)より多くの金を渡すことも多々あった。

  • 田中が初出馬の時、進歩党の大麻唯男から300万(現在の価値で15億)もの資金調達を頼まれ、用意した。以後大麻は田中に頭が上がらなくなり、次回の選挙のとき公認した。
  • 田中派の一回生議員が美人局に遭い、解決のために多額の金銭が必要となってしまった。様々なツテに頼ったがどうしても100万円(現在の価値では3倍以上)と少し足りない。選挙を終えたばかりで借金のあった議員は万策尽き、田中の事務所に電話をかけて借金の申し込みをした。事情を聞いた田中から「分かった。すぐに金を用意するから取りに来るように」と言われ、急いで事務所に向かうと、田中本人は急用で外出しており、議員は留守番の秘書から大きな書類袋を受け取り、その中身を確認すると300万円が入っており、同封されたメモには以下のように書かれていた。「トラブルは必ず解決しろ。以下のように行動しなさい。1. 100万円使ってトラブルを解決すること。2. 100万円を使って世話になった人に飯を奢る乃至、必ず御礼をすること。3. 残りの100万円は万一のトラブルの為に取って置くように。4. これらの金は全て返却は無用である。」その議員は感涙し、後々まで田中への忠誠を守り通した。
  • 派閥が違う上に田中とほとんど面識のない議員が資金繰りに窮し、田中の事務所に来て300万円の借金を申し込んだ。田中は、わざわざ派閥の違う自分にまで助けを求めねばならないほど追い詰められている相手の窮状を察し、その日のうちに金を用意し、「困ったときはお互い様だ。この金は返さなくていい。俺が困ったとき頼む」と言って、その議員に紙袋を渡した。その議員が、後で紙袋の中を確認すると、500万円が入っていた。実は、その議員は、田中に遠慮して、借金を申し込む際の金額を300万円としていたものの、実際には500万円を用意しなければならない状況であった。その議員は、田中に忠誠を誓った。
  • 福田派に属していた反田中派の議員が入院した際、真っ先にお見舞いに訪れたのは田中で、挨拶もそこそこに議員の足元に紙袋を差込み帰った。中を見ると驚くことに300万入っていた。次に派閥のボスの福田が見舞いに来たが、一通りお見舞いの言葉を述べるとぎこちない様子で「こんな時、不自由するだろう。ほんの心づもりだ」と言って白い封筒を差し出した。その議員は不自然だったため礼儀として遠慮すると、福田は封筒を懐に戻した。最後に総理の中曽根が来ると見舞いの口上の後、機械的に茶封筒を差し出した。福田の時損をしているので遠慮せず受け取ると、中曽根は政治家の心得のようなものを説いて、いつまでたっても封筒を離さないので気が引けて議員から手を離すと、中曽根は封筒をしまいこんだ。この議員は以後も福田派として動いていたものの、ピンチのときは党派を超えて田中を支えた。
  • 福田派の福家俊一が入院した時、いち早く見舞いに訪れ、分厚い袋に500万もの金を入れて足元に忍ばせた。その後4回ほど田中は見舞いに訪れたが、その度に500万を忍ばせていたという。福家は以後、田中の批判をしなくなった。
  • お金を渡すときは細心の注意を払い、相手によってプライドをくすぐり、あるいはプライドを逆なでしない枕詞を使用し、賄賂と取られないように細心の注意を払って渡していた。政治家に対しては「お金はいくらあっても邪魔になりませんから」「資金はあると思いますが、まげて収めてください」「党のため、国のため、あなたには当選してもらわなくてはなりません」等。官僚に対しては「このくらいの金で君は動く男じゃないだろう? 俺の気持ちだ!」「俺だって見返りを要求するほど愚かな男じゃない」等。また料亭で働く人々に対しては女将に「これを皆さんにお願いいたします」など徹底的に腐心してプライドを傷つけず渡していた。
  • 田中は日本の官僚を極めて高く評価し、「歩く肥大した図書館」と呼んでいた。彼らに取り入るため以下のことを行った。田中が大蔵大臣時代に予算編成で休日返上で不眠不休で頑張っている彼らに、「大臣室に来てくれ」と一人ずつ呼び「いつもご苦労様。感謝している。これでタオルでも買ってくれ」と現金の入った封筒を渡し、驚く官僚に田中は「こんなことで影響を受けたりしないだろう?」「お前たちは日本最高のエリートだ。この程度で俺に配慮するはずないだろう?」「俺も見返りなど要求はしない。俺の気持ちだ受け取ってくれ」といった話術と迫力をもって黙らせた。ボーナスの時期になると、課長以上の人間に対して、総額2000万円以上ものポケットマネーをボーナスとして渡していた。
  • 大臣には、「大臣機密費」という自分の裁量で自在に使える機密費がある。しかし、田中は郵政、大蔵、通産大臣時代一度も手を付けず「部下の面倒も見なければならんだろう、自由に使ってくれ」と言って、大臣機密費のすべてを事務次官に渡していた。また、それだけではなく、特に課長クラスの人間には目をかけ、飲み食いできる金額を別に渡していた。
  • 田中派ではない村岡兼造が1976年に落選したとき、田中は、村岡にすぐに連絡を入れ「次の選挙まで俺の部屋を使え」と提案した。村岡は断ったが、田中は、「砂防会館の事務所を使え、すでに話は通してある」と再び提案した。村岡が話を受け入れると、間もなくして田中派の行政管理庁長官を務めた議員から秘書官の誘いが来た。「仕事できなくても肩書きだけでもいい」と、さらに30万の給料が支給された。これは、言うまでもなく、すべて田中が手を回しており、村岡は落選しても事務所を二つ持つことが噂になり、見事再選を果たした。彼も田中の虜になった。

政治家としても大胆な逸話が数多い。

  • 田中は、佐藤栄作に仕えて、3回破産したといわれている。佐藤首相との関係は、ほとんど主人と奴隷のようなもので、徹底的に尽くし恩を売っていた。そして、そこまでの佐藤政権への支えがあってこそ、次期総理の座をつかんだといえる。
  • 郵政大臣に就任した直後、田中が郵政庁を視察すると、職員は、昼休みとはいえ麻雀にふけったり、机の上に足を投げ出したりしていた。そして、こうなっている原因を調査すると、省内が二大派閥に割れていることが判明したので、二大派閥のボス同士を人事異動で勇退(更迭)させた。
  • 大蔵大臣時代の1962年に翌1963年度の所得税法改正の審議の際、担当官僚の大蔵省主税局税制第一課長であった山下元利のミスで、誤った税率表を使っていた。審議中であったために、訂正は不可能であったうえ、大事な箇所にも誤りがあり、その税率表を作成した役人たちは青くなっていた。これをマスコミや他の党が黙っているはずがなかったが、山下がこのことを辞表を忍ばせ田中の元に訪れると、笑いながら「そんなことで辞表は出さなくていい」と改定表を持ち、堂々と「先日提出の表には間違いがございます」と何食わぬ顔で訂正した。野党もマスコミも沈黙したままであった。もちろん田中が裏で手を回したのは言うまでもない。山下は、後に政界入りした後に田中派に入っている。このように責任をかぶるということをためらわずし、想像もできないアイデアを出すため(たとえば、道路関係の法律。建設省は田中には頭が上がらなかった)、田中を慕った官僚は非常に多い。
  • 田中がソビエト連邦(当時)を訪れる際、秘書から前もって「盗聴されるから気を付けて下さい」と忠告を受けた。しかし、田中はこの盗聴を逆手にとって「石鹸が悪い」「トイレットペーパーが悪い」と大声で怒鳴った。すると、翌日には上等のものに変わっていた。帰国後、田中は、その秘書官に「盗聴されるのもいいものだ!」と言ったという。
  • 田中は、中曽根とあまり仲がよくなかった。ある時、中曽根が外交のため中国訪問を希望しているという情報が田中に伝わってきた。すぐさま中曽根へ中国の要人への紹介状をしたためて送り、中曽根は大喜びした。
  • 相手を説得させる時は極力一対一で会い、一対一での説得ならば誰にも負けないと豪語した。盟友の大平正芳は「田中とは一対一で会わずに複数で会うこと。一対一で会えば、必ず言うことを聞かされてしまう」と述べていた。福田も田中の意見に流されるのを嫌って一対一で会うことは極力避けていた。
  • 決断が非常に早く、陳情等は1件約3分でテキパキこなした。できることはできると断言し、その案件は100パーセント実行され、信頼された。また、できないことはできないとはっきり言い、「善処する」といった「蛇の生殺しのような、曖昧な言い方」を嫌った。本人曰く『「できない」と断ることは勇気がいること』。
  • 交渉をする時、余計なことを言わずに相手を呑んでかかるという手法を使っていた。通産大臣時代にケネディ特使とやりあったとき、「これが決裂したらあなたの責任になる」と恫喝し、ケネディを追い払った。翌年の対米繊維輸出は約十九パーセントの増額であった。ブレジネフの時も領土問題を避けようとすることに対し「入れろ!」と机を叩きながら恫喝。最後には「入れなければ、我々は共同声明を出さずに帰国する」とまでいい口頭で了解させた。
  • 新幹線のグリーン車に乗っている時、批判的なある社会党の議員と支援の労組幹部と鉢合わせとなったが、田中は「いやー君にはまいったよ」と賞賛し、直後に支援の幹部に「彼が自民党にいたらとっくに大臣もしくは三役になっている」とおだてた。この話が労組に知れ渡り、「あの先生は本当にできる人なんだ」という噂がたち、その議員は株を大きく上げた。この手の話法を政敵を取り込む際によく使っていた。

また、カネがらみだけではなく特に下の人間を大切にし、そのための努力・気配りを怠らなかった。

  • 驚異的な記憶力の持ち主であることは衆目の一致するところであり、有権者に逢うと即座に名前、家族の年齢、悩み、仕事などを瞬時に思い出していた。これらに関しては曰く「まあ美人の顔を覚えるようなものだ」。どうしても思い出せない時は「あなた誰だっけ」と聞き、相手が苗字で返すと「そうじゃない。苗字は知っているが、名前を聞いているんだ」と言っていた。
  • 全盛期には、7,000~8,000枚の年賀状が届いていたとされる。差出人は、ほとんど面識のない選挙民が大半であったが、田中は、これらすべてに目を通していた。
  • 秘書に対してはもちろんのこと、守衛の人間にも毎日労いの言葉をかけたり、自分の運転手にまで立派な医者を当てるなどしていた。
  • 田中の秘書の一人が、小佐野と佐藤昭子を切るように辞職覚悟で忠告した。田中は、「前者は了解したが後者は無理だ」と言い、秘書は辞職した。後に、その元秘書が心筋梗塞で倒れたとき、田中は病院へ急行した。田中は当時総理の職を辞していたものの、当然のことながら病院は大騒ぎとなった。田中は、元秘書の担当医を見つけると、いきなり土下座の格好をして、「彼を助けてくれ」と懇願した。そして、手付けとして100万円渡し、その元秘書を励ました。
  • 郵政大臣就任後に開かれたパーティーに、官僚を招き、夫婦同伴で来るように促した。行くと、田中は夫人たちを褒め、前例のないもてなし方に役人たちは田中を見直した。
  • ある時、若い青年団員たちが、新潟の田中邸を訪ねたことがあった。突然の訪問であったにも関わらず、田中は、大いにもてなした。青年団員が、自分たちは田中のライバル福田赳夫の選挙区である群馬三区から来たこと、家族が福田後援会の重鎮であることを田中に伝えると、田中はなおのこと喜び、彼らに鯛を振る舞った。「俺は尻尾を食べるから、君たちは頭を食べなさい。今後おおいに出世し給えよ。」と終始上機嫌だったという。
  • 冠婚葬祭、特に葬儀には細やかな心配りを見せ、そのエピソードは多数ある。
    • 田中派の重鎮、竹下登の父が死去したとき、飛行機をチャーターして、田中派の議員とともに葬儀に訪れた。総勢69人国会議員が、人口4,000人の村を訪れた。
    • 河本派議員の渋谷直蔵の妻が死去したとき、田中はすぐさま花を贈った。本葬まで一週間あると知ると「花が枯れてはいけない」と言って、新しい花にその都度取り替えていた。
    • 大手会社の社長が妹を亡くしたとき、田中は、誰よりも早く花輪を届けた。そして、「花が枯れたら故人もかわいそうだ」ということで毎日花を取り替えさせた。
    • 社会党の某議員がの愛妻が亡くなったとき、田中は、社会党議員の誰よりも早く式場に現れ、関係者を驚かせた。恩を感じた議員は、田中が窮地のときは、党の枠をこえて行動した。
    • 反田中派の松野頼三の妻が亡くなったとき、誰よりも早く駆けつけた。それ以降、松野は、あまり田中を批判しなくなった。
    • 政敵だった社会党委員長の河上丈太郎が亡くなったとき、田中は、わざわざ火葬場まで出向き、12月の寒さと雨の中、2時間立ち続けて野辺の送りまで行なった。
    • 盟友の石破二朗が死去したとき、田中は、国会議員による友人葬において葬儀委員長を務め、鳥取県民葬より多くの弔問客を動員させた。友人葬が終わって、目白の田中邸に石破家を代表して長男である石破茂が訪れた。田中は、彼に対して「君がお父さんの遺志を継いで、衆議院に出るんだ。日本のすべてのことはここで決まるのだ」と説き、石破茂を政界入りさせた。
    • 田中派議員の小林春一は、妻を亡くし途方に暮れていたとき、田中から連絡が入ったので、田中の事務所に向かった。そこで、田中からお悔やみの言葉をかけられ、さらに渡された封筒には100万円が入っていた。小林は、その金で立派な仏壇を特注し、田中に忠誠を誓った。
    • 大石三男次という後援会の大幹部の父が亡くなったとき、田中は葬儀に出たかったが、別の葬儀が重なったため、大石に電話をして、葬儀は伸ばせないかと尋ねた。大石は断ったが、田中は、当時幹事長で激務であったにもかかわらず、なんとか時間を割いて、葬儀場に駆けつけた。
    • ロッキード事件で田中が逮捕起訴された後であったにもかかわらず、田中の実母であるフメが亡くなったときには、葬儀参列者が3000人を越えた。飾られた花輪は、600本以上あったが、それでも実際に贈られた数の半分以下だったという(あまりにも多すぎて断ったため)。また、この葬儀の前夜には、国鉄のストライキがあったので、東京から6時間かけて車を飛ばして駆けつけた議員(当時は関越自動車道が全線開通しておらず、東京からの車での移動にはこれほどの時間がかかっていた)や、飛行機で新潟へ行きそこから車を使ってまで来た議員もいた。なお、田中は、この日衆院本会議で財特法案の採決が行われるため、田中派議員を中心に、葬儀への参列を自粛し、「本会議への参加」「公務優先」を指示していた(当時は伯仲国会であり、欠席議員が増えると、法案が流れる恐れがあったため)。それでも、衆参両院で約30人の議員が参列した。もし、国鉄ストと財特法案の採決という2つの事情がなければ、相当数の議員が参列していたと言われている。
  • ロッキード事件に関して、東京地裁で169回もの公判等が行われたが、田中は、事前に届出をすませておけば必ずしも出廷する必要はないにもかかわらず、一日も休まず通った。これは、秘書の早坂茂三も同じである。田中は、絶対無罪だと確信していたという。結局、控訴審有罪に対して、上告中に死去したため公訴棄却となった。また、秘書も上告審で有罪確定となり、5億円収受が認定されている。
  • 角栄節と呼ばれる、ダミ声で非常に癖の強い話し方で知られ、長い間、多くのお笑いタレントの物真似の定番だった。首相就任直前、田中事務所の裏金集めを騙る詐欺事件が発生した。犯人は、歌手崩れの若い女性で、対面では秘書を名乗りつつ、電話口では自ら物真似で田中本人を演じるという手口だった。なお、この事件の犯人は、後に逮捕され、服役後まもなく獄中死した(顛末は、佐木隆三「犯罪百科」などに詳述されている)。
  • 軽井沢の別荘に番記者を呼び出し、俺の不都合なことを書くなという旨を言って恫喝したことがある。この暴言を書いたのは、『文藝春秋』と『週刊現代』だけで、他の番記者は記事にしなかった。なお、立花隆は、このことを猛烈に批判している。
  • 郵政大臣就任後、「三つの歌」というラジオ番組に出演し、浪花節の「天保水滸伝」の一節をうたい、「公共放送でヤクザ礼賛の浪花節を歌うな」と抗議を受けたため、あやうく大臣の椅子から落ちそうになったことがある。また、幹事長時代に、木村俊夫の選挙運動に際して、木村の後援会の宴会が催されたことがあった。しかし、木村自身がどうしてもその宴会に出席できなかったため、その代わりとして、木村の秘書が、田中に支援を要請した。田中は、快く了承し、『天保水滸伝』『杉野兵曹長の妻』などを歌って宴会を大盛り上げた。木村は当選し、田中派になった(ただし、表面的には無所属)。
  • 「時間を守れない男は仕事ができない」という持論だった。さらに「悪口を言わない」というのも持論だった。
  • 田中が自民党幹事長を務めていたとき、田中にあやかって「角栄」と名付けられた田中姓の少年がいた。ところが、後に田中がロッキード事件で逮捕されると、この少年は学校でいじめを受けるようになり、彼は最終的に「角栄の名が与えられた精神的苦痛は大きい」として、家庭裁判所で改名を認められている(昭和58年3月30日・神戸家庭裁判所)。

ニックネーム、渾名

  • 「今太閤」 - (太閤、豊臣秀吉参照)。
  • 「コンピューター付きブルドーザー」
  • 「角さん」
  • 「自民党周辺居住者」
  • 「目白の闇将軍」
  • 「下町の総理」
  • 「キングメーカー」

一族

家族・親族

  • 妻:田中はな - 旧姓・坂本
  • 長女:田中眞紀子 - 第131代外務大臣
  • 長男:田中正法 - 4歳で死亡
  • 長女の夫:田中直紀 - 第10代防衛大臣。旧姓・鈴木。鈴木直人の子。
  • 娘:はなの連れ子。池田勇人の甥と結婚。
  • 甥:山科薫 - AV男優・監督※実際には辻和子の甥。
  • もう1人の長男:田中京 - 音楽評論家、作家 ※辻和子との子
  • もう1人の二男:田中祐※辻和子との子

その他


初出馬の際氏名のひらがな表記は「たなか かくえ」であった。この時の政見発表演説会の演題は「若き血の叫び」。

  • 演説や答弁を始める時「まーこのー」と前置きしてから話を始めることがあり、現在でも田中の演説のものまねをする際、この前置きの言葉が使われることが多い。
  • バセドウ病の持病があり、暑がりであったことから、東京拘置所に拘置されているときに、アイスクリームを自費で買えるように法務大臣に圧力を掛けて、購入できるようにしたらしい。現在でも東京拘置所ではアイスクリームが自費購入できるとの事。
  • 無類の暑がりで大蔵大臣だった昭和39年に大臣室に冷房を入れさせた。そして冷房の目盛りは常に“強”にして大臣室を冷やしていた。このため大臣の側近や大蔵省幹部の間では真夏の暑い日でさえ「大臣室へ行く時は上着を着ていけ、さもないと風邪をひく」と言われていたという。
  • 学生時代、英和辞典を隅から丸暗記して、覚えたページは破り捨てたという。
  • 馬主としても有名で、1965年の優駿牝馬優勝馬のベロナ(名義は夫人であったが、実質上は田中自身の持ち馬)や、長女の眞紀子から名を取ったマキノホープ、マキノカツラ、マキノサクラ、マキノスガタなどの馬を所有していた。また、1965年には東京馬主協会会長を務めている[68]
  • 中曽根康弘を「遠目の富士山」「出たがり屋の婆芸者」「なるものになったらお前らなんか見向きもしない。天井向いて歩く」、橋本龍太郎を「備前長船の風切り小僧」「あのタイプは切れるが人に好かれない」、宮澤喜一を「英語屋」「あれは一流の秘書官で政治家じゃない」「金襴緞子のお様」、小渕恵三を「光平さんの倅は目立たない男だ。ビルの谷間のラーメン屋。なかなかやるねぇ」、池田大作を「ありゃ法華経を唱えるヒトラーだ」などと評していた。
  • 自らが掲げた日本列島改造論が、田中政権下での狂乱物価やオイルショックなどで頓挫した後、「列島改造と気負わずに、『日本を極楽にする方法』とした方が国民の皆に判ってもらってよかったんじゃないか」と、反省を込めた一言を秘書だった早坂茂三に対して述懐している[69]
  • 自派閥のメンバーには絶対的な服従を強いる強権的な姿勢が目立った反面、敵対する勢力に対しては最後まで追い詰めることは避け、しばしば苦境に立った政敵に救いの手を差し伸べた。
  • 小室直樹の著作を愛読し、高く評価していた。小室はロッキード事件の際「田中無罪論」を展開したが、それ以前からの読者である。
  • 味付けの濃い食べ物を好んだ。日中国交樹立の際に、中国側にお気に入りの味噌汁あんパンを出された事が中国側への破格の譲歩につながったとも言われる。総理在任中は常にミネラルウォーターを持ち歩いていた。
  • 日本各地の選挙情勢をくまなく把握し、その見通しは滅多に狂わなかったという。
  • 家紋剣片喰(かたばみ)である。
  • 苦学生である田中は教育問題、とりわけ公教育の重要性を認識しており、首相在任時には公立学校の教員給与を引き上げたり、教員の地位や質の向上に努めた(人材確保法案)。これには、特に自民党文教族にとっては、労働争議の活発な日教組を懐柔し、骨抜きにするという意味合いもあった。日教組側は、(1)給与は労使交渉で決めるべきで、上から一方的に決めるのはおかしい (2)3段階の給与を5段階に細分化するのは教職員の分裂を企図するもの ――という理由で反発した[70]。しかし、待遇改善の魅力は大きく、最終的に日教組側は妥協した。
  • 1957年12月31日、第8回NHK紅白歌合戦に審査委員として出演した(当時、郵政大臣)。
  • 内閣総理大臣まで務めたことがあるにも関わらず、勲章を受章していない。なお、リクルート事件で秘書が略式起訴となった宮沢喜一は勲章受章対象となった(宮沢本人の生前の意向により勲章辞退)。栄典は全くないが、名誉市民称号は得ている。
  • 倒れてからは、体力のある介護人が必要と、元十両力士の凱皇の介護を受けて過ごした。
  • 男なら「かくえい」、女なら「すみえ」と読ませるつもりで、生まれる前から「角栄」の字を当てることが決まっていたという。
  • 有権者の面倒見がいい事で知られコネで就職させた有権者の子弟は数百人に登るという。
  • 1972年7月に首相就任してから10月に国会で所信表明演説をするまで113日経過している。これは日本国憲法下で初就任した首相の中では最も遅い記録である。
  • 首相時代に石油危機を迎えたのを機に電源三法を成立させるなど石油から電力エネルギーへの転換とりわけ火力発電から原子力発電への転換を積極的に図り、自らの実家があった西山町の隣町である刈羽村原子力発電所を誘致している。電源三法制定の際には秘書官の小長啓一に「これからの時代は原発だ。」と述べるなど原子力時代の先見を明かしていたという。
  • Wikipediaより 転載

【中華人民共和国の最高指導者一覧】

概要

中華人民共和国の政治構造は、憲法に明記されているように、中国共産党が国家を領導(上下関係を前提とする指導)する。従って、中国共産党の最高指導者が国家の最高指導者となる。

中国共産党の最高指導者は、党則上、中国共産党中央委員会総書記1982年以前は中央委員会主席)であるが、1980年代鄧小平のように、党の最高職に立たずに最高指導者となったケースもある。これは、党の最高職である主席・総書記と、中国共産党の党軍であり、事実上の国軍でもある中国人民解放軍を統帥する中国共産党中央軍事委員会主席を務める人物が分かれていたからである。鄧小平は権力の源泉となる軍の統帥権者である党中央軍事委員会主席の地位を確保し、自身の腹心の配下である胡耀邦趙紫陽らを党総書記に据えることで主導権を掌握した。鄧小平は、1987年10月の第13回党大会で党中央委員中央政治局常務委員を退いたものの党中央軍事委員会主席の地位は確保し、さらに第13期党中央委員会第1回全体会議(第13期1中全会)で、党中央政治局の重要決定に関する最終決定権を承認された。その後、1989年第二次天安門事件を受けて開催された第13期5中全会で鄧小平は党総書記の江沢民に党中央軍事委員会主席を譲って「完全引退」を宣言し、無位無官の身となったが、以後も江沢民の後見役として1992年に「南巡講話」を発表し、改革開放路線を推し進めるよう党指導部に迫るなど、最高実力者として振舞った。

同年10月の第14回党大会において江沢民体制が確立したことにより、鄧小平から江沢民へ最高指導者としての地位が移行した。江沢民は党総書記・中央軍事委員会主席とともに、1993年国家元首である中華人民共和国主席国家主席)に就任、党・国家・軍の三権を掌握した。これは毛沢東が国家主席に在職(1954年 - 1959年)していたとき以来のことである。中国共産党の最高指導者が党・国家・軍の最高職を独占する権力集中体制は、次代の胡錦濤、次々代の習近平体制にも継承された。

歴代最高指導者

姓名 肖像 統治期間 役職 任期
1 毛沢東 Mao Zedong portrait.jpg 1949年10月1日
- 1976年9月9日
中国共産党中央政治局主席 1943年3月20日
- 1956年9月28日
中国共産党中央書記処主席
中国共産党中央委員会主席 1945年6月19日
- 1976年9月9日
中国人民政治協商会議全国委員会主席 1949年9月21日
- 1954年12月25日
中華人民共和国中央人民政府主席 1949年10月1日
- 1954年9月27日
中華人民共和国主席 1954年9月27日
- 1959年4月27日
中国共産党中央軍事委員会主席 1954年9月28日
- 1976年9月9日
* 華国鋒 Hua Guofeng-1.jpg 1976年10月7日
- 1978年12月22日
国務院総理 1976年4月7日
- 1980年9月10日
中国共産党中央委員会主席 1976年10月7日
- 1981年6月28日
中国共産党中央軍事委員会主席
2 鄧小平 Deng Xiaoping.jpg 1978年12月22日
- 1992年10月12日
中国人民政治協商会議全国委員会主席 1978年3月8日
- 1983年6月17日
中国共産党中央軍事委員会主席 1981年6月28日
- 1989年11月9日
中華人民共和国中央軍事委員会主席 1983年6月6日
- 1990年3月19日
3 江沢民 Jiang Zemin St. Petersburg2002.jpg 1992年10月12日
- 2004年9月19日
中国共産党中央委員会総書記 1989年6月24日
- 2002年11月15日
中国共産党中央軍事委員会主席 1989年11月9日
- 2004年9月19日
中華人民共和国中央軍事委員会主席 1990年3月19日
- 2005年3月8日
中華人民共和国主席 1993年3月27日
- 2003年3月15日
4 胡錦濤 Hu Jintao Cannes2011.jpg 2004年9月19日
- 2012年11月15日
中国共産党中央委員会総書記 2002年11月15日
- 2012年11月15日
中華人民共和国主席 2003年3月15日
- 2013年3月14日
中国共産党中央軍事委員会主席 2004年9月19日
- 2012年11月15日
中華人民共和国中央軍事委員会主席 2005年3月13日
- 2013年3月14日
5 習近平 Xi Jinping Sept. 19, 2012.jpg 2012年11月15日
- 現職
中国共産党中央委員会総書記 2012年11月15日
- 現職
中国共産党中央軍事委員会主席 2012年11月15日
- 現職
中華人民共和国主席 2013年3月14日
- 現職
中華人民共和国中央軍事委員会主席 2013年3月14日
- 現職

中国で千葉都市モノレールが話題になっていると言う記事を見ました。
以下、中国サイトの転載です。

 中国版ツイッター・微博(ウェイボー)で200万人近いフォロワーを持つ中国のネットユーザーが16日、日本の懸垂式モノレールの画像を9枚掲載したところ、多くのユーザーの注目を集めた。

ツイートは「日本の懸垂式モノレールは、レールの下を逆立ちするように走るため、とてもスリリングだ!」と紹介。多くの中国ネットユーザーは懸垂式モノレールについて日本のアニメを通じて認識しており、現実世界で本当に懸垂式モノレールがあることに対して驚きを示したようだ。以下が、一部ネットユーザーが残したコメントだ。

「また日本に対する抜け出せない愛にハマってしまった」

「さすがは先進国」

「アニメ王国。とても好き」

「アニメで見たものが実在するなんて~」

「アニメの中で生きているみたい!」

「この技術!」

「あるアニメにこんなのが出てきたと思うけど、まさか日本に本当に懸垂式の電車があるとは」

「景色がきっといいだろうね」

「もはや別世界だね」

「神秘的な民族」

「二次元世界のシーンだ」

「ビビるわこんなの! 絶対乗らない」

「ジェットコースター?」

「常に下に落ちるんじゃないかって感覚がありそう」

「人も逆立ちして乗るの?」

「もし中国にあったら、乗る気にならないな」

アニメは千葉市が舞台の「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」です。
千葉都市モノレールがしばしば登場してきます。
中国のみなさん、成田空港に降りたら千葉市にも寄ってみて
モノレールに乗ってくださいね~

インフラ銀 「戦わずして日米に勝つ」 総裁は中国元財政次官か

【上海=河崎真澄】中国主導の国際金融機関、アジアインフラ投資銀行(AIIB)をめぐり、日米を尻目に、アジアや欧州の国々が雪崩を打って参加を申請した。上海の大学教授は、「(日米に対抗する)21世紀の『孫子の兵法』だ」と評した。米ドルを基軸通貨とする既存の国際金融秩序とは別に、自国に有利なルールを作り上げたい中国は、潤沢な資金力を武器に多くの国々を陣営に引き入れ、「戦わずして日米に勝つ」との策を実行に移しつつあるからだ。

 習近平指導部はAIIBについて、「世界銀行やアジア開発銀行(ADB)への対抗組織ではなく、補完関係にある」などと繰り返し説明。だが、自らが最大出資国となり、銀行の本部を北京に置く意向とみられる中国の主張を額面通りに受け取る専門家はいない。

 創設メンバー国は承認作業を経て15日前後に正式決定する。その後、メンバー国で出資比率や組織運営の方法、インフラ建設のための融資制度や入札制度、評価方法などを取り決め、6月にも調印する。

 そこでカギとなるのが初代総裁の人事だ。

 31日までカザフスタンで開かれたAIIB準備会合をリードしたのは、元中国財政次官で、ADB副総裁も経験した金立群氏。中国紙は、金氏が初代総裁として最有力と報じている。

 習指導部が、2013年10月に提唱したAIIB構想に、「中国の事前想定すら大きく超えた参加国」(日中関係筋)が吸い寄せられた背景には、約4兆ドルの外貨準備高をもち、人民元の国際化も進めている中国の資金力への期待がある。

 途上国のインフラ建設をめぐっては、20年までに8兆ドルの資金需要が見込まれるが、世銀やADBの資金では不足とされる。また、環境評価や融資判断で世銀などの厳格な基準には途上国などの不満も根強い。

 ただ、AIIBの融資基準が甘くなれば、採算性の低いインフラにも「初めに建設ありき」の融資が恣意(しい)的に行われたり、中国軍の利用を視野に、軍事転用が可能な施設に融資が行われたりする恐れもある。

最終更新:4月1日(水)10時3分

産経新聞

「中国の人工島建設、南シナ海の環境破壊」フィリピン政府

【AFP=時事】フィリピン政府は13日、南シナ海(South China Sea、フィリピン名:西フィリピン海、West Philippine Sea)で中国が領有権を主張しているサンゴ礁に建設している人工島が広範囲にわたって環境を破壊しているとして非難した。

中国の埋め立てで拡大するミスチーフ礁、衛星写真で確認

 フィリピン外務省報道官のチャールズ・ホセ(Charles Jose)氏は、中国の人工島建設により、300エーカー(約1.2キロ平方メートル)のサンゴ礁が破壊され、フィリピンに対し年間1億ドル(約120億円)の損害が生じるとの試算を発表し、「中国の大規模な埋め立ては、西フィリピン海の生物多様性と生態系バランスに広い範囲で不可逆的な打撃を与えている」と述べた。

 また同氏は、領有権をめぐる緊迫したにらみ合いの末、2012年以降、中国が実効支配に着手している南シナ海の好漁場、スカボロー礁(Scarborough Shoal、中国名:黄岩島、Huangyan Island)近海域で、中国が漁師たちに環境破壊的な漁法を許しているとして非難した。

 米シンクタンク、戦略国際問題研究所(Center for Strategic and International Studies、CSIS)が先週公表した南シナ海の人工衛星写真では、フィリピンが領有権を主張している南沙諸島(英語名:スプラトリー諸島、Spratly Islands)のミスチーフ礁(Mischief Reef)で浚渫(しゅんせつ)工事を進める中国船団も確認されている。【翻訳編集】 AFPBB News

最終更新:4月14日(火)8時19分

AFP=時事

10階から転落のネコ、特製器具装着で再歩行 中国

【AFP=時事】中国南部の重慶(Chongqing)にある動物病院で、歩行補助器具を装着した生後8か月のネコ「黒蝴蝶(Hei Hudie)」。

【関連写真】あまりおいしくなさそう?

 ビルの10階から転落した黒蝴蝶は、慈善家らの援助によって5か月間で4度の手術を受け、両方の後ろ脚に障害を残しながらも生き延びることができた。地元メディアの報道によると、黒蝴蝶が歩けるよう、獣医師たちが特製の歩行補助器具を用意したという。【翻訳編集】 AFPBB News

会長挨拶

公益社団法人日本中国友好協会 会長 加藤 紘一公益社団法人
日本中国友好協会
会長 加藤 紘一

 1972年の日中国交正常化から40年以上が過ぎました。
 日中両国はこの40数年で大きな発展を遂げ、日中関係は紆余曲折を経ながらも、急速に密接さを増しています。両国関係は今、“新たな時代”に入ったと言われるほどです。

 1950年10月1日の設立以来、わが協会の歴史は60年を超えています。
 協会は過去の日中戦争への反省の上に立ち、当時まだ国交のなかった中華人民共和国との間で、経済・文化・学術・人事等の民間交流を行ってまいりました。日本の平和と繁栄、アジアおよび世界の平和と繁栄に貢献すべく、在華邦人の引き揚げ、日本に強制連行された中国殉難者の調査および遺骨送還、さらに「日中青年大交流」など各種の多彩な民間交流活動を地道に進めてまいりました。また、日中国交正常化の実現に向けて、多くの諸先輩のご尽力を賜りました。

 公益社団法人となった今、わが協会は責任のある、広く国民的な団体を目指しています。
 これからは未来志向の“新しい交流”を模索しながら、民間の先頭に立つ決意の下で、日中関係、そして“日中友好”の面で日本を引っ張ってまいります。
 皆様のご指導とご支援をよろしくお願い申し上げます。

日本中国友好協会日中友好協会)は、日本中国との友好関係に関わる日本側の団体である。1966年、中華人民共和国中国共産党政権)における文化大革命の評価をめぐる対立により2つのグループに分裂し、同協会を名乗る団体は現在でも2つある。

  1. 公益社団法人日本中国友好協会 - 東京都千代田区神田錦町一丁目に本部を置く団体
    主流派であり、2が分裂してからは「日中友好協会(正統)」を名乗っていたことがある。
  2. 日本中国友好協会 - 東京都千代田区西神田二丁目に本部を置く団体
    日本共産党が支援し、1から分裂した非主流派。

本項では便宜上1を(主流派)と、2を(非主流派)とする。なお1と2はいずれも「1950年10月1日に創立」としている。

  • カッコ書き(主流派)(非主流派)は法人格の有無で区別した便宜的なものである。本部の所在地は変わる可能性があるため使用していない。
  • 日本中国友好協会 (主流派)

    公益社団法人日本中国友好協会
    団体種類 公益財団法人
    設立 1950年10月1日 -
    所在地 東京都千代田区
    主要人物 会長 加藤紘一
    副会長 松本龍
    活動内容 日中共同声明と日中平和友好条約の掲げる精神を遵守し、日本国と中華人民共和国両国民の相互理解と相互信頼を深め、友好関係を増進し、もって日本とアジアおよび世界の平和と発展に寄与することを目的とする。
    ウェブサイト http://www.j-cfa.com
    テンプレートを表示

    公益社団法人日本中国友好協会(にほんちゅうごくゆうこうきょうかい)は、東京都千代田区に本部を置く外務省アジア大洋州局中国課)所管の公益社団法人である。略称は日中友好協会(にっちゅうゆうこうきょうかい)。

    日中友好運動の分裂

    文化大革命の評価をめぐって1966年に分裂した(中国側の文革の対外路線への波及として「世界革命」を標榜し、あるいは「4つの敵」の一つとして日本共産党指導部の打倒を公然と打ち出した路線の中で文革評価をめぐる”踏み絵”を用いて日本共産党党員などの中国絶対化に距離を置くメンバーを組織排除し、日中貿易を文革政府の”朱印”を持つ勢力に独占させ、友好商社方式で対日工作資金を持ち込み、中国いいなりの工作機関と議会ロビーを育成する大方針があったとされる)当時文革を礼賛した側である。分裂脱退した当日の協会理事の参加者の数は主流派の方が多数であったが、非主流派に秘密にかねてから用意してあった別の事務所に移る準備を整え、集団で会議を中座し出て行った事件の経過があるので「日中脱走派」と反主流派に呼ばれた。現在では「社団日中」として区別している。当時の機関紙には中国直輸入の文革の立場から軍事革命を賛美する文書が多数掲載された。一時はその中でも分裂騒ぎがあり、さらに「黒田日中」と「宮崎日中」の二派に分裂し同一名称の機関紙を二派それぞれ発行し、相互に暴力行為を働いて相互に機関紙で非難しあっているがこれは関係修復して再合同。 なお、根拠は無かったが、連合赤軍などにかかわりのあった人物も出入りしていたと言う噂まで広まった。

    この主流派のHPの「協会のあゆみ」という項目には1965年8月の「日中青年大交流」から、1973年3月の「第31回世界卓球選手権大会、中国チーム参加・ピンポン外交」までの間の文革を奉じて組織分裂した当時の記録が未だにない。

    所謂日中友好7団体日中友好議員連盟日中経済協会日中協会日本国際貿易促進協会日本中国文化交流協会日中友好会館)を構成するのはこちらである。

    団体データ

    日本中国友好協会 (非主流派)

    日本中国友好協会(にほんちゅうごくゆうこうきょうかい)は、1966年以来中国政府から分派「ニセ日中」と名指しされた団体である。1950年設立当初のマークをそのまま使用している。1998年の日中両共産党の合意を受け1999年に中国との関係を修復した。

    結成当時は中国との国交がなかったので草の根民間外交としてきりえ講座、中国語講座などが主な活動スタイルであった。組織分裂後は中国政府から攻撃もされ、国交正常化後は「ニセ日中」と相手にされない時期が長く続いたが、国交がない当時からの活動を踏襲して中国政府からも日本政府からも独立した立場を保つことができた。

    沿革

    (協会HPから抜粋) 「中国の文化大革命(1966年)の時期に、日中友好運動に対して中国側から「毛沢東主義」の礼賛などの干渉がおこなわれましたが、協会はこれに反対し、日本国民の自主的運動の立場を守り抜きました。そのために33年もの長い間、中国との関係が断絶しました。1999年、中国がこの誤りを認め、「真剣な総括と是正」を表明したことで関係が正常化し、自主独立・対等平等・内部問題不干渉の国際友好の原則に立つ新しい友好関係を確立しました。協会は現在、中国国際交流協会及び中国日本友好協会と友好関係を持っています。」

    団体データ

    • 設立:1950年10月
    • 会長:長尾光之
    • 本部所在地:東京都千代田区西神田2-4-1 東方学会ビル3F
    • 機関紙:日中友好新聞(タブロイド判4ページ、毎月3回(5日、15日、25日)発行、購読料1ヶ月400円)
    • 地方組織の表記方法は「日本中国友好協会+地域名『連合会・支部』」となる。
    • 中国国際交流協会及び中国日本友好協会と友好関係を持っている。
    • 革新都政をつくる会に東京都連合会が参加する。

 日中友好会館は日中民間交流の拠点として、中国人留学生の宿舎「後楽寮」の運営、日中青少年交流、文化交流など、さまざまな事業を展開しています。日本人に中国語を教え、中国人に日本語を教える日中学院の仕事も同様です。中国に関心を持つ人々を集めた日中友好後楽会も、会館の賛助組織として大きな役割を担っています。

 日中関係の一層の発展に寄与するため、志を同じくする諸団体と協力して、両国間の記念行事や中国要人の歓迎行事、さらには民間諸団体による交流会議、シンポジウムの開催などに、積極的な協力を続けています。

日中友好会館のあゆみ

公益財団法人日中友好会館の設立の経緯

 戦前、満州国留学生のための学生寮を運営していた財団法人満州国留日学生輔導協会が、終戦により事業遂行が不可能となって解散、昭和28年5月23日付をもって設立された財団法人善隣学生会館が、同協会の残余財産と学生寮運営事業を引き継ぎました。

 その後、昭和39年には、中国語学習のための専修学校日中学院を併設し、事業内容を拡張していきます。昭和47年になると日中国交正常化により、両国の交流は各分野で急速に深まり、昭和48年からは中国人留学生の派遣が開始され、受入施設の充実の必要性が高まっていきました。そして、昭和55年に、両国首脳会談で日本側から新しい会館建設計画が示され、計画具体化の段階で財団法人善隣学生会館の土地が新会館候補地に選定され、財団法人善隣学生会館が新会館建設の事業主体に決まります。建設事業は両国政府合意の国家的事業として位置づけられ、両国政府はもとより、広く各界各層の全面的支援体制の確立が不可欠のため、昭和58年8月31日付をもって寄附行為および理事構成の変更(政・財界並びに中国民間代表の理事受入れ)による法人改組を行い、法人の名称を財団法人日中友好会館と変更します。

 新会館の建設は、昭和59年から開始され、昭和60年3月、中国人留学生寮(後楽寮)および日中学院からなる別館が完成し、次いで昭和63年1月、事務局・日中友好会館美術館・大ホール・ホテル(後楽賓館)・貸室などからなる本館が完成しました。

公益財団法人日中友好会館の使命

 日中両国政府ならびに国民各層の多大なご支援のもとに、4年有余の歳月をかけて完成した日中友好会館は、両国民の交流の拠点としてその存在意義は極めて大きく、日中関係の一層の発展に寄与するものとなりました。今後、この拠点を有効に活用して、両国の交流を促進し、名実ともに日中友好を増進することが、日中友好会館に課せられた使命であると考えています。

会長あいさつ

 江田 五月 当財団は、日中両国の友好協力関係の一層の深化と発展を目指し、国民レベルでの活動拠点として、中国からの留学生受け入れ、日中青少年交流、日中文化交流をはじめとする、さまざまな分野で積極的に交流事業を展開しています。

 

 

 日中両国は、長い歴史のある「一衣帯水」で切っても切れないお隣同士の関係にあります。両国関係には、隣国だからこそ生じる懸案もありますが、だからこそ今後も、双方が未来志向の知恵を出し合って協力し、多くの分野で多彩な事業を展開しなければなりません。

 

 

 幅広い国民レベルでの、とりわけ若い世代の相互理解の拡大を通じ、両国の友好関係が「子々孫々、世々代々」と続くよう、留学生寮の運営をはじめ教育・文化・学術等さまざまな分野で交流の輪を広げてまいります。何とぞ、皆さま方の温かいご支援を切にお願いします。

 

公益財団法人 日中友好会館
会長    江田 五月

 

サイン

庚欣:日本对华好感度低不等于敌视

 日本媒体9月10日报道,不久前中日共同实施的舆论调查显示,日本人中对中国“没有好感”的比例达到93%,创下过去10年该调查的最糟糕的记录。这几年类似民调结果时有发布,由此引发人们对于日本民众中国观的关切。

  尽管对于民调方式有种种批评,但目前日本民众对中国好感度低,确是不争的事实。这中间有较为复杂的原因。

  一是近年来关于领土等具有民粹色彩的纠纷凸显出来,掩盖了日本内部政治是非的分歧,尤其在历史认识等问题上,对日本保守派持批判态度的人士也不便在涉及领土问题上明确站出来,因而似乎形成中日两大民族的对立,这对民意影响很大。

  二是中日国力以经济总量为标志出现逆转且差距明显拉大,安倍6年前入相时,中国GDP是日本的一半,等到他“二进宫”时,日本的GDP是中国的一半。这样的剧变,日本民众缺乏心理准备。同时中日纷争增多,由此使不少人对中国高速发展有“不确定感”及“压力感”,这些都会体现在民调之中。

  三是日本民众由于教育、战后环境等造成对侵略历史普遍认识不足,易于受到保守势力的影响。中国批评日本历史观的错误,让一些人感到中国“太强硬”。另外,日本媒体对中国现实中负面因素的报道比较偏好,比如环保、腐败等问题。这些因素综合发酵,导致目前日本民间的对华好感度陷入低潮。

  笔者在日本生活居住多年,深感日本民意有其内在特点。日本人有一种“成年悲观心态”,即处于饱和的成熟型发达国家,再加上长期萧条及保守思潮蔓延,如同成年人易患“成年病”,甚至有些“未老先衰”。对很多人与事的评估都偏于悲观、消极,这与处于高速成长中的中国人明显不同。此外,日本民意受媒体及政府影响很大。因此,日本媒体及政府近来的对华“导向”显得非常重要。日本一些有识之士已经注意到日本媒体及政府对中国认知及宣传的偏颇,并指出这是近来民意低下的重要原因。

  有人担心,日本人对华好感度再度下降会影响中日民间交往。笔者倒认为,“好感度”低并不等于就是“敌意”。中国主导推动了40多年“民间友好运动”,中日经贸相互依存的现实,都使日本大多数民众有一个相对稳定的主流“中国观”。尽管有的人会丑化中国、不喜欢中国,但他们中的大多数并不接受“中国威胁论”的主张。这就是安倍政权推动“解禁集体自卫权”受到日本多数民众抵制的原因。这次民调中,有79.4%的日本民众担心两国关系继续恶化,希望改善两国关系。这也显示了安倍政府最近不能不作出努力,表达希望改善中日关系、恢复首脑会谈的民意压力。

  可见,缺乏好感不等于不希望改善关系,也不等于要远离中国。日前在一个关于去中国或印度常驻的网上调查中,日本民众大多数选择了中国。因此数据不可怕,急需要做的是准确把握日本民意背后反映出的中日结构性矛盾,找到各方应努力的方向及具体改善措施。▲(作者是日本道纪忠华智库首席研究员)

责编:翟亚菲
版权作品,未经《环球时报》书面授权,严禁转载,违者将被追究法律责任。

【中国から見た日中関係が悪化している原因】

 『環球時報』が掲載していた「日本对华好感度低不等于敌视」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。

1 記事の紹介

 日中共同世論調査で、中国に対して良くない印象を持っている日本人の割合が93%に上ることが分かりましたが、その原因等について述べているものです。

 まず大きく以下の3つの原因による結果としています。

 ①領土問題では、民族の対立となり、日本国内での差異を覆い隠してしまう。

 ②日中の経済格差が広がっており、中国の高度経済成長が日本にプレッシャーを与えている。

 ③侵略の歴史という認識が不足しているので、保守勢力の影響を容易に受けてしまう。

 また、日本人は物事を悲観的に考える方向があり、また、日本人は政府やマスコミの影響を受けやすく、こうした機関の誘導が大きな原因としています。

 ただ、この筆者はこうした好感度の低下は必ずしも敵視を意味しておらず、40年に及ぶ民間友好運動があるし、貿易の相互依存もあり、一般の日本人は相対的に穏やかな中国観を持っており、中国脅威論を受け入れていないとしています。

2 中国の主張

 ま、『環球時報』に掲載されたものなので、間違っても中国側にも原因があるなどということは書けないのでしょうが、日本人である私に言わせるとこうした自分たちの非を認めず、一方的に日本を責任を押し付ける態度が好感度を下げている最大の原因かと思います。

 また、不景気に苦しむ日本が高度経済成長を謳歌している中国をねたんでいろいろ複雑な感情を持ちそれが日中関係に影響を与えているという主張は、はっきり言って聞き飽きたというのが本音です。

 ただ、中国にしてみれば、自分たちの自尊心を満足させることができ、更には関係悪化の原因を日本側に押し付けることができるとても優れて主張ということなのでしょう。

 関係悪化に対するマスコミや政府の影響もはっきり言ってこうしたものの影響を強く受けている中国人にとっては、すごく説得力がある話ですが、日本人がこうしたものをどこまで信頼しているかはかなり疑問です。

3 お互い様

 実際、今回の調査では、日本に対して良くない印象を持っている中国人も86.8%に上っており、日本に対してこうした原因を分析を行うのであれば、同じようなことを中国に対しても行うべきかと思います。

 その際、マスコミや政府の影響については、中国は日本以上です。学校教育は言うに及ばず、何か問題があると常に日本に責任を転嫁する中国政府、それを日常的に報道するマスコミ、こうした公式のものだけでなく、日常的に放送されている反日ドラマ等々。

 こうしたものの影響を普段受けている中国人がどのような思考パターンをとるかは容易に想像される話です。

4 お互い様2

 それに中国の高度経済成長にあこがれる日本人という話ですが、私に言わせれば高度経済成長はできていても国内に様々な問題を抱える中国の方が外国に対するあこがれは強く、それが複雑な影響を与えていると考えます。

 食の安全や豊かな自然という本来もっとも重視されなくてはならないところが全く守られておらず、売っているものも何を信頼したらよいかわからないのが中国の現実です。

 それに経済は確かに発展したものの、貧富の差は大きく、確かに夢や希望を抱いてパワフルな中国人が多いことは事実ですが、その一方、病気やけがをしたときに社会保障分野での整備がなされておらず、ひどい待遇を受けている方が多いことも事実です。

 そして、先に述べた貧富の格差や、共産党と関係(コネ)のある者にはどう頑張っても勝てない現実があり、こうした中国の負の面に悲観している方がいることも事実です。

5 最後に

 ある意味、いつもの中国の主張でツッコミどころは満載ですが、それでも日本に対して完全な敵意をむき出しにした記事ではないというのが印象的でした。

 これが今の中国の限界かもしれませんが、願わくばもう少し「謙虚」という言葉を学んでいただければ、日本の中国に対する好感度も上がるのではないかと思った次第です。 

【中国の習主席と李首相】

時事通信 3月15日(日)17時17分配信

15日、北京で、全国人民代表大会(全人代)に出席する習近平国家主席(左)と李克強首相。

中国、景気下支え継続へ=7%成長「容易でない」-李首相

 【北京時事】中国の李克強首相は15日の記者会見で、2015年の経済成長率目標を14年の7.5%から7.0%に引き下げたとはいえ、「達成は容易でない」と述べ、景気下支えを続ける方針を明らかにした。今後も利下げなどの金融緩和や公共投資拡大、減税が柱になる見通し。
 李首相は7%成長について、「中規模国一つ分の国内総生産(GDP)を創出するのと同じ計算になる」と目標達成の難しさを説明。ただ、「ここ何年かは大規模景気刺激策を行っておらず、政策の余地は大きい」と語り、雇用不安に陥りそうな場合には強力なてこ入れに踏み切る構えを見せた。(2015/03/15-16:52)2015/03/15-16:52

中国、年内にも金利自由化=預金保険制度導入へ-人民銀総裁

【北京時事】中国人民銀行(中央銀行)の周小川総裁は12日、開催中の全国人民代表大会(全人代=国会)に合わせて記者会見し、「今年、機会があれば預金金利の上限規制が撤廃される」と述べ、年内にも金利自由化の総仕上げである預金金利の自由化が行われるとの見通しを示した。

 中国では2013年7月に貸出金利が自由化されたが、預金金利には上限規制が残る。上限は現在、人民銀が定める預金基準金利の1.3倍で、期間1年の定期預金では3.25%となる計算。
 預金金利が自由化されると、銀行間で預金獲得競争が激化し、中小行が破綻するケースも想定される。周総裁は、日本などのように銀行破綻に備え、預金を一定限度まで保護する預金保険制度を近く導入する方針を確認した。(2015/03/12-19:57)2015/03/12-19:57

「爆買い」現象に反省論=日本便座が契機、李首相も危機感-製造強国皮肉る声・中国

京時事】北京で開催中の中国全国人民代表大会(全人代=国会)で、2月の春節(旧正月)連休に訪日した中国人観光客が温水洗浄便座などを大量購入した「爆買い」現象を受け、中国製造業の競争力強化を求めるなど反省論が相次いでいる。李克強首相も「消費者が飛行機代を節約できるよう、中国企業には(日本と)同品質の製品をつくるグレードアップが必要だ」と危機感をにじませた。


〔写真特集〕中国一の金持ち村


 李首相は5日の全人代政府活動報告で「中国製造(メイド・イン・チャイナ)2025」の実施を宣言。今後10年間で、国内製造業の技術革新を進め、「製造大国」を「強国」に転換させる計画だ。
 しかし中国メディアは、中国人観光客が日本で温水洗浄便座や電気炊飯器などを大量購入する実態を「便座事件」と名付け大きく報道。「これで『製造強国』になれるのか」と皮肉る声も伝えられる。(2015/03/10-14:15)2015/03/10-14:15

新疆で衝突、1カ月で57人死亡か=当局は情報統制-中国

【北京時事】香港の人権団体・中国人権民主化運動情報センターは12日、新疆ウイグル自治区で2月13日から今月9日までの約1カ月間で、ウイグル族と公安当局の衝突事件が計5件発生したと伝えた。一連の衝突で公安当局者11人とウイグル族46人の計57人が死亡したとしている。
 今月6日夜にはカシュガル地区ヤルカンド県で衝突とともに爆発が起こり、公安当局者5人とウイグル族20人が死亡したとされる。同9日夜にはトルファン地区トクスン県で公安当局者1人とウイグル族5人が死亡したという。
 米政府系放送局ラジオ・フリー・アジア(RFA)も2月に新疆ウイグル自治区の各地でウイグル族が絡む公安当局との衝突事件が相次いだことを報じている。しかし中国の政府系メディアは事件について報道していない。北京では全国人民代表大会(全人代=国会)が開催中で、情報統制を敷いている可能性がある。(2015/03/12-18:23)2015/03/12-18:23

反腐敗闘争の推進強調=中国政協、決議採択し閉幕

 【北京時事】北京で開かれていた中国の国政助言機関、全国政治協商会議(政協)第12期第3回会議は13日、「清廉政治建設と反腐敗闘争を断固推し進める」などと訴えた政治決議を採択し、閉幕した。兪正声政協主席は「道徳規範を守り、自らを律すべきだ。ぜいたくをやめ、私利を謀ってはならない」と腐敗撲滅への決意を表明した。
 決議は「ややゆとりのある社会の実現」など、習近平国家主席が掲げる改革方針「四つの全面」の推進へ貢献すると強調。今年予定される戦勝70周年の記念行事について、「国際社会が共同で第2次大戦の勝利の成果と国際的な公平・正義を維持できるよう推進していく」と主張した。
 政協会議と並行して開催中の全国人民代表大会(全人代、国会)は、15日に閉幕する。閉幕後、李克強首相が記者会見する。(2015/03/13-18:33)2015/03/13-18:33

検察・法院報告の批判票低下=「反腐敗」を評価か-中国全人代閉幕

【北京時事】5日から北京で開かれていた中国全国人民代表大会(全人代=国会)は15日、今年の経済成長率目標を7.0%前後と設定した政府活動報告などを採択して閉幕した。最高人民検察院(最高検)と最高人民法院(最高裁)の活動報告に対する批判票(反対・棄権票)はそれぞれ12%、9%。幹部の腐敗が深刻化する中で有効な対策を講じていないとして毎年、大量の批判票が出るが、例年より少なかった。
 検察院の活動報告は昨年収賄など職務犯罪で摘発された公務員が5万5101人に上ったと明らかにした。批判票の低下は、習近平指導部が展開する反腐敗キャンペーンの成果が評価された結果とみられる。
 15日付の中国各紙によると、政府活動報告には、改革や法治、厳格な党統治などを同時に進めるという習近平国家主席の新政治スローガン「四つの全面」が新たに加えられたとみられる。李克強首相も5日の政府活動報告で、もともと原稿になかった「厳格な党統治の全面展開」を加えて「四つの全面」の意味を強調していた。
 経済成長率目標の引き下げは3年ぶりで、0.5ポイント引き下げた。今年の国防予算を前年比10.1%増とした予算案や、立法手続きを定めた「立法法」改正案も採択された。(2015/03/15-12:37)2015/03/15-12:37

【深掘り】中国人観光客、那覇空港保安の穴スルリ 外国語表示に課題

那覇空港が1時間余りにわたって閉鎖され、手荷物検査済みだった乗客全員の検査をやり直す異常事態が9日に発生したのは、乗り継ぎの中国人女性客3人が手荷物受取所に誤って出入りしたことが発端だった。少なくとも発着の5便が欠航、25便が遅延となり、約6200人の足に影響が出た。利用客からは「テロだと思った」「セキュリティーはどうなっているんだ」と怒りと困惑の声が挙がった。なぜ、ここまでの混乱が起きたのか。
 国土交通省の那覇空港事務所や豊見城署によると、女性3人は午後4時15分ごろ、石垣島から到着した。羽田行きの便に乗り継ぐ前に、2階の到着口から同じ階の免税店に寄ろうとしたところ、道に迷って1階に降り、乗り継ぎ客の立ち入りが禁止されている手荷物受取所に誤って入ったという。
 複数の関係者によると、3人が荷物受取所に立ち入った後、搭乗待合室へ戻ろうとした際、警備員は声を掛けたが制止できずに見失ってしまった。
 こうした場合、乗り継ぎ客がナイフやカッターといった刃物などの危険物が入っている荷物に触れ飛行機に搭乗する可能性も否定できないという保安上の理由から、再度、保安検査が必要になる。
 同様の混乱は2013年にも起きていた。成田空港から到着した女性の手荷物からハサミが見つかり、搭乗待合室にいた乗客全員に再度、保安検査を実施。空港が3時間閉鎖され、72便に影響が出た。それなのに、また保安検査を再実施する事態を招いている。
 今回の事案では、迷った女性が外国人だったことから、空港内の案内図の不備も指摘されている。
 那覇空港ビルディング(NABCO)によると、構内の主要動線や重要な標識は日本語のほか英語、中国語、韓国語の4カ国語の表示があるが、テナントなどの案内図には多言語表示はない。同社は「今後は国内線と国際線の連結施設もできる。急増する外国人観光客に対応するためにも、空港の案内表示を強化したい」と説明する。
 沖縄観光コンベンションビューローの上原良幸会長は「事故には至らなかったが、観光立県として深刻な事態を招いてしまった。再び同じようなことが起きないように対策を講じていく必要がある」と強調し、「なぜ起きたのか、原因究明を求めたい」と話した。
 那覇空港事務所は「空港の保安上の問題なので詳細は言えない。今後、関係者と協議して一緒に対策を考えていきたい」と述べるにとどめている。(社会部・比嘉太一、城間陽介)最終更新:3月15日(日)18時46分

沖縄タイムス

もはや手遅れなのか…中国の汚染状況のヒドさがわかる24枚の写真

中国の影響で日本が受ける公害は、PM2.5や黄砂などがある。
中国本土ではそれ以上、いや、それどころのレベルの環境汚染ではすまないようである。海外掲示板サイトredditで掲載されていた、中国の汚染状況を示したとされる写真24枚をご紹介させていただく。

突きつけられる現実、もはや手遅れなのだろうか・・・。

中国首相発言「建設的でない」=菅長官

 官房長官は16日午前の記者会見で、中国の李克強首相が過去の戦争に関して「先人の責任」を負うよう日本の指導者に求める発言をしたことについて、「ことさらに過去の歴史にのみ焦点を当てることは、日中関係にとって建設的ではない。日中双方が未来志向の協力関係を発展させることが極めて重要だ」と指摘した。 
 また、中国が制定予定の「反テロ法」にIT企業などへの規制強化が盛り込まれていることについて、「日本企業にもビジネスに大きな影響があるとの懸念がある。欧米諸国と連携しながら、外交ルートを通じてしっかりと懸念を伝えていく」と述べた。(2015/03/16-12:14)2015/03/16-12:14

中国醤油って知ってる?

中国、特に広東料理では醤油を「生抽(中国語でshengchouと発音します)」、「老抽(中国語でlaochouと発音します)」と言います。

抽というのは「取り出す」という意味なのですが、両方とも醸造醤油です。広東料理で一般的によく使われるのは、前者のようです。なぜなら生抽は老抽より色が薄く、味がまろやかなので色彩を大変重宝している広東料理に一番合うと言われています。


生抽は色が薄く、見た目は日本の薄口醤油に似ています。でも、味は大変濃いので、日本の薄口醤油の感覚で料理に入れたら大変なことになります。色が薄く、味が濃い生抽は、サラダと炒め料理によく使われます。チンゲン菜、菜の花など特に緑の色を出したい料理に、広東の人はよく使うようです。


一方老抽は、キャラメルが入っている甘味が強いしょうゆで、主に料理の着色として使われますので、「トンポーロー」など色を出す煮込み料理に向いています。老抽は生抽をベースにして搾り出したしょうゆを更に2~3ヶ月寝かし、沈殿とフィルタにかける複雑な過程を経て作ったものです。その製造過程は、生抽より複雑で手間が大変かかりますが、複雑な製造過程と何ヶ月という時間をかけているので、味に非常に深みがあります。生抽は口に入れた瞬間「塩辛い」という印象ですが、老抽は「甘い」という感じです。※

※広東料理の達人より


やっぱり中国の食文化は奥行きがありますね。

味も日本の醤油とはかなり違うんですよ。 

米中原子力協力協定が本年12月末で失効することを、メディアはほとんど報じていません。中国の原発はアメリカ国内に5,000人以上の雇用を創出し、このプロジェクトに日本の三菱重工、韓国の斗山重工も携わっています。
原発産業は国際的分業によって維持されています。ウランの採鉱に始まり放射性廃棄物処分までの複雑な構造は、世界各地の社会的弱者の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけないでしょう。

米中原子力協力協定について
ISCN ニューズレター. No.0215 別添 2015年2月...
http://www.jaea.go.jp/04/iscn/nnp_news/attached/0215a1-1.pdf

あなたの知らない日本 ブログより転載


安倍晋三の嘘一覧

安倍:『TPPは米韓FTAよりマシと言ったな、あれは嘘だ。自民党6条件は守るといったな、それも嘘だ』

安倍:『竹島の日式典を開催すると約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『朝鮮総連幹部再入国禁止!と言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『TPPに参加しないと約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『竹島提訴すると約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『生活必需品は消費増税の対象外と約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『尖閣に公務員置くと約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『老人の医療費2割自己負担と約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『腹痛でやめたと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『河野談話見直すと約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『韓国には厳しい態度でいくと約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『政権とったら電気代安くすると約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『発電と送電を分けると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『金銭解雇はしないと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『ブッシュに慰安婦謝罪はしていないと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『拉致被害者を北朝鮮に返すなと主張したと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『TBSに9条1項は変えないと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『春の例大祭に靖国参拝するようなフリをしたな、あれはデマだ』

安倍:『IOC総会で汚染水は完全にブロックされていると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『菅が俺をデフレ脱却の鬼と呼んでいたな、あれは嘘だ』

安倍:『増税の代わりに低所得者には現金を給付すると約束したな、あれは一万だ』

安倍:『消費税は全額社会保障に使うと約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『消費税増税と議員定数削減はセットでやると約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『TPP重要5品目などの聖域を最優先。確保できない場合は脱退も辞さずと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『毎日官邸で福島の米を食べていると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『マスゴミが俺が消費税を上げるとかトバシていたな、あれは嘘だ、というのは嘘だ』

安倍:『尖閣を断固守る!中国に一歩も引かない!といったな、あれは嘘だ』

安倍:『台湾に尖閣海域の漁場をやったな、あれはサプライズだ』

安倍:『終戦記念日に靖国参拝するフリをしたな、あれはデマだ』

安倍:『アベノミクスでベア企業が5年ぶりに二桁になったと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『総合政策集Jファイルは国民と自民党の約束と言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『村山談話をそのまま継承することは無い、安倍談話を出す、と言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『秋の例大祭に靖国参拝をするフリをしたな、あれはデマだ』

安倍:『米国に50兆差し出し7月に5.2兆差し出し9月にまた50兆差し出したと報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『自民党がゼネコン業界に政治資金4億7100万円の政治献金を請求していたことを赤旗が暴露したな、あれは本当だ』

安倍:『天皇陛下や皇室の政治利用はいけないと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『一太が首相にはいい加減な情報や二枚舌は通用しないといったな、二枚舌は俺だ』

安倍:『徳田を自民のホープ、日本のホープと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『特定秘密保護法をやるとは言って言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『特定秘密保護法は諸外国で法制化しているものと同様のもので日本だけが遅れているといったな、あれは嘘だ』

安倍:『特定秘密保護法は国民を守るためのものだと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『ヤジは議場の華と言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『特定秘密の妥当性をチェックする第三者機関を設置すると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『アメリカ政府が航空会社にフライトプランの提出を要請したことはないと確認したといったな、あれは嘘だ』

安倍:『民主党が政権中に3万件破棄したようなことをできなくします、といったな。あれは嘘だ』

安倍:『原発廃炉を実現すると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『原子力に依存しなくてもよい経済社会構造を目指すとも言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『特定秘密保護法でマスコミは捕まらないと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『特定秘密保護法をこれからも国民にしっかり説明していくと言ったな、それは無理だ』

安倍:『バイク増税は新車限定だと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『俺がNHKを私物化したと報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『ASEAN首脳との夕食会でクールジャパンとしてAKBを見せたと言ったな、あれは本当だ』

安倍:『2030年を目標に脱原発をすると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『天皇が誕生日に『憲法を大切にしたい、当時の方々に感謝している』といったな、NHKでその部分だけは丸ごとカットだ』

安倍:『ミャンマーへの5000億円の債務帳消しからの新たに910億円を供与したと報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『しかし、ミャンマーでの国際事業でKDDIも住友商事も入札惨敗したな、それも本当だ』

安倍:『2013年の年末に自民党員にもち代と称して1人100万配ると言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『猪瀬の金銭授受問題に関して百条委員会を設置し真相を究明すると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『物資協力について、武器や弾薬は含まれず、国連から要請があっても断ると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『銃弾提供は国連、韓国からの要請と言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『特定秘密保護法で一般国民は捕まらないと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『靖国参拝を批判するのは中韓のみと御用マスゴミが報じていたな、あれは嘘だ』

安倍:『自民の佐藤正久が米国は失望していないといったな、あれは嘘だ』

安倍:『人生で一番輝き、かつ試練も与えられるのが20代だといったな、あれは嘘だ』

安倍:『米国にリニア技術と5000億を提供すると言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『赤旗が自民党議員が使い残した政党助成金7億2000万を返納していないと報じたな、あれは本当だ』

安倍:『外国人労働者の拡大を検討すると言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『2014年の1月に東電が放射性ストロンチウム濃度を公表できないと隠蔽したな、あれは本当だ』

安倍:『有効求人倍率が1.0倍に回復したと言ったな、正規は減って増えたのは非正規だ』

安倍:『正規雇用減少の政策を推進すると言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『サヘル安定化支援に87億円を2014年の3月までに提供すると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『アフリカ支援倍増して円借款を20億ドル(2100億円)にするといったな、あれは本当だ』

安倍:『地下水汚染濃度が220万ベクレルを超え最悪値を更新したと報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『福島第1原発の井戸で最高値240万ベクレルの過去最高値を記録し上昇が止まらないと報じられたな、これも本当だ』

安倍:『特定秘密の基準を検討する会議の座長にナベツネを起用すると報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『前安倍内閣で最後の一人まで払うと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『竹島の日式典を開催すると約束したな、2014年に関してもあれは嘘だ』

安倍:『インドへ円借款2千億円供与を表明したと発表されたな、あれは本当だ』

安倍:『細川元総理に1億円借入問題があるといったな、あれは嘘だ』

安倍:『道徳を教科化するといったな、道徳教育が必要なのは俺だ』

安倍:『NHKは何の権力にも囚われない公正中立な報道をして欲しいと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『原発の使用比率は減らしていくと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『2014年2月22日に人間ドックを受けに行ったな、その日は竹島の日だ』

安倍:『自民党になって給料が上がったと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『民主党時代は給料が下がったと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『多くの経営者が景気回復を実感していると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『ワタミが最低賃金でアルバイトを募集していた話が国会で出たときワタミは逃亡したな、あれは本当だ』

安倍:『南京大虐殺はないといったな、あれは嘘だ』

安倍:『従軍慰安婦問題の対米のロビー活動で7,000万どぶに捨てたと報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『南京大虐殺はないといったな、あれは嘘だ』

安倍:『リストラ助成金をリストラされた社員ではなくリストラした会社にやるといったな、あれは本当だ』

安倍:『甥がフジテレビにこね入社したな、あれは本当だ』

安倍:『アベノミクスのせいで円安となり貿易赤字が拡大していると報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『アベノミクスのせいで円安となり連続経常赤字も拡大しているなと報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『年金を投機的に運用すると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『GDPが1%増加したと報じたな、あれは嘘だ』

安倍:『政府公報の予算を使って復興に批判的な記事が目立つ被災3県の新聞を黙らせたな、あれは本当だ』

安倍:『復興が前に進み始めたと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『311の追悼式を被災地ではなく東京でやって被災地を怒らせたな、あれは本当だ』

安倍:『子育て支援を充実させると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『AKB48の秋元康を東京五輪の総合プロデューサーにすると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『雇用契約に解雇の可能性を明記すると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『マスコミ各社の社長たちと会食を重ねていると報じられているな、あれは本当だ』

安倍:『報道の自由のランキングにおいて韓国に負けたな、あれは本当だ』

安倍:『報道の自由のランキングにおいて先進国で唯一顕著な問題のある国になったな、あれは本当だ』

安倍:『関東の子供の尿の7割からセシウムが検出されたな、あれは本当だ』

安倍:『子供を産むのは国家に対する最大の貢献と自民の議員が言ったな、公明党GJ』

安倍:『ソマリアの反政府勢力を鎮圧するために4,000万ドル支援すると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『河野談話は検証はするといったな、あれは嘘だ』

安倍:『移民を毎年20万人受け入れると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『移民を50年で1,000万人受け入れるとも言ったな、それも本当だ』

安倍:『上野千鶴子の講演会を俺の友達である山梨市長が急遽中止させたな、あれは本当だ』

安倍:『消費税増税前に経団連の会長たちとゴルフとしたな、あれは本当だ』

安倍:『福祉を充実させると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『所得税を増税するとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『しかし所得税の納税額上限を2億円にする富裕層優遇策を検討していると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『内閣改造をちらつかせ俺にNOを言えない環境を作っていると報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『天皇から授かる勲章を初めて私的利用し自民党の清和会関連だけにしたな、あれは本当だ』

安倍:『献金を受け取らないと言った自民党の田村憲久が1億3000万を超える献金を受け取っていたな、あれは本当だ』

安倍:『いいともに出演すると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『いいともの出演は日枝久会長主導によるものでタモリや制作現場は寝耳に水と報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『東電の除染費用3兆6000億円を全額国の負担にすると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『メディアがどんな取材をするのか事前に調査していることがばれたな、あれは本当だ』

安倍:『近年まれに見る水準の給料アップが実現しつつあるといったな、あれは嘘だ』

安倍:『オートバイ事務局長である三原じゅん子が無免許だと報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『ウクライナに1000億円規模の支援をすると言ったな、本当は1500億だ』

安倍:『カジノ法案と共にマルハンが動き出していると報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『2013年の休廃業・解散が2万8943件となり過去最多を記録したな、あれは本当だ』

安倍:『アンダー・コントロールは決して収束したという意味ではないと国会で言ったな、あれは本当だ』

安倍:『アンダー・コントロール発言は五輪を任せられないと言う雰囲気を払拭するためと国会で言ったな、それも本当だ』

安倍:『アンダー・コントロールとは事実を掌握して対応していると言う意味と各界で言ったな、これも本当だ』

安倍:『旧日本軍による捕虜虐待問題についてオランダにも和解事業をやると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『NHKが黒字なら10%値下げをすると言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『2014年3月にリーマンショック後最大1987年のブラックマンデー規模の売り越しがあったな、あれは本当だ』

安倍:『5年間で2兆円規模のODAをやると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『流出したトリチウムの濃度は11倍になったと報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『住民税を増税するとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『相続税増税するとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『高齢者医療費負担増をするとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『診療報酬引き上げをするとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『40歳から64歳までの介護保険料引き上げをするとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『児童扶養手当を減額するとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『ガソリン代リッター5円UPするとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『高速料金を大幅値上げするとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『ETC割引縮小するとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『公務員給与を減額停止するとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『軽自動車税は1.5倍の10800円に値上げするとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『未だに原発を海外に売り込もうとしていると報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『しかしその放射性物質は最終処分場すら日本にないのに日本で引き取ることになっているな、それも本当だ』

安倍:『その上事故を起こした場合日本国民の税金から支払う約束になっていると報じられたな、これも本当だ』

安倍:『実際米国は欠陥品だった原発を販売したとして三菱重工に賠償請求をしていると報じられたな、これも本当だ』

安倍:『韓国語で朴大統領に話したが見事に滑ったな、あれは本当だ』

安倍:『社員の発明は企業のもにするとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『NHKの籾井は経営実績が評価されたと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『島根原発のデータが表示されないトラブルがあったと報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『たばこを5%増税するとは言っていないな、でも実行だ』

安倍:『タンク近くの地下水の汚染濃度が2014/3/21を基準に翌日には11倍になったと報じられたな、あれは本当だ」

安倍:『専門家が志賀原発の活断層は否定できないといったな、あれは本当だ』

安倍:『厚労省が再計算したら福1の緊急作業員142人の被曝線量が東電算出のものを超えていたな、あれは本当だ』

安倍:『福島原発事故の避難指示地域を一部解除すると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『しかし内閣府が福島原発事故の被曝線量を公表しなかったな、だってやばすぎるもん』

安倍:『全国の火山学者が巨大噴火被害リスクNo.1の川内原発を真っ先に再稼働と言ったな、あれは本当だ』

安倍:『非正規雇用が37.6%、働いているのに年収200万に届かない貧困層が1090万人増加したな、あれは本当だ』

安倍:『東電の汚染水漏れ調査を原因不明のまま打ち切ると報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『年金業務監視委員会を廃止するとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『ワタミ裁判で社員が自主的に傍聴しに時間前にならんだに過ぎないといったな、あれは嘘だ』

安倍:『8000年続いた捕鯨をやめると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『消費税が5%から8%になり105円が105.8円になると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『消費税還元セール表示阻止のための市民監視団を導入するとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『捕鯨敗訴で政府代表が俺に厳しい叱責をされたと報じられたな、任命したのは俺だ』

安倍:『いかなる行政分野でも広く世界と交わりながら最善の判断をしてほしいといったな、あれは本当だ』

安倍:『中国移民が実は急増していると報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『ミャンマーの債務5000億をチャラにし910億円のODAをはじめるとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『年金のアクティブ運用をGSなど3社に頼むとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『エネルギー基本計画から福1の深い反省を削除していたと報じられたな、あれは本当だ』

安倍:『桜の女王達に囲まれ『両手に花だ』とデレデレしていたな、あれは本当だ』

安倍:『年金を先物で運用すると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『年金は64歳まで払わせることにすると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『主婦年金を廃止すると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『配偶者控除を廃止すると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『この春こそ収入アップを国民に届けたいと言ったな、あれは嘘だ』

安倍:『消費税は10%以上にして今度こそ全額社会保障に使うと約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『愛国心とは国を愛する心を育むことだと言ったな、あれは嘘だ』

安倍「仲井真に日米地位協定を見直すと約束したな、あれは嘘だ』

安倍:『外国人の技能実習制度を最長3年から5年にするといったな、あれは本当だ』

安倍:『外国人の技能実習制度において再入国も求めると言ったな、それも本当だ』

安倍:『難病患者の本人負担を大幅に引き上げると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『道州制基本法案を提出すると言ったな、あれは本当だ』

安倍:『消費税視察のために東急デパートを視察するといったな、あれは嘘だ』

安倍:『しかし買い物は中止になったとディスインフォメーションを流し、より高級な日本橋三越に行ったな、あれは本当だ』

安倍:『三越店内では記者クラブの代表(スチール1社、ムービー1社)しか取材させなかったな、情報は完全にコントロールだ』

国民の反対の声を無視して実行する独裁主義の安倍ぴょん

安倍:『固定資産税を増税とは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『贈与税を増税するとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『年金支給額を0.7%減額するとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『国民年金量を引き上げるとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『厚生年金保険料を引き上げるとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『高齢者の国民保険料を引き上げるとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『石油石炭税を増税するとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『電力料金を大幅値上げするとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『ガス料金も大幅値上げするとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『自動車重量税を増税するとは言わなかったな、でも実行だ』

安倍:『原付バイクの税金を倍にするとは言わなかったな、でも実行だ』

【あなたは、一人じゃない。一人で悩まないで!!】命のメール受付

コードを入力してください。:

メモ: * は入力必須項目です