Apex product 【東日本大震災・脱原発】①

いつも、ご訪問頂きありがとうございます。

2011年3月11日の東日本大震災と、東京電力福島第1原発事故から4年。犠牲者は1万8000人を超え、いまだ20万人以上が避難生活を送っています。一方、復興への取り組みは本格化し、産業面など新たなモデルを目指す試みもあります。東日本大震災に関連するニュースをまとめました。ご覧下さい。そして忘れないで下さい。

まだまだ、これからです。私達に出来ることをやっていきましょう。

今も苦しんでいる全ての人に、笑顔が戻るその日まで。援助支援活動は続きます。震災で亡くなられた方々のご冥福と被災された方々の安寧な生活が一日も早く訪れますことを、町が元気に復興されますことをお祈り申し上げます。

 

 

2015年3月11日

- 青空と向日葵の会  Apex product  代表 柳 -

【3.11をむかえて~安倍総理のメッセージ~】

供花される両陛下

時事通信 3月13日(金)16時30分配信

「千年希望の丘」で慰霊碑に供花される天皇、皇后両陛下=13日午後、宮城県岩沼市

(時事通信社)

最終更新:3月13日(金)16時30分

時事通信

【岩手県広聴広報課】

3月11日(水)東日本大震災津波の発災時刻の午後2時46分に黙とうをささげましょう
県をあげて犠牲者を慰霊・追悼するため、県では、追悼式を野田村と合同開催し、その様子を午後2時から「いわて希望チャンネル」で放送します。
http://ch.nicovideo.jp/iwate-kibou
また、各市町村においても東日本大震災津波追悼式典等が開催されます。
http://www.pref.iwate.jp/fukkounougoki/event/033196.html

【3.11、検索は応援になる。】

私たちは、いつも何かをしたくて検索します。動画を見たい、おいしいものを食べたい、あの人のプレゼントを選びたい。

2011年3月11日も、何かをしたくて検索しました。身を守りたい、誰かの力になりたい。

あれから4年、私たちは今日も何かをしたくて検索します。少しでもいいから被災地を知りたい、応援したい。

そんな想いの検索を力に。

2015年3月11日、ヤフーで「3.11」と検索してみてください。「3.11」というキーワードで検索された方おひとりにつき10円が、Yahoo!検索から被災地の復興にたずさわる団体に寄付されます。

支援先について

「3.11」の検索数に応じた寄付金は、以下の6団体に寄贈いたします。

  • ISHINOMAKI 2.0 の画像

    ISHINOMAKI 2.0

    ISHINOMAKI 2.0は、東日本大震災を経験した石巻というまちを、震災前の状況に戻すのではなく、新しいまちへと「バージョンアップ」させるために設立されました。今回は、そのなかの「不動産」プロジェクトに寄付いたします。
    震災をきっかけに居住可能な石巻の物件価格は高騰し、居住希望者が現れても街に残ることは困難でした。このプロジェクトでは被災した空き家のDIY改修を行うなどの活動を通じ、街に賑わいを生み出す「暮らしの場」をつくりだしています。

    http://ishinomaki2.com/category/project2/2-0fudousan/

    まちをつくる

  • 小高ワーカーズベースの画像

    小高ワーカーズベース

    「小高ワーカーズベース」は、福島第一原子力発電所事故により避難区域に指定された南相馬市小高区を拠点に活動しています。
    同地域では、人手もオフィスも不足しているなど課題が多く、大半の人が事業を行うことに対して悲観的です。
    小高ワーカーズベースは、2014年5月に同区域初となるシェアオフィスを立ち上げ、事業誘致に貢献。経済活動が活発化し、避難指示が解除された際には、きちんと人が暮らせる町になるための、準備活動を行っています。

    http://owb.jp/

    まちをもどす

  • 東の食の会の画像

    東の食の会

    東の食の会は、東日本大震災直後に食関連企業が集まって立ち上げられた、東北の食産業の復興に取り組んでいる団体です。
    ・東北の食材の販路開拓をサポートする「マッチング事業」、
    ・東北食材のブランディングを行う「プロデュース事業」(例:たかたのゆめ)
    ・三陸水産業の新たな担い手を生み出す「人材育成事業」、
    上記のほかにも、具体的に東北のビジネス創出につながる事業を行っています。

    http://www.higashi-no-shoku-no-kai.jp/

    産業支援

  • 助けあいジャパンの画像

    助けあいジャパン

    東日本大震災での経験をもとに、つぎの「もしも」への準備を。
    助けあいジャパンでは、日々の防災活動を広める活動と、民間の防災ネットワークづくりを進めています。災害前、災害時、災害後に必要な防災の知識を広めるコンテンツの制作、発信。さらに、災害時に自分と家族の命を守れる母親(防災かあさん)の育成活動、ソーシャルメディア防災訓練などを行っています。支援金は、そうした防災活動の実施・運営資金となります。

    http://tasukeaijapan.jp/

    防災

  • 桜ライン311の画像

    桜ライン311

    桜ライン311は、岩手県陸前高田市内の約170kmに渡る津波の到達ラインに、桜の木を植える活動を行っています。
    ラインにそった桜並木を作ることで、津波の恐れがあるときにはその並木より上に避難するよう、後世の人々に伝承していきます。
    そのほか、津波のこわさ、備えの重要性を普及・啓発していく事業、桜並木をまちづくり計画に活用してもらうよう提言する事業を行っております。
    支援金は、主に桜の植樹事業に使われます。

    http://www.sakura-line311.org/

    風化防止

  • 福島こども力プロジェクトの画像

    福島こども力プロジェクト

    東日本大震災復興支援財団「福島こども力プロジェクト」は、様々な体験活動を通じて、未来の福島を支える子どもたちの成長を支援するプロジェクトです。
    「自分の気持ちを表現する力」「みんなで協創する力」「自ら行動する力」という「こども力」を育むことを目指し、自然体験、キャリア教育、体験型ワークショップ等を行う団体とともによりよい活動をつくり、2015年度は未就学児から高校生を対象にプログラムを提供する予定です。

    http://minnade-ganbaro.jp/katsudou/project/fkp/

    こども支援

寄付について
・2015年3月11日0時00分から23時59分までに、「3.11」というキーワードで行われた検索が対象。この時間帯以外に行われた検索については寄付額算出に含まれておりません。
・「3月11日」「3,11」など、表記が異なるキーワードについては、原則として寄付額算出の対象となりません。
・検索者数はユニークブラウザー数で集計しています。
・寄付金の上限額は昨年実績を目安としています。昨年は合計2,568,325人(ユニークブラウザー数)が当日に「3.11」と検索し、Yahoo!検索は公益財団法人東日本大震災復興支援財団へ25,683,250円の寄付を行いました。
・最終的な寄付金額は3月12日に発表し、4月に、支援先として選定した6団体に等分して寄贈させていただく予定です。

東日本大震災から4年…マー君のツイートが話題に

本日、2011年3月11日に発生した東日本大震災から4年がたち、多くの著名人らがコメントを寄せる中、2013年まで東北楽天ゴールデンイーグルスに属し、現在は大リーグのニューヨークヤンキースで活躍している田中将大投手のツイートが話題を呼んでいる。

【写真】マー君こと田中将大投手の笑顔

 11日7時に田中投手は「震災から4年が経ちます。被災された皆様にあらためてお見舞い申し上げます。風化させてはいけないという思いはいつも変わりません」とツイッターに投稿。また「これからも自分に出来ること、自分なりに震災とは関わっていきたいと思います」と続けている。

 甚大な被害をもたらした震災から4年が過ぎ、活動の場所を宮城県からアメリカに移してもなお被災地を思う田中投手の姿勢に、インターネット上では「この日忘れちゃいけないね」「被災された方々への勇気や希望になると思います」と称賛する声が相次いでいる。同ツイートは投稿から3時間で5,000件以上のリツイート数、お気に入り数を記録している。

 そのほかにも小室哲哉、大島優子、市川海老蔵、マシ・オカ、サッカーの長谷部誠選手などの多くの著名人がそれぞれのSNSやブログを通してコメント。中には昨年に引き続きYahoo!が取り組んでいる活動「3.11、検索は応援になる。」を紹介している人も。同活動はYahoo!検索で「3.11」というキーワードを検索した際に一人につき10円が被災地の復興団体に寄付されるというもの。昨年はYahoo!検索から公益財団法人東日本大震災復興支援財団へ、2,568万3,250円寄付された。(編集部・井本早紀)

最終更新:3月11日(水)11時27分

シネマトゥデイ

【自衛隊の皆様ご苦労様でした!!】

2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災から本日で4年になります。
 陸上自衛隊は発災当初から、被災者の救助、生活支援、行方不明者の捜索等にあたり、同年12月26日原子力災害派遣の終結にともない、9ヶ月に及ぶ東日本大震災への対応に係る災害派遣活動を全て終了しました。
 陸海空自衛隊合わせて、延べ約1,...066万名もの隊員が本震災対処に従事し、全国各地の部隊が東北地方に集結、自衛隊の歴史において最大規模の派遣態勢となりました。

東日本大震災における災害派遣活動写真
https://www.facebook.com/media/set/…

<元米軍司令官>日米協力指針「有益」 震災で救援活動指揮

 東日本大震災から4年となるのを前に、震災復興で日米合同の「トモダチ作戦」を指揮したパトリック・ウォルシュ元米太平洋艦隊司令官(60)が毎日新聞のインタビューに応じた。大規模な災害救援は「実戦さながらと言ってよかった」と振り返り、「破壊的な状況」の中で作戦に準用した有事の際の日米防衛協力の指針(ガイドライン)が「とても有益だった」と指摘した。

【米国務次官補「宇宙の安保分野も日米協力を」】

 ウォルシュ氏はまた、戦後70年にあたり、「日米の深いつながりが平和を維持してきた」と強調。「日本は多くの国を支援してきており、軍事だけでなく多方面でより強い国になるべきだ」と述べ、日本の役割拡大に期待を示した。

 震災発生当時、海軍大将だったウォルシュ氏は2011年3月下旬から約3週間、米軍横田基地(東京)に設置された統合支援部隊(JSF)で司令官を務め、当時の折木良一統合幕僚長らと作戦を指揮した。人命救助や災害復興、原発事故対応など作戦は多岐にわたり、米軍からは原子力空母や在沖縄海兵隊も派遣された。ウォルシュ氏は「著しい破壊に囲まれた過酷な任務」で、「放射線は敵そのものだった」と振り返った。

 また、自衛隊が10万人、米軍が2万人規模の兵力を投入したことで「防衛の空白」が生まれる懸念もあった。ウォルシュ氏は「折木統幕長は、中国だけでなく北朝鮮などの動きを警戒した」と語り、周辺国の動向を注視していたことを明らかにした。

 一方、日本では集団的自衛権行使容認などの安全保障法制の議論が進んでいる。ウォルシュ氏は「戦後平和だった太平洋は既存のシステムを再構築しようとする中国によって危機にさらされている」と指摘。領土を巡る緊張について「日本の新たな試みが原因ではない。中国の攻撃的な態度に対抗措置をとることが、戦争を抑止し、自国の領土を守ることになる」とし、中国と領有権で争う各国が連携しながら軍民で対中圧力を強めるよう促した。

 ウォルシュ氏は12年に退役。現在は米南部テキサス州ダラスでサイバーセキュリティーの会社を共同経営している。【ダラスで及川正也】

最終更新:3月11日(水)1時34分

毎日新聞

吉永小百合、涙こらえ朗読「山も川も海も美しい元の福島に戻って」…3・11から4年

女優の吉永小百合(69)が10日、東京・千駄ケ谷の津田ホールで東日本大震災からの復興を願った朗読会「祈るように語り続けたい 第二楽章 福島への思い」を行った。吉永は約30年前より原爆詩の朗読を続けてきたが「忘れることと無関心が一番怖い」と、今後も被災者の詩を読み、発信していくもう一つのライフワークにする揺るぎない決意を語った。

【写真】楽天・横山からのメッセージ「東北に元気を!」

 約500人を前に吉永が読んだ23編の詩の中には被災後、まだ心の癒えない子どもの詩も含まれていた。込み上げる感情や涙をこらえ「想像を絶する体験をして詩を書いた人の気持ち。それを受け止め、言葉の意味を伝えよう」と決めていた。福島から来た人もおり、ハンカチで目頭を押さえる人も見られた。

 使命感にも似た新たなライフワーク。吉永は上演後、取材に応じ「原爆は復興できたけれど、福島はまだ終わっていないことがあまりに多すぎて。(詩を)読む方もつらい」。自分の目で確かめておこうと昨年12月にはガイガーカウンター(放射能測定器)を持って原発事故の帰還困難区域、福島・双葉郡も訪れている。

 「4年たつのになぜこんなにも進んでいないのか。毎日ニュースでやっているけれど、1週間したらまた忘れられるんじゃないか。無関心が一番怖い」。この日のラストは「故郷(ふるさと)」の合唱。そこに帰ることが許されない人々の思い。「山も川も海も美しい、元の美しい福島に戻ってほしい。これからもサポートできれば」

 この日の朗読会で読まれた詩が収録されたCDは11日に発売される。被災者の悲痛な思いが詰まった1枚でもあるだけに、涙ぐみながら「政府に持っていって聴いてもらいたいくらい」とも語った。

 客席には吉永が4月から撮影に入る映画「母と暮せば」の山田洋次監督やスタジオジブリの高畑勲監督の姿もあった。新作は長崎を舞台にした原爆を扱った作品だ。12月からこの日まで神経の休まる日はなかったが、「監督から3冊くらい原爆の本を読んでおくよう宿題が。また違う現実が待っています」と女優モードに気持ちを切り替えようとしていた。

最終更新:3月11日(水)9時20分

スポーツ報知

人々の心に多大な傷跡を残した
 大震災から本日3月11日で、
 4年が経ちました。

 しかし、その復興はまだまだ
 道半ばというのが現実です。
 
 そこで本日は、
 被災地復興への願いを込め、
 震災発生以来、被災地の人々の
 悲しみに向き合い続けてきた
 宮城県通大寺住職・
 金田諦応(たいおう)さんのお話を
 特別配信させていただきます。

※インタビューは2014年に
 行われました。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

 多くの人々の心に深い傷痕を
 残した東日本大震災から3年。

 宮城県栗原市にある通大寺の
 住職を務める私は、大震災発生から 
 間もなくして、移動式の喫茶店 
「カフェ・デ・モンク」を設立、
 被災地を巡りながら人々の
 悲しみに寄り添う〝傾聴〟活動を
 続けてきました。
 
 しかし、この取り組みを始めた
 原点には、何よりも私自身が
 今回の震災であまりにも
 多くの死と大切な人を失った
 人々の悲痛な思いに直面し、
 宗教家としてのあり方を
 根本から問い直される
 経験をしたからでした。

・  ・  ・  ・  ・  ・
 
 2011年3月11日、
 14時46分。

 当時お寺にいた私は震度7という、
 思わず心の中で、

「頼むから止まってくれ!」

 と絶叫するほどの凄まじい
 揺れに襲われました。

 そして、親族の安否確認などに
 奔走した後、ラジオから
 聞こえてきた津波の情報に
 私は耳を疑ったのです。

「大地震発生。大津波警報発令……。
 仙台市荒浜地区の海岸に
 300体の遺体との情報……」
 
 これは大変なことになったぞ――。 
 少しずつ被害状況が明らかに
 なるにつれ、私も宗教家として
 何か支援はできないかとの思いが
 募りました。

 そんな時に、沿岸部から
 栗原市の火葬場に多数の
 ご遺体が運ばれてくるという
 話を耳にしたのです。
 
 すぐに私は

「供養をさせてほしい」

 と市に掛け合い、
 火葬場へと赴いたのですが、
 ご遺体が続々と運び込まれてくる
 光景に思わず絶句。
 
 そして私のもとに最初に運ばれて
 きたのが、友人同士だという
 二人の小さな女の子でした。
 駆けつけた記者は泣きながら
 シャッターを切り、私も震える声で
 途切れ途切れ読経するので
 精いっぱいでした。

「こんな理不尽な
 死があっていいはずがない……」
 
 1か月で約200体のご遺体を
 供養し、やり場のない悲しみに
 襲われた私は、49日を境に、
 鎮魂の旗を掲げて南三陸町へ
 行脚に出ることを決めました。
 
 腐敗臭とヘドロの臭いが漂う
 廃墟と化した町の中を、経文を
 唱えながらひたすら歩くのです。

 とりわけ苦しかったのが、
 あちこちに散乱している平和な
 日々を記録した〝写真〟でした。
 
 その写真を跨ぐ時に
 私にできたことと言えば、

「申し訳ない」

 とひたすら涙を流すことだけでした。
 これまで学んできた宗教的
 言語の一切が役に立たない
 現実を前に、宗教家としての信念は
 脆くも崩れ去ったのです。
 
 行脚に区切りをつけると、
 私は法衣を脱ぎ捨てました。
 そして、地に足がついた
 支援をしようと、知人からの
 支援金をもとに炊き出しを
 始めたのでした。
 
 しかし、津波で甚大な
 被害を受けた馬場中山地区で
 炊き出しを始めた時のことでした。
 次の支援地に移ろうとする
「国境なき医師団」と被災者が、
 避難所で激しい言い争いをしている
 光景が目に飛び込んできたのです。

「お前たちは俺たちを
 見捨てて行ってしまうのか!」
 
 私はその一部始終を眺め、
 改めて自らに問い掛けました。
 医者はこんなに必要とされている。
 それに比べて私は何を
 しているんだと。

 もう一度宗教家としての
 原点に立ち戻り、苦しんでいる
 人々の〝心〟に向き合う
 支援をするべきではないのか。
 
 そして、まずは被災者の方が
 安心して悲しみを打ち明けられる
 場を作ろうと考えついたのが、
 移動式の喫茶店
「カフェ・デ・モンク」
 の取り組みでした。
 
 すぐさま飲み物やケーキなどの
 提供を知人に頼み込み、
 テーブルなどの道具一式を
 軽トラックに積み込んだ私は、
 南は福島県南相馬市から
 北は岩手県山田町に至るまで、
 被災地を巡る旅を
 スタートさせたのです。
 
 各地の避難所や集会所の近くに
 即席の喫茶店を開いては、
 集まってきた方々一人ひとりの
 苦悩や悲しみの声に真摯に
 向き合っていく。

 時には

「和尚さん、ちょっと」

 と自宅に招かれ供養を
 頼まれることもありました。
 
 その中でも、息子さんを
 亡くしたという、あるご年配の方の
 ご自宅に伺った際のことは
 忘れられません。

 仏壇の遺影に手を合わせると、
 その横に〝お父さんへ〟と
 書かれた手紙が置かれているのに
 気づいたのです。

 事情を尋ねると、息子さんの
 幼い娘さんが亡き父親の誕生日に
 送った手紙だといいます。
 そこにはこう書かれてありました。

「生きていれば45歳だよ。
 3月10日の日にお父さんに
 お帰りって言ったのが
 うちらの最後の会話でした。

 最後にありがとうって
 言いたかった。……お父さん、
 いまどこにいますか。
 家に帰って来ているなら、
 たまに何か合図を出してね」
 
 この後、私は手紙を書いた女の子と
 避難所で会うことができました。
 屈託のない笑顔で遊んでいる
 ところでしたが、私がそっと近づき、
「大変な思いをしたね」

 と声を掛けると、みるみるうちに
 表情が強張り、外に駆け出して
 行ってしまったのです。
 
 もう夜も遅い時間でしたが、
 闇の中にすっと消えていく
 彼女の寂しい後ろ姿は、
 いまでも眼に焼きついて離れません。
 
 被災地では、そのような
 深い悲しみの現場に幾度となく
 立ち会います。

 その度に私は、もしかすると
 人の悲しみというのは、
 他人が支えてあげることなど
 できないのではないかという、
 暗澹たる思いに駆られるのです。
 
 しかし、それでも目の前に
 苦しんでいる人々がいる限り、
 私は宗教家としてその悲しみに
 黙々と向き合い続けていきたい。
 
 一輪の美しい花には
 誰もが足を止めるでしょう。
 しかし、それを咲かせた春風には
 誰も気づきません。

 私はそんな被災地の
 春風でありたいと思うのです。

………………………………………………

「被災地の春風となる」

 金田諦応(通大寺住職/
      カフェ・デ・モンク主宰)

『致知』2014年9月号
 連載「致知随想」より

<大震災4年>亡父のギターとともに音大へ 宮城の18歳

「1回くらい、私の歌を聴いてほしかったな」。宮城県富谷町の県立泉高校3年、久我理亜(りあ)さん(18)は今春、東日本大震災で亡くなった父正春さん(当時44歳)の形見のギターを手に上京し、音大に進学する。津波は父を奪ったけれど、父は音楽という夢を残してくれた。だから、前を向いて歌い続ける。

【石巻・大川小で弟、妹を亡くした18歳の今】

 地震が起きた時、中学校の体育館でバレーボールの部活中だった。約4万7000人が暮らしていた富谷町は震度6弱の揺れに襲われたが、内陸のため津波は来ず、町内にいて亡くなった人はいなかった。「全然大丈夫」。そう思っていた。

 数日後、正春さんが勤める建設会社の社員が訪ねてきた。「ダメでした」。正春さんは仕事で同県名取市閖上(ゆりあげ)にいた。そこには高さ8・4メートルの津波が押し寄せ、911人が犠牲となった。

 久我さんが知る父は本を読んでばかりいた。若いころアマチュアバンドでベースを担当していたというが、ギターを弾くのは時々。小学生の時、プロのバンドのコンサートに連れて行ってくれて、音楽が好きになるきっかけをくれた。日曜は朝4時に起きて一緒に釣りに行った。

 そんな父が震災でいなくなった。「周りは3人、4人家族なのに私は母と2人暮らし。みんな楽しそうなのに自分だけが違う」。学校に通うのが嫌になり、日曜日も嫌いになった。

 中3の12月、正春さんのギターを弾かせてほしいと母理恵さん(46)に泣いて頼んだ。親戚宅に預けていたギターを取り寄せ、初めて触った。理恵さんは正春さんのバンドの曲が入ったカセットテープも見つけてくれた。初めて聴いた父の演奏。「かっこいいな」。いつでも聞けるよう、携帯電話に曲を入れた。正春さんが残した本を読み、音楽を聴き、ギターを弾いている時は、悲しいことも忘れられた。

 「がく亜り」という名前で音楽活動を始め、高校1年の終わりごろからライブハウスのステージや街角に立つようになった。高校や活動を通じて知り合った友人も見に来てくれた。「自分の歌を好きだと言ってくれる人がいたことが一番うれしかった」。父がくれた音楽は、たくさんの出会いもくれた。

 春から洗足学園音楽大音楽学部(川崎市高津区)に進学し、ギターや歌を本格的に学ぶ。「お父さんにギターを教えてもらいたかったけど、今はこんなに弾けるようになったって自慢してやりたいな」。もっとうまくなってプロになるのが目標だ。【金森崇之】

最終更新:3月9日(月)11時15分

毎日新聞

【気仙沼 居酒屋いろり】の思い出!! 柳

頑固おやじ元気ですか!! 柳より

 

私が、食品メーカーの営業だった頃の話です。

  • 気仙沼駅から徒歩数分の居酒屋「いろり」
    小野万の専務からご紹介頂き入店。
    注文はしません、できません。
    その日に入っている材料で、店主の気分で出てきます。

    うにが、丸ごと五個と、ほやがお通し。次々と勝手に出るおつまみ。

    新鮮なお造り、海のものをたっぷり出してくださいました。

    ほとんど、しゃべってくださらないので、最初は怖い人かと思いました。

    でも、すごく朗らかで、いい人でした。東北の美味しいお酒をいただくことに。

    お酒を冷蔵庫から出すのはお客さん。(セルフです。)

    遠くのテーブルのお客様には、おしぼりを投げてました。(笑える)

    「ほやは、夜を保つと書いて、保夜なんだ。精力つくから食べろ!!」

    ともかく、何も食べも飲んでも最高でした。

    出張に行くたび寄ってました。懐かしい思い出です。元気かなぁ~。おやじ。

    私も、親父になりました。今から28年も前の事です。

    毎回 ご馳走になりありがとう御座いました。千円以上払った記憶がないです。

    30回以上 通いましたが、半分はご馳走になってました。(情けない)

    不器用だけど男気がある温かい親父でした。長生きして下さい。

    - 青空と向日葵の会  Apex product 代表 柳 -

石丸謙二郎(いしまるけんじろう)

1953年11月1日|さそり座|大分出身|A型

石丸 謙二郎は、日本の俳優、声優、ナレーター。本名同じ。大分県大分市出身。2006年1月1日より青年座映画送株式会社所属。Feペディア(出典:Wikipedia)

<気仙沼> (けせんぬま)
7年ほど前だった。
三陸海岸をハイエースで、ブラブラとしていた時に、
立ち寄ったのが、気仙沼だ。
気仙沼と云えば、港町。
森進一が、港町ブルースで、とうとうと歌いあげた町だ。
「ここはひとつ、飲み屋街に行くべ」

行くべ、行くべと探しゆくのだが、飲み屋街が無い。
小一時間して、諦めた頃に、その看板が現れた。
いろり
木作りの扉を押し開けると、スキンヘッドの爺さんが、
カウンターの中で大きな声で、客と話していた。

おかしな店だ。
酒は、自分で、冷蔵庫から勝手に飲めという。
食い物は、どんどん出すから、それを食えと言う。
おとなしく従う私。
ほどなくして出された酒の肴に、驚きの涎がでる。
毛ガニが2ハイ。
ソイの刺身
クロダイの塩焼き

「おめえ~役者なんだって?」
他のお客さんに聞いたらしく、大将がのたまう。
『はい、いちおう』
「食えてねんだなあ~」
『い、いや、今は・・食えてるかもしんない・・』
「そうかそうか!」
私の言葉を聞く耳もなく、
「おい、みんな、こいつにカンパしろ!」

カウンターにいた客から、千円づつ、大きな手で巻き上げ、
私の手の平に握らせてくれた。
「持ってケ、いい役者になんなよ!」
『ありがとうございます!ありがとうございます!』

越の寒梅はじめ、お高い酒を飲みあかし、
ガバガバ食った私から、お勘定として、
1500円しか取ってくれないばかりか、
サンマの煮モノをお土産に包んでくれたお母様。
なにより、生涯忘れられないほどの楽しい時間を与えてくれた
<いろり>のご夫婦。
どうか、津波をかいくぐっておられますように・・
どうか、津波をかいくぐっていて下さい!


石丸謙二郎 ブログより

小野万復活!~気仙沼

最近、気仙沼の水産加工業者、小野万が震災後約7ヶ月ぶりに出荷を再開したそうだ!
小野万はイカの塩辛で有名なメーカーである。

ニュース記事
小野万のホームページ

サイコーにうまそうな塩辛の絵。
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(小野万のホームページより転載)

今年の8月に昔住んでいた気仙沼の松崎片浜(小野万と目と鼻の先)を訪れた際のショックは
非常に大きかったので、小野万のイカの塩辛は日本一、いや世界一!と信じてやまない私にとっては、
心より嬉しいニュースであった。

気仙沼の松崎片浜の旧居より小野万を臨む(2011年8月)。
IMG_7528.jpg
真ん中にみえるのが小野万の看板。

松崎片浜が集落ごと津波にボコボコにされた。それはもうショックだった。
しかし、この地域周辺から、小野万がなんとかやり直そうとしているというニュースは、
この地域で、なんとか復活したいという思いの象徴のように思えて、心より嬉しかったし、
これからも応援し続けたい。

4つの工場のうち、被害が少なかった工場をなんとか復旧させることができたとのこと。
絶対津波に負けたくない、復活してやる!という強い思いが形になったのではないだろうか。

小野万小野寺邦夫社長:「きのう初出荷できた時は、言葉にならないくらい感無量でした」

震災前は静岡でも買うことができた小野万の塩辛。
また、生産能力が回復し、全国に流通してあの味を日本中の人々に届けられたら、
そんな素晴らしいことはないのではないかな!

ということで、是非皆様もいかがでしょうかわーい(嬉しい顔)

ごはんにも合うべし、日本酒にもサイコーだっちゃ。

海風に乗せ 旬の味わいお届けします

おいしさは「素材」の良さから生まれます   おいしい料理には、何よりも「素材」の良さが大切です。特に日本料理は、新鮮な素材が欠かせません。当社は、三陸の鮮魚が水揚げされる日本有数の良港・気仙沼を拠点に、厳選した素材を独自の製法で加工し、近代的な工場からバラエティー豊かな製品を、次々と生みだしてまいりました。気仙沼ならではの新鮮な素材と、素材の良さをお届けすることが当社の使命と考えております。毎日の食卓に、ご贈答に、三陸の滋味豊かな味わいをぜひ一度、お試し下さい。

まごころ込めた三陸の味
いきの良い素材をたっぷり使って、贅沢に造りました。もちろん味もひと工夫。小野万ならではの美味しさが自慢です。イカ、タコ、うに、わかめと種類も豊富。まごころ込めた三陸の味を存分に味わってください。

品質と信頼をつちかう確かな技術
新鮮な素材の良さを生かし、豊かな風味を付加する。最新設備の整った近代的な工場から三陸小野万ならではの美味しさが生み出されています。勿論、衛生面への配慮も万全。アンゼンで美味しく健康にも良い商品をお届けする為に、全力を尽くしています。味も品質も優れた食品を全国に…。それが小野万の願い。独自の製法と清潔な工場が、それを可能にしています。





少しでもお客様に喜んでいただける製品をつくりたい…。小野万は設立以来、常に「味」と食の「安全」を大切に、さまざまな製品を生み出してきました。大人から子供まで安心して食べられる美味しい海の幸。ささいなことにも手を抜かず、いつまでも手造りの風味を守ることが、私たちの使命です。海とともに生きてきた気仙沼から、深い感謝を込めて。小野万はこれからも、安全で美味しさ際立つ食品をつくり続けます。

いいなCM 気仙沼 小野万 いかの塩辛 一本造り 小牧ユカ 

1989 気仙沼 小野万 一本造り 

※ その節は、大変お世話になりました。小野寺社長 良かったですね。心からお祝い申し上げます。

最高の塩辛です。毎日あれからいただいております。

震災の際は心配致しましたが、お身体無事で何よりでした。

今後も日本、いや世界の皆様に愛される小野万でいて下さい。ずっと応援しております。

- 青空と向日葵の会  Apex product 代表 柳 -

  

【東日本大震災追悼式が開催されます】

 本日、午前10時から正午まで、市立高田小学校体育館で「陸前高田市東日本大震災追悼式」が開催されます。
 一般の方々の献花は、追悼式終了後から午後3時までとなります。

震災津波で不明、中1女子の骨と判明 福島県警が鑑定

福島県警は9日、浪江町両竹のがれき集積場で昨年11月に見つかった頭部などの骨が、東日本大震災で行方不明となっていた同町中浜の浪江東中学校1年、大浦清華(きょうか)さん(当時13)のものと特定した、と発表した。

 災害対策課によると、県警科捜研のDNA型鑑定でわかった。大浦さんは祖母らと乗用車で避難する際、津波で流されたらしい。東日本大震災による県内の死者数は1612人、行方不明者は202人となった。

朝日新聞社

最終更新:3月9日(月)23時28分

朝日新聞デジタル

仮設撤去1%届かず…被災3県、復興住宅遅れ

東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島3県に建設されたプレハブ仮設住宅計約5万3000戸のうち、今年1月までに撤去されたのは、1%に満たない計467戸にとどまることが3県への取材でわかった。

 被災者の転居先となる災害公営住宅(復興住宅)の建設が遅れているためで、発生4年で復興住宅の8割近くが完成した阪神大震災では、約4万8000戸あった仮設の32%が4年時点で撤去された。東北の被災地では、住まい再建の遅れが目立っている。

 仮設住宅は、複数の部屋が一つになった長屋タイプが大部分を占めているため、1棟すべての住民が退去しないと撤去できない造りになっている。3県で撤去されたプレハブ仮設は、岩手が120戸、宮城が154戸、福島が193戸。3県とも仮設建設戸数の1%前後にとどまる。

最終更新:3月8日(日)8時55分

読売新聞

震災4年 遺族の言葉取りやめ 被災地追悼式

東日本大震災の発生日となる11日に被災地で開かれる追悼式で、遺族が思いを語る場面を省くケースが出ている。背景には「人前で話すのは心理的負担になる」との配慮がある。震災から4年がたち、慰霊の形も微妙に変化しつつある。

【震災遺構】打ち上げられた船、奇跡の一本松――4年前の爪痕の数々

  気仙沼市はことし、追悼式で行ってきた「遺族代表の言葉」を取りやめる。菅原茂市長は「遺族に負担を掛けている。お願いするのが難しい」と説明する。

  仙台市も今回から遺族あいさつをやめる。秘書課は「震災から一定の年数がたった。過去3年と違う形にした」と理解を求める。

  宮城県内では昨年、追悼式を開いた沿岸14市町のうち3市町で遺族の言葉がなかった。ことしは6日現在、開催13市町のうち4市町が予定していない。

  大船渡市は震災丸1年を最後に次第に盛り込んでいない。「市全体の式典。特定の遺族の気持ちを伝えるのはそぐわない」と話す。対照的に「慰霊の場の主役は遺族」(東松島市)「遺族が前向きな思いを語る大事な場。市長の話とは伝わり方が違う」(石巻市)として、遺族の協力を求める自治体は多い。

  阪神大震災で被災した神戸市は、毎年の式典で遺族が追悼文を朗読している。市は「つらい経験をした遺族が語ることが、震災の記憶の継承につながる」と説明している。

最終更新:3月8日(日)17時55分

河北新報

3月11日(水)です。
東日本大震災4周年行事「祈りの灯火」の
プログラムの一つとして「もりおか歴史文化館」内にて
16時〜と18時からの2回上映します。参加費無料です。

福島で復興支援音楽祭 震災から4年 思い新たに

東日本大震災からまもなく4年です。歌を通して被災地の復興を応援しようというイベントが福島県郡山市で開かれました。

 この「復興支援音楽祭・歌の絆プロジェクト」は、去年初めて仙台市で開かれたのに続いて、2回目の今回は郡山市で開かれました。今回のテーマは「祭り」です。会場では震災による原発事故の影響で町全体での避難が続く浪江町の「請戸の田植踊」など、福島県内の伝統芸能が披露されました。また、人気デュオの「ゆず」も登場し、振り付けを練習した子どもたちと一緒にステージ上で歌ったり踊ったりして盛り上げました。
 観客:「当時のことを思い出したり、いま非常に頑張っている子どもたち、大人も含めて我々も頑張っていかなくてはいけないという気持ちになりました」
 震災からまもなく丸4年です。会場に集まった人たちはイベントを通して復興への思いを新たにしている様子でした。

最終更新:3月8日(日)22時26分

テレ朝 news

☆県政番組「いわて!わんこ広報室」☆
3/9(月)からの放送は、「起業により魅力ある産業創出を!」と題して、「さんりく未来産業起業促進事業」を活用してUターンした起業者を紹介します。
http://www.pref.iwate.jp/kouchoukouhou/021553.html
【携帯】http://mobile.pref.iwate.jp/kouchoukouhou/021553.html

《もんじゅ》 停止中も1日5900万円もの維持費。その維持費でマスコミ、地方議員に夜の接待 (原発問題) 

【もんじゅ】停止中も1日5900万円もの維持費。その維持費でマスコミ、地方議員に夜の接待
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05
2012-08-08 23:39:43 原発問題


もんじゅ~接待を受けていたマスコミ、地方議員たち~
http://fukuigenpatsu.blog89.fc2.com/blog-entry-22.html より

福井では見られません。
NHKも例外ではなく、接待を受けていました。
福井県民必見!

「夢の原子炉もんじゅ、夜の接待の意図」
MBS系「VOICE」特命調査班より。

運転停止中なのに1日5900万円もの莫大な維持費がかかっている「夢の原子炉」もんじゅ。

その維持費の中にある「会議費」とは何か。

調べてみると、驚くべき中身が明らかになった。

福井県議会議員や敦賀市議会議員らに東京の銀座などで夜の接待をしていたようだ。

もんじゅの維持費は国から出ている。

つまり我々の税金で接待が行われていたことになる。

20111005 夢の原子炉もんじゅ、夜の接待の意図 投稿者 PMG5
http://www.dailymotion.com/video/xlhkwv_20111005-yyyyyyyyy-yyyyyyy_news

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原発利権の総本山元会長”高木孝一”

「放射能汚染で、子供がみんな障害者になってもよい」と

暴言を吐く人物
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/a5e0ddd75e51b18bfb60ef5f591cc1f6 より

福井県内の自治体首長たちにまつわる原発業界からの利権は、すさまじいものであります。

「原発は電源三法交付金や原発企業からの協力金があり、たなぼた式の金だ。放射能の汚染で50年、100年後に生まれる子供がみんな障害者でも心配する時代でない」

 1983年に、この信じ難い暴言を発したのが、当時の全国原子力発電所所在市町村協議会会長・高木孝一です。この発言は、毎日新聞の報道にあるような、なまやさしい表現ではなく、ここに全文の引用を憚るほどの恥ずべき言葉でした。

この協議会が、全国の原発立地自治体の総本山として、54基の原発を建設させてきたのです。そして昨年、朝日新聞に報道された高木毅衆院議員が、その息子なのです。

【フランス最古の原発が閉鎖】

古のフェッセンハイム原子力発電所が、正式に閉鎖されます。


イルナー通信によりますと、フランスのオランド大統領は、この原発の完全な閉鎖を認めました。
この原発の活動は、原子炉の一つで技術的な問題が発生したために、先月28日から停止してていますが、その問題は深刻なものではなかったと発表されています。
この原発では、昨年4月にも、2つの部門で火災が発生した後、活動を停止しました。
この原発は、ドイツとスイスとの国境近くのフランス東部で、1977年から活動を開始しましたが、しばらく前から、環境保護活動家の抗議に直面していました。
オランド大統領は、選挙運動の中で、この原発の完全な閉鎖を約束していました。
この原発は、ライン川沿いにあり、この河川と平行して建設された原子炉の冷却循環の配管装置の壁にひびが入り、河川を汚染することが懸念されています。
この原発の閉鎖が正式に発表された中、環境保護活動家は、来週土曜、ストラスブールで、フェッセンハイム原発の活動継続に抗議し、大規模なデモを実施する予定でした。

原発標語前 考案者が胸痛め「脱原発」発信

防護服と喪服を着込んだ大沼さん夫妻。納骨で福島県双葉町を訪れた際、セルフタイマーで撮影した=2013年11月9日

 

 東京電力福島第1原発事故で住民の大半が避難する福島県双葉町で、写真を撮り続けている男性がいる。撮影ポイントは「原子力 明るい未来のエネルギー」との看板が掲げられた町中心部へのゲート前。「子どもの時に自分が応募した標語。考案者として責任を感じている」と、画像で脱原発のメッセージを発信している。



 男性は同町に住んでいた自営業大沼勇治さん(38)。事故後、避難先の茨城県古河市に移住した。以前はゲートのすぐ脇で、オール電化のアパートを東電関係者らに貸していた。

 


 初めてゲート前で撮影したのは2011年8月。以来、町に戻るたびにレンズを向けるようになった。構図を工夫し、標語の「明るい」の部分を「破滅」と書いた紙で隠したり、「原子力」の部分を「脱原発」としたりしたこともあった。

 


 13年11月には妻せりなさん(39)と一緒に写真に収まった。喪服姿の下は白い防護服。叔母の遺骨を双葉町内にある寺に納骨する際、撮影した。

 


 親類は事故でばらばらとなり、納骨に参加できたのは大沼さん夫妻だけ。地縁すら奪われた怒りといら立ち、むなしさを1枚に込めた。

 


 町内に福島原発5、6号機が立地するなど、原子力は身近な存在だった。小学6年の時、学校の課題で提出した作品が優秀賞に選ばれた。大きな看板に標語として採用され、ゲートは「自分にとって特別な場所」となった。

 


 晴れやかな場所は、原発事故で一転して悲劇の象徴となる。ニュースなどでテレビに映されるたびに胸を痛めた。
 撮影した写真はブログにアップするなどしている。「原子力に明るい未来なんてない。今はそう思っている。今後も被災地の現状を伝えていく」。大沼さんが力を込めた。

 

 

2015年03月05日木曜日  河北新報

再稼働反対!

本日、原子力規制委員会は、九州電力の「川内原発 1号機の工事計画認可申請の補正書」を受理しました。東日本大震災から4年めの前日、多くの国民が原発再稼働に不安を感じている中、なぜ今日受理なのでしょうか,,

原子力規制委員会...
http://www.nsr.go.jp/disclosure/law/PWR/20150310.html

福島第一原発で働く「おっさんたち」は明るかった~覆面漫画家が描く「作業員」の素顔

未曽有の被害をもたらした福島第一原子力発電所の事故から、この3月11日で4年を迎える。「1F(いちえふ)」という略称をもつ福島第一原発の現場では、廃炉に向けた作業が続けられているが、作業員たちの肉声はなかなか届いてこない。そんななか、現役の原発作業員自身が収束作業の実態を描いた漫画『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(2)』が2月下旬に講談社から発売された。昨年4月に刊行されて大きな反響を呼んだ第1巻の続編だ。

作者は、2012年と2014年の2回にわたり、福島第一原発(1F)の敷地内で作業員として働いた竜田一人さん(50)。第1巻では、自らの体験にもとづいて、1Fの内部でどんな作業が行われ、作業員たちがどんな会話をしているのかを丁寧に描いたが、第2巻ではそれにとどまらず、原発の外での作業員たちの日常生活も紹介している。

竜田さんはどのような思いを抱きながら、原発作業員として働き、その実態を漫画という形で表現しているのか。1Fをめぐる内外の変化をどう見ているのか。二足のワラジを履く「覆面漫画家」の本音を聞いた。(取材・構成:亀松太郎、高橋洸佑)

●「誰も働く奴がいない」というのはウソだった

――『いちえふ』の第1巻では、竜田さんが1Fの仕事を探しているとき、ハローワークの人から「本当に良いんですか?」と聞かれるシーンが出てきます。実際のところ、原発で働くことに対する「怖さ」はなかったんですか?

「怖さが全くないというわけではなかったです。震災以降、いろんなデマが飛び交っていて、放射能の恐怖をあおっていましたから。ただ、『本当はどうなんだろう』と自分なりに調べみたら、原発でずっと働いている人がいる一方で、何かの健康被害が出ているという話はなかった。作業員が浴びている放射線量とかを調べてみた結果、将来、健康被害が出ることもないだろうと、自分なりに判断しました。だから、ハローワークで『本当にいくの?』と聞かれても、『行きますよ』という感じでしたね」

――でも、いざ1Fの仕事を探し始めてみると、なかなか仕事に就くことができなかった

「そうなんですよ。世間では『(福島第一原発は)誰も働く奴がいない』とか、『大阪の労働者をだまして連れて行った』といった話があったので、『働こうと思えばすぐに働けるのかな』という思っていたんですけど、意外にそうでもなかった」

――それは、意外と1Fで働きたい人が多かったということですか。

「そうですね。世間で言われているほど、人手不足という感じでもなかった。それに、下請けの構造が何階層もあるので、元請けから発注があっても下に降りてくるまでに時間がかかったり、事業計画はあっても実際に工事を始めるまでに調査しなければいけなかったりといった事情もあって、すぐには始まらないんです」

――漫画の中には、1Fがある福島県の東部地域(浜通り)出身の人たちがたくさん出てきますが、実際に中で働いているのは、地元の人が多いのでしょうか。

「9割がた地元ですよ。1Fの中の共通言語は『浜通り弁』ですから。『誰も行きたがらないから全国から労働者を集めている』みたいに思われているけど、実はそういうわけじゃない」

●福島の人から「ちょっと安心した」と言われた

――1Fの内部を見てみたいという好奇心はありましたか?

「正直にいえば、『あそこで働いて日本のために』という気持ちよりも、興味があるから行ってみようというのが大きかったですね。また、業界の末端とはいえ、過去に漫画家としてやっていた経験もあったので、『見てきて面白いものがあったら、漫画を描くかもしれないな』と思っていました」

――実際に行ってみて、漫画を描こうと思ったのはどうしてですか。

「職探しをしているときから、仕事が決まりかけたのに業者がいなくなっちゃったりする。もう漫画みたいな話なので、これは面白いなと思ったんです。さらに実際に1Fの中に入ってみたら、世間で言われているイメージとあまりにも違うので、これは描いてみたら面白いんじゃないかな、と」

――漫画を描いていくうえで、苦労したことは?

「いろんなところに気を使うことですね。これを描いちゃうと防犯上まずいんじゃないかとか、あまり詳細に描いてしまうと下請けさんに迷惑がかかるだろうとか、そういうことに気を使いました」

――第1巻の発表後、読んだ人からどんな反応がありましたか。

「印象深かったのは、福島に住んでいる方から『(福島第一原発の)中の様子がよく分かってありがたかった』とか『ちょっと安心した』と言われたことですね。別に安心させようと思って描いているわけではないですけど、結果的に不要な不安が払しょくされる人がいたら、うれしい。普通のおっさんがあそこで飯食って昼寝している、ということだけでも、世間で言われていることよりは普通のことなんだというのが、分かってもらえればうれしいですね」

●中で働いていると感覚が麻痺してくる

――竜田さんが実際に働いた原子炉建屋の中では、どんな作業をやっていたのでしょうか。

「配管の補修作業の助手です。建屋の中で水をぐるぐる回している配管だったんですが、そのメンテナンスをやるときに水を止められると便利だということで、配管の途中に弁を付けようという作業です」

――放射線は人間の知覚で感じることができないので、本当の危機感を感覚的に持てない部分もあると思います。原発内で作業しているうちに、感覚が麻痺してしまうということはありませんか?

「それはありますよ。たとえば、1Fの中でも休憩所の管理作業とかだと一日いっぱい浴びても(放射線量は)0.01ミリシーベルトとか、その程度なんです。ところが建屋内の作業に行くと、一日1ミリとか浴びることになる。0.01ミリと比べると100倍ですが、自分では全然感じないわけです。1ミリ浴びた翌日が0.5ミリだったら『今日少なかったじゃん』となりますが、休憩所の作業からみたら、ものすごく高い。そういう意味では、中で働いているうちに感覚が麻痺するとはいえますね」

――『いちえふ』では、顔面を覆っている全面マスクのバンドをきつく締めすぎたとか、作業中に鼻がかゆくなったという描写も出てきます。鼻がかゆくて、全面マスクを思わず脱いでしまうことはないんですか。

「鼻がかゆくてマスクを脱いでしまうというのは、ないですね。ただ、昨年か一昨年にどこかの建屋で、マスクがくもったので、脱いでふいたか、ちょっと指を突っ込んでふいたというのがありました。そのとき、ゴム手袋を変えないでふいたために、顔面に汚染が出て、現場で話題になりました。『こういう奴がいるから気をつけろ』と。放射線量が高いということが分かっていても、直接は自分の体で感じることができないので、ついついやっちゃう奴がいるというのは分かります」

●1Fの敷地内で「女性」を見かけるようになった

――1Fの中に作業員として入ってみて、一番驚いたことは何ですか?

「実際に中に入ってみたら『なんだ、普通じゃん』ってことですね。働いているのは普通の人だし、やっていることも、特殊な装備とかを除けば普通のこと。俺が会ったのがそういう人たちばかりだったのかもしれないですけど、みんな明るいんですよね」

――2012年に一度、1Fで作業したのち、2014年にふたたび入ったということですが、変化は感じましたか。

「漫画でも描いたように、工事が進んだというのが一番でかいですね。3号機の上のガレキがなくなっていたり、4号機にカバーがついていたり、汚染水タンクが増えていたり。工事は進んでいるんですが、木が切られて寂しい感じもしました。いまタンクが置かれているところは事故前は森があって、今でも『野鳥の森』と呼ばれているんですが、森なんかない。桜の木もいっぱいあったのが、ほとんど切られてしまっていて、事故以前の姿を知っている人は非常に寂しいと言っています」

――『いちえふ』第2巻の2014年の描写では、1Fの敷地内に「女性」がいたということで驚くシーンが出てきます。

「それも大きいですね。以前はおっさんしかいなかったのが、女性の姿を見かけるようになった。1Fの敷地のギリギリ外のところに東京電力の事務棟というのができて、そこから連絡業務何かわかりませんが、敷地内の免震需要棟のほうにも東電の女性の方がきていた。線量が下がったのと同時に、汚染もだいたい少なくなってきたので、外の事務棟から敷地内の免震重要棟に行くのに、花粉症のときとかにつけるマスクと作業服で来れるようになりましたから。以前は全面マスクじゃないと1Fの中は移動できなかったのが、今はもう普通のマスクで行けるようになりました」

――原発事故から4年になりますが、いまのメディアの伝え方について、どう思いますか?

「(原発事故の直後と比べると)メディアの発信する情報の量が減っていて、なおかつ、更新されていないですね。事故当初からしばらくの間に報道された『危険だ、危険だ』というのと、『全然作業が進んでいない』というところから、情報がなくなってしまった。『ここまで作業が進んだ』という話や『もうこういうことは起こっていない』ということは報道されない。何か報道されるとしたら『事故があって作業員が死にました』とか『汚染水がちょっと漏れました』ということだけで、ちょっともどかしいな、というのはありますね」

――今回発売された『いちえふ』第2巻では、読者に何を伝えたいですか?

「1巻のときからそうですけど、特に伝えたいとか、訴えたいということはないんです。個人的な体験を描いているだけなので、日記みたいなものだと思っていただければ・・・。馬鹿なおっさんたちが馬鹿なことをやっているのを楽しんでいただければ、それで十分です」

台湾の有名人たちが歌う反原発ソングが感動的! (日本語字幕付き)台湾で反原発運動を繰り広げる原発監視ママ連盟(媽媽監督核電廠聯盟)の依頼により作られた、反原発のテーマソング「子どもの大空」(孩子的天空)

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